トウ芝

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

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「こんなマッチョ…もう、嫌だ~勘弁してくれ~」
~ 鄧芝 について、孫権

鄧 芝(とう し、174年? - 251年)は、後漢末期から三国時代体育会系マッチョなバリバリ営業マン(笑い)かつ蜀漢の武将。字は伯苗。子は鄧良。

目次

[編集] 略要

[編集] 前半生

南陽郡新野県(西晋以降は「義陽郡鄧県」、現在の河南省南陽市新野県、ゲーマー軍師ニート生活した場所)出身。

陳の字が書いた『三国志』では、鄧芝の前半生は不明だが、『民間伝承』『後漢書』「鄧禹伝」『蜀書』「鄧芝伝」「宗預伝」を併せると、後漢の元勲の鄧禹(高密侯)の末裔。鄧禹の孫の鄧騭が息子の鄧鳳とともに皇帝の冤罪で自害すると、鄧騭の庶子(名は不明)が高密侯から羅侯に転封され山東から郷里の南陽に強引に移住させられたと記しているらしいYO[要出典]

また、鄧芝は諸葛亮よりも年長だと、そのホモ達でもある蜀臣の宗預クンがコメントしてるYO!

歳月は流れ、その末裔に樊城の県丞に鄧泌(『三国志物語』では樊城県令の「劉泌」)がいた。彼は荊州牧の劉表配下だが、すでに羅侯の爵位は失われた…らしい。これが鄧芝の父である。鄧泌は亡命客将の劉備(共に遠祖の代に付き合いがあった)と親交を結び、その娘(鄧芝の妹)を劉備の嗣子劉封に娶らせたという[要出典]

曹操が天下統一のために南下し、ついに荊州一帯を占領した。鄧泌・鄧芝父子は官位を放棄し、劉備に従軍した。まもなく曹操が烏林の戦い(赤壁の戦い)で劉備・孫権連合軍に敗れた。その直後に鄧泌は病没し、子の鄧芝が後を継いだ。

…これが鄧芝の前半生のあらすじだYO。

[編集] 後半生

義弟の劉封の父・劉備の蜀簒奪に従軍した(亡父の旧知の巴西郡太守・龐羲のツテがあったため)。そのとき、益州牧・劉璋の元家臣の孟達(結局は妻の甥の鄧賢と裏切るが…)がたまたま前妻を失っていたので、劉備の仲介で鄧芝の遠縁のいとこの鄧賢の叔母を孟達の後妻として娶らせた。その縁で孟達は劉封の付家老となった…という。

また、占い師の張裕が鄧芝の人相を診断し「こいつは70歳過ぎたら、大出世するだろう」とハッタリをきかせた。

劉備が蜀漢の帝に即位する直前に、義弟の劉封は例の「蜀漢のお家騒動」で、劉封の義理の伯父の関羽を孟達とともに見殺しした事由で、犬猿の仲の諸葛亮・李厳の讒言によって処刑された(蜀漢のお家騒動を参照)。

本来なら、縁戚関係にある義兄の鄧芝も連座で処分される運命だったが、鄧芝は諸葛亮のホモ達(親友)だったので特例として赦されたらしい。

劉備が陸遜に大敗し白帝城で64歳で没し、18歳になる嫡子の劉禅(もともとは庶子)が後を継いだ。そのとき鄧芝は諸葛亮から「私が封君(劉封)の縁者である君を赦したのは、君に″ある事"をやってほしいからだ」と囁かされた。

それは故関羽が原因で仲が険悪となったとの和睦の修復の使者として呉に赴くことだった。これを聞いた鄧芝はを蒼ざめて「私には無理ですよ…孫権は好きで、とグルになって気に喰わない武将をどんどん処刑してるんですから…想像するだけでも小便を漏らしてしまいますよ」と言い訳して逃げた。

すると…諸葛亮は鄧芝のを「ポン」と叩いて「そうか…じゃ仕方ないな、ただちに君と君の妻子を処刑し、晒し首にしないといけないね~…」と鄧芝を恫喝した。さらに諸葛亮は「君だって、今さら死ぬのは嫌だろ?だったら根性をすえてガチでやんないと…だって、君は優秀な営業マンだもの!」とかえって扇動した。

こうして仕方なく鄧芝は呉に赴き孫権に謁見した。孫権も蜀漢の使節が来ることで張昭とグルになって熱い入りの鼎を用意して鄧芝の根性を愉しそうに試した。はたしてその鼎を見た鄧芝は内心(…もう、嫌だ~俺って運のないに生まれたんだなあ~)と『浜ちゃん&松ちゃん』のパシリであるヘタレヘイポーのようなため息をした。

孫権は鄧芝に向かって「俺たち呉はな、関羽のじじいのせいで蜀漢との関係がメチャクチャになったんだよ!お前のような厨房に俺の機嫌をよくできるのか?あぁん??」と鄧芝をハナから子供扱いにした。

これを聞いた鄧芝はが白くなり、かつて『モーニング』に掲載された『宮本から君へ』の宮本のような必死な表情となり、いきなり衣装を脱ぎ、孫権に飛びついてアッー!禁則事項ですをした。さすがの孫権も「ギブギブ!!わかった、わかったからさっさと衣装を着ろ!!」と叫び、しかたなく和議修復に応じ、鄧芝をもてなした。さらに呉の臣の張温を使節として同伴し鄧芝は無事に帰還した。

数年後、諸葛亮の北伐の武将として、趙雲とともに長門争奪戦に参戦し、趙雲と一緒に敵味方を唆しさんざんに煽ったと言う。

彼は不器用で、話下手だったため軍事バカ姜維を溺愛していたらしい…また驕慢な性格のために、費禕以下の武将は鄧芝を腫れ物扱いして「事なかれ主義」に徹した。だが、年少の宗預だけは、鄧芝にメンチを切らしていたのである(喧嘩上等!)。

しかし、常に貧乏だったので、家族を顧ずにその家計を苦しめたダメオヤジぶりも見せている。

251年、78歳で没したという。

[編集] 関連事項


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