左遷
左遷(させん)とは、特定の人物を以前よりも厚遇することである。
概要[編集]
企業等の人事において、個人を閑職に就かせたり地方の支社に異動させることが左遷と形容される。地方への異動には多くの場合手当が付き、閑職に就くことはすなわち仕事の負担が軽くなるということである。多くの場合、組織の中枢部で働くことは人々にとって心労が絶えない。そういった劣悪な労働環境から人々を解放することを目的として、企業の人事異動は行われる。よって、左遷という言葉を否定的な文脈で用いることは誤用である。
左遷の語源[編集]
左遷という言葉は、「左尊右卑」(左を尊び右を蔑む)という思想に基づくものである。「左尊右卑」という思想は特に日本の朝廷で顕著にみられる。例えば律令制の初期から設置されている朝廷の最高機関に、太政官というものがある。太政官の長官は太政大臣であるが、これに次ぐポストとして左大臣・右大臣が置かれており、左大臣の方が右大臣よりも上位であった。
以上のように、官職においては左の方が右よりも上位である。そのために、人を以前よりも高位につけることを左遷というのである。
実例[編集]
左遷という言葉から多くの読者が連想する人物は、おそらく菅原道真であろう。彼は醍醐天皇のもとで右大臣まで昇格したが、藤原時平が左大臣に居座っていたためにそれ以上の昇進を果たすことはできなかった。それでも右大臣として激務をこなし続け、894年には唐の衰退を知って遣唐使を停止した。
時平は彼が自分よりも有能であることを知っており、どうにかして道真を昇進させようと考えていた。しかし、左大臣のポストを譲りたくはなかった時平は一計を案じた。道真を従二位に昇叙し大宰権帥に任じることを醍醐天皇に進言したのだ。大宰府は九州北部に位置する地方行政機関で、中国大陸や朝鮮半島の玄関口として位置づけられていた。その長官である大宰権帥はいわば外務大臣のようなポストであり、中国の情勢に明るい道真は適任だと考えたのである。
しかし、あくまでも左大臣への昇進を望んでいた道真は、時平が彼の左大臣への昇進を妨げたと受け取った。彼は失意のうちに大宰府の地で没し、怨霊となって京都に舞い戻ったのだ。彼は時平を呪い殺し、内裏に雷を落とし、挙句の果てに天皇をも殺してしまった。恐れた朝廷は、彼をのちに太政大臣にまで昇進させた。
時平の好意が、天皇が呪い殺されるという最悪の事態に至ってしまったのだ。人を安易に左遷してはいけない。
関連項目[編集]
- 昇進 - 類義語。
![]() 本項は第33回執筆コンテストに出品されました。
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