ジョン・マケイン

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ジョン・スィドゥニー・マケイヌ3世(John Sidney McCaynne III、1936年8月29日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。パナマ生まれ。海軍兵学校卒業。連邦下院議員(1983年 - 1987年)、連邦上院議員(アリゾナ州選出、1987年 - )。2008年大統領選挙における共和党の指名候補、そして筋金入りの捕虜である。

共和党の重鎮議員だが、党派にとらわれない議会活動で知られ、しばしば一匹狼と形容される。しかし、狼ではない可能性も取りざたされている。ブッシュ政権への厳しい批判も辞さないことから、保守強硬派からの反発を浴びる一方、穏健派・中道・世界中の常識人からの支持は根強い。これは、捕虜として5年を過ごした氏の経験から来ているものと考えられる。(比較対象・・・ベトナム戦争の間、内地勤務で過ごした人

著名な海軍提督の祖父と父をもち、マケイヌ自身も海軍航空士官としてベトナム戦争に従軍。1967年に北ベトナム上空を飛行中に撃墜され、5年間に渡って捕虜となり、最初の2年は厳しい拷問を受けながらも耐えたエピソードにより、英雄視される。しかし、よく考えてみると、捕まった時点でどうかと思う。そして、負け戦の英雄として持ち上げられるのはどうだろう?

なお、パイロットとしてジョセフ・ジョースター超えを果たすという史上まれな経験の持ち主である。

生い立ち[編集]

マケイヌは1936年8月29日、麻薬王ノリエガ将軍で有名な地のパナマでスコットランドアメリカ人の家庭に生まれる。マケイヌの父も祖父も生粋の海の男であり、両者ともアメリカ海軍大将に付くという、ある意味、軍人の家系としては最高レベルの家柄である。もっとも、本人は捕虜である。ちなみに、生粋のバプティスト。祖父は第二次世界大戦における太平洋戦域の指揮をとり、アメリカ軍をレイテ沖海戦等に導いた人物である。

10歳になるまで、父親の仕事の都合でハワイ州パールハーバーなどの太平洋のアメリカ軍基地で育った。そして、祖父と同じく父親も1941年の第二次大戦開戦後は長い間家族と離れることになった。どう考えても日本が好きなわけがない。第二次世界大戦が終わった後も父親の仕事の都合で20もの学校に通った。最終的にバージニア州アレキサンドリアに落ち着くが、当時のニックネーム "Punk" から分かるように、地元ではヤンキーとして知られていた。

海軍での訓練、初期の任務、最初の結婚[編集]

その後、祖父や父の足跡にならい、マケイヌも海軍兵学校に入学する。

マケイヌは反体制的な海軍士官候補生、すなわちヤンキーだったため、公権力と喧嘩することもあり、毎年100以上の罰を受けた。なお、彼はその後、共和党の大統領候補となる。そして、彼は階級が上の人々が独断的に権力を行使することに納得せず、他人にそういった事が行われているのを見て間に入ることも時々あった。と、Wikiには書いてあるが、ようは体罰されてる仲間のところに割って入ったということである。ヤンキーだから。アメリカ人のくせに170cmで58 kgしかなかったが、海軍ではライト級のボクサーとして3年間戦い、技術面で欠けていたものの、恐れを知らず、「後退ギアを持たない」ことで知られていた。なお、このようなボクサーはたこ八郎のようにパンチドランカーになりやすい。学業の面では英文学や歴史、政治といった、自分が興味のある科目では良い評価を得たが、他の成績は良くなかった。実際に、どのくらいの授業があったかは推して知るべし。しかし、特に学校外の活動については同級生たちの間ではリーダー的な存在であった。ヤンキーほど課外授業やイベントで張り切るのは、どこの国でも一緒ということなのだろう。マケイヌは1958年に無事に卒業した(できた)。成績は899人中894番目で、最下位から数えて6番目であった。もう一度言っておく、彼はその後、共和党の大統領候補となる

マケイヌは卒業後に少尉に任命され、2年半。パイロットとしての訓練を受けた。当時のマケイヌはアメ車を乗り回し、ストリッパーとデートをし、後に本人が語るところによると「ヤンキーだった」。彼には自分の命に直結する戦闘機のマニュアルを勉強する忍耐力がないパイロットであった。そんな彼がどうして花形であるパイロットになれたかといえば、血筋。その一言で解決すべし。また、テキサスでの演習中に墜落したこともあったが、大きな怪我をせずに逃げることが出来た(1回目)。マケイヌは1960年に訓練を終え爆撃機のパイロットとなった。

マケイヌはカリブ海に位置していた空母に常駐するようになる。彼は1962年のキューバ危機の時期にはエンタープライズで警戒任務に当たっていた。飛行技術は次第に向上していったが、スペイン上空を低く飛行しすぎ、送電線に激突するも無傷だったという出来事もあった(2回目)。その後ミシシッピに戻り、飛行機の教官となる。上官は、彼を地上勤務に置きたかったに違いない。

マケイヌは1964年からペンシルヴァニア出身のモデルと交際をはじめる。彼女はマケイヌのクラスメイトと結婚していたが後に離婚し、二人は1965年7月3日に結婚した。つまり、思いっきり、不倫していた。マケイヌは当時5歳と3歳の彼女の連れ子二人を養子にした。クラスメイトは嫁さんだけでなく、息子2人も奪われた。そして、天罰としてマケイヌは1965年秋にはヴァージニア州付近を飛行中に乗っていた飛行機がまたもや墜落し、無事に脱出するという出来事があった(3回目)。生き残った彼に、1966年9月には娘が生まれた。

マケイヌは略奪婚という自分の立場と他人の目線に不満を持つようになり、逃げるように戦闘任務に志願した。1966年12月にはA-4のパイロットに任命され、地中海大西洋を飛ぶようになる。この間、マケイヌの父親は1958年に海軍少将に、1963年には海軍中将に、1967年5月には在ヨーロッパアメリカ海軍最高司令官にまでなっている。親父大将、自分、略奪婚…荒れる気持ちはよくわかる。

ベトナム戦争[編集]

1967年春、 マケイヌは北ベトナムへの爆撃作戦であるローリング・サンダー作戦へ任命される。この作戦では特に武器貯蔵庫、工場、橋梁などのあらかじめ選ばれた基幹施設をターゲットとするものであったが、やってることはワルキューレ騎行をガンガン鳴らしながら一般住民を撃ちまくるのとさほど代わりはなかった。しかし、ベトコンはソ連製の高射砲で応戦してきたため、この任務は大変危険なものであった。最初の5回の爆撃では何事も起こらなかったためマケイヌはパイロットとして評価されるようになっていくが、それは彼の恐るべき本性を見抜いていなかったためである。しかし、マケイヌも泥沼の戦争についてはある程度先が見えており、彼は後にこう書いている:「ターゲットのリストはとても制限的なのもで、我々は同じターゲットを何度も何度も爆撃しなければならなかった。多くのパイロットたちが自分たちの任務は実質的には価値の無いものと見ていた。はっきり言うと、我々は自分たちの軍人ではない司令官は全くの無能で、この戦争に勝つ気などほとんどないと思っていた」。しかし、そんな彼もイラク戦争に賛成したことは秘密だ。

その頃までに少佐となっていたマケイヌは、1967年7月29日に起きた出来事で危うく死ぬところであった。その日、クルー達が離陸の準備をしていたところ、F-4戦闘機から一発のロケット弾が誤って発射されてしまった。出発準備を整えていたマケイヌのA-4攻撃機にロケット弾が直撃し、燃料タンクの破裂を引き起こした。事が起こってから90秒後に彼の機の下についていた爆弾が爆発したが、彼はその前に間一髪で機から逃げ出すことが出来た(4回目)。彼は爆弾の金属片で足や胸に怪我を負ったが、この事故で132名が死亡、62名が負傷、少なくとも20の航空機が破壊され、事態が沈静化するまでに24時間を要するという大惨事となった。

この事件の2日ほど後にマケイヌはニューヨーク・タイムズのレポーターにこう語っている。「こういった事を言うのは難しい事だが、今、自分は爆弾やナパーム弾によって空母にいた人々に何が起こったかを見た。だから、北ベトナムにこれ以上そういったものを落としたくないという気持ちがある」。しかし、そんな彼もアフガニスタン侵攻には賛成していた。

しかし辞めることは思いもよらないことで、「自分はいつも海軍に所属していたいと思ってきた。自分はここで生まれ、他の職業を選ぶことなど考えたことはない。ただ、組織の中でやっていくことが自分にとっていつも問題になっている」とも語った。彼は、ようやくヤンキーから卒業した。マケイヌはその後、1967年10月までには22回の爆撃任務を遂行している

捕虜として[編集]

1967年10月26日、マケイヌはハノイの火力発電所の攻撃に参加した際、マケイヌの乗ったA-4 (攻撃機)はミサイルによって撃ち落とされた(5回目)。マケイヌは両腕を骨折し、飛行機から脱出の際に足にも怪我を負った。パラシュートで脱出したものの、湖に落ち、あやうく溺れるところであった。マケイヌが意識を取り戻してみると、親切なベトナム人は彼を湖から引き上げつつ彼を叩いたり蹴ったり、服を引きちぎったりしていた。またライフルの台尻で肩を砕かれたり、銃剣で左足や腹部を突かれるなどした。マケイヌはその後、ハノイの刑務所に搬送された。重傷を負っていたにも関わらず北ベトナム側は彼を病院に連れて行かず、彼自身、いずれにしろすぐに死ぬだろうと考えていた。北ベトナム側はマケイヌを殴打し尋問したが、彼は自分の名前、階級、認識番号、生年月日しか明かさなかった。しかし、幸運なことに、北ベトナム側はマケイヌの父親が海軍大将であることを知り、彼に医療処置を施した。血筋恐るべし。マケイヌが撃ち落とされて2日後、この出来事はニューヨークタイムズ紙のトップ記事となった。多分、彼に嫁さんを取られたクラスメイトはこのことを誰よりも喜んだだろう。

マケイヌは6週間、病院で最低限の治療を受け、またヴォー・グエン・ザップを始めとする多くのベトナム人の監視の下、CBSのリポーターからインタビューを受けた。多くの北ベトナムの人々は、マケイヌは政治的・軍事的・経済的なエリートであると思っていたが、残念ながらこの時点で彼はヤンキー卒業後1年たってない。その時点で20キロ以上体重が減り、ギプス姿で髪の毛も白くなった。そのせいで、現在の彼はハゲている。マケイヌは1967年にハノイの戦争捕虜キャンプに送られ、他の二人のアメリカ人捕虜と共に監房に入れられた。二人はマケイヌが1週間持つとは思っていなかったが看病し、マケイヌはなんとか生き延びた。1968年3月には独房に監禁され、そこで2年間耐えるという元ヤンとして最低限の仕事をしている。1968年7月、マケイヌの父親はアメリカ太平洋軍の司令官長となり、ベトナム戦域すべてを指揮する立場となった。それに伴いマケイヌはすぐに釈放されるチャンスを与えられた。ベトナム側はそれによって、自分たちの部隊は人道的であるというプロパガンダを世界に広めたいと考えていた。しかし彼はアメリカ軍の行動規範にしたがってこれを拒否、自分より早く捕縛されているものが釈放されるなら受け入れるとの態度を示した。なお、ヤンキーにも、総長はケツにつくことで仲間を先に逃がす役割があった。マケイヌの釈放拒否はパリ協定の話し合いの場でアメリカ側の大使に伝えられ、アメリカは世界で一番でなければならないと誤認している一部のアメリカ人に感銘を与えた。

1968年8月からマケイヌに対する拷問が開始され、痛みを伴う姿勢で縛られたり、2時間ごとに殴打されるなどし、マゾではない彼の別の世界への扉が開かれた。更に赤痢にもかかってしまい、辛さ故に自殺を図るも看守に止められた。4日間の拷問の後、マケイヌは反アメリカプロパガンダの”告白”にサインさせられた。彼は後にこう語っている。「私は学んだ。すべての人に限界点があるということだ。あのとき私は自分の限界点に達した」。彼は、扉の中に入った。この時に受けた傷が元で、彼の腕は頭より上に上がらなくなってしまった。ヤンキースは彼の入団を諦めた。北ベトナム側はもう1つの文書にもサインさせようとしたが、マケイヌはこれを拒否し、その結果殴打が続くことになった。このことは、彼の誇りを満たす行為だった。もしくは、彼の新しい世界の・・・いや、やめておこう。なお、当たり前だが、他のアメリカ兵にも同じような拷問が行われている。ある時、自分が所属していたチームのメンバーの名前を言うように強要された時、マケイヌはアメリカン・フットボールチームグリーンベイ・パッカーズの選手の名前を告げている。そのとばっちりで、前年度優勝したパッカーズは1996年までスーパーボウルを制覇できなかった。こんな体験をしたくせに、グアンタナモ基地においてアメリカ軍が盛大に行っている拷問について、待遇を改善することを要求するばかりで反対はしていない。自分が秘密を守り通したにも関わらず、他人が秘密を守り通すこと、および、秘密を知らない可能性については考えていない。いずれ、グアンタナモ出身の大統領が誕生し・・・はっ、夢か。

1969年10月、マケイヌを始めとする戦争捕虜に対する扱いが突然改善された。同年夏、殴打されるなどして弱っていた捕虜たちが釈放され、世界の報道機関がこれに対して声を上げ始めたためであった。1969年12月、マケイヌは別の捕虜収容所に移送された。彼は引き続き反戦団体や北ベトナムに同調するジャーナリスト達との面会を拒否し、面会者の一人に対して、自分のしたことに後悔は無く、同じ事をする機会があれば行うだろうと語った。残念なことに、その際、面会者は略奪婚のことか飛行機の墜落のことか、それとも釈放される機会を蹴ることかを訊きそびれた。その後、マケイヌと他の捕虜達はあちこちのキャンプに移されたが、以前の扱いに比べると改善されたものであった。となみに、彼が大統領選挙を戦っている最中も、キューバにあるグァンタナモ米軍基地では米軍に拘束されたテロ容疑者を虐待し続けている。併せて、2009年1月に新大統領バラク・オバマによって閉鎖が決定されるまでそれは続けられた。

結局、マケイヌは北ベトナムの捕虜として5年半を過ごした。1973年1月27日にパリ協定 (ベトナム和平協定)が結ばれ、アメリカ軍のベトナム戦争への関与は終わったが、捕虜たちに対する救出作戦はその後も続いた。おかげで、シルベスター・スタローンうまい仕事にありつけた。マケイヌ自身は1973年3月15日に釈放された。そして、敗残兵としてアメリカに帰った。

帰国後[編集]

帰国後、38歳になったマケイヌは1974年に国防大学に再入学し、ヤンキー時代に身に着けなかった知識と一般常識を身につける。そして女癖の悪さが始まる。これは捕虜時代の5年に及ぶ禁欲生活から戻れば、1歳下の妻の夜の奴隷としての生活が始まったためである。しかも、彼女はマケイヌが捕虜として過ごした5年の間、結構な割合で太っていた(ちなみに、自動車事故で足が動かなくなったためらしい)。大学卒業後、マケイヌは海軍とアメリカ上院の連絡事務所に勤務し、政界とのパイプを作り始めている。1979年、アリゾナ州フェニックスで教師をしていた金持ちの女性と不倫。彼女は、世界的に有名なビールバドワイザーを販売しているビール会社の社長の一人娘、当年とって24歳の才媛だった。さらに、この出会いの際にマケイヌは38歳、夫人は27歳と両方でサバを読んでいた(なお、金持ち・才媛・24歳というキーワードの次に予想される、については、気を抜いたら食われそうだということ以外は特筆すべきことはない)。

そして、1980年、ついに略奪した妻と離婚。その際、金持ちの娘と再婚するときに、足の不自由な元妻に新しい家と金銭的な援助を送っている。なお、全て若い嫁さんの実家から出してもらっている。さらに、1981年、嫁さんの父親が経営しているビール会社の副社長に就任する。現在、そのビール会社の副社長は彼の元嫁さんの次男、つまりクラスメイトから奪った養子が引き継いでいる。なお、元奥さんはその後、離婚後にレーガン大統領(当時)の奥さんからホワイトハウスの仕事を与えられている。この時点で、マケイヌはアメリカの議員の中でヤンキーを超えた女性の敵として有名になった。

この時代のマケイヌのヤンチャっぷりは、捕虜だった頃の反動かもしくはヤンキーの血が騒いだかのどちらかであり、日本版のWikiではうまくぼかしている

彼の家族構成[編集]

その後、若い妻との間に3人の子供をもうけ、そして、マザー・テレサからバングラデシュの女の子を一人、養子として押し付けられている。なお、彼の長男(養子)とその女の子の年の差は32歳もあり、長男と再婚相手の年は5歳しか違わない。ここまで来ると、マケイヌの家族構成については事実を伝えるだけで笑える。

政治家への道のり[編集]

1983年にマケイヌはアメリカ南部アリゾナ州の下院議員選挙に打って出る。本人にとってはまったく見ず知らずの土地であったが、大金持ちの嫁さんの地元であり、また、本人も負け戦とはいえ、筋金入りの英雄(捕虜)というネームバリューがあったため、見事当選を果たす。その後、1987年にアリゾナ州選出の上院議員が引退したため、その後釜として上院議員選挙に打って出、見事当選を果たす。なお、その引退した上院議員というのが、キング牧師が命をかけて取り組んだ公民権法に真っ向から反対し、ベトナム戦争で核兵器の使用も辞さないといったアメリカ議会の名物男、バリー・ゴールドウォーター氏その人である。彼は1964年度の大統領選挙に共和党候補として立候補しているが、国民から極右扱いされて、本選では歴史的な惨敗を喫している。

そして、マケイヌはそんな彼の後継者を自認している

政策[編集]

内政[編集]

マケイヌのリベラル寄りとも言われる一匹狼的行動は、内政問題によく現れている。捕虜としての経験から、負ける戦はしないという立場で動いている。概ね保守の基本線を維持しているものの、強硬に主張することは少ない。特に同性愛問題に関しては、禁止案において賛成しながらも積極的な運動を行わず、敵にするとめんどくさい連中との接点をぼかすことに成功した。ブッシュ政権ともしばしば対立し、ときには超党派で妥協案を探る議員グループを結成したこともある。これは、弱い将軍の下ではろくな目にあわないという自己の経験による。移民問題に大してはおおむね寛容な立場であり、地球温暖化対策についても重要政策として掲げている。いかにブッシュ政権の轍を踏まないかも重要な点である。こうした一連の政策や行動は、リベラルや中道からの好感を買う一方で、保守派からの厳しい反発も呼んでいる。なお、ここでいう保守派とは、いまだにブッシュを支持している絶滅危惧種のことである。

外交・安全保障[編集]

マケイヌは軍人の家系出身であり、元爆撃機の乗組員という立場であったため、筋金入りのタカ派である。そのため、物事をアメリカ式にぶん殴って物事を解決しがちである。この点ではテキサスの腐れカウボーイとうまがあい、「自由とデモクラシーの価値観を世界に広める」「全ての圧政の打倒」といった戯れ言を支持、イラクにもアフガンにもどかどかいけにえを送ることに賛成している。ただし、イラク戦争についてはイラクに15万人にしか兵士を派遣しなかったドナルド・ラムズフェルド前国防長官を「米国史上最悪の国防長官」として強く非難したことからも判るように、戦争についての判断力はそれなりのものがある(しかし、ラムズフェルドはことごとく兵力増強に対する提案を退け、見事にアメリカの威信をイラクで朽ち果てさせることに成功した)。このほか中東に関しては、イスラエルを強く支持し、イランの核問題を巡っては、CBSに出演した際、最終手段として限定的空爆も排除すべきでないとしている。この時点で、ゲリラ戦、テロとの戦いについての判断力には疑問が残る

また、マケイヌはプーチン大統領のロシアに対する最も厳しい批判者として知られ、その言論弾圧・政敵の排除や覇権主義的な外交を非難、G8の一員としての資格にも疑問を向けるなど、5年間の捕虜生活で培った共産主義嫌いの性格をとんでもない相手に対して発揮している。これは5回も墜落した段階で、彼の特性に命知らずが付与されたためでもある。また、対北朝鮮外交の強硬派であり、食糧支援や韓国の宥和政策を厳しく批判したこともある。

もちろん、前述したとおり、日本が好きなわけがない。

他方で対テロ戦争を巡ってアブグレイブ刑務所などで問題化した捕虜・囚人等の拷問・虐待問題を厳しく批判し、「敵に対する態度こそ、アメリカ自身の姿をはっきりと描き出す」との態度のもと、グアンタナモ米軍基地を含む収容所での囚人への非人道的扱いを禁止する法案修正などを主導し、グアンタナモの閉鎖も主張していた(ただし、一匹狼であるため主張しかできなかった)。

2008年大統領選挙[編集]

指名獲得まで[編集]

マケイヌは早くから2008年度の大統領選へ名乗りを上げていたが、2007年2月に出馬を明言、4月には公式の出馬表明を行った。本命候補として満を持して選挙戦に臨んだマケイヌだが、米軍の2万人規模のイラク増派を提言・全面的に支持したことから、支持率が急落した。ただし、本人はイラク戦争当初から、30万人規模の派兵を主張していたのだが、見事にブッシュ政権に蹴られている。また、内政面でのリベラル寄りとも言われる側面は、保守派からの支持を得るのに大きな足枷となっていた。その頃はまだ、ブッシュの支持率が20%を超えていた時期でもあった

保守層からの逆風下で献金も低下し、財政難からスタッフの3分の1を解雇するなど苦しい選挙戦を強いられたが、米軍増派の成果が現れるにつれ、支持もそれに応じて回復していった。11月以降、大物議員が次々と支持を表明し、年明けの予備選・党員集会開始を前に、再び注目を集めていった。もっとも、マケイヌ以外に勝ち馬ととれるような候補は誰もいなかった

2008年1月のニューハンプシャー州予備選で劇的な勝利を収め、共和党予備選で一躍本命の一人に返り咲いた。勝利宣言の際には、支持者からマック・イズ・バックの大歓声で迎えられつつ、全米のモスバーガーにケンカをふっかけた。1月19日に行われたサウスカロライナ州予備選で勝利して勢いを大きくすると、その後のニューヨーク・タイムズシルベスター・スタローンが相次いで支持を表明。その後、フロリダ州予備選で勝利を収めると、アーノルド・シュワルツェネッガーも支持を表明。同じベトナム帰りとして、ランボーコマンドーが味方についた。2月5日の最大の山場スーパー・チューズデーではニューヨーク州、カリフォルニア州といった大票田を含む9州で勝利し、最大のライバルだったミット・ロムニーが2月7日に撤退を正式表明し、共和党の指名獲得をほぼ確定的なものとする。

一方、その頃民主党ではオバマヒラリー・クリントンが泥仕合を延々と続けていた。

しかし、この後マケイヌに最大の不幸が襲い掛かる。ジェブ・ブッシュ前フロリダ州知事、およびその父親であるジョージ・H・W・ブッシュ 元大統領が支持を表明し、さらに最大最悪の疫病神も彼の支持を表明したのである。今後の大統領選挙に向けてまったくKYなこの行動は、この後に続くバラック・オバマとの大統領選挙に深く暗い影を落とすこととなった。また、支持したはずのニューヨーク・タイムズが2000年度の大統領選挙の際、女性ロビイストとの不倫スキャンダルを報じるアクシデントもあった。しかし、これ以上、養子はいらないというマケイヌ本人の弁明もあり、この問題はなかったことにされた。

本選挙に向けて[編集]

春以降、激戦が続く民主党の候補者争いを尻目に、マケイヌは本選挙における重要州を巡る全国遊説を続けていたが、6月3日、民主党の指名候補がバラック・オバマに決定したのを受けて早速バトルを開始している。手始めに、スウェーデンのミュージシャン、ABBA(アーハ)の大ファンであることを公にしている。ポップミュージックの創始者といわれるバンドであるため、老人のように見えて思ったよりも若いというイメージ戦略に基づいたものと思われる。ホワイトハウスで一日中流したいということなので、よほど重度のファンと思われるが、なぜここまですきなのかを考えると、マケイヌの離婚と同じ時期にABBAのメンバーも離婚していた&さらに、離婚後、メンバーの一人は公爵夫人になったという、マケイヌとほぼ同じ経歴をたどったためと思われる。

副大統領候補を指名[編集]

2008年8月29日、副大統領候補としてアラスカ州知事、サラ・ペイリン1964年2月11日~)を選出する。これはマケイヌ本人の希望であるが、共和党の副大統領候補として初めて女性が選ばれたことに驚いた人間は多い。これは、民主党支持者の中でも、ヒラリー・クリントン支持者、別名、フェミニストに向けたあからさまな選挙戦略であるが、マケイヌの余命のことを考えると、ものすごい博打である。仮に、マケイヌが大統領になったとして、在任中に平均寿命を迎える彼がポックリいくと、いろんな意味で大変なことになる。なお、サラ・ペイリン自身、アラスカ州知事であるほかに、悪名高い全米ライフル協会の会員でもあり、なおかつ地球温暖化対策反対、妊娠中絶、同性婚反対、アラスカの油田開発推進賛成と、いろんな意味で大ばくち色の強い女性である。

サラ・ペイリン[編集]

なお、サラ・ペイリンもマケイヌに負けず劣らずの元ヤンであり、上述のように銃で武装するわ、24歳のときに駆け落ちするわ、数々のスノーモービルの大会で優勝するわと、確実にぶっ飛んだ経歴の持ち主である。しかも、ミス・アラスカで2位。現マケイヌ夫人と違い、美貌も兼ね備えている。

さらに、マケイヌと同じく子だくさんであり、5人の子供に恵まれているが、避妊を知らないために一番下の子供はアラスカ州知事になってから生んでいる(2008年4月生まれ)。とりあえず、計画性というものを彼女に求めてはいけない。なお、彼女の長女(高校生)が、17歳で妊娠しているとの報道が流れているが、これは、一番下の子供の親が実は17歳の長女ではないかという憶測を打ち消すため、マケイヌの選挙チームが公開した情報である。どれだけ博打なんだか。さらに、地理を全然知らないため「アフリカはひとつの国だ」「アラスカからロシアが見える」と濱口優のようなことを言ってしまった。

なお、時を同じくして一番下の子供がダウン症児であることも公開している。そのため、バラック・オバマ陣営は彼女の家族構成を攻撃しないことを早々に表明し、一方で「ペイリンはバカ」ということで攻撃した。

Present From Tex[編集]

共和党初の女性副大統領候補というばくちに成功し、支持率においてついにバラック・オバマを逆転したマケイヌだったが、その直後に世界一のアレでアレでアレであることが有名な大統領からすばらしいプレゼントを受け取ることになる。

2008年9月15日から始まるアメリカ発の世界同時金融不安は、たった1週間でアメリカ経済、および世界経済に、そして、何よりもマケイヌの立場に大打撃を与えてしまう。

その端緒は、世界第4位の証券会社だったリーマンブラザーズにアメリカ政府が支援しないことを表明した結果、見事に破産。株式市場が大混乱に陥ったことから始まる。リーマンブラザーズ破綻の情報は世界を駆けめぐり、その余波で世界最大の保険会社であるAIGも破産寸前になるまで追い込まれ、さらにそのほかの証券会社も軒並み業績不振による合併、買収が立て続けに起こる。その結果、一気呵成にアメリカ経済に対する信用不安が巻き起こり、アメリカだけではなく世界中の主要な金融機関に大損害を与える。

これは、アメリカにおける金融政策のガンと言われたサブプライムローン問題が、ついに表面化した結果である。恐ろしいことに、その被害規模は全世界で1兆の上、1京円を超えているとまでいわれている。なお、この額は、2009年現在でもまだ増えているのが実情である。さらに、金融の底が抜けた際に、何も分かっちゃいない大統領の見事な手腕によって、明らかにいきあたりばったりとしか思えない形で政府から救済を受ける企業と受けられない企業が線引きされてしまう。その結果、よりいっそうの株式市場の混乱を加速させたことは言うまでもない。

もちろん、アレでアレでアレな大統領ですから、サブプライムローン問題については適切に対処しているとたまっていたわけだ。

このことについて、常日頃、経済政策については現政権はよくやっていると言わざるをえなかったマケイヌが窮地に追いつめられたことは言うまでもない。幸い、70兆円におよぶイラク戦争並の財政支出の表明、および世界中の中央銀行からの莫大な支援により、なんとかアメリカ経済の底が抜けることは回避された。しかし、どれだけアメリカの信頼が失われたかは定かではない。しかも、その一番根本的な問題そのものがマケイヌを支援しようとしているのだから始末が悪い。さらに、9月26日にオバマとのテレビ討論が待ちかまえていたという素晴らしさ。

もちろん、オバマはやんわりと、そしてじっくりとマケイヌの落ち度を攻め、あっという間にマケイヌは経済問題にうといというレッテルを貼られることになった。その後も、アメリカ経済の落ち目はますます明らかになり、問題発生当初、財務長官の首を挿げ替える程度の問題解決法しか示さなかったマケイヌは窮地に追い込まれていく。そして、3回行われたテレビ討論では、視聴者の反応は常にオバマ勝利であり、どう考えても、巻き返しは難しい局面に追い込まれている。ただし、一般的な知識人は、テキサスの腐れ脳みその次の大統領が4年間の任期を全て使ったとしても、前大統領がやらかしたことの尻拭いでほぼ全てが終わるだろうと予測している。

2008年アメリカ大統領選挙[編集]

2008年11月4日、ついにアメリカ大統領選挙が実施され、マケイヌは見事に敗北。勝利の予感をまったく感じさせないその選挙戦は、ある意味、オバマに対する最高の支援といえた。また、人種差別によるイメージ戦を選挙戦に使わない行為は、オバマ陣営からも賞賛された。もっとも、どうやったって、前政権の負のイメージが強すぎたため、これでマケイヌが勝ったらアメリカが終わっていたが

その後のマケイヌ[編集]

大統領選挙に見事敗北したマケイヌだったが、敗北の際に人種間の融和を唱えたり、未曾有の危機にさらされたアメリカの現況に対して、党派を超えて立ち向かうことを訴えた結果、それなりの存在感を残すことに成功する。もっとも、アメリカ共和党の顔が、いつまでもアノ大統領だったら二大政党制自体が崩壊する。そのため、マケイヌは2009年度より、アメリカ共和党の顔として精力的に活動を続け、2010年の中間選挙にも早々に立候補を表明している。

関連項目[編集]