エドガー・アラン・ポー

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「アホー、アホー」
エドガー・アラン・ポー について、カラス
エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年1月19日 - 1849年10月7日)はアメリカ世界に誇る作家詩人評論家ジャーナリスト、雑誌編集者、乞食、こそ泥、ロリコン野郎、賭博師アル中狂人。その作品は本国の人々よりもむしろヨーロッパ、特にフランス麻薬でいかれた詩人どもに愛された。つまりはそういうことである。
英語版より。テレタビーズ怖い。

目次

[編集] ボンボン(への道)

「ボンボン バカボン バカボンボン」
この非ボンなる男 について、赤塚不二夫

エドガー・アラン・ポーは1809年にアメリカはボストンにて生を受けたことになっており、実はイギリス百エーカー村出身だということはあまり知られていない。ポーは5人兄弟の末っ子として生まれた。兄弟の中で唯一高い志と繊細な感覚を持っていた彼は、全くの白痴で始終笑っているパーさん、粗野で品性に欠けており放送コードに抵触するような卑猥な言動を繰り返すピーさん、おそろしく能天気でいつまでたっても定職に就こうとしないろくでなしのプーさん、働いてはいるものの一向にうだつのあがらない万年平社員のペーさんといった兄たちとの生活に耐えられず、やがて両親が相次いで亡くなると、親友クリストファー・ロビンに別れを告げ、立身出世を求めてアメリカへと旅立った。

渡米後ポーはトレードマークの赤いチョッキを捨て、これまでの一切の過去を封印して様々なアルバイトにはげんだがどれも長続きせず、疲れがたまる一方で貯金は増えず、生活は困窮を極めた。気力を無くした彼は乞食同然の生活を送るようになる。そしてある日とうとう誘惑に負けてハチミツの壺を万引きしようとするが見つかってとがめられ、苦し紛れに「ボクはただの熊、蜜なんか盗らないよ~」と兄貴のマネをしていたところを親切な商人のアラン氏に助けられ、そのまま養子として迎えられる。かくしてポーさんは裕福な家庭で新しい名を与えられ、心機一転「エドガー・アラン・ポー」に生まれ変わったのであった。

[編集] ウィリアム・ウィルソン

「ウィルソオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!」
彼の唯一の友人 について、トム・ハンクス

アラン氏の転勤に伴い、ポーは「霧にむせぶがごときイギリスの村」の寄宿学校で学び始める。彼はその愛らしいキャラクターで学校中の人々を席巻するも、一人意のままにならぬ者がいた。彼の魅力をものともしないその人物は、彼に極めてよく似ており、そのトレードマークであるボロボロの帽子が無ければ見分けがつかぬほどであった。ありていに言えば、キャラがかぶっていたのである。その上そいつは彼のぶりっこを常に看破した。わざと不器用に転んだり手でハチミツをすくって食べたりしようものなら容赦せず指摘した。このライバルの存在に我慢ならず、ポーは寄宿学校をやめてアメリカの名門ディズニー大学に移り、スクリーン上で放蕩のかぎりを尽していたところ、またもやそのキャラかぶり野郎が現れ、彼によってついに退学に追いやられる。わざわざアメリカまで追いかけてきたそっくりさんに人生をめちゃくちゃにされたポーは怒り狂う。そして、数年後の謝肉祭の日、ローマにて行われた仮面舞踏会の会場で両者は再会し、宿命の対決の末ポーは勝利する。勝ちどきを上げ、仮面とマントを取った瀕死の相手の顔をのぞきこむと……

「おまえは…パディントン・ベア!」
ドッペルゲンガー
「そうだ、私もお前も同じクマ、お前はお前自身を滅ぼしたのさ!よく覚えておけ!」

パディントンの死に際の叫びをポーさんは一笑に付した。実際、残念なことに、知名度がかなり違う。

[編集] 黄金虫

「こがねむしは金持ちだ
金蔵建てた 倉立てた
子供に水あめ舐めさせた」
黄金虫 について、野口雨情
甘党から辛党へ

裕福なアラン氏はポーに大変目を掛けていたが、一方でその素行が悪いのを気にしてもいた。そして彼が大学でまともに学ばずに溺れ、そればかりか、仕送りの額に満足できずにギャンブルを始めた結果二千ドルもの大金をスり、挙句一目ぼれした娘と両家の承諾なしに勝手に婚約してしまうに至ってついにブチ切れ、それ以後の無心をかたくなに拒否する。ポーはポーで、口が達者になり、かつ親には反抗したいお年頃だったため猛烈に反駁した。フランシス・アラン夫人はそんな彼を勘当せんとする夫を必死になだめていたが、心労がたたって急死。いちど結んだ婚約も解消される。味方を失ったポーはニューヨーク陸軍士官学校に逃げる。何ともバカなことにそこでもはっちゃけてしまったため、さらに追い出され、ボルティモアの親戚の家に同居する。いくつかの雑誌の懸賞小説に応募するもなかなか通らず、実に絶体絶命のこのとき、追い打ちをかけるようにアラン氏が死去。ポーへの財産分与は全くなかった。生前さんざんその恩をあだで返したのだから、まあ当然である。ポーの黄金虫はとうの昔にどこかに飛んで行ってしまっていた。

[編集] 穴と振り子

「She was a child and I was a child, 」
二人の関係 について、ポー

行く先々で嫌われて隅の方へとひたすら逃げてゆくゴキブリのようなポーであったが、ボルティモアに住む祖母エリザベス・ポーおよび、伯母と姪にあたるクレム母子は彼を見捨てなかった。特に8歳ヴァージニアちゃんは小さなのようにポーに懐き、乾ききっていた彼の心を慰めたが、この時すでにポーがヴァージニアのヴァージニアに上陸する計画を練っていたかどうかは分からないし、知りたくない。

ともかく安住の地を得たポーは雑誌への投稿を続け、ついにある短編で一等の賞金を手にする。今にも船もろとも海底へ、地球の内側へと際限なく落ちていこうとする船員がボトルレターを流すように、必死で書きあげたものであった。その賞金50ドルに加えて、懸賞の審査員の一人がパトロンについてくれることになった。新たな金づるを確保したポーは次々に短編を発表して成果を上げ、やがて一雑誌の編集長となる。安定した職を得て調子に乗ったポーは、ここでついにヴァージニア上陸を決行する。ポーが27歳、ヴァージニアはたったの13歳である。ふざけるな。幼児婚および近親相姦という二つのタブーを一挙に犯した、悪魔的かつ背徳的な、ある意味ポーにふさわしい結婚であった。

[編集] 告げ口心臓

ジャーナリストとしてもある意味第一級の才能を持っていたポーは、しばしば著名な作家をけちょんけちょんにこきおろし、ケンカを売り、論争を引き起こした。そしてその酷さは年々増した。傍から見ている分には楽しかっただろうが、もともと作品の受けがさほど良くないポーは、未来のパトロンや相談相手を次々と失っていくだけだった。彼は当時のアメリカの文壇における作家間のなれ合いや特定の支持者受けを狙うやり方を嫌悪したが、他の作家たちがみな複数のパトロンの手厚い保護や安定した副業によって生活を成り立たせており、文章だけではとても食べていけるものではないことを知らなかった。彼は異端となる運命を背負っていたのである。

ポーが当時のアメリカ詩壇の重鎮ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの、他作品からのパクリを何度も疑ったのは有名であるが、このときロングフェローは彼の挑発に乗ってこず、反論したのは匿名のファンであり、しかもそいつに言い負かされてしまう。今日ではこの剽窃疑惑はとち狂ったポーによる全くの言いがかりとされており、痛々しい限りだ。

またあるときには、イギリスの大物作家ディケンズの長編小説の中に描かれた殺人事件の犯人を、完成前に新聞に発表された最初の7ページを読んで当ててしまい、それを得意げに公開するという、作家としてまさに外道としか言いようのないことをやってのける。ディケンズはそれを読んで「悪魔……」と述べたが、むしろこの点においてはゴミのような男である。

[編集] 渦潮にのまれて

呼んだ?

作家としても編集者としても才能はあったものの時流に合わず、毎度のごとく生活態度もあまりに酷過ぎたためポーは2年足らずで雑誌社を追い出され、編集長からプーさんへと大変身を遂げる。次の職をなかなか得られずアメリカ各地を転々とした挙句、とあるコメディアン主催の雑誌編集者となる。文学に理解のない上司に薄給でこき使われるも、無職よりマシと思っていたら、このコメディアンが本業に専念し始めたためこれまた2年足らずでおじゃんになった。とんだコメディである。次に勤めた雑誌社でも貧苦にあえぎつつ、史上初にしてすでにトンデモ推理小説モルグ街の殺人事件』などを発表する。金持ちで厭味なインテリ探偵に長々としゃべらせている場合ではなく、ポー自身が社会によって殺されようとしていた。

そんなある冬の日、ポーの前で可愛らしくピアノを弾きながら歌っていたヴァージニアが、曲の盛り上がりとともに突然口から大量のトマトジュースを吹き出し、そのまま前にのめった。この斬新かつ芸術的なパフォーマンスに感激し、新しい小説のネタにしようと思いながらしばし拍手を送っていたポーであったが、いつまでたってもヴァージニアは起きてこなかった。職を求めてさまよう夫についてあちこち引き回された疲労とそれまでの極貧生活がたたったのである。アッシャー家ベレニス、エレオノーラ、リジイアなど、ポーの書くイギリスロマン派がこじれたような気色悪い怪奇趣味の作品群の中で幾度となく尋常でないやり方で殺され、生き返らせられたこの薄幸の幼な妻は、以後5年間にわたり苦しむ。この時期、妻の看病のため会社を休みがちであったポーは、はしこい同僚に仕事を奪われた結果辞職している。

ヴァージニア亡き後のポーはストレスからか酷い不整脈に悩まされ、酒量もさらに増えた。日頃から奇行を繰り返し、グロテスクかそうでなければきわめてナンセンスな物語をやたら書いていたので、あいつは真性のキ印ではないかとさんざん噂されていたが、ここへきて輪をかけて気違いじみてきた。死神はそんな彼にゆっくりととどめを刺した。

1849年10月3日、ポーが瀕死の状態で見つかったのは選挙を目前に控えるボルティモアの第4投票所の前であった。酒か麻薬で朦朧とさせられあちこちで多重投票をさせられた挙句捨てられたらしい。しばらくは生きていたが、道行く人はだれもこの薄汚い酔っ払いがエドガー・アラン・ポーだと気付かなかった。隠されるべき手紙が堂々と飾られていたら見逃してしまうように。だいぶ経ってから知り合いの植字工が気付いて拾ってやったが、手遅れだった。彼の人生全体の縮図のような死に方であった。

[編集] 早すぎた埋葬

「彼には友人がごく少数しか、というかほとんどいませんでした」
エドガー・アラン・ポー について、ある同僚

葬儀は9日に行われた。参列者はごく少数の友人、親戚、同僚のみであった。彼らは皆ポーのために涙し、うち何人かは彼の安い棺の中に、ではなく故人が生前好きであったと彼らが主張するところの納豆くさや、生きたドジョウカラスの死骸などを入れてやるのだった。最後に黒猫が飛び込んだが誰も気づかず、ふたが閉められ、棺は地中深く下ろされた。墓標はしばらくなかった。作っているときに石工の手がすべって壊してしまったのだ。

[編集] アッシャー家その他の崩壊

「僕も子供は好きだよ!ポオゥッ!
エドガー・アラン・ポー について、マイケル・ジャクソン

多くのアメリカ人どもはもう二度と」(ネヴァモア彼は生き返らないのをいいことに、よってたかってポーをおとしめたが、彼の作品は今に残り、高い評価を受けている。それは主にヨーロッパの作家や翻訳者たちのおかげである。彼らはポーの物語世界を愛し、積極的に紹介した。固有名詞や地名を勝手に変えて。

また、日本人もポーの知名度の向上に貢献している。例えば江戸川乱歩は彼にあやかってペンネームをつけるほどのファンで、下訳者を大勢使って「乱歩訳」を出したり、作品のトリックをそのまま使ったりしている。森鴎外はもちろん自力でポーの小説をいくつか訳したが、作品中に大量に出てくるうんちくを「読者がうんざりするから」とばっさり削っている。

そして、彼ら紹介者の誰ひとりとして、ポーの家計の向上には貢献していない。

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