キャンベラ

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キャンベラ(Camberra)とは、政府機関以外、何も無い辺鄙な田舎にあるオーストラリア首都である。

首都SM十年戦争の末、選ばれる[編集]

1901年にオーストラリアは独立したが当時ゴールドラッシュで最も栄えていたメルボルンが首都にする事を決めかけた時、オーストラリア最古の街で人口もメルボルンに引けをとらないほどになっていたシドニーが「待った!」をかけた。

それゆえにメルボルンは臨時首都の名目のままシドニーと首都の座を巡り、その頭文字の如くSM戦争となり、時にはその頭文字の立場の如く、またある時には頭文字の立場が逆転しつつ、両者は一歩も引かなかった。そんな両者の激しい抗争を見続けたアデレードを初めとする他のオーストラリアの人々は、シドニーとメルボルン双方に納得すべき場所を新首都に定めSM戦争に終止符を打たせようとした。

候補地は実際にニューサウスウェールズ州ビクトリア州の境界にあるオルベリー&ウォドンガ、シドニーとメルボルンのほぼ地理的中間に位置するウォガウォガなどが懸案されたが、シドニー側が「臨時とはいえ抗争中は一応メルボルンが首都だったのだから新首都はシドニー寄りにしないと妥協しない。」と駄々を捏ねた。そして10年の抗争の挙句に決まったのが何も無い辺境地帯だったキャンベラが十年の抗争ののち新首都に選ばれ現在に至る。

百年経っても政治関連建築物以外何もなし[編集]

こうして1911年にキャンベラが決まったものの決定当初は本当に何もない無人地帯であり、なぜか首都設計はイギリス人でもオーストラリア人でもない、彼らが共通して嫌うアメリカ人のウォルター・バーリー・グリフィンによってオーストラリアのワシントンDCになるべく設計された。そしてその完成は約50年後の1960年まで待たなければならなかった。

逆に言えば完成後のキャンベラの歴史はまだ50年しか経っていないと言う事であり、人口は30万を数えるまでになったものの、日本で例えれば仙台を除く東北の都市規模くらいしかなく、実際に政治関連の建築物以外、何もない状態である。

再度遷都の危機[編集]

首都であるものの政治関連以外、娯楽施設は皆無であり航空輸送中心になるとシドニーからもメルボルンからも1時間もかからないため搭乗時間が短すぎる事や内陸高地にある事から霧が発生しやすい事からキャンベラは不評を買い、またアメリカと結びつきが強まっている事から、地理的にアメリカから最寄でもあるブリスベンか、そのブリスベンや保養地のゴールドコースト双方に近い、クインズランド州とニューサウスウェールズ州の境界に再遷都する声が高まっている。

シドニーもメルボルンも航空機輸送の時代である事から特に強い異議はなく、むしろ両都市やアデレードからいずれも2時間前後で発着できるブリスベン再遷都は望ましい事と見る向きがある。キャンベラ住民を初めとするキャンベラ首都機能続行派はシドニーとメルボルンにキャンベラ経由の高速鉄道建設を標榜するも、そのシドニー及びメルボルンの両市民からは両都市の間にはキャンベラ以外、都市はなく飛行機で充分で高速鉄道を作る必要性を感じないと冷ややかに見られている。

オーストラリアの学都を目指す[編集]

このように娯楽施設や観光施設がないキャンベラではあるが、その短所を長所として活かせるべく首都でなくなっても学都で繁栄させようという動きが高まっている。オーストラリアは海外留学生の多い国ではあるがシドニーやメルボルンなどの大都市は娯楽や観光の施設が行き届き、本来の学業を疎かにして、そちらに向かい何のために留学したのか分からない留学生も少なくない傾向にある。

そこで政府機関以外何もないキャンベラに大学を始めとする学校施設を集中させ留学生に学業に専念できる環境を作る計画が浮上している。これは先にもかいた最悪の場合、首都が別の地域に移動しても学園都市として生き続けようとするキャンベラ住民のせめてもの切望であるといえる。

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