ニコラエ・チャウシェスク
ソビエト社会主義共和国連邦閣僚評議会付属国家保安委員会認可
本項の文章と内容は、完全に正しい事実としてソビエト社会主義共和国連邦閣僚評議会付属国家保安委員会第10課長により認定されており、 全ての無産階級人民と、ソビエト連邦共産党員に見せることが認可されています。 この資料を疑うことは思想犯罪であり、疑った場合は国家反逆罪の対象とされます。 |
ニコラエ・チャウシェスク(1918年1月26日~1989年12月25日)とは、東欧民主化革命までルーマニアに君臨した、共産主義に染まったガキ大将。権力を握って間もないころは、(一応)まともなこともやってはいたが、独裁者になる夢と欲望を抑えられなくなり、自国の経済や政治体制についてヨシフ・スターリンの真似事を敢行して国民を不幸に陥れ、ついには引き摺り下ろされて処刑された。1989年に死んだ政治家では、天皇裕仁とは正反対の死を遂げた。
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[編集] 生い立ちと子供時代
彼の出自には不可解かつ意味不明な物があるが、彼の自伝「ニコラエ・チャウシェスクのチャウチャウやあらへんで」に1918年1月26日、狼とルーマニア系ドイツ人マリア・チャウシェスクの間に生まれた2番目の子と言われている。なお1番目の子は「伯父は私が最も敬愛したアドルフ・ヒトラーである」と自伝にある。きっと嘘。
よく、近所の子供たちから「おめーは呼びにくい名前だな」と馬鹿にされていた。いや、スラブ圏ってだいたい呼びにくい名前多いだろ。 そのことが影響して、徐々にチャウシェスクのダークサイドが形成されていった。
母・マリアの親戚に預けられ、どーいうわけか親戚家族からルーマニア伝統の幼児虐待法低温ローソクによる愛の躾を16歳になるまで与えた。後に自伝に「べっ別にあんな仕打ち、全然気持ち良かったわけじゃないんだからねっ!///」と書いてあり、後にルーマニア秘密警察伝統の拷問法、低温ローソクの誕生の要因となった。
[編集] 芸人への道
ニコラエは17歳の時、突然、家出をした。そして一家にこう告げた「僕は新世界の蟹になる」そして親戚一家はニコラエをルーマニア精神病院付属高等学院に入学させられる。
そして7年後、ニコラエはルーマニア民営放送局の番組「世界不愉快人間ショー」で「東洋の神秘男」という紹介で出演。得意技は南京玉すだれであった。この芸が審判や国民に大うけで、番組内では常にトップの座に就いていた。これをきっかけにニコラエは「俺の天職は芸人っスよ。俺マジパネぇwwww」と自信満々に思い、1942年ニコラエは24歳、ついに「チャウ太郎」という名前で芸人デビューした。ちなみルーマニアのお笑い芸人第一号だと言われている。当初は番組での人気もあり順風満帆なスタートだったが、徐々に人気は下落。リアル第二次世界大戦も手伝って、次第に「チャウ太郎」は「国家の恥=汚点」という存在となり、当時のルーマニア王国の国王ミハイ1世が、1943年にニコラエを「おもろない」と吐き捨てて、故郷ルーマニアを離れた。
この時ニコラエは「俺は、俺はルーマニアの“ネ申”になるぜ…」とぶつぶつ呟きながら出国したという。彼の遅すぎる厨二病開花の瞬間でもあった。
[編集] 反ナチ運動から共産主義教信者へ
ミハイ1世がナチ教に染まったことに憤激したチャウシェスクは、ナチスの敵である共産主義の親玉を援護し、共産主義教に心酔、これに改宗する。そして、1945年5月8日にナチスが潰滅すると、「待ってました!」とばかりに鎌と鎚の旗を掲げてブカレストを大行進した。ナチ教とカルト君主制で苦しめられてきたルーマニアの民衆は、このチャウシェスクのパフォーマンスにまんまと填まったのである。
[編集] 共産主義劇場・独裁者として
1945年にルーマニア共産主義劇場を設立したチャウシェスクだが、かつて折の中で知り合ったゲオルギウ・デジのもとで長きに渡る下積みを重ねた。デジが死ぬと、チャウシェスクは権力を掌握し、その頭角を現すことになる。その最中、共産主義劇場に入らない民衆にストーカー行為を繰り返して捕まりそうになった。
1965年に自分の共産主義劇場の名前である「ルーマニア労働者党」を「ルーマニア共産党」に変更し、その主演を務める。1967年に共産主義劇場の座長に抜擢、「俺様は大統領」と宣言し、ルーマニアの頂点に立つことになった。
ところが、その頃のチャウシェスクはナチ教を倒した頃とは正反対で、ナチ教、天皇教だけでなく主体思想にも心酔して、独裁者の牙を剥いていった。そして、「俺はカルパチアの天才、ルーマニアの“ネ申”だ」と宣言し、独裁者になったことを宣言した。
独裁者になったチャウシェスクは、孤児たちを共産主義劇場に招待し、「この劇場に入れば、幸福になれますよ~」って詞巧みに欺き、孤児たちをルーマニアのKGBのメンバーに育てた。この秘密警察が跋扈したことで、レストランにも盗聴器が設置され、小学校にも秘密警察が潜り込むなど、民衆は息もできない生活を強いられた。
そして、1971年には金王国の偉大なる将軍様金日成と握手し、1975年4月4日には大日本帝国の万世一系の天皇陛下・裕仁と握手をしている。この時、「俺も金日成みたいな独裁者になりたい!」「俺も天皇裕仁みたいな独裁者になりたい!」って、チャウシェスクはほくそ笑んだ。特に金日成とは、「あなた」「お前」で呼び合う睦まじさであった。
創価学会の池田大作大先生とも民衆の王であり独裁者兼宗教家という共通点を持つ親友の仲であり、「ニコちゃん」「大ちゃん」と呼び合う間柄で、その親密な付き合いは聖教新聞に何度も掲載されている。そして、この件はチャウシェスクが悪の独裁者として処刑された現在では黒歴史として葬られている。
ほかの独裁国家の例に漏れず、チャウシェスクの肖像画が至る所に貼られていった。金日成や天皇裕仁の真似をして共産主義劇場の要人をチャウシェスク一家で固め、「チャウシェスク王朝」と呼ばれるまでに権勢を極めた。
[編集] 独裁者の最期
しかし、共産主義劇場に属しないルーマニアの民衆は秘密警察に監視され続け、寒さを凌ぐための石油や食料までも不足するなど、極度の飢餓に陥った。その一方で、チャウシェスクは酒池肉林の贅沢三昧の日々を送っていた。
その最中、1989年1月7日には大物独裁者の1人・裕仁が死んだ。すると、ルーマニアの民衆は、「ヒトラーの仲間が、のうのうと死にやがった」「裕仁はチャウシェスクと同じだ!」と言い放ち、怒りは臨界点寸前に達した。その年の12月16日、ある1人のハンガリー人の牧師への迫害を契機に民衆の怒りが爆発、民主化革命に繋がった。自分への自信と自惚れによって、最後まで権力を手放さなかったチャウシェスクは、ルーマニアの民衆への発砲も敢行して自国民をちぎっては投げちぎっては投げ、「神に反対する者は誰でもこうだ!」と宣言するのだが、これが結局、自業自得となる。
クリスマスの日、チャウシェスクは妻のエレナとともに即決裁判で銃殺された。死の直前、チャウシェスクは「俺も天皇家に生まれたかった…」と言い残した。
チャウシェスクの死後、ルーマニアでは独裁者にノーと言った古代中国の英雄を歌った曲恋のマイアヒが流行した。
[編集] 関連人物
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