スクールカースト

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「スクールカースト」の項目を執筆しています。

スクールカーストとは、日本であまり知られていない、学校の負のシステムのことである。 アメリカ合衆国では、日本のそれよりもさらに細分化・固定化が激しく、同国の青春ドラマなどではステレオタイプ のようになっている。

目次

[編集] 概要

分かりやすく言うなら、「外面に基づく子供同士の幼稚な格付け」である。

外面の悪い人=外見的魅力に欠ける人は体育の授業や体育祭で活躍できないどころか、周囲からの罵声を浴びて孤立し(あるいは絶交されたりして)、学校が嫌になり不登校(どうせ行っても学校の授業は予備校と比べたらクズだし)となってしまい、最悪の場合、将来はNEET引きこもりになってしまう可能性がある。

また、「勉強が出来る生徒は教師に好かれる」と言われているが、そもそも、勉強が出来る生徒は予備校で先取りしているため、自分の教え方の下手さを棚に上げそういった生徒を嫌う教師もいるだろう。

不運なことにスクールカーストの認知度は低く、「運動が出来ないくらいでいじめられるわけがない」「そんなに運動音痴が嫌なら上手くなれよ」「スクールカーストは僻みからの妄想」とリアルでもネットでも言う者がいるが、「そんなに言うならお前さん、サッカーの試合でオウンゴールしまくってみなさい」と言って、本人に身をもって体験させてあげると良い。

なお、必ずしも運動の出来不出来のみで決まるのではなく、「一緒にいて楽しい」「かっこいい」などの「表面的な魅力」で決まる 場合が多いようだ。

[編集] 二つのスパイラル

スクールカースト問題を知ろうとも思わない馬鹿でもスクールカーストの概念がわかるように、以下に二つのスパイラルを記す。

  • Aスパイラル(Aランクスパイラルの略、通称正のスパイラル)

運動できる→みんなに頼られる→友達できる→明るくなる→もっと挑戦しようと思う→努力する→成功する→モテたりみんなに頼られる→以下繰り返し(いずれは大学合格、その先にも一流企業で出世したり幸せな結婚をしたりの明るい未来)

  • Cスパイラル(Cランクスパイラルの略、通称負のスパイラル)

運動できない→ハブられる→友達できない→暗くなる→挑戦したくなくなる→でも運動が上手くなりたいと思う→でも学校の授業じゃ無理→以下繰り返し(いずれは不登校、ひきこもりに)

このスパイラルによってAランクには青春と明るい未来(ある程度の学歴+社会的地位)が約束され、Cランクには友達0とお先真っ暗な未来(良くてオタク東大生、最悪ニート)が約束されているのだ。

[編集] なかなか認識されない「スクールカースト」問題

実はこのスクールカースト、2007年10月7日まではウィキペディアに項目がなかったのだ。

このことからも、教育者や政治家たちが声高に叫ぶ「いじめ問題を解決しよう」というスローガンがいかに無意味で、そして本人達もいかにやる気がないかがお分かりであろう。生徒の将来に大きく関係(カーストに巻き込まれたらお先真っ暗)し、「若気の至り」「子供は未熟ですから」では済まない「学校社会の病理」なのにも関わらず、なぜ教師や教育関係者はスクールカーストを無くそうとしないのであろうか。

[編集] スクールカーストが知られない理由とは何か?

2007年度前半はマスコミが視聴率稼ぎに乗り出したいじめ問題がブームになったが、もしいじめ問題の解決においてスクールカーストについて論じることとなると、スポーツの技術を教えずに運動音痴の心に一生深い傷を負わせるという実質的ないじめをしまくった挙げ句、更に高い給料を貰うという税金泥棒を一生懸命頑張っている体育教師や、数十年も勤務していながらスクールカーストを知らないくせにいい気になってるベテラン教師や、国民の税金で議論したにもかかわらず、何ら有効な成果を上げてないばかりかスクールカーストについて無知な教育再生会議のメンバーといった人達が困ってしまうからである。

なので、テレビに出る人(知識人・有識者・教育関係者・政治家など)は自分たちが叩かれることを避ける、あるいは「昔は良かった」式の懐古主義に陥るために「今の子供達はテレビやゲームの影響で凶暴になった」「昔はこのようないじめは考えられなかった」「今時の親は育児がなっていないからいじめが多発するのだ」と、現実逃避及び責任転嫁をするのである。

基本的に、教師は神でなければならないというルール(いわゆる「恐るべき学校信仰」)があるため、国民は「教師の指導は予備校講師を遙かに凌駕している(←わけねーだろ)し、間違っていることなどあるはずがない(←朝日新聞マンセー&ネット批判マンセー)」と思わなければならず、スクールカーストを教師の責任にすることは許されないのだ。

なので、この問題を真剣に考えてくれている人はせいぜい内藤朝雄さんぐらいのものとなっている。

[編集] よくある反論

  • 社会に出たら運動能力は関係ないんだから、運動音痴でも気にするな

よく聞く意見であるが、はっきり言って馬鹿げている。概要の部分でも述べたが、運動が出来なければ将来への道を閉ざされてしまうのだ。だからこそ、運動音痴は運動が出来るようになることを切望するのだ。そもそも、「運動なんかできなくても勉強さえできればいい」というのはスポーツに対する冒涜である。学問を重要視する人間が他の要素を軽視するとは何たる皮肉であろうか。また、この発言を別の例に喩えて言うなら、甲子園で負けて泣いている学生に「負けたっていいじゃん。将来役に立つのは勉強なんだから」と言うようなものである。これほどの鬼畜があるだろうか。

※一方で野球部員は「甲子園」を、ラグビー部員は「花園競技場」を取り上げたら何もなくなるスポーツバカであるのもまた事実である。

  • 人をランク付けして卑屈になるなよ

「人が」「ランクを付けている」という主述の関係ではない。「自然と」「ランクができる」のだ。ちょうど水と油のような物であり、まさか「水と油が分離するなんてふざけている!」と怒る人は居ないだろう。それと同じなのだ。 杓子定規的な「勝ち組・負け組」という概念が学校という閉鎖社会に持ち込まれた結果、このような悲惨な事態が生まれるのである。

  • 運動能力で人を判断するのは間違っている!人間性で人を判断すべきだ!

概要にもある通り、人間性は運動能力で培われているのだ。別に彼らは運動能力だけで判断しているわけではない。それに、誰だって(それこそスクールカーストの被害者でさえも)ガリ勉は嫌うだろう。

  • 「運動ができること」を価値基準に置くだなんて信じられない!社会では運動は出来るけど仕事の出来ない人間が好かれることはないというのに…これだから精神が未熟な最近の若者は…

そもそも「運動は出来ないけど仕事は出来る人」と「仕事は出来ないけど運動は出来る人」を比較する時点で論外である。比較をするなら「運動は出来ないけど仕事は出来る人」と「運動も仕事も出来る人」のように比較する条件以外を同じにして比べるのが常識である。もちろん、どちらが支持されるかはは言うまでもない(だからこそ、こういう意見を言う人間はここまで言及しないのだ)。それに、二つのスパイラルの項でも述べたように「運動は出来ないけど仕事は出来る人」の存在自体が希少なため、実質的には「運動も仕事も出来る人」しかいないも同然である。結局の所、単に若者を叩きたいだけなのだ。

第一、その理屈で行けばスポーツ選手やタレントを「こいつらは低学歴だから糞」「イケメンだとかスポーツが出来るだとかの理由で支持してんじゃねーよ」といった批判(というより嫉妬)を正当化せざるを得なくなってしまう。これでは学歴厨と一体何が違うというのだろうか。

[編集] 内藤朝雄氏の「スクールカースト」に対する考察

①「団体生活の強要」による子供同士の同調圧力

  • 日本の学校は、世界でも類を見ないキメ細かさで、生徒に集団生活を押しつける。このため、生徒にとって学校は、追いつめられても逃げ場がなく、他人との距離感を自由に調節できない閉鎖的な空間になりがちだ。

②塾と学校の相違

  • 学校は、いじめがあったり、勉強をやる気がないようなふりをしなければならなかったり、教員から嫌われると何をされるかわからない不安があったりして、嫌だけどしかたなくいくところだけど、塾はいっしょうけんめい勉強ができるし、学校と関係ない塾の友だちとは気楽に思ったことを語り合える、といったムード。

③「牢獄」と化した学校

  • 「空気を読」んで偽りのノリを生きるよりも、真実の心をわかちあいたい、いっしょうけんめい勉強をしたい、そして専門的な職業につきたい、いじめはゆるせない、暴力はゆるせない、といった「まじめ」なタイプの子にとって、学校よりも塾の方が、圧倒的に「ただしい」場所になっている。学校は、内申書で将来を閉ざされかねないから、力関係上黙って屈服しなければならないだけの、「悪」の場所となる。また、「ことば」で納得させてくれる塾の教員の方が、「ちから」で言うことをきかそうとしがちな学校の教員よりも、「ほんとうの先生」と思われがちだ。

④「反抗期盛り」の中学・高校の問題点

  • 学校にくらべて、塾は楽しい。「友だち」から「不真面目であること」を強制されないですむ。みんなまじめに勉強しているし、講師はフレンドリーな「ことば」で知的関心を刺激してくれる。ここには嫌なチンピラはいない。嫌な押しつけがましい、気にくわないと思われるとひどい成績をつけられて、私立中学への脱出を妨害されかねない(そのくせ教え方の下手な)先生もいない。

参考:教育チケット制で塾と学校を同等に扱う - 内藤朝雄

⑤学校の「神格化」の否定

  • もう一つは、学校を神聖化することをやめるべきだ。これまで日本では、学校を神社仏閣のようにあがめ、教員を聖職者のように扱ってきた。その結果、学校を中心にして、子どもたちを、魂の深いところから、「学校の色」に染め上げてしまうことが、残酷ないじめや市民的自由の剥奪など、様々な問題を引き起こしているのだ。彼らは学校で閉鎖的な集団生活さえしなければ、こんな「学校色のけだもの」にならなかったはずだ。

参考:内藤朝雄のブログ

[編集] 関連項目


[編集] 参考リンク

※注:スクールカーストの理解者ばかりとは限らない、と言っておく。