バージニア工科大学銃乱射事件

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出演はビル・スロートウォーブラーとナイジェル・スフィンクター。三つの主要な闘争シーンの内の一つを演じている場面。

バージニア工科大学銃乱射事件(バージニアこうかだいがくじゅうらんしゃじけん)は、『死』をテーマにしたセミ・ミュージカルであり、脚本は同大学の優等生であったチョ・スンヒによって手がけられた。最初にして唯一の上演は2007年4月16日に同大学で行われ、メディアによる重みのある放映もあって多くの激賞の声が寄せられた。多くの評論家により『歴史に残る上演だ』と高く評価され、チョ・スンヒは死後、演劇の天才と呼ばれるまでになっている。彼の劇作の天才性とその演技の花形ぶりに多くの賞が贈られたが、彼は自殺をすることでこれを固辞した。この劇では恋愛、闘争、そしてユーモアをもテーマとしているが、ほとんどは闘争を取り扱った部分である。

目次

[編集] 概要

この劇はアンチヒーローに追随したものであり、あるいは逆説的に、チョ・スンヒ自身が劇の主人公であったとも言える。彼は素晴らしい優等生であったが、アジア系アメリカ人であるが故のあらぬ苦痛や誤解と闘ってきた[1]。彼の両親はその才能の高さを知ると、その劇の上演を有料化するよう彼にプレッシャーをかけるようにまでなった[2]。始まりは、彼の唯一の友人であったベンとマーク(判り易いが、シェイクスピアロミオとジュリエットにおけるベンヴォーリオとマキューシオの語呂合わせである)が芸術での成功を求めて外国の大学に行ってしまい(劇の第一幕でも上演されている)、彼が一層の苦境に立たされたことであった。大変な孤独を感じることは彼にとって、チョ・スンヒという人間が何をやっても成功しない敗北者であるというのに等しかった。屈辱的なその言葉は彼の心の奥底に眠っていた復讐心を目覚めさせ、劇の開幕部分を独白として風に載せたのである。それは全く誰にも理解できないような戯言であったが、彼の狂気的な怒りにとって最初の微かな光となった。この独白の美しく包み隠しのない部分に、彼はこう言葉を残している。『俺は狂うだろう。これは避けられないことだ』。この後、意気消沈した彼の話を聞き、我々は物語のプロットを再現してみた。ただ一つ、彼の大学が英語での記述を方針として定めていた中で、書いていたのが非常に陰鬱な物語だったことが唯一の慰めである。彼の小論文の一つにソウルからの魂(ソウル)と呼ばれるものがあるが、劇の第二幕にて上演されている。その中でも、彼ははっきりと暴力的な内容に言及している。以下はその抜粋である。

「ならばどうして、大事な人と口論しなかった? あの人を怒らなかった? ウォークラフトを一人孤独にプレイすることになったのは、きっとそれゆえの罰なのだ。私は自分の感情の銃身を回す前に、少なくとも32体のイノセントを二丁の半自動拳銃で撃ち殺し、レベル62の魔導師になるだろう。」
ソウルからの魂 第三節より

第三幕はユーモアとロマンスの語りが多く、オンラインのチャットルームにおいて、チョ・スンヒがすぐ後に彼女になるミランダという仮想の女性に会う場面が描かれる[3]。彼はミランダの胸を触る場面で、驚く彼女に『綺麗な方、貴方の巨乳が私の劇にどうしても必要なんです。決して疚しい行為ではないんです』という説明をするようなキャラクターとして、ミランダはそんな彼を優しく褒める女性として、後には物語上の狡猾なライバルキャラとして描かれる。展開の末に彼らは顔を合わせ、二人で悪名高い『貴族階級』ジョークに花を咲かせるという陽気な場面が続く。以下はジョークを交換する一場面である。

第三幕、ミランダが舞台に上がる場面。
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「バージニア工科大学銃乱射事件」の項目を執筆しています。

チョ・スンヒ: 二人の男が雄犬を鎖で繋いだ、やたら良さそうな女にたまたまぶつかった。男達が女を3Pレイプしている間、お互いにアナルを貫く前に、雄犬が自由に駆け回っていた。『貴族階級』のジョークだ。

ミランダ: ああ、私あなたの、そういう突進するような思慮の浅いユーモアのセンス、とても好きよ。そのベビー・フェイスで言われると、脊髄を冷たいものが突き抜けるような感じがする。あなたの柔らかな愛撫のことを考えながら、いつも私は夜の退屈な快楽に無駄な時間を使うの。あなたが『これからお前をファックしてやる、このビッチめ!』って言いながら私の体に万遍なくキスする時、私はいつも立てなくなるまでイかされちゃうの。激しい交尾をしましょう。犬みたいに私に跨って欲しいの。あなたのその(6歳位に見える)童顔が快楽に歪むのを見たいの。

これは互いの緊張をほぐすための会話である。ミランダとチョ・スンヒが次に続く、ほれぼれするような深いラブシーンの下地を整えている。

第四幕では、ミランダの死によって二人の関係が終わる時の、チョ・スンヒの世界の崩壊が中心に語られる。彼には既に深いラブシーンから繋がる月並みな展開(このケースでは、深い愛情から繋がる展開が)が約束されており、彼は心を押し潰され、再び鬱状態に陥ってしまう。一つのシーンにおいて、レイヴンが落ち込んだ彼と行き会う場面がある。チョ・スンヒは小食により[4]少しずつおかしくなっていて、レイヴンを失望させてしまう。レイヴンをミランダだと信じているチョ・スンヒの無意味な質問に、レイヴンは無視を決め込んでいる。チョ・スンヒはレイヴンがイディオクラットの胸像の上に腰掛けたために、彼が神秘の『知識』を持っているという勘違いをしている。

チョ・スンヒ: 俺の愛しいミランダに合えるんだろう……?!

レイヴン: 止めろ。

チョ・スンヒ: 一度だけでいい。彼女の視線を受けたいんだ!

レイヴン: 違う。

チョ・スンヒ: 他には何も言わないんじゃないのか!?

レイヴン:

チョ・スンヒ: ミランダ?

レイヴン: 止めろ!

この類の勘違いを繰り返すシーンが何回も続き、バージニア工科大の英語科教授がチョ・スンヒに精神鑑定を受けた方がいいと促す。ここでナレーターが舞台に上り、無頓着な観察者がどれだけ不公平かだけを好き勝手に彼に吹き込む。ナレーターが彼のやってきた階級闘争やら、唯一の友人を失ったことやら[5]、オンライン上の仮想の彼女との別れやら、定期的な精神治療を受ける羽目になったことやらを吹き込むことで、彼は次にどうすべきかの選択の余地がなくなる。場面が切り替わり、チョ・スンヒが二丁のハンドガンを購入、弾を装填するシーンになる。彼は自分のアパートで最長の鏡に立ち、少しの間二丁の銃でクールにポーズをキメた後、日差しの降り注ぐバージニア工科大学へと歩みを進める。この感動的な場面ではずっとミランダの声が聞こえ続け、彼が32人の人々を殺してから自殺することで最高潮を迎える。ミランダの最後の言葉『犬みたいに私に跨って欲しいの。』で、聴衆による大喝采と閉幕を迎える。

[編集] 目録

  • 第一幕
前奏
ベンとマークの出立
  • 第二幕
狂人の手紙
チョ・スンヒ、魂の序曲
  • 第三幕
私は誰かと尋ねる彼女、その全ては私のものとして
貴族階級
  • 第四幕
散りゆく恋慕
『もう二度と会えない』と、レイヴンは言ってはくれなかった
終幕

[編集] 賞賛と批判

「出演者の家族は若干涙を浮かべた。喜びの涙だ! 誰もが同じ反応を見せる。その出演が全てであったろうに、彼ら全員が信じられないほどの才能を舞台で見せつけてくれた。」
バージニア工科大学銃乱射事件 について、演劇評論家
「ううむ……これは……あー…………うむ」
バージニア工科大学銃乱射事件 について、ピーター・ボグダノヴィッチ
チョ・スンヒは劇の後、永世のスターの地位を得た。しかし不幸にも、彼自身が生きてその栄光を受けることはなかった。

非常に馬鹿なことに、『バージニア工科大学銃乱射事件』は間抜けの批評家達を感動させ、劇場にマイルストーンのモニュメントが作られるまでになった。また、『歴史に残る上演だ』とも評されるようになり[6]ローリング・ストーン・マガジンは、『悲しき悲劇だ』と論評した。映画化に当たってはピーター・ジャクソンの監督の下、20th Century Foxで公開される(悲劇作『If I Did It, Here's How I Did It』との同時リリース)。ジャクソンは三時間を追加した長編映画としてプロットを立てており、計7.5時間長[7]を予定しているが、映画では舞台で上演されたような見事な恐怖・苦悩の描写ができないだろうという人々により、多くの反対に合っている。不幸にも、チョ・スンヒ『本人』による上演は後にも先にも一度だけであり、完全は再現は不可能であるため、主役にはボビー・リーが抜擢されることになった。

映画評論家のリャン・サンドは、この劇にはソーシャルクラスへの配慮という深遠な意味があると指摘する。実際に劇中において、チョ・スンヒは貴族の人々について、普段から『俺は裕福な俗物どもを憎んでいる』と公言している。バージニア工科大学のシンボルであるホーキーは、資本家階級の連中によってでっち上げられた、既に終わりかけているカール・マルクスの理論(彼の論文は社会主義にに関するものだった[8])の象徴であると説明しており、これは逆にチョ・スンヒがプロレタリア階級の人間を象徴していると見ることができ、32人の殺害という彼の行動は、マルクスが予言した無産階級による中産階級の転覆を意味しているのでないかというものである。勿論この見解にも穴はあり、チョ・スンヒ自身もバージニア工科大学の学生という中産階級の人間だったことに説明がつかない。だが、これもやはり残念なことに、彼は最後、追い詰められた末に自殺してしまっている。ただ推察できるのは、チョ・スンヒは自身の激情をオリジナルの脚本にまとめるまで、今の自分に近い文献をいくつも当たったのだろうということである。

[編集] 影響

チョ・スンヒのメモ帳には、1999年に上演されたエリック・ハリスとディラン・クレボルド主演のコロンバイン(同様のテーマを扱っている)や、エドガー・アラン・ポー大鴉、ナサニエル・ホーソーンの多くの作品に見られるようなダーク・ロマンスに強い影響を受けたことが記されている。劇中にはシェイクスピアの劇の要素が多く見られるが、チョ・スンヒによる彼の影響についての具体的な言及は未だ見つかっていない。ユーモアについてはニール・サイモンと、ウディ・アレンにも僅かながら影響を受けたこと、更に彼は、劇中の多くの事件は現実に則っていないと言っている。その証拠として、彼は劇のサブタイトルで『劇中で私が行うだろう行動は、全て病的にして死を免れないものであり、いつか実際に起きる事件と見なせる。貴族階級ジョークより』と見やすく示している。この隠されたメッセージを見て理解できるよう、多くの時間が表示に充てられている。

[編集] 関連項目

[編集] 注釈

  1. ^ 最初の上演によってアジア系アメリカ人の闘いのグレードが一つ上がったのは皮肉な話である。
  2. ^ それに次ぐ上演によってアジア系アメリカ人の両親達から賞賛というプレッシャーがかかったのも皮肉な話である。
  3. ^ 初の上演に際して、無人が彼女の役を熱演した。しかし反響は弱く、彼女の役はすぐにホームレスのようなモデル、コートニー・ラブに変更された。聴衆の反応は非常に良く、ほとんどの人々が『素晴らしい』『より下手くそだった』と後者の演技を絶賛した。
  4. ^ ここでもう一度、チョ・スンヒがアジア系の他民族であるという言及がなされる。
  5. ^ ここはよく考えれば、この劇の最も重要な現実部分である(アジア系アメリカ人の闘争社会)。
  6. ^ 写真は俳優マガジンのもの。
  7. ^ まだキングコングよりは短い。
  8. ^ やはり彼はアジア人である。



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