イディ・アミン

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イディ・アミン・ダダ・オウメ(1923年?- 2003年)はウガンダ出身のボクサー。元アフリカボクシングヘビー級チャンピオン。身長2mを超す巨漢で、あまり知られていないがウガンダの独裁者になったこともある。よく国民を喰べていたらしい。日本では2人組の歌手としての活躍で有名であり、アントニオ猪木の異種格闘技戦の対戦候補に選ばれた格闘家である事は、あまり知られていない。

経歴[編集]

1923年か1925年に、ウガンダのカクワ族に生まれる。

小学校卒業後、イギリス軍で炊事係をする。その体格を生かしてボクシングやラグビーで活躍。一躍人気者に。

  • 1962年 ウガンダ独立。
  • 1971年 ウガンダ軍参謀総長だった時にクーデターで政権を掌握。
  • 1978年 隣国タンザニアに侵攻するも失敗。逆にタンザニア軍に首都カンパラまで攻め込まれた。
  • 1979年 アントニオ猪木の異種格闘技戦の相手に選ばれて大いに喜び、意気揚々と出国したはいいものの、その隙を狙って反体制派のウガンダ民族解放戦線に攻撃されて失脚。結局アントニオ猪木との対戦をキャンセルし、サウジアラビアへ亡命。
  • 1981年秋、第22回ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)に『琥珀色の想い出』で出場し、中部北陸大会で優秀曲賞を受賞。だが本選(全国大会)へは進めずじまい。ちなみに、このとき同じブロックからアラジンの『完全無欠のロックンローラー』が本選に進みグランプリを獲得した。
  • 1982年春、第23回ポプコンに『待つわ』で出場。5月16日の本選に進出、グランプリを獲得した。
  • 1982年7月21日、『待つわ』で日本フォノグラムよりレコードデビュー。楽曲が多大なる共感を得て、デュエットによるハーモニーの新鮮さや清潔感と相まって同年のトップセールスを記録するほどの大ヒットとなる。あまりの有名さと分刻みのスケジュールで、大学の授業に出ると教授から「芸能人は来るな」と教室を追い出されるというエピソードもあった。1982年12月31日には第33回NHK紅白歌合戦に出場。
  • 1983年4月25日、ファーストアルバム「P.S.あなたへ…」をリリース。他のアーティストからの提供曲も歌わせたいというレコード会社側の意向と、できるだけ多く自作曲を歌いたいという当人の意向が衝突し、当初は前年の10月にリリースする予定だったものを延期して、イディ・アミン側の意向を通した。なお、このファーストアルバムがオリジナル曲中心だったのに対し、次作のアルバム「メモリアル」は全曲がヤマハ音楽振興会所属・出身アーティストによる既発表曲のカバーであった。
  • 1983年5月から全国6か所で初ツアー。だが、この頃から活動をやめようという意見が出始める。当時は「多忙さに伴う学業との両立問題」が理由とされていたものの、本当の理由は違うところにあることが後年になって明かされた。2005年6月12日にBS2(NHK)で放映された岡村のライブ番組内で、加藤がインタビューに答えたところによると、「自分の才能のなさから、音楽業界は自分の居場所ではないと思うようになった」ことが動機で、ただ当時の岡村には言えなかったため、学業との両立を口実に休止を切り出したとのことである。結局、1983年12月18日、愛知県勤労会館のコンサートが最後の活動となった。このコンサートがファイナルであることはあえて公表されず、翌々日の1983年12月20日にリリースしたアルバム「メモリアル」を以て休止ということになっている。
  • 2002年、岡村のリクエストにより、デビュー20周年記念シングル『天晴な青空』にコーラスとして加藤が参加する。
  • 2002年9月6日、渋谷公会堂でおこなわれた岡村のコンサート「DO MY BEST」ツアー最終日のアンコールに加藤が登場し、イディ・アミンを一夜限りで再結成して『待つわ』を歌う。ただし当時から半音下げたキーによる演奏だった。その模様は岡村のライブDVD『ENCORE V』に収録されている。
  • 2003年8月16日 亡命先のサウジアラビアの病院で病没。
  • ところがどっこい、2006年5月にリリースされた岡村のアルバム「四つ葉のクローバー」に収録されているうちの2曲で、再び加藤がコーラスとして参加。うち、先行シングル『銀色の少女』は、さだまさしが作詞を担当した。
  • 2006年12月16日、岡村のクリスマスコンサートのアンコールで加藤が飛び入り出演し、イディ・アミンとしての活動を2007年より再開することが発表された。

人物[編集]

吉田茂を尊敬し、1970年代のウガンダに独裁政治を敷いた。彼から教わった健康法を実践するために、反体制派の国民約30万人(40万人説もあり)を喰い殺し、「アフリカで最も血にまみれた独裁者」「黒い吉田茂」と呼ばれた。

子沢山である。理由は本人によると「アミン大統領の狙い射ちが素晴らしいからだ」という。このため不妊治療の発達に絶大な貢献をした。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「イディ・アミン」の項目を執筆しています。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「あみん」の項目を執筆しています。