フレディ・マーキュリー

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フレディ・マーキュリー
Freddie79.jpg
正装フレディ。
基本資料
本名 ファルーク・バルサラ 
通り名 フレディ、胸毛、ゲイじゃねぇバイだ 
生没年 1946年9月5日~1991年11月24日 
好物 男と女と猫 
嫌物 批評家とプロデューサー 
出身地 タンザニア
「勘違いするな、彼はゲイではなくバイだ。」
フレディ・マーキュリー について、オスカー・ワイルド
「私たちは彼から多くのものを学びました。第一にゴムを付けることです。」
フレディ・マーキュリー について、デヴィッド・ボウイ

フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury:1946年9月5日 - 1991年11月24日)(本名:Farrokh Bulsara)は、歌ととタンクトップと全身タイツと露出とピアノと人生を愛したQUEENヴォーカルであり、「デビュー以降10年間で最も外見が変化したミュージシャン」としても知られている。1991年、全世界の同性愛者にゴムを付けさせる啓蒙活動を行うため45歳にして天に昇った。また4オクターヴという常識外れな声域の持ち主であることと、脱皮と変態を繰り返したため、しばしばイギリスの批評家から人間であることを疑問視されることもあるがれっきとした人間である。

目次

[編集] 曲と人生

[編集] ザ・ミラクル

まあかわいい子。

1949年、タンザニアはザンジバル島の美しいストーンタウンにあるバルサラ家に"ちょっと出っ歯な"一人の少年がやってきた。少年は胸元からヘソまで大きく開いた市松模様の全身タイツを着ており、腹部や胸部には立派な胸毛が生えているのである。一家は彼をフレデリックと名付け、ピアノを弾かせてみると非常に上手であったため二度驚くが、全身タイツを着こんで体をくねらせピアノを弾くその姿は幼児に見せればヒキツケを起こしかねないものであった。一家はその後インドに移住し、そこの寄宿学校で教育(性的な意味でも)を受けた彼はその頃から全身タイツ姿のまま音楽活動に打ちこみ始める。15歳で大英帝国に赴き、その後は芸術大学に入学しグラフィックデザインを学びデザイナーとなるが、この時初めて自分の衣装に疑問を覚えた。

[編集] ライアー(1973年)

丁度その頃、後にメンバーとなるブライアン・メイロジャー・テイラーはティム・スタッフェルと共に「スマイル」というバンドで活動していたが、アルバムの売り上げ不振を理由にティムが辞世の曲を遺して切腹したため、1969年にフレディ・マーキュリーと名を変えたフレデリックが加入。フレディは1970年のライブで勝手に「オカマ」の意味を含む「QUEEN」にバンド名を改称し、71年にメンバーにジョン・ディーコンを加えて73年に正式デビューした。しかし最初のアルバムは本国の批評家から「二番煎じに溢れたバケツ一杯の小便」というセンスのない譬えで表現され、歩くち〇こなんて言う不名誉なあだ名をつけられるが本人はまんざらでもなかったって模様。グラムロック風に化粧を施し、フレディも胸毛を剃っていたためか「どうもバンド名は冗談ではないらしい」との評判が立ってしまう。これを受けてメンバーが女性に対する愛を綴った曲を必死で製作する中フレディは「女性好きですよ」とコメントしメンバーを焦らせた[要出典]。後にフレディはこの件について「ああ、どうして女性も好きであることを誰も信じてくれないのでしょう、どうして放っておいてくれないのでしょう」とも語ったとされる。

[編集] 二本脚の死神(1974年)

時代遅れと評された反省を踏まえてリリースされた二枚目のアルバム「クイーンⅡ」は現在でこそファンの間から「史上最高のB面を持つアルバム」との呼び声高いが、フレディの好き勝手ワールドが過ぎたため当時の売り上げは目立ったものではなかった。翌年の74年メンバーの努力で三枚目のアルバムを発売し、クイーン初の女性に対する曲(娼婦を歌った曲である)「キラー・クイーン」が初の2位を獲得するなど英国や日本でもヒットし、メンバーはオカマ疑惑を打ち破ったことに安堵した。

しかしそれに安心したフレディは自らが幼少時に着用していた市松模様の全身タイツを持ち出し、久しぶりとなるライブへと赴いてしまう。市松模様のタイツから露出した彼の黒々とした胸元、主張の強い股間を見た観客からは悲鳴が上がり、自らのパフォーマンスと欲求に一つの方向性を打ち出したフレディは大満足。メディアはこぞって「ご乱心・突然変異・やっぱりオカマだろ・股間もメンバーに加えろ」などと報じ、メンバーも苦々しい表情で彼のパフォーマンスを見たが、彼自身はこのスタイルを5年ほど続けることとなる。

しかしメンバーはレコード会社から支払われる給与が明らかに曲のヒットとは反比例している事に疑問を覚えた。フレディは自分たちの給与がマネージャーのジャック・ネルソンにピンはねされている事を知るや激怒、怒りによって生じた暗黒面のフォースでタイツ姿から更なる進化をしかねない勢いであったが、そのエネルギーを曲に打ち込むことで事なきを得た。

結果完成した曲
Death on two legs
作詞作曲:フレディ・マーキュリー

おまえは蛭のように俺の血を吸い上げ、法なんぞどこ吹く風でいやというほど、俺の脳みそを締め上げる
俺の金をすべて奪い取ったくせに、まだ足りないと言う、がちがちのルールに縛られた、トチ狂った頑固者
(汚いので中略)
でも今は、俺のケツにお別れのキスをしても良いぜ
良い気持ちかい?満足か?自殺したくなるだろう? (そうすべきだと思うぜ)
(汚いので中略)
狂気の沙汰だ、お前なんぞ刑務所にブチ込まれりゃ良いのに
おまえはプライドの汚水溜めの中で、腐り果てていくドブネズミだ
(汚いので以下略)

なお、この曲の発表でクイーンは名誉棄損で起訴され賠償金を支払った。

[編集] ドント・ストップ・ミー・ナウ(1979年)

フレディ第三形態。

1979年頃、3度目の脱皮を済ませサスペンダー姿となったフレディはついに自らの欲望に忠実に生きることを誓い、「今夜俺は楽しむから誰も俺を止めるな」と宣言しハッテン場デビューを果たす。男の喜びを知った彼は天をも焦がすような歓喜を味わい、光の速さでエクスタシーに達した。この感動を皆に伝えようと決意した彼は曲を書くだけでは飽き足らず、新しき進化を求めて蛹化する。1980年の春に蛹を破ってメンバーの前に現れたフレディは髪を短く切りそろえ、胸筋を発達させ、口ひげを生やしタンクトップ姿となっており、第三形態となった彼の変態はほぼ完成したものであった。彼を目の当たりにしたアメリカのファンはこぞって「おかま以前にガチムチや」と囃したて、日本の女性ファンは泡を吹いて卒倒した。

[編集] 手を取り合って

これより数年前クイーンが英国で酷評される中、日本では急にロックに目覚めた女性たち(所謂ミーハーである)が初期クイーンのアイドル性に飛びついたため、何故か本国より先に歌詞の内容も分らぬであろう日本人ファンが増えたことに疑問を感じつつも、メンバーはたびたび来日した。空港では押しかけた1200人以上のファンにプレスされ、茶会ではメンバーのジョンが抹茶を吐くも、フレディはメンバー内でも特に日本に関心を持ち、IMARITATAMIなどに魅せられる。フレディはファーストクラス席に畳を座らせエコノミーに自分が座り帰国し、自宅内に日本庭園を構えさせ池にKOIを泳がせ、堂々とアルバム曲に日本語歌詞を挿入して英国人の頭を混乱させるなど日本趣味で知られていた。

その後もたびたびお忍びで来日していたとされ、東京には彼行きつけのゲイバーがあり、「日本の男性もなかなか味があって素晴らしい」とは本人の談である。

[編集] 愛に全てを

40歳代に入り、優れた作詞作曲の才能などで偉大なヴォーカリストとして確固たる地位を築いた彼だったが、前述の通り両性愛者であったため、ゲイ扱いを受けるのは甚だ不本意なことであった。以前から囁かれていた同性愛者説を覆すべく、(以前にもブライアンから紹介された女性との交際はあったものの、数年の交際の後「良いお友達でいましょう」と言われてしまった)彼は女優バーバラ・バレンタイン(女性)と交際をしていたと言われている。

さらにある時彼が「僕に愛する者を見つけて下さい!」と叫んだところ天からダンボールが落下し、開けてみると子猫が4匹入っていた。彼は狂喜して「僕に子供が!」と叫んで持ち帰るや猫を溺愛し、顔を押し付けモフモフ、イチャイチャ、チョメチョメした後、そのうちの一匹デライラ()に対する愛情で一曲書き上げてしまうなど猫愛も非常に情熱的なものであった。

1985年ごろからは最愛の恋人とされるフレディ家の庭師ジム・ハットン(男性)との熱愛も報じられ、穏やかな性格と純粋な人柄のジムはフレディの奔放な面に振り回されつつも彼が没するその日まで日常面で支え続け、時に愛し合いそして感染し合った。ジム自身は今となってはどちらが感染させたか不明なAIDSへの感染を、フレディに心配を与えるまいとして最後まで伝えなかったと言われている。まさしく純愛といえよう。

あんさい===ボヘミアン・ラプソディ=== 1980年代後半から、彼がエイズに感染しているのではないかとという憶測が飛び交っていた。実際パフォーマンスが円熟期を迎えて、ファンの間からは新しいライブコンサートが期待される中反比例するように彼のメディアへの露出はどんどん減っており、公式には否定されていたものの「こりゃエイズだわ」と彼のエイズ感染は公然の秘密とされるようになる。89年から90年代の間に死期を悟った彼は死にかけとは信じがたい声量で少しずつ録音を行い、来るべき時に備えた。

ママー、僕はたった今罪を犯してしまった(カトリック的な意味で)
奴のXXXXX銃口を向け腰をグイを押した
奴はイッた
ママー、やっと始まったばかりのノンケを、僕は簡単に捨ててしまった
ママー、ウーウウウー
泣かせようと思ってやったわけじゃないだから、明日になって僕が戻らなくとも一人で生きていてね、何事もなかったように

もう、すべてが遅い、僕の時間は終わった
恐ろしくて、体中に腫瘍ができてくる、体中の至る所、苦痛に苛まれる
さようなら みんな、僕はもうイかなければならない
きみたちみんなに別れを告げて、僕は事実に顔を合わせなければ
ママー、ウーウウウー
死にとうない
僕、時々こう思うんだ、いっそコンドームをはめておけばよかったと……

ある小男のシルエットが見える、お医者様、お医者様、抗ウイルス薬をおくれ、エイズと稲妻が僕を怯えさせるんだ
ガリレオ、ガリレオ、ガリレオフィガロ尊き人よ、僕はエイズの哀れな男、誰ひとり 僕を治してははくれない
“そうさ僕はエイズに侵された哀れな男、この奇妙な人生から彼の命を救ってやろう”
お願いだから 僕を助けて!
神に誓って!お前はもう治らないから(彼を助けてやれ!)
神に誓って!だめだから逃がさないから(お願い助けて!)
いや断じて治らないでしょ(後生だから僕を見逃して!)
いやもう諦めろ(お願い助けて)
あかん!いかん!だめ!あきまへん!
ママ、ママ、僕の愛するママ、僕を助けて、ああ魔王ベルゼバブ!このと肺炎菌を僕の部屋から取り除いてくれ!
僕のために-、僕のために-

ああ、僕に雷をぶつけて、血痰を吐かせるつもりだな!ああ、僕を愛する振りをして、このまま病院のベットの上で殺すつもりだな!
オォーベイベー! こんな仕打ちひどいじゃないか
すぐに、ここから逃げ出さなければ…この病状から逃げ出さなければ……

だけど、結局大したことじゃないのさ、みんなも知っている、大した事じゃないのさ、本当だよ
風がどっちに向かって吹こうとね……

フレディは敬虔な拝火教信者であったが、残虐なる神は男色行為を行った彼を許さなかった。闘病生活を送っていたフレディは、彼と関係のあった男性がエイズで死亡したため隠しきれずに1991年11月23日、「私は今恐ろしい病と闘っています、皆さんも一緒に戦いましょう」と全世界の患者にエールを送ったが、翌日の24日に神は恋人ジムの前でフレディに雷を落としてブッ殺してしまった。享年45歳。

フレディ死去との報に対し全世界のファンと全ゲイは激怒、神に「職権の乱用だ!」、「神でなし!」などと宗派を忘れて謝罪と賠償を請求したため、神は支持者の減少を恐れフレディの死因を表向き合併症のニューモスチス肺炎であるとした。そして「フレディ・マーキュリーは全世界の人類にアナルセックスの危険性と、ゴムをはめる必要性を伝えるために天に昇ったいわば現代のイエス・キリストである。無意味に死んだわけじゃないよ。」と彼をゲイとして破門しないと公表した。

[編集] ショウ マスト ゴーオン

左の写真はフレディの最後の一枚である。なぜ舌を出しているのかは不明だが、ご冥福をお祈りしたい。

彼を失ったQUEENは決して諦めなかった、生前、死に掛けのフレディを無理やりレコーディングさせておいた音源を使用して1995年には「天国製」を発表した。しかし、それだけでは飽き足らず追悼コンサートを開催しエルトン・ジョン阿部さんデヴィッド・ボウイ赤毛の死神ガチな露出狂らが駆けつけた、まさに「ショウ・マスト・ゴー・オン」したのであった。しかし、あまりにも激しいショウだったためベースの子が離脱。後の二人は様々なミュージシャンとくっついたり離れたりし頑張って二人でクイーン名義を存続させている。

SHOW MOST GO ON!!

[編集] 関連項目

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「フレディ・マーキュリー」の項目を執筆しています。
  • タイツ - 彼の市松模様タイツは特注品ゆえアメ横では購入できない。
  • グッチ裕三 - 子供に理解できないパロディを行い全国のチビッ子たちを困惑させた。
  • レディー・ガガ - 露出好きという点ではフレディを超えている。
  • デヴィッド・ボウイ - 火星人だが両性愛者でもあり、曲の共作も行った。
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