フランツ・カフカ

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フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)は、オーストリア・ハンガリー帝国(現、チェコ)出身のユダヤ人で労働者傷害保険協会の職員である。プラハにて生まれ、プラハ大学で法律を学んだ。就職後はまじめに働き、41歳で結核により亡くなった。趣味で小説を書いており、そのいくつかが出版されるも、あまり注目されなかった。おわり。

彼の伝記はこうなるはずだった。友人マックス・ブロートの裏切りがなければ。

ある生真面目な労働者の死[編集]

1924年、プラハの厳しいのさなか、一人の青白い顔をした男が、室内にもかかわらず外套を着て、ありったけのぼろきれを身にまとい、それでもがたがた震えながら、机に向かっている。使い込まれて先のつぶれた万年筆を走らせる音だけが部屋に響く。ストーヴは点いていない。そもそも石炭がないのだ。一心不乱に作業を続けていた男が、あわただしい手つきでポケットからハンカチを取り出し、口に当てて咳き込む。白い木綿の上に、真っ赤な薔薇が咲いた。男は驚いた様子もなく作業を続けるが、終わるやいなや椅子から崩れ落ちた。その年の6月3日、ウィーンに程近いサナトリウムにて、フランツ・カフカは亡くなった。

親友に宛てた遺書には、未発表の小説は全て焼却するように、とあった。

ああ、おせっかい[編集]

カフカが書き溜めた大量の原稿と共に彼の遺書を受け取ったマックス・ブロートは、大いに憤慨した。「あいつめ、なんともったいないことを言うのだ! あの、素晴らしい、ユダヤ人の誇りである作品たちを、みんな燃やしてしまうなんて私には出来ん!」ブロートは遺書を握りつぶそうとしたが、思い直してやめた。そして、を傷めないよう慎重に、それをファイルにしまった。それから、ブロートは、頼まれもしないのにカフカの遺稿を整理し始めたのである。作業が進むにつれ、未発表の小説の多くは未完成で、中には物語としての体裁が整っていないものもあり、そのままでは一作品として公開するのが困難であると分かった。そこで彼は自らの独断と偏見によって、長編小説の章の順番を並べ替え、勝手に番号を振った。未完の章や、自分の推定した話の流れにあわない章は容赦なく削り、気に入らない表現を訂正した。特に、『審判』における編集は度を越しており、後に幾度もの論争を引き起こすこととなる。

ブロートはまた、小説以外の文章の積極的な収集を行った。カフカの手によるものなら何でも良いと言わんばかりに、さまざまなものを狂ったように集め、保管した。特に手紙のコレクションは膨大なもので、これにより、息子を理解しようとしないや子離れさせてくれないとの確執があったこと、特に親しい4人の女性がいたこと、そのうちの何人かにかなりの回数熱烈なラブレターを送っていたことなどが分かるが、ブロートはこれらのほとんどを公開している。一人の勤勉で実直なユダヤ人の生涯は、その死後に、一人の厚かましい友人によって永遠に侵されたのである。

『審判』をめぐって[編集]

ブロートの「手直し」は、彼の出版した『審判』第二版のあとがきで、彼が自ら「彼のつたないドイツ語を私が直した」という趣旨の文章を書いたことで明らかになった。バイスナーという大学教授がいち早くこれを批判し、それに追い討ちをかけるように別の大学教授が章の並べ替えを指摘した。ブロートがこれらに対し頑固に反論したことで彼を批判するものはさらに増え、論争は激しさを増した。しかしどんなに多くの人々の批判も、この偏屈な老人に自らの過ちを認めさせることは出来なかった。彼はカフカの著作を出版する権利は自分以外の誰にもないと主張し、原稿を決して手放そうとしなかった。

1968年12月20日、イスラエルにいたブロートを、二人の男が訪ねてきた。二人ともフロックコートに身を包み、青白く肥っている。ドイツから国民栄誉賞でももらえるのかと思っていたブロートを、男たちは路地裏に連行し、その服をはいだ。恐怖におののく老人を一人の手ががっちりと抑え、もう一人が薄い肉切り包丁でその小さな心臓をえぐった。哀れ、どす黒く薄汚い傷口がおまえの命とり。薄れゆく意識の中でブロートは思った。「犬のようだ!」恥辱のみが生き残るように思われた。

ブロートの死後、カフカの原稿のコピーが発見され、『審判』のもとの状態により近い版が発表された。その他の作品についても比較検討され、やっと人々は本当の意味でのカフカの文章に触れ、その現実と見紛うばかりに不可解な世界を楽しむことが出来るようになったのである。

影響[編集]

カフカの作品は、その死後に一部の作家から評価され初め、今日では文学にとどまらず多くの分野に影響を与えている。特に、カフカの作品を原作とする映画が、1962年にオーソン・ウェルズが『審判』を発表してからというもの、多数製作されている。近年は、ミヒャエル・ハネケ監督の『城』のような原作に極めて忠実なものから、スティーブン・ソダーバーグ監督の『KAFKA/迷宮の悪夢』[1]のように、彼の作品世界を独自に解釈し、新たなストーリーを創り上げているものまで、実に多様な作品が作られている。

カフカのノート[編集]

カフカ愛用のノート

カフカはその小説を、何処にでも売っているようなノートに書き、出来上がったものはベージを切り離して糸で綴じていた。そして彼のノートには、日記と未発表の小説が残されたのである。彼の作品が、未発表だったものも含めてほとんど世に出てしまった今、それまで無視されていた日記や覚え書きが注目されてきている。その中から、驚異的なまでに出版権に執着したマックス・ブロートがついに生前発表することのなかった、カフカのごく初期の日記を引用する。

『今日の朗読はたいへんうまくいった。親父が虫にりんごをぶつけるところでは、私の飲み友達はみな大笑いした。最高におかしい、といってみんながあまりに誉めるので、また出版社に行ってみようかと思っている。みんな、と書いたが、一人そうでないものがいた。髪の毛をくるくる指に巻きつけながら、君は同化ユダヤ人としてのジレンマをこの小説で表現しようとしているんだね、分かるよ、とか言っていたが、勝手にそう解釈しているのならまあそれでいい。彼はどうやらシオニストらしい。私がもし死んだら、原稿の処分は彼に頼むのが良いかもしれない。頭の固いやつだから、私が特にそのような意味を持たせずに書いていたと知ったら、激怒して残らず燃してくれるだろう。』

カフカの小説[編集]

カフカ自ら発表したもの[編集]

  • 『観察』1912年
  • 『火夫』1913年
  • 『変身』1915年
  • 『判決』1916年
  • 『流刑地にて』1919年
  • 『田舎医者』1920年
  • 『断食芸人』1924年(出版前にカフカ死亡)

発表する気のなかったもの[編集]

  • 『審判』1925年
  • 『城』1926年
  • 『失踪者』1927年
  • 『万里の長城』1931年(未発表の草稿をグチャグチャにして勝手に短編集にしたもの)

注釈[編集]

  1. ^ 主人公のカフカが同僚の死の謎を探るうちにカフカの作品のごとき迷宮に迷い込んでゆくというミステリー風の作品であるが、この映画を見る人は誰しも何らかの違和感を覚えずにはいられない。ストーリーが終わりに近づいたころにやっと、その原因は主役のジェレミー・アイアンズが、カフカに全然似ていないことだと気づくという、素晴らしい映画である。