アーネスト・ヘミングウェイ

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アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)はアメリカの文豪である。『老人と海』などの著作でノーベル文学賞を受けた。

人物[編集]

一番よく知られているエピソードは猟銃自殺の件である。そのため「西のヘミングウェイ、東の三島」と割腹自殺で有名な三島由紀夫と並び称される(三島が何を主張したかったのかは誰も知らないが、「信念のために腹を切る」という真摯な姿勢は多くの人々に感動を与えた。太宰治と比較されないのは死に際の「」度が違うからだろう)。自殺にはショットガンを使っており、ヘミングウェイの自殺は田宮二郎など日本人にもウェルテル効果による影響を及ぼした。

アメリカ的なマッチョなキャラクターのイメージがあり、「パパ」と読者から愛される一方でうつ病の気があり、晩年には特にその傾向が強くなっていたらしい(元々「ロスト・ジェネレーション」の代表格であり、作品にも繰り返し「虚無」のイメージが現れる)。父親が鬱病で自殺しているが、ヘミングウェイ自身もまた、鬱の系譜からはついに逃れられなかったようだ。後年には弟も自殺している。三男のグレゴリー・ヘミングウェイは自殺こそしなかったが、発狂して女装したまま路上で行き倒れ、変質者として拘留所に連れていかれそこで野垂れ死んだ。どうやら鬱病が顕著に発症しやすい一族だったようだ。

自他共に認めるスポーツマンだった半面で怪我をすることが多く、「実は運動音痴」疑惑がある。そういった事情を見ていくと、「内面の虚無に抗う」という涙ぐましい文豪の心の葛藤が見て取れる(作品の根底にあるそういった意志が読者の共感を呼ぶのかもしれない)。最初の長編『日はまた昇る』では兄貴分のフィッツジェラルドから指導を受けたと言われる。また「純文学的には長編より短編に優れているものが多い」という指摘もある。つまり長編を書く能力がなかったということである。そのことはジョン・ドス・パソスによって暴露されており、これに激怒したヘミングウェイはドス・パソスと絶交している。そのドス・パソスも長編の質が良かったかといえばお察しである。

つまりアメリカ文学ウィリアム・フォークナーの独り勝ちということになる。

作品[編集]

武器よさらば[編集]

不良兵士が看護婦と駆け落ちする話。病院で勝手に酒を飲む、飲んだくれた代金を祖父のツケにするなどのぐうたらぶりには目を覆うものがある。しかし戦線離脱は不可抗力である。なぜならトチ狂った後方の若手憲兵達が「スパイだ」と決め付けて一方的に仲間を虐殺し始めたのだから。最後に看護婦のキャサリンは死産・死亡して主人公が絶望して終わる。

誰がために鐘は鳴る[編集]

スペイン内戦に参加したアメリカの語学教師の話。普通に考えればテロリストである。任務は鉄橋の爆破だが、やっぱり失敗する(お決まりのパターンか?)。最後は仲間を逃がすために体を張って死亡確定(自発的に覚悟して自己犠牲行動に出た辺りは進歩であるが)。『武器よ~』と同じく戦争の理不尽さもちゃんと描かれ、凄惨な「ファシスト(を)虐殺」のエピソードが出てくる(リンチした後で崖から飛ばせる、しかも犠牲者の大半が冤罪)。

老人と海[編集]

元は『海流の中の島々』という長編の一部として構想されたと言われる。老漁師サンチャゴが長期間の不漁(サラオ=スペイン語で「最悪の状態」)にめげず、大物のカジキマグロをしとめる話。ロクに食事も取らずに三日も戦い続けたのはかっこいいが、「遭難」扱いされて「捜索隊」が出されていた辺り徘徊老人並みである。しかしサンチャゴはただのボケ老人ではない(「この男に関する限り、何もかもが古かった」)。後半では老雄然として迫り来る鮫と死闘を繰り広げる(結果は当然お察し下さい)! 作品中の「機会はそのたびごとに新しい」という言葉が初期からの作家としての成長を思わせる(未確認ではあるが初期長編『日はまた昇る』の題は肯定的な意味ではなく、「変わり映えもなく繰り返す毎日にうんざりしている」意味があると聞く)

敗者の美学[編集]

ヘミングウェイの作品は主人公が敗北して終わることが多い。むしろ敗者としていかにプライドを持するか、どういうプロセスで結末へ至るかという美学が問われる。その点で『ガンダムW』のトレーズ閣下や、アニメ『テクノライズ』に共通する部分がある。

関連項目[編集]

  • キューバ - ヘミングウェイがよく訪れていた。
  • 午後の死 - ヘミングウェイが考案したカクテル。