ベトナム戦争

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ベトナム戦争(べとなむせんそう、英:Vietnam War 正式名称:第一次イラク戦争)とは、超大国という錯覚、夢、妄想からアメリカ合衆国を解き放った目覚めの一撃の総称である。

目次

概要[編集]

このベトナム戦争については、世界中にルールを守れと叫び続けるどっかの国による卑怯なだまし討ちを嚆矢として始まった戦争である。宣戦布告をしていないため、ベトナム紛争とも呼ばれている。また、第二次大戦からインドシナ半島で続いた戦争の一つとして、第二次インドシナ戦争とも言われている。なお、第一次インドシナ紛争は、1954年ディエンビエンフーの戦いおフランスを完膚無きまでに赤いナポレオンがたたきつぶすという喜劇で終結している。

この戦争は、アメリカ合衆国を中心とした民主主義陣営が、共産主義勢力の拡大を防ぐという名目で始まり、10年以上にわたって続けられている。見事なる妄想の下で。その内訳はまさに悲惨の一言で、ひげのじじい率いるベトナム民主共和国(以下、北ベトナム)と、対峙するベトナム共和国(以下南ベトナム)、および南ベトナムを兵士とまるで役に立たない屁理屈で支援するアメリカ合衆国がベトナムの地で殺し合いをしまくった結果「自由のための尊い犠牲」、もしくは「祖国の独立のためには仕方なかった」として300万人ほど命を散らしている。その内実はまさに戦争の一言に集約されており、自由だの平等だの人間愛だのゆう戯言は徹底的に排除されている。そして、最終的に米北南、三者の中ですべて、アメリカが悪いということで決着している。まぁ、負けたわけだし

戦争の形態がめまぐるしく変化しているのも特徴で、1960年から1963年までは南ベトナム解放民族戦線(以下ベトコン)と南ベトナム軍の内戦の様相だったが、それ以降はアメリカ軍の介入が本格化し(ベトコン対南ベ、米)、1968年1月のテト攻勢以降、ベトコン勢力は弱体化し北ベトナムの主力であるベトナム人民軍(以下、北ベトナム軍)が本格的に参戦するようになる(北べ、ベトコン対南べ、米)。また当初は装備も貧弱なゲリラ戦が主流だったが、最終的には共産圏の最新兵器が続々と投入され、アメリカの最新兵器といえども弱兵に使わせたら意味がないことをまざまざと立証している。てゆうか、AK-47(カラシニコフ銃)が素晴らしすぎる

なお実際に戦争を継続するにあたり、食料自給面以外に資源らしき資源が存在しないベトナムでは、南北双方とも大きな後ろ盾がなければ戦線の維持すら難しい状態だった。そのため北ベトナムはゲリラ戦や外交戦・情報戦に謀略戦など、金はかけないけれど頭を使う方向に動くことになる。それに対し南ベトナムは、頭を使わない分も金と兵士を援助されることで対応し、アメリカはいつ果てることもない、その場しのぎで対応し続けることになる。その結果、粘り強くしつこい敵と暗愚な味方、なおかつ展望のない戦略という勝てるわけがない組み合わせが生まれ、まったく希望の見えない戦争に労力を傾けた超大国アメリカの屋台骨は大きく揺らぐことになる。

こんな不毛な戦いにどうしてアメリカがこだわり続けたかというと、アメリカにおける民主主義の様相の変化と、ベトナム戦争が当時の米ソという二大強国がお互いに嫌がらせをしまくるという、いわゆる冷戦と呼ばれた環境の中で勃発したことの2つが大きい。1960年代、両国ともに相手に負けられない、弱みを見せられないというプレッシャーを与え合う状態において、ソ連は身の丈に合わない軍拡競争を繰り広げ自滅の道をたどり、アメリカは逃げ道のまったく見えないベトナムのジャングルで消耗していった。そんな中、漁夫の利を得たのが日本ヨーロッパ

ちなみにベトナムにとってのベトナム戦争は、一応は民族自決だの、民族独立だのいうベトナムの南北統一を目的とした戦争であった。もっとも南北米、三者の実際にドンパチやってる連中にとっては、そんな話はどうでもいいことである。要は目の前にクソむかつく野郎がいて、そいつを殺してもいいという状況であり、なおかつ、そうすることで食い扶持を稼ぐわけなのだから。

未来や夢、愛を語った連中から現実に押しつぶされていく

ベトナム戦争年表(1960年-1975年)[編集]

ベトナム戦争は、上述したとおり宣戦布告のないまま開戦された戦争であるため、考え方によって開始時期にばらつきがある。ここでは南ベトナムにおいて内戦が勃発した1960年12月をその端緒とする。なお、その直前である1960年11月に、一方の当事国アメリカにおいてジョン・F・ケネディリチャード・ニクソンを大統領選挙で破って当選している。

  • 1960年南ベトナム解放民族戦線、通称ベトコン結成。早速反政府活動に従事(12月)。なお、間違いやすいベトミン(ベトナム独立同盟会)は第二次大戦中に日本軍と戦った組織で、1955年に解散し、その後の北ベトナム軍の大本となっている
  • 1961年:えーかっこしーのジョン・F・ケネディアメリカ大統領に就任(1月)、アメリカが南ベトナムにヘリ部隊と軍事顧問団を派遣、地球の裏側にちょっかいを出し始める(11月)
  • 1962年米軍が「南ベトナム軍事援助司令部」を設置。ついに自分たちで独自に動くことを決める(2月)、南ベトナムとラオスが国交断絶(11月)
  • 1963年:アプバクの戦いで圧倒的な兵力を持つ南ベトナム軍、惨敗。ケネディ大統領、ため息とともに米軍の本格参入を決める(1月)、米軍を自由に戦わせてくれない南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領と秘密警察長官だった弟の2人、軍事クーデターで兄弟仲良く向こうの世界へCIAはもちろん情報をつかんでいて、大統領のお許しを得てから実行を軍に許可。そのわずか3週間後、まるで計ったかのようにようにケネディ大統領もヘッドショット。5年後、司法長官やってた弟もヘッドショット(11月)
  • 1964年:たった2ヶ月で南ベトナムのグエン・カーン将軍、再クーデター。ここから、軍事クーデターが国をあげての年中行事となることが決まる(1月)、トンキン湾事件発生。妄想と間違った正義が、やってもいない艦船への攻撃を生み出す(8月)
  • 1965年:アメリカ軍による北爆開始。いわれなき攻撃で頭に来た北ベトナム、国を挙げての戦時体制に突入。中央集権化、軍事増強、国民総動員、さらには共産陣営挙げての一大支援体制の構築などで、結果的に戦力激増(2月)、アメリカ海兵隊が最前線の都市「ダナン」に上陸、最前線に一大軍事基地を造営し、その後、格好の的になる(3月)、高木正夫、アメリカから金を巻き上げるために韓国軍を派遣、大活躍。その後にベトナムと韓国の間で外交問題となる種をまき散らす(10月)
  • 1966年:北ベトナムに対する「B-52」による初空襲、勝てない時のストレス解消法として大人気になるも、そのおかげでほかの国から総スカンを食らい、外交の場で徹底的に負ける原因になる(4月)、初のクリスマス休戦。たまの休みを喜んだ連中は1年と1ヶ月後に痛い目を見る(12月)
  • 1967年:南ベトナム解放民族戦線がダナン基地を攻撃。その場所を撃てばフランス軍に当たるというディエンビエンフーで培った戦術が、ついにアメリカ軍にも適用される(7月)、アメリカ合衆国らしく、選挙でグエン・バン・チューが南ベトナム大統領に就任。ただし、思いっきり軍人でさらに麻薬密売組織の元締めだったことについてアメリカは目をつぶった(9月)もう一つの的、ケサン基地に対する攻防戦が始まる(12月)
  • 1968年:正月休みの中、テト攻勢開始。アメリカ大使館が一時占領される映像が世界中に流された後で、リンドン・ジョンソン大統領は米軍の大勝利を喧伝。誰も信用しない(1~2月)、事件発覚後、首謀者は捕まるも速攻で保釈され、今ものうのうとアメリカで生きているソンミの虐殺発生。併せて、ジョンソン大統領ベトナムからの撤退を宣言(3月)、ようやくパリで和平交渉開始(5月)
  • 1969年:和平交渉の開始に伴い、北ベトナムが南ベトナム臨時革命政府の樹立を発表。紛らわしいことこの上ない(6月)、ひげのじじい死ぬ。国が分裂すると期待したアメリカの期待を裏切り、北ベトナム、さらに結束(9月)
  • 1970年カンボジアロン・ノル将軍によるノロドム・シアヌーク政権に対するクーデター(3月)南ベトナム軍とアメリカ軍がカンボジアに侵攻、現地にこっそり駐留していた北ベトナム軍に大損害を与える。しかし、その後に反米勢力の支持を取り付けたカンボジア共産党「クメール・ルージュ」が頭角を現してゆく(4月)、カンボジア内戦勃発(10月)。その後、200万人以上が亡くなる大虐殺が発生するが、もちろん、アメリカはカンボジアで行われた虐殺とは何の関係もないと主張している。さすが。
  • 1971年:南ベトナム軍とアメリカ軍がラオスに侵攻。現地にこっそり駐留していた北ベトナム軍、前回の轍を踏まずに撃退(2月)、ニューヨーク・タイムズ紙に「ペンタゴン・ペーパーズ」連載開始。政府機密文書が大公開され、楽しいぐらいに嘘と妄想と間違った正義が国民にばれる(6月)南ベトナム傀儡大統領選挙が行われ、首のすげ替えが自由な置物、再度当選(10月)
  • 1972年:ソ連直輸入の北ベトナムの戦闘機がアメリカ艦艇を初攻撃(4月)、アメリカ軍無制限北爆再開。信じられないほどの爆薬を落とし、北ベトナムに大ダメージを与えた後、世界中から非難されてすぐさま停止。そのまま北爆を続けていればアメリカの勝ちだったという妄想の原因となる(5月)アメリカ史上最大最高のスキャンダル、ウォーターゲート事件開始(6月)。何の意味があるのか分からないまま、アメリカ軍、クリスマス直前に無制限北爆再開&いつもどおり世界中に非難されて停止。(12月)
  • 1973年:停戦のまねごととしてパリ協定締結(1月)、13年におよぶまったく無益な戦闘を終え、アメリカ軍がベトナムから撤兵する。アメリカ国内は負け戦に途方にくれる(3月)
  • 1974年:北ベトナム軍がプノンペンを包囲。親米勢力を追い出す(2月)、リチャード・ニクソン大統領、水門で辞任。その後、テキサスの腐れ脳みそが出てくるまでの間、歴代最悪の大統領との汚名を一身に浴び続ける(8月)
  • 1975年:アメリカとの約束なんざ守る必要はこれっぽっちもないと、北ベトナム軍が総力を挙げて南ベトナムへ総攻撃。誰も何も文句は言わない(3月)、南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、南ベトナム政府全面降伏。ベトナム戦争終結(4月)、サイゴン市をひげじじい市へ改名(5月)

開戦の背景[編集]

独立運動の広まり[編集]

1945年8月、沖縄広島長崎靖国神社に年中行事を行う素地を与えつつ、第二次世界大戦が終結する。すると堰を切ったかのように続々と世界各国の植民地で独立宣言が巻き起こり、ドイツ日本、ちょっとだけイタリアの手によってボッコボコにされた戦勝国に、第二次世界大戦エクストララウンドの開催が宣言されてしまう。特に有名なのは当時イギリス領だったインドで、対独戦争で精根尽き果てたイギリスを見透かすように、マハトマ・ガンジーが独立運動を激化させる。その結果、イギリス最大の植民地だったイギリス領インド帝国は、1947年にインドパキスタンの2つの国に分離独立する。そして、独立の火種は余すところなく世界中のイギリス植民地に飛び火し、見事に大英帝国による世界秩序、「パクス・ブリタニカ」を崩壊させる。これは、それまで圧倒的な国力でもって世界を制圧していたイギリスが、国力の低下で世界を制圧できなくなっただけのことである。結局、自分で何とかできなくなるほど世界中で植民地闘争が巻き起こり、どうやっても兵も予算も割り振ることができないと分かった段階で、イギリスはさっさと植民地主義を捨てさることを決断する。しかし、フランスオランダのように、それほど多く持たなかった植民地になんとか兵を割り振ることができたところは、逆に悲惨の極地であった。それは、ようやく戦争が終結し低下した国力を上げないといけない中で、日本に占領されたインドシナ半島インドネシアなどの東南アジアの植民地に、日本が「八紘一宇」だの「大東亜共栄圏」だのいう独立紛争の種をばら撒きまくっていたためである。しかも、その実現可能かどうかは微妙だが、高邁な理想を教育で叩き込まれた一兵卒が、終戦後も日本に帰らずに現地人に独立闘争の手ほどきをするという、遠く離れたヨーロッパでは想いもつかないとんでもない状況になっていた。その結果、当初は鼻歌まじりで資産を回収しにやってきたヨーロッパ人を、組織化され独立に目覚めた現地人が出迎えるという、いろんな意味でたまらない状況が東南アジア各地で生まれることとなる。

そして、300年の歴史をもっていた「オランダ領東インド」は4年におよぶ独立戦争の結果、インドネシアとして独立する。もう一方のインドシナ半島は、30年かかる。

幸いにも、インド独立の段階で植民地主義の維持を放棄したイギリスは独立戦争という泥沼に足を踏み入れることなく、友邦としてある程度の干渉の余地を残しつつ独立させることを選び、その結果、大英帝国は、イギリス連邦という緩やかな同盟関係へと発展してゆく。なお、独立させたアフリカ各国が、次々とクーデターでボロボロになっても、知らんぷりできる特権を手に入れたことは、自国経済と、何よりも国の雰囲気を守るための大きな成果だった。

しかし、世の中にはそんな見事な外交能力を持たない国があり、特に、イギリスを追い落として世界の覇権を握ったアメリカに、そんな微妙な振る舞いはできなかった。できるわけがなかった。そのため、1950年代以降に築かれていく新しい世界秩序、「パクス・アメリカーナ」は、まさにのぶつかりあいによって成立を目指すこととなる。が、結局、アメリカもベトナムで学びたくもなかったであろう汚点から、いろんなことを学んだ結果、知らんぷりによってベトナム、およびインドシナ半島とのかかわりを放棄することになる。その後も必殺技知らんぷり」は何回も発動されており、ルワンダの虐殺やスーダン東部における民族浄化、さらには現在のリアル北斗の拳ソマリア」でもアメリカの知らんぷりはいかんなく発揮されている。

冷戦構造とドミノ理論の形成[編集]

その頃、世界各国に広まった独立運動の内訳はそれほど金がかからない上、貧乏人でもやっていける共産主義勢力によって指導、支援されている場合が多かった。しかし、中には最初は単なる独立運動にすぎないものだったのだが、いつの間にか資本主義勢力からまったく支援を受けられないため、仕方なくソ連を頼る勢力も多かった。そういったことが積み重なっていった結果、ようやく世界一になったんだけど、実は後ろから強烈に追い上げられているどこぞの歴史を顧みない国に、共産主義って、実は世界を支配すんじゃね?とアホな妄想を与えるきっかけとなってしまう。また、ひげのおっかないおじさん1949年原爆を作っちゃたもんだから、お互いに直接ドンパチするわけにもいかなくなってしまう。結局、米ソ両国ともに、自分たちが支援する勢力に、自分達の代わりに戦争してもらうという、いわゆる冷戦構造が成立していく。

その対立の最たるものがベトナム戦争である。他にも、朝鮮戦争キューバ危機といった対外的なものや、赤狩り(レッド・パージ)に見られるような自国内における相手勢力への賛同者つぶしもそれに該当する。これは、主に、第二次大戦後のアメリカの準備不足、研究不足が原因で、対外的な介入においてことごとく敗北しまくったことが大きく影響している。自分たちが支援した蒋介石が負けて、毛沢東によって中華人民共和国が建国されたり、東ヨーロッパ諸国で、共産主義政権がドカドカ成立していく光景を目の当たりにすると、共産主義が心底恐ろしいものだと錯覚し、1950年代から80年代にかけて、お互いの幻想におびえる世界情勢が続くことになる。ちなみに、中国も東ヨーロッパも、ソ連は第二次大戦が始まる前から介入しており、共産政権が樹立されてもなんらおかしくはない状況だった。

自分達の準備不足、予測力のなさを棚に上げ、世界各国がまるで“ドミノ倒し”のように共産主義化していると思い込んだアメリカでは、最終的に一国の共産化が周辺国へのさらなる共産化を招くというドミノ理論が唱えられ、そして、信じられることになる。各国独自の歴史、文化についてまったく省みようとしていないところが素晴らしい。この段階でアメリカは、各国の地域情勢を全く無視し、国民が圧政と搾取から免れるため&自由を求めて行動したという事実から目をそらし、単に自分の味方を標榜する無能な連中を逐次支え続けることを選択する。調べれば誰だってわかるはずなのに。その結果、アメリカはアジアや中南米諸国の共産主義者、民族主義者とことごとく対立し、各地の独立紛争やクーデターに深く関わるようになっていく。なお、共産主義勢力と敵対するためなら、ファシズムを信奉する独裁者とも平気で手を組んでいる。

そんな状況を10年以上前から予測していた人物がいる。アドルフ・ヒットラーである。

第二次大戦後のベトナムの状況[編集]

世界規模のドンパチが終了した後、筋金入りの共産主義者で反植民地闘争レベル100のホー・チ・ミンはベトナムの独立を勝手に宣言していた(1945年9月2日)。もっとも、ベトナムに日本軍が進駐してからずっと独立闘争を続けていたため、特におかしなことでもなかった。彼はハノイに首都を置くベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させ、共産主義を基礎にした国造りを目指すため、それまでこそこそやっていた旧来の地主階級や豪商から財産をぶんどって、貧乏人に分け与える政策を大々的に始める。なぜなら、共産主義はそれこそが目玉だ。もちろん、ただで農民に土地をやるわけはなく、対価として兵力と食料を要求、その後、1989年まで続く戦時体制の整備につとめている。また、降伏した日本兵から武器弾薬、日本軍の軍事機構や戦術、そして何よりも、自爆攻撃を取り入れた上で、どうせまたやってくるであろうおフランスとの戦争に備えた。なお、その後、アメリカ軍をいてこましたゲリラ戦術は、13世紀、ベトナムにモンゴルが侵攻してきたときすでに取り入れられている。

そんな中、のこのこと旧宗主国のフランスが帰ってきた

ちなみに、第二次大戦中、ベトナムは1943年まで日本軍とドイツ占領下のフランス(ヴィシー政権)が共同統治をしていた。しかし、1945年3月フランスが連合軍に解放されると、駐留していた日本軍が自国政府を無視して勝手にフランス軍を追い出し、傀儡政権(越南帝国)を立てる。ところが、半年経たずに日本も敗戦したため、軍事機構や社会体制、何よりも日本軍が治安を維持した平和な都市などがそのまま残っていた。しかも、現地の日本軍は武装解除しており、だとしたらもう一回来てもいいかな、と思っても仕方がない。その戦術をベトナム軍が継承していることなぞつゆ知らず。フランス軍は、ベトナムに再上陸するとホー・チ・ミンの影響の少ない南部に拠点を置き、北のベトナム民主共和国に対するコーチシナ共和国1946年3月に成立させる。なお、政権を樹立させるためにわざわざ選挙を行わなければならなかったどこぞのイラクと違い、おフランスは越南帝国の皇帝であり、植民地時代のベトナムの王、バオ・ダイを首長に据えている。

第一次インドシナ戦争[編集]

無事、ベトナムに再上陸し、いつものとおり傀儡政権を立てたフランスは同年12月、ついに北ベトナムへ本格的なちょっかいをかけることにし、第一次インドシナ戦争が勃発する。当初、ゲリラ戦のなんたるかを理解していなかったフランスは連戦連勝、まるでロシアに進軍するナポレオンのごとくに支配地域を広げている。なお、フランス政府は事前に平和維持と称して自軍をベトナムの各都市に駐留させており、そのため、北ベトナムの首都であるハノイも開戦直後にフランス軍の勢力下に置かれている。そして開戦に併せて1948年にコーチシナ共和国を解体、ベトナム臨時中央政府を発足させて、傀儡なんだけど実は民主主義というよくあるお仕着せの政府のまねごとをさせたり、1949年6月、新しく、ベトナム国という何のひねりもない国をサイゴン市(現ホーチミン市)を首都に成立させるなど、(首班は元の政府とまったく同じ)、主にヨーロッパ各国のつっこみが入らないような形で、植民地をいっぱしの国の形をしたものへ変貌させようとする。しかし、当然のごとく傀儡政府に対するベトナム民衆の支持はなく、日本降伏後に言ったもん勝ちで宣言したベトナム独立宣言のほうにもっぱら関心を向けていた。

ちなみに、越南帝国崩壊後、フランスによってコーチシナ共和国の首班に担ぎ出されれるまでの間、越南帝国の皇帝、バオ・ダイは、ホー・チ・ミンにより北ベトナムの「最高顧問」に任命されている。しかし、その後の意見の対立とホー・チ・ミンのあまりにも急進的で戦闘的な考えから、とっとと香港へ逃げ出し、フランス政府に庇護を求めている。なお、フランス革命の際にそれまでの敵に庇護を求めた結果、ギロチンの露と消えたフランス皇帝と違い、最後のベトナム皇帝は南ベトナム共和国成立後に亡命したフランスで天寿を全うしている。確実に、女房の資質の違いによるものである。しかし、彼の後に、女房のおかげで兄弟そろって暗殺される国家元首が出てくる。まぁ、偶然だろう、きっと

同じ時期、フランスはベトナム以外でもインドシナ各国に同じようにちょっかいを出しており、ラオスを同年7月、カンボジアを11月に独立させて、インドシナ全域に傀儡政府を立て続けに樹立させていた。おかげで、反フランスでそれまであまり連携をとらなかった三国が手を合わせることになり、こっそりと各国に北ベトナム軍が国境を越えることに関してみてみぬふりをさせる。このことが、後のベトナム戦争の趨勢を決することになるとは誰も気づかない。ただし、民族性の違い、および、圧倒的な動員力の差により、フランスとの戦いの主力はベトナムが担い、他の二国が前面に出ることはなかった。その後、国際社会にベトナム国の正当性を主張しようとしたフランスだったが、1949年、最悪なことに、北ベトナムの隣に中華人民共和国が成立し、それまで国土もほとんどないまま孤立無援だったベトナムの共産主義勢力にとんでもなく強力な味方でできてしまう。すると、翌1950年1月にソ連と中国が北ベトナムを国家として承認し、国をあげてどかどか武器&金銭&知識&経験を援助しまくることになった。人海戦術?もちろん取り入れたさ。この承認に青くなったフランスは急遽、アメリカに支援を要請。このことによって、20年後、アメリカ合衆国の名声が地に堕ちることを予測した人間は誰もいない。

ディエンビエンフーの戦い[編集]

ソ連や中華人民共和国から軍事支援を受け、ホー・チ・ミン率いるゲリラ部隊は急速に力をつける。ただし、AK-47ができたのは1947年なので、めぐりめぐってベトナムにまで配備されるのはもう少し先になる。しかし、第二次大戦や国共内戦であまった兵器&弾薬が続々とインドシナ半島に輸送されていくことになる。陸続きってのは本当に恐ろしい。そして、急激な情勢の変化にフランスも本気を出し、まるっきり戦意のないベトナム国軍に代わり、本国から精鋭である外人部隊を含むアンリ・ナヴァール将軍指揮下の精兵16,000人をベトナムに派遣。徐々に勢力を拡大していく北ベトナム軍との戦闘を激化させていく。

その様な状況下、当初連戦連勝してしまったフランスだったが、獲得した地域が広ければ広いほど、維持する能力が減少するという、統治機構の整備された満州だけだったらよかったものの、だだっ広い中国全土に戦線を広げすぎて自壊する日本陸軍と同じドツボにはまってしまい、少しずつ劣勢になっていく。そのため、フランス軍は、情勢の挽回のため、中国からの物資の流入の阻止とラオスの防衛を目的に、1953年11月、中国・ラオス国境に近い山岳地帯にある盆地ディエンビエンフーに大要塞を構築する。なお、この要塞は北ベトナム軍に対する最終決戦のために建設されたものであり、要塞戦自体は、第一次世界大戦時には既に時代遅れであるといわれていた。

ディエンビエンフーに着々と大要塞が築かれる中、北ベトナム軍は高い場所から弾を撃てば、ずっと遠くに飛ばせることに着目し、盆地周辺の険峻な山岳地帯に人海戦術で砲台を並べまくっていく。しかし、それに気づかないフランス軍ってのもどうかと思う。1954年3月、ついに北ベトナム軍の総攻撃を開始され、あんな高い山から攻撃されることなんて絶対ないと言い切ったフランス軍はその時点で終了してしまう。結局、自軍の5倍以上の戦力に包囲され、頼みの航空機から支援も空港が破壊されて行えなくなったディエンビエンフー要塞は、5月7日にヴォー・グエン・ザップ将軍が率いる北ベトナム軍によって陥落する。この元植民地軍が旧宗主国を破った歴史的一戦により、ヴォー・グエン・ザップ将軍は「赤いナポレオン」と呼ばれるようになる。もっとも、この段階では単純にフランスに対する皮肉の意味合いが強かったが。しかし、20年後、彼は世界最強のアメリカ軍をも打ち破る。

さらにすごいことに、2013年10月4日に102歳で死去するまで、1911年生まれの彼が当事者として存命し続けていたため、アメリカのアホどもによるベトナム戦争架空戦記や情報操作といった類の妄想を徹底的に封じ込めることに大きく貢献。その死の際には、冷戦時代に見られたようなプロパガンダや無用な煽り文句は皆無というような状況になっていた。

実際にベトナム戦争に参戦し、北ベトナム軍の捕虜となった経験を持つジョン・マケインアメリカ共和党上院議員は、ベトナムで激しい拷問を受けた経験を持ち、さらにザップ将軍から直接尋問されたこともある。しかし、そんな彼でさえ、将軍の死について「彼は素晴らしい軍事戦略家だった。将軍はかつて私に『米国とベトナムは互いに尊敬し合える敵同士だ』と言ったことがある」とのコメントを残したように、ベトナム戦争はアメリカ国内ですらすでに評価が定まったものになっている。

これは、ネイティブ・アメリカンに対する虐殺や広島長崎に対する原爆の使用といった人道的に問題のある歴史を仕方ないものとしたアメリカにおいて、大変に珍しい光景である。

北ベトナムの独立と統一選挙[編集]

ディエンビエンフーで凄惨ないじめが続く1954年4月、フランスと北ベトナムはスイスのジュネーブにおいて和平交渉を開始する。当初、互角の戦いであった交渉も、翌月にディエンビエンフーでフランス軍惨敗のニュースが飛び込んできてからは一気に北ベトナムが優位に立ち、同年7月21日によーやく両国の間で和平協定である「ジュネーヴ協定」が成立する。これにより中ソ以外の国家にも北ベトナムが国であると正式に認められたのだが、ある意味当然のごとくに、いらんことしいの超大国が口を出して、北ベトナムとベトナム国との統一の邪魔をしくさる。これは、当時のアメリカがようやくスターリンが死んで共産主義の拡大が一息つくかなーっと思っていた矢先、実は地球の裏側、東南アジアでしっかり自己アピールする姿に驚いたからである。これから先、フランスが去った後のインドシナ半島に共産主義国家群が形成されることを恐れたアメリカは上述した「ドミノ理論」と呼ばれる妄想を元に、いらん口と手、何よりも金を出し続けることになる。なお、インドシナ半島について言うなら、すべて元は中立的な立場の国にアメリカが手を出して、アメリカに対する憎悪を民衆に広めてから共産主義国家が成立している。しかし、このことを教訓にした形跡は、アメリカの現代史には存在しない。

結局、北緯17度でベトナムは南北に分けられ、南に元々はフランスの傀儡政権である「ベトナム国」を存続させ、統一選挙を1956年に実施することになった。また、ベトナムのほかに、フランスの勢力にあったラオスカンボジアが独立する。

もちろん、世界中にルールを守れと言っているアメリカが、統一選挙の約束を守る&守らせるわけはなかった。

ベトナム戦争の推移[編集]

アメリカによる支援[編集]

貧乏人と貴族がケンカしている間、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領率いるアメリカは一貫して搾取しやすい勢力を支持し、物資面から情報面に至るまで広範囲に渡り軍事的な援助を各国に対して行っている。実際、同じアジアでもフィリピンでは、大戦中に日本軍の支配に抵抗した共産勢力フクバラハップが、戦後、アメリカ軍の支配にも抵抗、独立運動を展開したものの、見事にアメリカ軍に援助されたフィリピン政府軍によって鎮圧されている。その後、より強固な形でフィリピンを属国化させることにしたアメリカは、独裁者であるフェルディナンド・マルコスを支援、20年以上続く独裁を陰から支え続けている。その結果、フィリピンに独自資本はまったく育たず、結局、アメリカ資本がフィリピンを染め上げる=資本主義の名を借りた搾取体制が出来上がっている。

ベトナムでも、フランスに対するアメリカの援助はかなりの額にのぼっており、当初はフランス軍が勝利するのではないかというのが一般的な見方だった。ところが、ディエンビエンフーでフランスが決定的な敗北を喫っし、ベトナムからの撤退を宣言すると、驚いたアメリカは、フランスの傀儡政権だったベトナム国を急遽支援することを決定する。そして、いわゆる妄想の類の「ドミノ理論」を根拠に、フランスに代わり軍事、経済両面で支え続けていくことになる。あぁそうさ、それまでフランスは自由だの独立だのいう屁にもならない支援だけだったのが、アメリカからの大金という実弾に変わったもんだから、ベトナム国政府は大喜びさ。

そして、1955年にベトナム国で実施された大統領選挙で、CIA工作員が支援した反共産主義的な文民政治家であるゴ・ディン・ジエム首相が大統領に当選する。仏教国ベトナムには珍しいカトリックという立場で、家柄抜群、しかも親族を共産勢力に殺されてるもんだからめちゃくちゃな反共産主義者と、まさにアメリカにとってうってつけの人材だった。しかし、こいつ以外にまともな人材を見つけなかったことがアメ公にとって最悪の失敗となる。なお、彼はホー・チ・ミンからも直々に国政に参加するよう誘いを受けているほど、ベトナム人の中で優秀な存在だった。

その後、元皇帝バオ・ダイの勢力を政権から排除しフランスへ追いやったゴは、選挙まで10ヶ月を切った1955年10月に、アメリカの全面的な支援を受けてベトナム共和国(通称南ベトナム、以下南ベトナム)を成立させ、共産主義が大勝することが分かり切ってる選挙なんざ絶対やらせないことを全世界に喧伝する。

しかしその後、ゴ大統領一族による独裁化と圧制、政権の腐敗と、選挙しないことに激怒した北ベトナム支持者による嫌がらせが南ベトナム国民を苦しめることとなり、その結果、謀略や諜報戦といった汚い部門の仕事に慣れていない政治の人、ゴ大統領は国民の信頼を次第に失っていく。まぁ、アメリカが支援する国なんざ、得てしてこうなる。

ようやく年表に追いついて、南ベトナム解放民族戦線の成立[編集]

1956年、得てしてどうでもいい理由、「北ベトナムが介入してまともな選挙ができない!」により、統一選挙は見送られ、むかっ腹を立てた南ベトナムの連中が反政府活動に手を出し始める。また、北と南の国境は警備されても、ラオス経由&カンボジア経由で如何様にも密入国できたため、隣国から反政府活動の教師がボランティアで実践教育していく環境が整えられる。はい、そこのあなた。うわー、イスラム原理主義におけるアルカイダだよって思わない。そして、一通り教育活動も終了した1960年、ついに北ベトナムに指導された南ベトナム解放民族戦線(以下ベトコン)が結成され、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ活動&民衆に対するテロを本格的に開始する。もちろん、無垢な民衆を24時間守らせることがどれぐらい軍隊を疲弊させるかについては説明の必要はない。こっちは寝てても相手は疲れる

当初、ベトコンは共産主義オンリーで活動していたが、その後、ゴ政権の弾圧に抗議する仏教徒や反米主義者、そして、あまりにもアレでアレな姿を見せつけるアメ公に嫌気をさした自由主義者ですら率先して加わっていく。そんなベトコンの中には、政府の要職についた人物や軍の幹部、ジャーナリストに大学教授など、あらゆる貴賤を問わない職種と来歴の人物が含まれ、いったいどれだけアメリカが嫌われていたかを実感できるラインナップとなっている。

えーかっこしーによる完全撤退計画[編集]

1961年1月、アメリカではミスター悪人顔をさわやかさと歯の白さで打ち破ったジョン・F・ケネディが大統領に就任する。43のオッサンだったことには目をつぶろう。その直後から、東南アジアにおける「妄想と書いてドミノ理論と読むアレ」の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置し、一応、アメリカ軍を管轄している部署に対してベトナムについての提言を求めた。もっとも、第二次大戦の勝利から何も教訓を得ていない軍隊に提言を求めても高が知れてはいるが。また、副大統領のリンドン・ジョンソンをベトナムに派遣し情勢視察に当たらせ、アメリカはベトナム問題に積極的に関わる旨を世界に知らしめた。その後、役立たずとわかる前のベトナムに関する特別委員会、および統合参謀本部は、ともに、ソ連の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムに対抗するには、南ベトナムへ当時世界最強と言われていたアメリカ正規軍を派遣するしかないと提言した。世界最強の軍隊を管轄していると言うわりに、およそ700年前の1257年、当時大越と呼ばれていたベトナムに攻め入った世界最強のモンゴル軍がどうなったかを知っていた人間は一人もいなかった。ちなみに、1282年にもフビライ・ハンが建国したが大越に攻め込んでおり、フランスと同じくベトナムの地を蹂躙した後でゲリラ戦術によって戦力を疲弊し、その後、ベトナムの英雄、チャン・フン・ダオ(陳興道)による攻勢を受けて撤兵している。そして、再度侵攻するも、再びチャン・フンダオ率いるベトナム軍に白藤江の戦いで惨敗、総大将であるウマールがベトナム軍の捕虜となっている。そのため、大越は元寇における日本とともに、モンゴル軍(元軍)と戦って勝利した数少ない国の一つである。そして、モンゴル軍の総大将ウマールは、ベトナムの外交団が元との交渉へと赴く際に捕虜として引っ立てられていくも、本国へ到着する直前に南シナ海に突き落とされて命を落している。ある意味、歴史に残る嫌がらせである。

そんな歴史を持つ国とは絶対に知らないであろう、後に大統領となるリンドン・ジョンソンは、南ベトナム視察の報告書の中でゴ・ディン・ジェム大統領を「東洋のウィンストン・チャーチル」ともちあげ全面的な支援を訴えている。その後、国民に対する圧政により、世界中から批難される人間を、第二次大戦においてイギリスを勝利に導いた英雄と比べたんだから始末が悪い。これを受けてケネディは、南ベトナムに対する「軍事顧問団」の派遣を増強することを決定する。その数15,000人。顧問団とは言っているが、要するに派兵である。そして、最新鋭の兵器を満載して颯爽とベトナムに降り立った彼らは14年後、うなじをたれて故国へと帰ることになる。ま、国旗に包まれた棺桶で帰るよりはよっぽどいいけれど

翌年、このことを教訓として、ケネディはキューバ危機の際に、大切な情報収集作業を軍関係者を交えず、信頼できる弟で司法長官でもあるロバート・ケネディとごくごく身内で固められた信頼できるスタッフで行っている。なお、キューバ危機が発覚した際に、アメリカ軍はすでに核ミサイルキューバに配備されていたことを知らないまま、キューバ国境まで爆撃機を飛ばしつつ、ケネディにキューバに対する爆撃の許可を求めている。何回も何回も。もっとも、このように自軍の情報収集能力の不備によって世界が破滅しかけたことに対しても、特に軍関係者が反省した形跡は存在しないという事実もある意味恐ろしい。しかし、そんな何をやっても反省しないアメリカ軍関係者が徹底的に、否応なく反省せざるを得なかったという点において、ベトナム戦争はアメリカ軍事史においても稀有な事例といえる。

その後、知性と常識、何よりも人の意見をちゃんと聞き、無能な野郎の意見を聞かない&近づけない(ここが重要)という才能を持ち合わせたケネディはベトナムにおける「軍事顧問団」の早期撤退の可能性を検討しだす。この点において、テキサスの腐れ脳みそとは格が違う。1963年9月、ケネディはテレビのインタビューに対し、「笛ふけど踊らぬサイゴン政府は国民の支持すら取り付けようとしない。地元のやつらがまともに戦闘しないで、どうやって戦争には勝てというんだ。最終的にはこんな戦争、アメリカだけでやってられるか。どう考えても彼らの戦争だろうが。こんな益にもならん、勝つか負けるかもわからない泥沼にこれ以上関わってどうするってんだ。我々は最新式の戦闘知識を備えた軍事顧問団を送り、最新兵器に軍事費、賄賂を援助することはできる。しかしこの戦争は最終的に南ベトナムが共産主義者に勝たねばならないんだから、俺達が最前線にたったところでどうしようもない。我々は仕方ないから彼らを支援し続けるが、役立たずの南ベトナム政府を住民を支持しなければ、どう考えたってこんな不利な戦争には勝てっこない。私の見るところ過去二ヶ月の間にサイゴン政府は民衆から遊離してしまっている」と答えた。

その政府を樹立させたのはどこの国だったかについては考えてはいけない。

そして10月31日には、「1963年の末までに軍事顧問団を1000人引き上げる予定」であることを発表した。侵攻する前から泥沼にはまると確定していたアフガニスタンと違い、ベトナムでは傷口が小さい状態で逃げられる可能性があった。しかし、11月に南ベトナムで軍事クーデター発生。ゴ大統領暗殺。しかも、その裏側にはCIAが暗躍しており、ゴ大統領がダメなら他の奴を担ぎ上げればいいじゃん、とばかりに、ケネディのところまでクーデターの了解を得るための電話までかけている。この段階でベトナムという名のウツボカズラに超大国という名のハエがはまり込んでしまう。しかし、自身の手でクーデターにGOサインを出すには出したケネディだったが、撤兵の意思に変わりはなく、子飼いのロバート・マクナマラ国防長官に対して年内に1000人の顧問団の引き上げを再確認し、1965年までの軍事顧問団の完全撤退を発表する。

But,1963年11月22日、ケネディはテキサス州ダラスでパレードを行ってしまう。その結果、珍しく理性決断力を備えた大統領と認定されることとなったケネディは永遠のアメリカンヒーローになる。つまり、40過ぎで女好き、マリリン・モンローとの間に浮名を流すようなオッサンをヒーローとせずにはいられないほど、これ以降の歴史は、アメリカ人にとって重い

2003年発表のドキュメンタリー映画「The Fog of War」では、その後、ベトナム戦争でプライドをズタズタにされる人間コンピューター、ロバート・マクナマラ国防長官と、ケネディ暗殺後に大統領に就任したリンドン・ジョンソンの電話の録音記録が紹介され、ジョンソンがケネディのベトナム撤退に強く反対であったことの直接的な証拠を提示している。だって、圧政の立役者を東洋のウィンストン・チャーチルと言っちまった人物だし。もっともマクナマラ自身、南ベトナムが統一選挙に参加しなかったのは北ベトナムのせいと言い張るような人間で、さらに映像では心底反省しているように見えて、自分の責任についてぼかす部分があるなど、ある程度注意する必要がある。なお、このドキュメンタリー映画を撮るきっかけとなった対談が1990年半ばに実現しており、マクナマラとヴォー・グエン・ザップが1対1でベトナム戦争はどっちが悪かったか、何がいけなかったかを議論している映像が残されているが、必死になって議論を煙に巻こうとする人間コンピューターの醜態を見ることができる。わー、なんてラムズフェルドにそっくりなんでしょう
その後、1963年末の一部撤退なんて、パレード後のゴタゴタで当然無視され、アメリカによるベトナムへの軍事介入はジョンソン大統領によってより増強され、戦争は少しずつ泥沼化していく。

仏教徒、動く[編集]

アメリカからの政治介入が本格化すると、熱心なキリスト教徒であったゴ・ディン・ジェム大統領に南ベトナム特有の出自による差別の影が付きまとうようになる。よくある取り巻き連中の昇進やら、政府系の企業への就職、抜擢やら、何処も同じことが南ベトナムでも行われたわけである。また、南ベトナムにもアメリカからの莫大な援助による急速な欧米化が様々な軋轢をもたらし、既存の文化や価値観との摩擦がそこかしこで露呈していく。そんな中、ただでさえ少ないキリスト教徒が権力と金を握り、大多数の仏教徒およびカオダイ教やらホアハオ教なんていう土着宗教の上に立つ段階で・・・実は、1980年代のある国&ある独裁者と相当かぶることになる。

サダムさんの話[編集]

1979年イラクにおいて様々な改革を成し遂げた若いリーダーが、ついに大統領に就任する。まぁ、その若いリーダーはサダム・フセインなわけだが。実はフセインはイラクにおける少数派、スンニ派出身であり、1968年に若手将校の代表として政権ナンバー2に就任した後、識字率の向上や女性解放運動なども積極的に行って、国民からの人気を絶大なものにしていた。そしてついに大統領になった直後、なんと政権与党バース党の党大会で出席者のうち66人を逮捕、うち22人を死刑にした。この段階で、独裁者への道を突っ走っていくことを全世界にアピールした。もっとも、この年は隣国イランでイスラム革命が勃発しており、そうでもしなけりゃ国なんざ治められないことも確かだったが。そして、1980年からイランと戦争をおっぱじめ、当初はイスラムの敵とのたまったアメリカと同盟を結び、後に数兆円にのぼる武器供与を受けるなど、まさに少数勢力に依拠した独裁者が辿る道、いわゆる軍からの忠誠権力の集中(取り巻き連中の登用)資金源の獲得神格化の基本セットを余すところなく実行していくことになる。ちなみに、フセイン最大の後ろ盾は、イラクの石油資源から来る莫大な資金であるため、あまりアメリカは関係ない。

ゴ・ディン・ジェムも同じく独裁者基本セットに則って動いたが、残念なことに最重要事項である軍からの忠誠を得ることができなかった。このことは、彼の命を縮めることになる。

ゴさんの場合[編集]

1955年に南ベトナムの大統領に就任した直後、すでに結果を捏造されたとの疑いが隠しきれていなかったゴの場合、その権力基盤はとにかく弱いものだった。そのため、最初は反共とアメリカからの多額の援助というアメで国民をつなぐことに腐心した。しかし、1960年にベトコンが活動し始め、内戦状態に陥るとその権力基盤はさらに貧弱なものになっていく。その結果、権力を維持するためにゴ大統領は次々と強権的な政治手法を取らざるを得なくなり、それがさらに民心を失わせるという悪循環を招くことになる。特にその宗教政策は苛烈を極め、最終的に宗教弾圧のレベルにまで達することになる。このような状況に当初は南ベトナムの民衆は戸惑うばかりだったが、ある一つの事件をきっかけに、南ベトナム国民の大多数を占める仏教徒が、ゴ・ディン・ジェム政権を見放すことになる。北ベトナムの手回し?もちろんあったさ。

釋廣德の場合[編集]

1963年6月。事前に新聞やテレビをはじめとするマスコミ各社に対して自らの抗議自殺を告知をした上で、僧侶ティック・クアン・ドック(釋廣德)師がサイゴン市内のアメリカ大使館前でガソリンを頭からかぶり、端座した上で、自らに火を付けて焼身自殺した。実はこの時、南ベトナムの仏教徒の間では苛烈を極めるゴ大統領の宗教政策に関して、誰かの死をもって抗議する旨を話し合っていた。そのため、高位の仏教徒たちは、誰が死ぬか?ということを真面目に議論している。すなわち「死に様が見苦しかったらいけない。高位すぎる僧侶ではいけない。下位の僧侶ではいけない。もちろん、本当に死ねる人物でなければいけない」などなど。

一応、仏教徒の話である

併せて、こんな議論するほうもするほうだが、手を挙げるほうも挙げるほうだ

本来、焼身自殺の場合は、全身を火が包まれた状態でのたうち回るのが普通だが、師は「心頭を滅却すれば火もまた涼し」を地で行くように、最後までその端座を崩すことはなかった。なお、その後彼を真似して世界中で焼身自殺が流行する。中には、ペンタゴンの中庭にガソリン持ち込んでやっちまった女性もいる。ま、どれだけのたうち回ったかは聞くな。信仰心、恐るべし

ティック・クアン・ドック師の死に様は、当時何の規制も存在しなかったマスコミを通じて全世界に放送され、世界中が大きな衝撃を受ける。特に東アジアにおける仏教徒への影響は大きく、日本でもそれまでベトナムの場所すら知らなかった一般人に強烈なゴ政権への反感を抱かせることになる。しかも、そこに油を注ぐようなとんでもない第二波が発生すると、今度は世界中が反感を抱くことになる。

マダム・ヌーの場合[編集]

独身のゴ大統領の実弟で、秘密警察の長官だった「ゴ・ディン・ヌー」の奥さん、実質ベトナムのファーストレディーと見られていた「マダム・ヌー」は、ドック師の焼身自殺が世界的な波紋を広げる中、アメリカのテレビ番組に出演し、流暢な英語を駆使しながら問題発言を連発してしまう。彼女曰く、「あんなものは単なる人間バーベキューだ」「アメリカ化に抗議するのにアメリカのガソリン使うなんてどうかしている」など、彼女自体がどうかしているような発言を繰り返し、アメリカ国民に強烈な反感を与えてしまう。ケネディ大統領もまたしかり。そのため、彼女の発言がサイゴンでのクーデターへケネディが許可を出す遠因となったとされる。

なお、1963年のクーデターで義兄であるゴ大統領と、夫であるゴ・ディン・ヌーは暗殺されたが、彼女は生き残り、国外へ逃亡する。その後、2011年にイタリアのローマにおいて87歳で死ぬまでベトナムへ帰ることはなかった。

その後の話[編集]

その後も南ベトナムにおいては様々な人々によるガソリンの個人消費が相次ぐことになり、それに合わせるようにゴ・ディン・ジェム政権以降の南ベトナム政府を根底から揺さぶり続ける。なお、裏話として焼身自殺が怖くなって警察に駆け込んだ僧侶の話も伝わっていたりする。ま、なんだ、ようは自殺を命令されていたって話なわけだ。ほかにも、実は火をつける前に覚せい剤で痛みを感じないようにしていたんではないか、とか、現在の自爆テロと同じで、甘い言葉で誘っておいて洗脳、実行させていただの、いろんな話があったりもする。

ま、そういうのが謀略ってもんだ

サンクチュアリの形成[編集]

統一の夢破れた1956年から戦争が本格化する1963年まで、北ベトナムが何もしないわけはなく、国力の増強と物資の備蓄、そして何よりも近隣国への秘密の外交を重ねることで、数カ国にわたる物資の輸送ルート「ホーチミン・ルート」を建設していった。一般的に、他国の領土を通過する輸送ルートの存在は国際法違反に当たるが、インドシナ半島におけるフランスとの戦争を一手に引き受けていたひげじじいは各国の共産党と連携し、秘密裏もしくは各国の政権から黙認してもらう形で、北ベトナムから南ベトナムへと向かう長い長い道を切り開いていくことに成功する。

1960年のベトコンの結成以降、このルートは戦争の帰結に徹底的に関わることになる。なぜなら、アメリカ軍はその指令系統がホワイトハウスにつながる国家の軍隊であるため、ゲリラのベトコンが国境を超えると追ってこれない(超えた時点で国際法違反)というとてつもない弱点があった。しかも、ベトナムという国自体がいつでもどこでも国境のそばと思わざるをえない細長い形をしていた。

そのため、北ベトナムが国境の外に基地を作り、ベトコンを南ベトナムへわんさか送り続けても、アメリカにはどうすることもできなかった。しかし、戦争の終盤になってようやくアメリカも国境を侵犯してベトコンの基地を叩くことを選択する。国一つ潰して。そのために、200万人もの人達が犠牲になっている。

なお、まったく同じことが40年後に起こった米軍によるアフガニスタン侵攻においてアフガニスタンパキスタンの国境で行われている。パキスタン側に拠点を置くタリバンが、アフガニスタンにおいて圧倒的な戦力を誇るアメリカ軍を徐々に追い詰めていく様子を、世界中が生暖かい目で見守っている

その他大勢、政権を奪取[編集]

1963年11月に発生した軍事クーデターは、ケネディ大統領のゴーサインで行われた、しっかりした後ろ盾を持った極めて無難な軍事クーデターだった。しかし残念なことに、アメリカ政府は腐った軍人の本質を理解していなかった。基本的に無学で体力だけしかなく、戦場で生き残り続けるほどのしたたかさを備えた連中に、権力の奪い方を事細かに教育した結果、南ベトナムでは様々な勢力を後ろ盾にしたクーデターが都合13回に渡って繰り返されることになる。それは、最初のクーデター後に、ゴ政権の過ちである仏教徒および土着宗教への弾圧政策を緩めさせた結果、カトリック以外の各宗派による権力闘争が激化しただけの話でしかなかった。つまるところ、アメリカは墓穴を掘ったということである。

また、ゴ政権を倒したズオン・バン・ミンを首魁とする軍事政権は、より一層のアメリカよりの政策を推し進めることで、リンドン・ジョンソン政権からは歓迎されたものの、ベトコンとの戦闘に力を入れなかったことが自軍内部に嫌われたことも大きな原因の一つとなる。なお、兵力を温存して金だけむしり取ろうという消極的な考えが現実に即したものだったことがわかるのはずいぶんと後になる1964年1月30日、仏教徒の後ろ盾を得て、グエン・カーン国軍総司令官(37歳)を中心とした勢力が再クーデターを起こす。しかし、アメリカの後ろ盾を得る事はかなわず、彼と彼の取り巻き連中は1年以上にわたる政争の結果、最終的にズオン・バン・ミン大統領を隣国のタイへと追放することに成功するが、仏教徒を基盤とした政治経験のまったくない若手将校を中心とした反乱だったため、南ベトナムの政府はその後も迷走し続けることになる。

面倒なのでベトナム共和国の政権トップの変遷[編集]

氏名 就任 辞任 所属 備考
1 ゴ・ディン・ジエム(この中で一番まとも) 1955年10月26日 1963年11月2日 人民労働革命党 無し
2 ズオン・バン・ミン(まだまとも)、第1期 1963年11月2日 1964年1月30日 軍人 革命軍事委員会委員長
3 グエン・カーン(アレ)、第1期 1964年1月30日 1964年2月8日 軍人 無し
4 ズオン・バン・ミン、第2期 1964年2月8日 1964年3月16日 軍人 無し
5 グエン・カーン、第2期 1964年3月16日 1964年8月27日 軍人 無し
6 暫定指導委員会 1964年8月27日 1964年9月8日 軍人 ズオン・バン・ミン、グエン・カーン、チャン・ティエン・キエムによる三頭体制
7 ズオン・バン・ミン、第3期 1964年9月8日 1964年10月26日 軍人 暫定指導委員会委員長
8 ファン・カク・スー(珍しくマトモ。でも軍の傀儡) 1964年10月26日 1965年6月14日 カオダイ教無党派 国家評議会議長
9 グエン・バン・チュー(悲惨) 1965年6月14日 1975年4月21日 軍人;全国社会民主戦線(1968年-) 大統領選挙1967年1971年
10 チャン・バン・フォン(打つ手なし) 1975年4月21日 1975年4月28日 カトリック無党派 代理
11 ズオン・バン・ミン(ア・ワ・レ)、第4期 1975年4月28日 1975年4月30日 軍人;民族和解勢力 代理

(以上、ウィキペディアより抜粋)。

このように、頻発した軍事クーデターと政権のたらい回し、何よりも大統領の資質のなさに幻滅した国内感情、そしてここぞとばかりに裏から手を回す北ベトナムの謀略により、この時期にベトコンの勢力がそれはもうとんでもないスピードで南ベトナムに浸透していく。政争が一段落したときすでに、南ベトナムにおける実質的なベトコンの支配地域が国土の半分以上を占めるまでになっていたというから、すでに終わっている。しかし、このような事態を最も恐れ、なんとしてでも回避しなければならない立場だったアメリカは、情報戦、スパイ戦のなんたるかをまったく理解していないかのごとく、ベトナムのことはベトナムに任せていた。なお、これと同じ過ちはアフガニスタン侵攻の際にクーデターでパキスタンの政権を奪取した軍人、パルヴェーズ・ムシャラフに対する過度な支援という形で繰り返されている。

全ての点で言えることだが、果たして生粋の軍人を支援することで、いったいどんな政治力を発揮させることができるのかを、アメリカ政府が考えることはまずない

混乱収束まで[編集]

1965年2月、無知でバカで政治的な経験が皆無だったことで国民から不人気だったグエン・カーンはフランスへ追放される。

②その後、空軍を後ろ盾に飛行機野郎グエン・カオ・キが首相になり、実質的トップに立つ。

③さらにその後、実は麻薬密売組織の首領で、若い軍人から大人気だったグエン・バン・チューがクーデターを決行し、国家元首に就任。

④グエン・カオ・キとの両頭体制を確立することでようやく南ベトナムにおけるクーデターが沈静化する。

⑤グエン・バン・チュー、1967年9月に行われた選挙で正式に大統領に就任。

この2年にわたる抗争の中、まともな南ベトナム軍は都合13回におよぶクーデターに大忙しだったため、最前線でのドンパチはすべてアメ公が変わって引き受けることになる。

なお、この大混乱を作った張本人であるズオン・バン・ミンは1968年に追放されていたタイより帰国するが、さすがに麻薬組織の元締めを支持するほどバカではなく、北ベトナム及びベトコンに対しても強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。しかし、彼はそのことで最後の最後で大損ぶっこくのは歴史皮肉だ。ベトナム戦争終結直前の1975年4月29日、ズオン・バン・ミンは、チューの後に大統領に就任していたチャン・バン・フォンから大統領職を譲られる。そして、11年ぶりに大統領に復帰した彼は4月30日にサイゴンに突入してきた北ベトナム軍に対して降伏する役目をあてがわれている。

なお、どうしてこんなにもクーデターが頻発しまくったかといえば、南ベトナムの政府高官が、軍事クーデターの阻止を名目に自軍の精鋭部隊の多くを前線からサイゴンに駐留させ、そいつらを使って次のクーデターを起こさせるという、戦争している国家とは考えられない権力闘争を繰り返したためである。その結果、アメリカがいくら軍事援助をしても前線の南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、大統領の周辺のみ装備が強化されるという笑い話もつたわっている。

このようにあまりに南ベトナム軍がスットコドッコイのためアメリカは山岳地帯の少数民族、元ベトコン、囚人、カンボジア人といった傭兵に頼らざるを得なくなった。

東京湾事件[編集]

1963年11月のケネディ暗殺後、リンドン・ジョンソンがアメリカ合衆国大統領就任する。彼は、ケネディの志を引き継ぎ、内政面で偉大な足跡を残した。内政面では。しかし、外交面で彼はケネディがやめようやめようと腐心していたベトナムへの軍事介入を一転させ、推し進められるだけ推し進めていき、アメリカ軍を本格的に参入させることで共産主義を一掃しようと目論む。そして、そのきっかけとなった事件が1964年8月4日に起こったトンキン湾事件である(漢字で書くと東京湾)。実際、役立たずの南ベトナム軍だけではなく、自分たちも北ベトナムに対して宣戦布告したくてしたくてたまらなかったアメリカは、北ベトナム海軍の魚雷艇からアメリカ海軍の駆逐艦に攻撃を受けたことにし、真珠湾のときと同じように相手から騙し討ちを食らって、それに対する反撃という名目で本格的にベトナム戦争へ参戦する。

最初の攻撃は8月2日に行われた。北ベトナムの領海内で。相手国の領海内でドンパチすること自体問題であるが、そこは双方大人の対応を見せ、アメリカ「今度やったらぶっ殺してやる」、北ベトナム「もう一回やったら天罰が下る」と、メッセージを交換しあうだけで終わった。しかし8月4日、性懲りもなく再度北ベトナムの領海に進入してきたアメリカの駆逐艦「マドックス」は、乗組員A「夜中の11時に魚雷攻撃を受けた!…いや、受けたんじゃないか?」乗組員B「ですが、レーダーの記録には残っていませんよ?」乗組員C「えっ、そうなの?でもまあ、一応上に報告しておこうか」軍上層部「よくやった、これで正々堂々ぶっ殺す!」となり、国中が北ベトナムによる騙し討ちに対する怒りに燃えて、8月7日、上下院とも圧倒的な多数で北ベトナムへの攻撃に関する決議(トンキン湾決議)を承認。これが事実上の宣戦布告となる。なお、駆逐艦がいたのが北ベトナム領内だったことはなかったことにされた。そして、この決議に反対した強者が少数存在し、後に議会政治、および民主主義の好例として後の世に語られることになる。上下院併せ506人の中で、たった2人。アラスカ州選出のアーネスト・グリューニングとオレゴン州選出のウェイン・モースは、この決議に反対した結果、アメリカの政治史にその名を留めている。なお、この段階ではアメリカが攻撃されたかどうかは確定されていなかったが、後に様々な偽証により、実際に攻撃があったかの如くに語られるようになる。しかし、その後にこの騙し討ちの代償がいかに大きかったかを思い知るのは、アメリカのほうだった。

ちなみに、アメリカ同時多発テロ事件の際の決議にも、大統領へ特別権限を与える法案にたった一人、バーバラ・リー下院議員が反対票を投じている。これは、アメリカの理性が40年間で半分になったことを意味している

その後、1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、政府の機密文書(一般的にペンタゴン・ペーパーズと言われる)を入手し、この事件はベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカが仕組んだ自作自演であったことがスクープされる。アメリカがだまし討ちをでっち上げて戦争を開始し、さらに、勝利に関する展望がまったく存在しないまま戦線を拡大していったことで、被害を多大なものにしたことが白日の下に晒された。すなわち、ばれた

なお、ベトナム戦争の場合は開戦から7年でアメリカの嘘が公になったが、イラク戦争ではわずか1年でアメリカの嘘が公になった。ただし、開戦する前から分かり切っていたという声が大勢を占めていたが。

てろてろてろっぴ 南ベトナムいたずら物語[編集]

1963年11月以降のクーデター頻発及び、どんぐりの背比べ的使えねえ人材大放出の南ベトナム政府に、いい加減マトモな人間は愛想を尽かし、さっさと国を見限る準備を始めるようになっていく。また、首都であるサイゴン周辺ですら支配力に欠く有様で、わかりやすく言うとカブール周辺。一歩外を出れば、大都市と主要幹線道路以外タリバン勢力下といった、大変すばらしい行政・防衛機構を有していた。また、軍事機構も数々の伝説的な戦いを繰り返しており、1963年に1月に行われたアプバクの戦いでは、武装ヘリや装甲車の支援を受けた正規軍2000人が鹵獲兵器(もちろん米軍の)で身を固めたゲリラ兵350人に惨敗するなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を広げるベトコンとは対照的に、飛ぶ鳥が堕ちる勢いで軍事面でも内政面でも自壊していく。それを維持するために必要だったのがアメリカの支援だったが、毎年どれぐらい支援しなければ維持できなかったかは聞くな。

一方、勢いに乗ったベトコンは、首都サイゴン市内を中心に後方撹乱を目的にした無差別テロを繰り返す。これは、米国に関わるとロクな事にならんよーというよくある警告と同時に、アメ公に対しても貴様らが関わるとろくな目に遭わんのじゃあ、というサイゴン市民の痛烈な視線を向けさせる結果をもたらした。

そのテロを実行するテロリストもまさに無差別の名にふさわしく、よくある戦争映画の一場面として、いたいけな少年少女がキャンディーくれたお礼に爆弾をお返ししたり、ホンダスーパーカブに二人乗りしてアメリカ軍の車列に手榴弾放り込んで雑踏の中トンズラ、「あの映画館アメリカ軍が使ってるらしいぜ?」「よし爆破だ」などなど、1965年の前半だけで1000人以上無差別にテロったその実力は、アルカイダの上を行く。「これは、いかに金をかけず、証拠を残さず、相手を休めさせずに、対象の気が狂うまで嫌がらせを続けるか」という話になるため、悲惨ないじめの現場を想像してもらうと一番わかりやすい。もっともその結果、南ベトナムの市民生活もぐっちゃぐちゃになり、相当な人数が反共に流れて、戦後にボートピープルとして海に逃げ出すこととなる。

また、ベトコンのテロリストの多くは、通常時は一般市民として生活しているものも多く、中には、戦争終結まで妻や夫、親にまで自分がテロリストであることを隠し通したツワモノも数多くいた。また、スパイも多種多様で、中には電力公社の副総裁や、南ベトナム航空の上級幹部、南ベトナム軍の情報部将校など、戦後、実は私らスパイでしたーと聞いたアメ公が呆気にとられるほど大量に、そして根深く南ベトナムという国家に浸透していた。

結論。アメ公は埋伏の毒を知らなかった。

朝のナパーム弾の臭いは格別だ[編集]

ベトコンがベトナム人を殺害するテロには無関心なアメリカも、さすがに自軍を標的にされると腹を立てる。1965年2月7日にブレイクのアメリカ軍基地が爆破され、多くのアメリカ軍将校がバラバラにされると、ついにアメリカ政府もとてつもなく軽い腰を上げることを決意する。ジョンソン大統領はリベンジとしてベトコン勢力が存在する南ベトナム領土への空爆と、北ベトナム中枢への爆撃、いわゆる北爆を命令した。ここらへんから、戦争映画で有名になったシーンが立て続けに出てくる。

当初は戦争にあまりにもそぐわない、人道的見地とかいう戯れ言に則し、北ベトナムの発電所やダム、市街地に近い軍需工場や兵器・物資集積所、港湾施設、飛行場、空軍基地に対する攻撃が禁止されていた。それをやっちまうと、地続きのソ連や中国からどうしようもないほどの人間がわんさか集まってくる、というのが理由だった。しかし、現場の人間にとってこれほどアホな命令もなく、そこに人間がいるかどうかもわからないジャングルにボコボコ穴を開けるだけという生活が続いた。たまに爆撃地点に自軍がいることさえあった。このころからジャングルがトラウマになるアメリカ軍兵士が続出していく。なお、当時の北ベトナムはアメ公の考えることなどとうの昔にお見通しで、ソ連軍事顧問団をわざわざ重要施設内とその周辺でお出迎えしており、「ミスったらニューヨークが降ってくるよん♪」とわざわざ喧伝していた。また、北ベトナムは重要な港すべてにソ連や中国などの外国船を入港させておき、飛行場にもソ連からの旅客機を設置した。このせいで外交問題を恐れるホワイトハウスによって、北ベトナムの飛行場へ攻撃ができなくなったため、北爆当初はソ連軍の最新鋭戦闘機がアメリカ空軍と空中戦を繰り広げることになり、世界中の軍事マニアに格好の題材を与えることになった。もっとも、それ以上に世界中の外交マニアにすばらしい教訓を与えている。「あんな馬鹿げた外交してれば、どんな国だって負ける」と。

これに対し、さすがにアメリカ軍(特に前線に出ている連中)はバカではなかったようで、アメリカ海軍航空隊の最新鋭機がハエのように撃墜されまくったことから「貴重なパイロットを大勢殺しておきながら何ら戦果を上げられていないではないか」と書いて「お前らは、アホか?」と読むような苦情が相次ぎ、会議室の中で戦争が起こっていると思いこんでいるアメリカ国防総省も、乏しい戦果の割に被害続出というコストパフォーマンスの悪さを認め、ようやく1967年4月末に殆どの制限が撤廃されることになる。併せて、アメリカ軍から人の皮もはがれ始める。

なお、後の共和党大統領候補ジョン・マケインが撃墜され、捕虜となるのは1967年10月26日のことである。

制限が撤廃されると、それまでストレスを溜めまくっていた連中が嬉々として爆弾の雨あられをベトナム領内に降り注ぎ、結果的に戦局を一時盛り返すほど効果をあげた。人道?知るかそんなもん。ただでさえ物資、資源に乏しい北ベトナムは空軍基地や飛行場が爆撃を受けると修理にも補給にも事欠く状態であり、さらにアメリカ空軍が死の鳥と言われたB-52戦略爆撃機を導入すると、もはや国土の回復は自国だけでは追いつかず、終戦後もあちこちにアメリカ軍が落した1t爆弾の跡が残るほどの被害を受けた。物量作戦、恐るべし。

しかしそれ以上に恐ろしいのは、爆弾の穴を貯水池に使い、爆弾の破片から鍋釜を作るベトナム人のほうである。

当然のことながら、グアム島や当時アメリカの統治下であった沖縄から、空母および戦略爆撃機は飛び立っていた。また、これも当然のことながら、数々の戦争で使用された物資は日本製だった。アメリカが戦争の泥沼に陥ると相対的に豊かになるのは、朝鮮戦争以来続く日本の特徴である。

非人道行為を世界中にぶちまけるという反撃[編集]

これらの爆撃に対してひげじじいをはじめとする北ベトナム指導部は、必死になって北ベトナムの情報を得ようともがいていた西側のマスコミ市民団体を有効に使い、包み隠さずそのままの光景を伝えた。特に、一般民衆への爆撃については事細かに。中でも、屋根に赤々と十字が書いてあるような建物を爆撃したときは、それこそ世界中のマスコミ各社を現地入りさせている。また、丁度アメリカを中心にカラーテレビが導入され、テレビ文化が成熟し始めた段階にあたり、カウチポテト族のように画像のイメージによって感情を左右される大衆が現れ始めた時期である。そのため、新聞が今まで伝えることができなかった光景や、隠していた事実が「アメリカ軍による虐殺行為」と化して世界中に知れ渡ることとなり、後にアメリカを敗北に追い込むほど大規模な反戦活動につながっていく。

これらのマスコミ操作は、戦後、徹底的にアメリカ軍により研究され、見事に湾岸戦争において花開くこととなる。しかし、イラク戦争においてインターネットのために立ち枯れてしまったことは喜劇である。

最前線にでかい的を設置[編集]

北爆開始から1ヶ月後の1965年3月8日、ジョンソン大統領は大権を行使し、アメリカ海兵隊を北ベトナムとの国境に近い港町ダナンに上陸させ、その地に大米軍基地を建設する。ディエンビエンフーで犯された過ちは、世界最新鋭の軍隊でも繰り返される。そして1967年には中央直轄市となり、工場や空港などの重要施設が集中する一大産業都市となる。この場合、一大産業都市と書いてでかい的と読む。そして、1968年1月に始まったベトコンによる総攻撃テト攻勢において、ダナンは主要な戦場の一つとなる。

また、1967年にはケサンにも大規模な基地を建設し、こちらでも戦史に残る攻防を繰り広げる。

ランボー・コマンドー・プラトーン、その他もろもろ[編集]

ケネディ時代に南ベトナム軍に軍事顧問団として駐留したアメリカ軍人は、ケネディ就任当初は685人にすぎなかったが、その後増援に増援を繰り返し、結局ケネディ時代だけで15,000人、その後のジョンソン政権では1964年末に23,300名となり、どう考えても顧問とは言い難いほどの規模となる。その後、ジョンソンはさらに1965年7月28日にアメリカ陸軍を派遣を決定する。その結果、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍・海兵隊)は1965年末までに計184,300名に膨れ上がった。そして、クーデターに忙しい南ベトナム軍の代わりに、ベトコンと泥沼の地上戦を戦うことになり、その数は最盛期にはアメリカ軍の総兵士数の7分の1に当たる、52万人強もの軍勢になっていた(しかも、その後さらに追加で20万人を招集しようとして断られている)。その結果生まれたのがランボーだのコマンドーだの、社会に適応しきれない連中だったわけだ。なお、北ベトナムには中華人民共和国の全面介入を恐れて、地上部隊を派遣しなかった。

この時点で北ベトナムに攻め込んでいたらというアメリカ人も多いが、それをさせなかったからこそ北ベトナムは外交戦、情報戦に勝利したと判断された。

一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、北ベトナムからラオス、カンボジア、南ベトナムまでを網羅する一大密輸ルート、「ホーチミン・ルート」を使い、手練れの連中をカンボジア国境から南ベトナムへ侵入させ、ベトコンと連携しながらゲリラ活動を続けていた。また、南ベトナム政府の力が及ばないラオス・カンボジア国境にある山地に建設された北ベトナムの陣地を有効利用し、十分な兵力と武器も揃えたベトコンは1965年10月19日に、それまでゲリラ戦による奇襲、及び待ち伏せが一般的だった戦術の方針を転換し、単独でアメリカ軍基地へ攻撃する・・・が、いくらなんでも早すぎた。アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害はほとんど無く攻撃したベトコンへの被害は大きかった。この段階で、ベトコンは再度方針転換をし、地道なゲリラ戦である、奇襲、待ち伏せ、ヒットアンドアウェイ、ブービートラップ設置を積み重ねていくことになる。

その後、アメリカ軍は国境近くにある北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地にまともな道路が存在するはずは無く、北ベトナム軍自体、物資の輸送に象まで使うほどの険しいジャングルの中だったため、結局、戦車やトラックなどによる部隊の展開をあきらめ、初めて実戦に投入されたヘリコプターによる攻撃を試みる。その結果、空からの一方的な攻撃が絶賛されたため、その後もベトナム戦争の花形として大量に戦場に投入されることになる。ただし、これほど索敵されやすく、装甲も薄く、着陸する場所が限定され、何よりも燃料の関係で前線に置いておくことができない兵器を導入したことにより、ヘリコプターによる部隊の展開はベトコンによるヒットアンドアウェイ(攻撃したら即逃げろ)の格好の的になる。なぜなら、アメリカ軍が侵攻した際に敵ヘリを狙うと、一機落とせば大体10人は道連れにできた上、ヘリポートとは言えないような荒れ地への着陸は、何もしなくてもヘリが勝手にバランスを崩して落っこちることが多かった。また、こちらの侵攻に際しては、ヘリが飛んでくる前にスパイからの連絡でさっさと退却することが可能だった。もちろん、場所によっては逃走前に捕まることもあったが、空の上からジャングルの中、泥の中に隠れたベトコンを索敵することはほとんど不可能であるため、対ゲリラ戦においてこれほど役立たない兵器も珍しかった

この過ちの根本的な原因は、当時のアメリカ軍が相手の被害=相手の死体の数という間違った算式で戦果を計上したためである。実際にヘリコプターからの機銃掃射は多くのベトコンを射殺していった。しかし、相手は国家総動員令を発布したであり、さらに、やろうとしていることが自勢力の拡大だったため、一つの村を守るため、日中アメリカ軍が100人中90人のベトコンを殺しても、残った10人が夜、その村のアメリカ軍&南ベトナム政府関係者を射殺し、まるごとベトコンの勢力下に置くようなことが日常茶飯事であり、最終的に南ベトナムのほとんどの村を勢力下においたベトコンは、殺された数以上の新兵を補充できる環境を整えていた。

なお、同じ過ちは現在もアフガニスタンで繰り返されている。何が勝利かをまったく見極めないで戦争をするほど愚かなことはない

11月14日、アメリカ軍はカンボジア国境から東11Kmの地点にあるイア・ドラン渓谷を中心とした数カ所に、初めて航空機(UH-1)を使って陸戦部隊を展開させた。これは、北ベトナム軍の陣地を確認したアメリカ軍が初めて実際の軍を派遣し、同地を占領しようと試みた戦いである。実は、アメリカ軍は装備がゲリラ戦に特化したベトコンとは戦った経験があったが、正式な北ベトナム軍との戦闘はこれが始めてであった。しかも、相手方の情報はサイゴンのアメリカ軍司令部ですら把握できていなかった。そのため、それまでアメリカ軍基地襲撃の後はいつでも大急ぎで逃げ出していたベトコンを見ていた連中は、今回も簡単に撃破できると考えていた。もちろん、戦争はそんなに甘いもんじゃなかったのだが

実際には北ベトナム兵は強固な陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、たいした抵抗はないものと誤解していたアメリカ軍はいきなりヘリコプターの着地地点で激烈な十字砲火に見まわれ、包囲されてしまう。その後、後援部隊の到着により何とか北ベトナム軍を撃退するも、アメリカ軍は当初の目的である当地の占領には至らず、結局、推定で3,561人の北ベトナム兵を殺害したという勝利宣言を発表するのみにとどまった。その際、アメリカ軍も305人の兵士を失ったが、相手の損害に対しては微々たるものだと結論づけた。この最初の戦闘は、この戦争の帰結を物語っていた。

なお、イラクでもアフガニスタンでも同様の殺害した人数による勝利宣言が語られることが多いが、結局、何が勝利かを見失ったために語ったその場凌ぎの戯れ言である。実際に、湾岸戦争において殺害されたイラク軍兵士の数についての言及はまったくない。

その後、ようやくアメリカは殺しても殺しても湧いて出てくる敵の源が、北ベトナムから南ベトナムへ延々とのびる補給路(ホーチミン・ルート)にあることに気づく。てゆうか、常識的に考えて敵の補給線こそ一番の攻撃対象だと思うが。そして、ベトナム・ラオス・カンボジア領内に複雑に入り組むそのルートを断つために隣国であるラオスカンボジア領内に攻撃を加え始める。あぁ、もちろん滅茶苦茶な国際法違反さ。しかし、当時の煮詰まったアメリカ政府首脳の脳みそに、そのような冷静な判断が出てくるはずもなく、それまで無視してもいいような存在だったラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュに、中国やソ連の武器、何よりもアメリカが大嫌いになった連中が大量に行き渡ることになる。その結果、ラオス・カンボジア国内においても急速に共産勢力が拡大し、両国の政情不安はその後の戦略に大きな影を落すこととなる(なお、それまでは両国ともにフランスの植民地時代の後は王政を維持しており、ある程度民心も掌握していた。また、ベトナム戦争に関して、ラオスは中立、カンボジアは北爆に対してアメリカとの断交を宣言していたが、表立って北ベトナムを支持していたわけではなかった)。最終的に、寝た子を起こしたアメリカ軍の戦場はベトナム国外にも拡大、サイゴンとワシントンにしかないアメリカ軍の頭脳は、さらに一層しっちゃかめっちゃかになり、歴史に残る悲惨な事例を生み出すことになる

また、アメリカ空軍はこれらの共産主義勢力が支配する地域を数千回空爆した他、ジャングルに隠れる北ベトナム兵士をあぶり出す為に枯れ葉剤クラスター爆弾を大量にまき散らしたせいで、戦後アメリカ軍による非人間的所業として世界中に知れ渡ることになる。しかし、そのような形で大規模な攻撃を繰り返したにも関わらず、結局、ホーチミン・ルートを寸断することはできず、ベトナム戦争を通して安定的に物資を前線に送り続けることになる。

ちなみに、中国から海路でカンボジア→ベトコンと渡る補給ルートも存在し、そちらはホーチミン・ルートになぞらえ、カンボジアの国家元首ノロドム・シアヌークからシアヌークルートと呼ばれた。主にベトコンに渡る物資の40%がそちらのルートで供給されたという事実は、この時代、アメリカの戦略的情報収集能力がいかに優れていたかを明確に示している。

なお、ホーチミン・ルートにおける主要な輸送手段は、自転車である。

韓国軍が来るぞ!みんな逃げるんだ!![編集]

硬直した戦線を打破するため、アメリカのジョンソン政権は同盟各国にベトナム戦争への参戦を要請する。日本も、日本国憲法第九条がなければ危ないところだった。ちょうどそのころ、大韓民国をクーデターで牛耳ったばかりの朴正熙と書いて高木正夫と読む超親米主義政権は、出せば出しただけ金が見返りで来ることを見越し、渡りに船とばかりに、ベトナムに韓国軍を派兵することを約束する。1964年、最初の海軍部隊を派遣すると、その後、要請したアメリカが驚くほどの派遣を執り行う。アメリカはその見返りとして、高木正夫が開発独裁のために借りまくった外資40億ドルの内、半分である20億ドル(1ドルが360円だったころの1ドル、しかも、ウォンに換算すればさらに価値は高くなる)を直接負担し、さらに、その他の負担分も斡旋し、さらに高木正夫が外国から金を借り入れやすいよう後ろから手を回した。その内訳は、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドルなど、いったいどこの田中角栄か分からない集金っぷりに驚愕した人間は多い。また、ベトナム戦争に参戦した軍人以外にも、関わった技術者・建設者・おこぼれに預かろうとする商売人などがベトナムで稼いだ外貨は、最終的に7億4千万ドルにもおよぶ。その外資の流入は、韓国に漢江の奇跡と呼ばれる高度経済成長をもたらす。

韓国軍の内訳[編集]

1965年10月には陸戦部隊である猛虎師団1万数千を派兵して本格的に参戦。前線の兵士が生まれてこの方戦争なんて経験したことがない10代後半のガキが主流だったアメ公と違い、全員が朝鮮戦争を経験し、その後も当時の北朝鮮とのスパイ戦を戦った生粋の軍人オンリー、しかも全員が現在の北朝鮮並みに貧乏という恐るべき集団。しかも、一定期間参戦した軍人には晴れてアメリカへ移民できる特典までついていた。そして、その量も半端ではなかった。最終的に、本来なら北朝鮮に備えるべき韓国国内の最精鋭部隊までも投入して、1973年3月23日に完全撤収するまでの間、最大約5万人、のべ35万人以上の兵力をベトナムに投入している。なお、他のアメリカ同盟国からの派兵数は、全部併せても韓国の4分の1である。

韓国軍の勇猛さ蛮勇さは折り紙つきで、ベトコン、北ベトナム兵などを約4万人(公式記録)殺害している。さらにベトコンとの戦闘での損害比は、「こちらが1人殺られても、相手を36人殺っている」という状態である。ただし、少人数で動き回るベトコン部隊に対しての比率から考えると確実に一般人が5人以上含まれている気がしてならない。なお、アメリカ軍はその損害の比率がベトコンの人数からして妥当な12:1である。なぜなら、アメリカ軍は一般人に対しての発砲は手控えていたからである。もっとも、相手は同じ民族の中から共産主義者を見つけ出すことを生業にしていた連中である。疑わしきものは罰することが一番スパイを排除できることも確かなのであるため、普段人を人とも思わない、爆弾抱えて敵司令部に突っ込ませるための台車としか考えていない北ベトナム軍司令官ですら、前線に韓国軍との戦闘は避けるように通達している。奴らは村に隠れたベトコン1人を見つけるために村を丸ごと滅ぼしかねない

あまりに凄惨な戦果に、アメリカの新聞にも「Demon-Hunter(悪魔の狩人)」と紹介されている。悪魔を狩っているのではなく、悪魔が狩っている。ちなみにこの派兵の際、各地で韓国軍による戦争犯罪があったとされ、アメリカ軍、南北ベトナム軍と同様に、韓国軍兵士によるベトナム人住民虐殺や婦女レイプが起こっている。また韓国人とベトナム人女性との間に多数の混血児が生まれたことが確認されている。もちろん、韓国はそれを認めていない。

そのためか、ネット世界において日中双方にいちゃもんをつける韓国も、ベトナムにだけはまったく手を出そうとしない。 なお韓国は、ベトナムへの派兵にあたって日本との間に「日韓基本条約」を締結し、これによって得た数億ドルの支援及び派兵された将兵の涙ぐましい給与送金によって、韓国版高度経済成長「漢江の奇跡」を経験し、現在の繁栄の基礎とした。

期待の新星登場[編集]

戦争の泥沼化と政権内部の汚職が極まる中、少なくとも民主主義であることを実証するために南ベトナムで大統領選挙が実施される。その結果、麻薬組織の元締めであるグエン・バン・チューが38%の票を獲得、1967年9月3日に南ベトナム大統領に就任する(副大統領に飛行機野郎)。ただし、1965年の6月の段階でクーデターによりグエン・バン・チューは国家元首として政治を取り仕切っていた。そんな野郎の支持率が4割を切っているという段階ですでにやばい。ただし、この時期はアメリカ軍の戦力投入が激烈を極めた時期にあたるためか、ベトコンによる妨害工作なども特になかった。もっとも、妨害する必要もないほど選挙自体がひどいものだったが。そのため、南ベトナムの民衆は新大統領当選から1ヶ月経たないうちに不正選挙に対するデモを敢行している。

ちなみに、大統領が扱う麻薬の出所は、ベトコンが栽培し、アメリカ軍を骨抜きにするために南部へ流した代物である。この時点で終わっている。なお、グエン・バン・チューの後ろ盾にある若手将校というのは、どう考えても麻薬絡みである。しかし、グエン・バン・チューとてバカではなく、親米反共を高らかに宣言し、この時点ではベトナムの期待の星だった。今から思うと、この時点で終わっているが。なお、無事に選挙が行われ一応の大統領が決定することで南ベトナム社会が安定したことを宣言したアメリカは、11月に派遣軍の総司令官であるウィリアム・ウェストモーランド大将による声明を発表し、「2年後には、アメリカ軍の一部撤退は可能である」とのたまった。また12月にはチュー大統領自ら「南ベトナムの不敗体制が確立された」と語った。もちろん、2008年における泥沼のアメリカ経済と同じで、戦況を甘く見ることしかできないやつが、未来を語るとロクなことが起きないことを実証している。

その翌月、南ベトナムにとってもアメリカにとっても崩壊への序章となるテト攻勢が始まる。

なお、グエン・バン・チューが正式に南ベトナムの大統領に就任したことに対し、北ベトナム政府は「不正選挙である」と反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思を示している。しかし、アメリカは「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だと、この選挙結果を歓迎した。なお、サダム・フセイン政権打倒後のイラクにおいて、スンニ派がボイコットし、国中の宗教対立をさらに根深くし、後に内戦とまで形容される民族の対立を引き起こした選挙ですら健全な民主主義の結果のたまったアメリカの声明である。発言に信憑性は伴っていない。しかし、1975年に南ベトナムが崩壊するまで強烈な反共産主義者の立場を崩さなかったチュー大統領が、当選によりさらに支持基盤を大きくした結果、ベトナム戦争は激しさを増してゆくことになる。なぜなら、いい装備をした連中が前線に出てくるようになっちまったからだ。なお、この後チュー大統領は1971年に行われた選挙でも再選を果たしている。ただし、すでに命運の見えた南ベトナムという国に未練はなかったと見え、4年後にサイゴンが陥落する寸前、台湾へと亡命している。大量の金塊を抱えて(金塊に関しては未確認情報だが)。

反戦運動[編集]

1966年以降、アメ公が本格的にベトナムに参戦し、徐々に泥沼に引きずり込まれていく課程で、世界各国に戦争反対の機運が高まっていく。もっとも、アメリカがボロ勝ちすると見られていたころはサッパリそんな気配はなかったが、戦局が悪くなるごとにアメリカ政府が発表する大嘘を論破しまくるという一大ムーブメントが発生している。ただし、いまだにアメリカ政府はベトナムでの失敗を失敗と認めていない。ベトナム戦争で300万人が死んだことですら、自由のためには仕方がなかったことになっている。もちろん、現在のベトナムにアメリカが謝罪したことはない。アメリカだもの

南ベトナムにおける反戦運動[編集]

南ベトナムにおける反戦運動は、ベトコン寄りの市民、および政権に対して不支持を表明する市民および大学生が、積極的に戦争反対および反米、反政権を訴えている。ただし、政権の支持基盤は仏教徒だのカトリックだの土着宗教だの、様々な後ろ盾が入れ替わり立ち替わりしていたため、常にメンバーが固定しているわけではなかった。さらに、立場によっては戦争賛成、アメリカ万歳、現政権万歳などの好戦デモも(裏で金を手渡すなどして)頻繁に行われるなど、実に節操のない状況だった。都市部では。農村はベトコンの勢力下であるため、デモすら起きない。なお、湾岸戦争以降世界各国でアメリカ政府に対する親米デモが行われた形跡は存在しない。アメリカ国内ですら聞いたことがない。

アメリカ国内における反戦運動[編集]

1960年代のアメリカは、ジョン・F・ケネディマーティン・ルーサー・キング・ジュニアマルコムXやら、その後の歴史において、殺されちゃったんだけど自由の象徴となる有名人が多数輩出された時期であり、それに比例して政治に関心を持ち、なおかつ実際に行動する若者が爆発的に増えた時期に当たる。そのため、1964年、よーやくアメリカ政府が重い腰を上げて公民権法を制定、黒人差別を公式に否定すると、まだ戦い足りない若者のじょーねつってえやつは、一斉にまださほど泥沼には見えなかったベトナム戦争に向けられるようになる。

キング牧師の場合[編集]

1955年、おばさんがバスで立たなかったことから始まった公民権運動の主役が、おばさんの住んでた町の近所にすんでたマーティンさん(26歳)。9年後の1964年にノーベル平和賞を受賞したりなんかしちゃったりするこのアンちゃんが、一年かけてバスに乗ることをボイコットした結果、アメリカが自由の国だと盲信するバカが増えていく。そして自由民主主義バカが増えすぎた結果、40年後、テキサスの腐れ脳みそを再選させるという、現代アメリカ史における最悪の選択を行ってしまう。もっとも、当の本人は1968年に山の頂上に立った後、そのまま天国への階段を駆け上がっているため、2006年に死んだ奥さんしかその後のひっでえ自由の姿を確認していない。

そこいらのアンちゃんだったマーティンさんがそれこそ全国の若者を奮い立たせて、政治に一撃加える面白さを伝授してしまったため、1960年代前半のアメリカ国内はテロや暴動が頻発、人種間の抗争は苛烈を極めた。もっとも、マーティンのアンちゃんは非暴力主義だったが、それじゃあ意味がない、やっぱ戦うべきだってとマルちゃんが言い始めたもんだから、貧乏学問もろくに受けられず、なおかつ差別されている黒人の若者は両極端の主義主張に挟まれながら手に手を取り合って政治に深く関わっていく。その結果、1963年ワシントンD.Cにおいて20万人もの人間を動員しての行進が行われ、アンちゃんは、いつか一緒に飯を食いたいと演説し、世界中の英語教科書業者に鉄板ものの一文をくれてやることに成功した。

で、1964年、ケネディがやる!と宣言した以上、やるしかないことになった「公民権法」と書いて「黒人の差別を無くし、参政権を与えるよーん♪」と読む法律が、内政面では評価の高かったリンドン・ジョンソン大統領により制定され、ついに黒人差別がなくなった。というのは大嘘で、そんなもんで無くなるほど差別は簡単なものではない。しかし、法律が制定された以上、差別しても警察は見て見ぬふりができなくなったことも確かであるため、「公民権運動」に一応の区切りが訪れる。そのフィナーレとしてアンちゃんにノーベル平和賞がプレゼントされたりなんかしてしまうと、アンちゃんも、若者も次の目標を見い出さないといけなくなってしまう。すると、なぜか、そこに戦争があった

その翌年、1965年にマルちゃんが仲間内の抗争に巻き込まれて死亡。2年後、マルちゃんによってイスラム教徒になっていたカシアス・クレイ改めモハメド・アリは兵役を拒否して世界チャンピオンのベルトを剥奪。アンちゃんも1969年に喉に一発食らって死亡。その後も黒人差別は存在し続けていく。

アメリカ国内の情勢[編集]

そんなこんなで、若者たちが政治批判をやるのは、もはや当たり前の風潮となり、それは全世界へ広がっていく。それと時を同じくして、アメリカ発の様々なムーブメントが巻き起こっており、特にロックンロールはそれまでの若者の文化を一変させている。他にも、大学の自治を求める若者に警察が発砲したり、イギリスから来た五人組の中のメガネが、自分はキリストよりも偉いと宣言したり、エレキを持っただけでボブ・ディランが裏切り者呼ばわりされたり、ラルフ・ネーダーがしゃしゃり出てきたりとまあ、何でもありすぎて困る中(もっとも、ハニー・フッカーはいなかった)、とりあえず反戦運動もあった。

ベトナム戦争が泥沼になるにつれて、平均年齢が20歳を切るようなガキどもがハートマン軍曹にしごかれ殺人マシーンと化した後に逐次インドシナ半島に投入され、1年の兵役を終えた後、精神が崩壊寸前になるような地獄を味わってアメリカに戻ってくる。こんなサイクルを10年以上続ければ、アメリカ中にベトナム戦争で負った心の傷&麻薬中毒などによる事件事故が勃発しまくるようになるのもおかしいことではない。その結果、それまで遠い国の夢の世界で反戦を語っていた国民に否が応でも戦争の現実が突きつけられることになる。ただし、それがでかい声になるまでには時間がかかる。

なお、1967年には、最大で50万人を超える新兵がベトナムに送り込まれている。ある者は手ぐすね引いて待っているベトコンどもの餌食に、またある者は爆弾背負って前線司令部に突入する自爆テロで心身ともに傷を負い、そしてまたある者は連日連夜の戦闘に嫌気がさして麻薬に手を出し廃人になっていく。そんな強烈な経験をした人間が1968年に50万人ほどアメリカに帰ってきたわけだ。一大ムーブメントになるのもしかたないじゃないか。そして、ベトナムの現状を描いたレポートやポートレートが世界中でバカ売れし、それに反比例するように政治家連中がまるで現実から目を逸らすかのように甘い期待にばかり言及するようになる。ただし、1968年1月のテト攻勢まではまだ国民も泥沼ながら戦況を楽観視しており、国内外のマスコミ、および知識人の指摘にもさほど動揺する姿勢は見せなかった。

しかし、テト攻勢が起こる以前の段階で、実はベトナム戦争の戦費が巨大なアメリカ経済を徐々にではあるが蝕んでおり、先の見えない戦争と右肩上がりの軍事費がアメリカを少しずつ少しずつ傾けていく。また、展望の見えない戦況は国内もそうだが、実際に前線で戦う兵士の士気にも悪影響を与えており、ベトコン掃討を名目とした様々な戦争犯罪が頻発していくこととなる。もっとも、イラク戦争のときと同じで、アメリカ軍特有の魔法が発動しまくった結果、ほとんどにおいてなかったことにされるわけだが。

アメリカの若者の場合[編集]

1967年4月、ニューヨークで大規模な反戦デモ行進があり、その半年後には首都ワシントンD.Cにおいてでさえ、大規模な反戦大会が催された。これらの運動の主役は、主にでかい声を出すことに目覚めた若者たちであった。ちなみに、彼らの中にはアメリカ国内において様々なテロ行為を起こした連中もいる。漫画ゴルゴ13において、初期の話にはそのような描写が多く見受けられる。中でも、シンバイオニーズ解放軍という左翼系過激派組織は、1974年に新聞王と呼ばれたウィリアム・ランドルフ・ハーストの娘を誘拐し、さらには自分達の仲間にすることに成功。その結果、単なる誘拐事件を歴史に残る一大スキャンダルに発展させる離れ業を見せている。

このように、実際に自国においてですらそのような話が頻発していたことを棚に上げて、世界中のテロリストの根絶を唱えたバカがどこかにいた。ちなみに当時、そのバカは兵役を終えてビジネススクールに通っていたため、知らないわけはなかった(ただし、薬物中毒だった時期には当たる)。総じて、これらの反政府運動はアメリカ国外にも飛び火し、ヨーロッパや日本においてもテロが頻発するなど、反米が一つのファッションのように世界中で流行している。

なお、その反動により「あんなでかい口ばかり叩いて何もできやしない大人になんかなりたくない」という政治に無関心な世代が一つ下に現れるのが歴史の皮肉てえもんだ。

文化人の場合[編集]

また、アメリカでは数少ない、先が見える連中による反戦運動も行われた。特に、政治学者や人類学者などこういう場面でしか発言に光が当たらない連中は大いに声を張り上げた。また、作家芸能人などによる反戦運動も盛んに行われるようになった結果、様々なジャンルで現代にまで残る不朽の名作が発表されまくることになる。

特に楽曲においてはそれが顕著に見られ、開戦当初は自由とアメリカの勝利を高らかに歌い上げてチャートを駆け上がった作品もあったが、ベトナム戦争が泥沼化していくにつれ、厭戦的、退廃的、哲学的な歌詞が好まれるようになり、おかげで40年経った今でも色褪せない(真似するようなやつらが出てこない)ハイレベルな作品が大量に発表される。なお、イラク戦争において真正面から反戦を歌ったのはディキシー・チックスぐらいであり、あわせて、歴史に残りうる歌曲が出現したような話はまったく聞かない。

また、芸能人の中にもとんがっている連中も大勢いて、1971年にアカデミー賞主演女優賞を受賞しているジェーン・フォンダなぞ、本業である女優業よりも1972年に「アメリカ兵のための反戦運動」と称して北ベトナムを訪れ、アメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットをかぶり打つポーズをとったことのほうがよっぽど有名である。もちろん、この時の写真は世界中に配信され、アメリカ国民はボコボコにフォンダをたたいたもんさ。もっとも、本人はさほど反省はしていなかったが、ベトナムのボートピープルの問題が出てくると一転、態度を変え国民に釈明をしている。その程度でベトナムに派兵された連中や、その家族が許すはずもないけれど。それでも1978年に二度目の主演女優賞を受賞している。やはり、芸人にとって何をしたかは問題ではなく、何が残ったかが重要である。

また、1970年に解散したイギリス発の4人組のうちの一人で日本人の奥さんを不倫のすえ獲得したちぢれ毛も、アメリカにおいて猛烈な反戦活動を行っている。その主張は強硬かつ一方的なものであり、かつ若者への影響力が強かったため、アメリカ政府から国外退去を命じられるほどであった。そのためか9.11のテロの後、彼の代表的な楽曲である「イマジン」が放送禁止になるというアメリカ放送史に残るようなバカげた話が伝わっている。

西側諸国による様々な嫌がらせ[編集]

1966年、ベトナム戦争に反対する世界の国々の知識人がイギリスの首都ロンドンにてアメリカが行った戦争犯罪を裁くための国際法廷を召集する。そして、翌1967年スウェーデンの首都ストックホルムに世界中のマスコミをまねき、大々的に開催された法廷では、いかにアメリカがベトナムで自由のためと称してアホな行いをしまくっているかが詳細に説明、発表され、世界各国のマスコミは一斉にその内容を自国に報道した。もちろん、その質に関しては、現代におけるインターネットをはるかに凌駕しており、世界中が一様に「アメリカ=アホ」との認識を得ることで一致した。この一大イベントの発起人はテリー伊藤以上の斜視で、1964年のノーベル文学賞を断ったフランスの変人哲学者、ジャン・ポール・サルトルに、同じく1950年になぜかノーベル文学賞を受賞した、イギリスの数学者バートランド・ラッセル(95歳)ら、西側諸国有数の知識人たちで、知恵と発言力とクソ度胸を有すれば、たとえ世界一の超大国に対しても嫌がらせを行えることを全世界にアピールした。また、各国においても独自に若者達がアメリカに嫌がらせを繰り返しており、ベトナムに行きたくないという若者を積極的に中立国へ亡命させていた。ただし、裏で思いっきりソ連が手を引いていたわけだが

なお、一部の兵士の中には亡命できればどこでもいいという考えで、韓国に派遣されていたアメリカ軍の中には、うっかり38度線を北に亡命した連中もいる。その中の一人が、北朝鮮による拉致問題で一躍脚光を浴びることになったチャールズ・ジェンキンズ氏その人である。
戦争の残虐行為はアメリカだけが有名になったが、負けたからこそ有名になっているだけであって、勝った側がいかにしてその残虐さを隠したかについては、中国における第二次国共内戦における国民党、および共産党側の活動がまったく外部に漏れていないことで判断すること。また、湾岸戦争で行われたイラク兵士に対する惨殺についても、世界はある程度把握している中、何の非難も追求もしていない。結局のところ、戦争における残虐行為の発表は、勝った側だけに許された特権でしかない。

ただし、原爆を除く

お待たせしました。崩壊の始まりです[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「テト攻勢」の項目を執筆しています。

1968年1月30日、ベトナムにおける旧正月にあたるテトの夜、南ベトナム全土でベトコンが一斉に蜂起し、各地の南ベトナム軍、およびアメリカ軍に大攻勢を仕掛ける。これがベトナム戦争の終わりの始まりとして知られるテト攻勢である。その衝撃はナウシカの指を噛むどころの騒ぎではなく、ベトコンはほとんど全ての勢力を動員し、6万人もの(一説には8万人)兵力をベトナム各地に点在したアメリカ軍基地、および南ベトナムの各都市に進攻させた。そして、ベトコンはこの戦いで全兵力の4分の3を失う壊滅的な打撃を受けることとなる。

通常、このような状況は大敗北に属する。

しかし、実際には、この攻勢はベトナム戦争の趨勢を決定的にし、アメリカ国民にかつてないほどの敗北感を知らしめることになる。その小気味よさは世界共通と見え、ウィキペディアでは、20以上の言語でこの戦いを記載している。

テト攻勢に入る直前[編集]

1968年1月、ジョンソン大統領はアメリカ国民に対し、ベトナムの情勢はアメリカに対して有利に働いていることを伝え、年末に迫った大統領選挙についてまさに内政、外交両面でまさに磐石であることを強調した。

ところが、ぎっちょん。その安易な考えは一ヶ月かからずに崩壊する。

一見、全てが無法に見える戦争にも、いくつかの不文律がある。それは「赤十字を狙わない」「捕虜を虐待しない」など、世界的な条約の締結にまでいたったものや、「各国における重要行事に当たる日では戦闘を停止する」などといった暗黙の了解レベルの話まで、様々な形で戦争の現場に存在している。ベトナム戦争では、毎年クリスマスとベトナムの旧正月(テト)が戦闘停止日に当たり、実際に、1968年まではベトナム戦争に参加した全ての軍隊が一斉に戦闘を2週間程度停止するのが通例だった。しかし、逆を言うならばベトコンが全勢力を叩きつけるためにはこの日しかなかった。

突入[編集]

1968年1月30日未明、北ベトナム軍、およびベトコンの一大攻勢が始まり、南ベトナム全土に火の手が上がる。南ベトナムに50ある大都市のうち41箇所、各地に点在する軍事基地や空港のうち23箇所を一斉に攻撃するという、ある意味バカげているというか、とんでもない攻撃だった。

もちろん、補給なんか持つわけないさ

中でも古都フエ、南ベトナムの首都サイゴンは最重点目標とされ、フエは一日で陥落。サイゴンでも中心部にあるタンソンニャット国際空港とアメリカ大使館、そしてアメリカ軍放送局に攻撃目標が置かれた。また、北ベトナムとの国境沿いに大金かけて建設した結果、すぐに兵を派遣できる場所に作ってくれてありがとうと言うしかないケサン基地、およびダナン基地でも大激戦が繰り広げられることになる。

サイゴン攻撃[編集]

北ベトナム軍、およびベトコン勢力は、当初、各都市に攻め込んだ段階で一斉に民衆が蜂起し、政権を転覆させるだろうとの、まるでどこぞのイラクに攻め込んだアメリカ大統領並みの甘い考えを持っていた。しかし当たり前だがそのようなことは一切なく、むしろ民衆は平時においてテロを繰り返すベトコンから逃げ惑うのが関の山だった。だが、個々の戦闘ではむしろ他に類を見ないほどの戦いが繰り広げられ、特にアメリカ大使館を襲撃した部隊は、どう考えても生きて帰ってこれるわけがないことは分かっていた。

そのため、ベトコンの士気は有り得ない位高かった。わずか20人ほどのゲリラ部隊によって一時的に大使館は占拠され、アメリカ大使および駐ベトナム軍総司令官は尻尾を巻いて脱出。しかも、その様子を全米生中継で放映されるという体たらく。また、アメリカ軍放送局も少人数のゲリラによって占拠される。こちらは、周囲をアメリカ軍によって包囲され、降伏勧告を受けた後で放送局ごと自爆。この段階で、この戦争に勝てると思っていたアメリカ国民はテレビの前から駆逐されることになる。

なお、タンソンニャット国際空港に攻め込んだ部隊は、隠れる場所のない平地において米軍機から狙い撃ちされ壊滅、放送局に攻めこんだ部隊は全滅。大使館に攻め込んで生き残ったのはたったの1人。しかも、その生き残りの消息は伝えられていない。

なお、グエン・バン・チュー南ベトナム大統領官邸も北ベトナム軍に襲撃されたが、こちらは南ベトナム軍側が防衛に成功した。珍しく、クーデター予防のために集めていた精鋭が役立った事例である。

ケサン攻防戦[編集]

1967年に建設されたケサン基地では、テト攻勢に入る直前に国境を突破した北ベトナム軍から攻撃を受ける。1月の中旬から攻撃が過熱し、その後のテト攻勢と合わさった結果、ケサン基地は第二のディエンビエンフーになるのではないか?との憶測が、アメリカどころか全世界に流れた。その結果、単なる一基地の防衛とは思えないほどの全勢力を傾けて、アメリカ軍はケサン基地を防衛することになる。外ヅラを良くしようとすると、人間えてして必死になる。

その物量は圧倒的で、当時史上最大規模の空爆(コードネーム、ナイアガラ)が行われ、1.8km×0.8kmの大きさしかないケサン基地の周辺に11万4千tもの爆弾がばら撒かれている。なお、第二次大戦中、日本の本土に落された爆弾の総量は16万4千tであることから考えると、アメリカ軍はどれだけ爆弾が好きなのか小一時間問い詰めたいぐらいである。その結果、北ベトナム軍は大損害を受け、4月1日にアメリカ地上軍が派遣されるとケサン基地から撤退する。逆に言えば、それだけ爆弾を落しても地上軍を壊滅できなかったってのもアレだが。

なお、これだけ苦労して守ったケサン基地をアメリカ軍は1968年7月に徹底的に破壊、放棄する。最初から作んなバカという声が世界中から聞こえたことは言うまでもない。

その後[編集]

薩摩示現流並の初撃が打ち終わると、やがて米軍と南ベトナム軍の爆撃によって攻勢側の拠点は多くが奪還されていく。援軍も退路も存在しない無謀な作戦は、それまで南ベトナム人が主流だったベトコンをもはや単独での軍事行動が不可能になるほど崩壊させることになる。

なお、北ベトナム軍総司令官のヴォー・グエン・ザップはあまりに無謀で破滅的なこの作戦には反対の立場であった。しかし、すでに戦場における一大勢力にまで成長したベトコンの立場を憂えていた他の北ベトナム軍幹部や当のベトコンに押し切られる形で作戦を実行する事となった。その結果、テト攻勢以降、ベトナム戦争の一方の主役はベトコンから北ベトナム軍へ移行する。

素人の後ろに隠れていた玄人がついに顔を出す

市街戦いろいろ[編集]

南ベトナム各都市に進撃したベトコンと北ベトナム軍は、当初、都市の密集した人口が盾となりゲリラを守ると想定していた。しかし、実際は東京大空襲と同じで、そこで息をしているもの全てが敵という分かりやすい考えの下、チョロン、フエ、ミト、カントーはじめ都市部の人口密集地域に、米空軍と南ベトナム空軍により爆撃が加えられ、ベトコン&北ベトナム軍は民衆もろとも焼き払われていく。

戦場ではそれが正しい

また、ベトコンと北ベトナム軍は占領した街で、今後、共産勢力の敵になるであろう南ベトナム政府関係者を形だけの路上裁判で次々に処刑していく。まぁ、なんてイラクのバグダッド。こうすることにより、支配する側は常に人材不足に悩まされ、その結果、南ベトナムの統治機構に深刻なダメージを与えている。もちろん、その中には何ら関係のない一般市民も含まれており、中でも、古都フエでは予め処刑すべき対象者のリストまで用意され、数千人が犠牲になったと言われているほどである。

戦争ではそれが正しい

世界への影響[編集]

一連の様子はブラウン管を通してを通じて世界に放送され、ベトナム戦争はんたーい、と叫んでいた市民を大いに勇気付けた。また、各地の戦闘においてアメリカ軍と南ベトナム軍は勝利したものの、ジョンソン大統領がベトナム戦争は優位に進んでいると発言した直後のこの有様に、少しでもアメリカは正しいと思いたかった視聴者は大きなショックを受け、情勢さえまともに読み取れない政府に失望することになり、アメリカ国内で急速にベトナム戦争反対の機運が高まっていくことになる。

特に、テト攻勢終結後に世界各国のテレビ局が各地の被害を調べていく中で、アメリカ軍がベトコンから都市を奪回する為に住民ごと爆撃したことが明るみに出ると、自由と正義のために戦争を行うことがいかにバカらしいかを国民が悟ってしまう。その結果、2月1日に演説でベトコンによるテト攻勢は失敗、相手に大損害を与えたとのたまったリンドン・ジョンソン大統領は、2ヶ月経ってない3月31日、北ベトナムとの和平交渉の開始北爆の停止アメリカ軍の撤退その年の大統領選挙への不出馬を表明した。つまり、戦闘には勝ったけれど、戦争には負けたってことだ

なお、彼はパリにおいてベトナム戦争の和平に関する仮協定が締結される前日、1973年の1月22日に重い心臓発作を起こして死んでいる。何がそんなにショックだったのかは誰も知らない

ピュリッツァー賞おめでとう[編集]

サイゴンでの市街戦の中で、南ベトナムの警察庁長官グエン・ゴク・ロアンがその後のベトナム戦争の趨勢を決定付けるポカをやらかしてしまう。わざわざテレビカメラや新聞記者、カメラ小僧が居並ぶ中に捕まえたベトコンの将校グエン・ヴァン・レムを連行し、即決で射殺。オールカラーで血が吹き飛ぶ映像を世界にぶちまけてしまう。その結果、南ベトナム=守る価値なしと、世界中が確信するにいたる。しかし、このクソガキが、ロアンの家族を惨殺していたとはこの時誰一人として知るよしもなかった...(まあ知っていても報道しないだろうが)

また、この現場に偶然居合わせたアメリカ人記者エディー・アダムスは、見事、至近距離から見事に頭の中身をぶちまける様を撮影し、その年、もっとも輝いていた報道に送られるピュリッツァー賞を受賞している。そして、見事に頭をぶち抜いたグエン・コク・ロアンはアメリカに亡命後、ピザ屋を経営するも、前歴がばれて廃業させられてしまう。

このように、たった一枚の写真で世界中がアメリカはバカだと思うようになったことを教訓に、アメリカ軍はその後、戦争のたびに対マスコミ戦術を徹底させていくことになる。

テト攻勢の結果[編集]

テト攻勢は各戦闘ごとで考えれば、ベトコン、および北ベトナム軍の歴史に残る大惨敗である。しかし、戦争全体で見れば、アメリカにベトナム戦争の勝利を諦めることを決断させた大勝利といえる。そのため、当初はあまりに無謀で兵力を使い潰すこの攻勢へ反対意思を示していたヴォー・グエン・ザップも、結果として成功であった事を認めている。なお、このことを踏まえザップは、アメリカとベトナムの国交が回復した後、ベトナム戦争とはなんだったのかを検証する会議でこう発言している。「装備も支援も少なく、弱小な戦力しかなかった北ベトナムがベトナム戦争で勝利したのは、すべてアメリカ市民のおかげ」と。

アメリカ市民、恐るべし。

ソンミの虐殺[編集]

泥沼の中の泥沼、キングオブ泥沼と化していた1968年、リアルバイオハザード4、リアルGTA、リアルポスタル、まぁとにかく、そんな仮想現実の話なんざ足元にも及びはしないリアルアメリカ兵によるベトナム農民の虐殺事件が発生する。ゾンビの虐殺はバイオハザードのシンボルになったように、ソンミの虐殺はベトナム反戦運動とアメリカ軍のアホらしさのシンボルとなり、また国内外でも大きな批判の声が起こった結果、アメリカ軍が正義の軍隊であると発言しただけで何かかわいそうなものを見る目つきをされるという事態を世界中で巻き起こした。

事件概要[編集]

1968年3月16日、アメリカの同盟国である南ベトナムに展開していたアメリカ陸軍のウィリアム・カリー中尉率いる部隊がクアンガイ省のミライ村、ソンミ地区を襲撃し、無抵抗の村民504人を虐殺する。なお、同じようにゾンビと化した住民を虐殺するバイオハザード4はアメリカでも大ヒット。当初は村民に対する虐殺ではなくベトコンゲリラ部隊との戦いという虚偽の報告がなされていた。それはともかく、GTA4は、1000万本を越えるメガヒットを記録している。翌年12月にアメリカの雑誌「ニューヨーカー」のセイモア・ハーシュ記者がこの事件をスクープ、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。なお、この事件における当事者の一人は、罪悪感からPTSDを発症。モータルコンバット発売直前に、ショットガンで。

この大虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、世論を反戦の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽し続けた。しかし、アブグレイブ刑務所における捕虜虐待事件と同じく現場の連中が写真を撮りまくっていたため、見事に発覚。当時、ようやく主流になっていたカラー写真とともに世界中に発信されることになった。

なお、1970年に開かれた軍法会議でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、アメリカ軍兵士における特殊な魔法がここでも発動し、1971年3月29日に行われた判決においてカリー中尉に終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪。カリー中尉一人で504人を殺したことになった。さらに特殊な魔法パート2もやっぱり発動し、カリー中尉自身も恩赦により懲役10年に減刑、さらに1974年3月に仮釈放される。この不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びたが、現場の連中にしてみれば日常茶飯事、ちょっとやりすぎたかな、程度の話でしかない。そこの君、そら負けるわって言わない。

なお、英語版のウィキペディアにはより詳しい内容が記載されており・・・とてもじゃないがここには書けない

2009年8月21日、66歳になったウィリアム・カリー中尉は初めてマスコミの前に姿を現し、41年前の虐殺についてを謝罪した。40年間黙っていたことについては特に何も述べていない。

さようなら 彼は四年で 旅立った[編集]

いい加減、泥沼どころか地獄の様相を呈してきたベトナム問題についてジョンソン大統領は連日アメリカ国内外のマスコミからバッシングを受け続けるようになり、対応のまずさを批判されるようになった。一応、内政面ではもんのすごい成果を上げてはいるんだけども。さらに時期的に見てもテト攻勢によるアメリカ国民の戦争に対するイメージの悪化と敗北感が、アメリカ大統領選挙の予備選挙とかぶったため、結果として、アメリカ国民は見たくもない大統領のツラを連日見なければならない苦行に陥る。それが2005年から3年も続くとなると、ある意味笑い話でしかないが。

テト攻勢の直後に行われたニューハンプシャー州の大統領予備選でジョンソンは辛勝したが、その直後、なんと国民からの人気爆発でしかもジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明する。その結果、移り気な世論はジョンソンを瞬く間に突き放し、世論調査で大統領として最低の支持率を記録。彼に、その年の大統領選挙は絶対勝てないという現実を教える。

しかし、彼の不名誉な記録は、40年後にぶっちぎりで塗り替えられるわけだが

そして、テト攻勢の被害も徐々に明らかにされつつある1968年3月31日、ジョンソンは突如、テレビ放送によってベトナム戦争での敗北を宣言する。もちろん、そんな言葉は一言ももらさないが、北爆の部分的中止とベトナムからの撤退、北ベトナムとの和平交渉および、この年に行われる民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。ここまで言ってもなおアメリカは負けていない、撤退しただけだとほざくバカが存在する。なお、ジョンソンは大統領選挙への不出馬の理由として、ベトナム戦争に対する国内の反戦運動などによる世論分裂の拡大を挙げている。内政面での躍進は最後まで矜持していた。実際、この頃になると反戦集会は連日全米各地で巻き起こり、各地で警察や軍と衝突していた。

Good by Black & White[編集]

ジョンソン大統領の不出馬表明からわずか4日後、テネシー州メンフィスで、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が暗殺される。

白人男性によって

当時、すでにキング牧師の影響力は低下しており、彼の唱えた非暴力主義による運動も下火となっていた。しかし、彼は臆することなく積極的に活動を続けており、世界中の多くの人間から賞賛を得ていた。もちろんそんな彼だからこそ目の仇にする人間も多く、誹謗中傷、暗殺の予告はそれこそ膨大なものとなっていた。

もっとも、そんなのを恐れてちゃあノーベル平和賞なんざもらえないわけで。

結局、彼は毎日暗殺の危険と戦い続けるという超絶なプレッシャーの中で、各地で差別撤廃に対する演説を繰り返していく。しかし、そんな彼をネガティブキャンペーンが大好きなアメリカのマスコミは、聖人君主のように振舞う彼も実は女癖が悪かっただの、ノーベル賞受賞者のくせにこんな政治的な問題発言をしていいのか、だのいう話で叩いていく。その結果、数年前に20万人もの人間を首都ワシントンD.Cに集めた彼の影響力は激減、当時、彼は完全に過去の人という立場であった。しかし、この多くのマスコミによる一連のネガティブキャンペーンの結果、彼が実際に暗殺されたことによって、逆に彼はマスコミによってアメリカの聖人君主として祭り上げられることとなる。これは、新聞を多く売るためにマスコミがしばしば使用する常套手段の一つである。

そして、アメリカの黒人の中から彼の誕生日を国の祝日にしようという声が高まるとマスコミもそれを大々的に取り上げ、一連のムーブメントが始まっていく。中でも、歌手スティービー・ワンダー1980年に発表した「ハッピー・バースディ」はこの運動に賛同して作られた楽曲であり、彼の代表曲と言える歌にまでなっている。そして1986年、ついにアメリカ政府は新たな祝日として彼の誕生日である1月15日に近い毎年1月の第3月曜日を「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・デー」を制定する。

アメリカには、新聞の部数を増やすためなら、何をしてもよい世界が現実に存在する

この混乱のもう一方の主役であるロバート・ケネディは、暗殺されたキング牧師の葬儀にも参列し、その後、人種間の和解をより一層推し進めるため、黒人以外の人種へも積極的に関わることを発表する。中でも、移民に対する待遇の改善を取り上げたことは、当時劣悪な環境にいたメキシコ系の住民に歓迎され、併せて、劣悪な環境にしていた資本家からは嫌われることになった。

6月5日、彼は全米最大の州、カリフォルニアで行われた予備選で勝利する。しかし、その直後の祝勝会で、彼はパレスチナから来た移民によって暗殺される。その理由は、ロバート・ケネディがイスラエルに対して戦闘機を売却することに賛成したということだったが、もちろん、誰も信じない。しかし、それ以外の暗殺される理由がものすごく多かったこともあり、彼の暗殺は現代でも謎のままである。公式でも、暗殺犯の言うイスラエルへの戦闘機売却問題がその理由となっている。

そして、大本命がいなくなったアメリカの大統領選挙は、まさに混沌の極みという状況の中突き進んでいくことになる。

シカゴ7[編集]

1968年の民主党の大統領予備選挙は、当初、大本命だったジョンソンがテト攻勢の余波で早々に撤退を表明し、その後に出てきた、ロバート・ケネディが暗殺されるという大本命が次々といなくなる中、選挙開始直後、泡沫候補と見られていたリベラル派の、ユージーン・マッカーシーがベトナム戦争からの即時撤退を掲げて本命候補に躍り上がっていた。しかし、そのような中で、当初、大統領選挙に不出馬を表明し、立候補さえしていなかった副大統領、ヒューバート・H・ハンフリーがロバート・ケネディ暗殺後に急遽出馬を表明、党内の有力者達の後ろ盾を得て、マッカーシーを巻き返すといった、激烈かつ不明瞭な選挙戦が繰り広げられた。わずか2ヶ月あまりの選挙戦で最終的に、本命と見られたマッカーシーを破ったハンフリーだったが、どう考えても、普通の市民ですら大きな不満が残る結果であり、なおかつ、普通の市民ではない若者には許されざる結果であった。

そのような不穏な状況の中、8月26日、民主党の大統領候補が選ばれる党大会がイリノイ州シカゴで開催される。

会場のあるシカゴ市内では、当初、平和的にベトナム戦争反対のデモが行われていたが、夜になると徐々にヒートアップし、最終的に警察が催涙弾を使用し、群衆を警棒で殴りつけながら次々と逮捕するという騒ぎに発展する。この時点で、公民権運動で燃え上がったわかもののじょーねつってえやつは頂点を迎えることになる。このときに逮捕されたデモの中心人物が、シカゴ・セブンといわれるツッパリどもで、後に死刑判決を受けるわ、ウッドストックフェスティバルでステージに乱入するわ、裁判官にLSDを勧めるわ、などなど大変濃いいヤツラだった。最終的に、彼らは無罪放免され、別件で収監された後も短期間で釈放となる。その後、彼らは実業家として成功したり、ヨガに啓発されたり、バーベキューソースを販売したり、本当は8人だったり、色々と記録に残ることをしている。なんかスピルバーグが映画化したいなんてゆーてたりもする。

この様に国内情勢が混沌とする中、政権末期のジョンソンは10月に北爆を全面停止させる。もーなんていうか、ベトナムのことなんかよりも自国の混乱のほうが手に負えないことを理解しつつ。

ミスター悪人顔、奇跡の復活[編集]

1968年の大統領選挙は、ジョンソン、ロバート・ケネディと主役が交代しまくって支持率を落した民主党を尻目に、ミスター悪人顔、8年前のアメリカ大統領選挙でケネディに負けたリチャード・ニクソンが奇跡の復活を果たす。それでも、民主党の候補だったヒューバート・H・ハンフリーとわずか1.2%の僅差だったのだから、悪人顔が急に治ったわけではない。なんせ、ケネディに敗れた2年後にコマンドーでおなじみのカリフォルニア州の州知事選挙に打って出て、見事に落選したぐらいなのだから。また、ケネディ兄弟暗殺の黒幕としてたびたび語られるのも、やはり、その悪人顔があまりにフィットしすぎるためである。

1969年1月20日アメリカの第37代大統領に就任した悪人顔は、それまでの政権とは違ったアプローチでベトナム戦争に関わっていく。それまで、兵力と金をつぎ込めばつぎ込むほど泥沼化していた戦況に見切りをつけ、まず大統領選挙での公約どおり、8月に第一陣として25,000人を帰国させる。さらに、それまで敵対関係にあった共産圏の国々と積極的に外交政策を初め、寄せ手がダメなら搦め手とばかりに、ベトナム一国で地に落ちたアメリカの威信を他の国々との国交で復活させよう画策しはじめる。その先頭に立ったのが、アメリカを代表する外交バカでパイプをくゆらせながら陰謀をめぐらすのが趣味のヘンリー・キッシンジャーである。その結果、それまで猛烈に送り込まれていた北ベトナムへの支援が徐々に少なくなっていく。これは、資源の乏しい北ベトナムにとって死活問題である

なお、このパイプ愛好家のおっさんのすごいところは、ゴルゴ13において、ゴルゴと同じレベルの実力者として描かれているところにある。

民心の安定[編集]

ジョンソンの退陣からベトナムの撤退、さらに北ベトナムとの和平交渉も始まり、いいかげん、反戦運動に疲れてきた連中に対し、まったく違うアプローチで地に落ちたアメリカの威信を再び上昇させる偉業が成し遂げられる。1969年7月20日、アポロ11号が月面着陸に成功し、世界中の賞賛を浴びる。その後、厭戦気分に疲れたアメリカ人は反戦運動から距離を置き、連日テレビから流れる宇宙開発競争と科学の進歩に目を向けるようになる。そんな時代に行われた大阪万博の盛り上がりようったら、もう。なお、10月に行われた反戦デモでは、それまでの過激なデモではなく、ロウソクに火を灯すといった静かなものへと変わっていく。11月からは米ソ間で核ミサイルなどの戦略兵器削減交渉の予備会談が始まり、翌年4月からは本会談に入った。ここにおいて米ソの対立はひと段落し、いわゆるデタント(緊張緩和)の時代に入る。

もちろん、こんなことで戦争が終わるんだったら、誰も苦労はしない。

貴様ら、いきがってんじゃねえぞコラ[編集]

追い討ちをかけるように悪人顔は、もはや単なるパフォーマンスと化した反戦運動にむかっ腹を立てる一般住民をターゲットに反反戦運動を呼びかける。「小うるさくない多数派(サイレント・マジョリティ)」と呼ばれる多くの人間は、実際に戦場に行くわけでもない大学生どもが勉強もしないで日夜騒ぐ姿に辟易しており、また、そんな野郎どもと金持ちのボンボンがこぞって民主党に投票するのを苦々しく思っていた。そのため、いざ我らが悪人顔が大統領になると、一気に反戦運動への反発が始まることとなる。これは、悪人顔の出身母体である共和党が労働階級、貧乏人、キリスト教以外は人じゃない、などを支持基盤としていたためである。

また、過去も現在も実際に戦場に行く兵士のほとんどが貧乏人の息子であり、学費のためもしくは国籍の獲得、さらには貧困からの脱出のために戦っており、アメリカの言う自由だの正義だのなんて話は、彼らにとってこじつけでしかなかった。その結果として、名誉の戦死や片足なくして心を病んで帰ってきても、同じアメリカ人から、人殺しだの敗残兵なんだの言われる生活が待っていたんだから、悲しすぎる。ランボーが町を一つ壊滅させる気持ちがよく分かる。さらに、そんな暴言を吐く野郎どもが、結局、徴兵を免れることのできるインテリや戦場に行くこともない良いとこのボンボン、さらに社会になじむことを放棄したヒッピーどもだったため、実際に兵士を送り出す生活層に反戦運動への不満が溜まるのは致し方ないことだった。また、金があるやつらほど徴兵されても内地勤務で過ごせるよう手を回すんだから溜まったもんじゃない。

そんなクソ野郎が大統領になったんじゃなおさらだ

そのため、彼らは満を持して悪人顔の呼びかけに応えて声を上げ、各地で反戦団体とぶつかり合った。

なお、このようなぶつかり合いの陰で、ベトナムで共に戦った黒人と白人、さらには各少数民族出身の若者が地獄の戦場で人種間を超えて和解をはじめている。もっとも、ジャズブルースメジャーリーグアメリカンフットボールの世界ではとっくの昔に常識となっていたわけだが。結局、それまで法律と生活の二つの壁で分け隔てられていた黒人と白人の壁は、公民権法とベトナム戦争により一気に取り払われ、30年後に黒人の国務長官、39年後に黒人の大統領を選出するまでになる。

このことについて、死ぬ寸前のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは「皮肉やね」と述べている。

紛らわしいことこの上ない話[編集]

テト攻勢でもはや単独での戦闘が不可能となるほどのダメージを負ったベトコンだったが、その甲斐あって1969年1月から、アメリカと北ベトナムが和平に向けての交渉を開始される。その際、当然のことながら、絶対に和平をさせるわけにはいかない南ベトナム政府も会談の場に立つため、1対2では和平交渉が進展しないことも考えられた。それを防ぐために1969年6月、北ベトナム主導でベトコンによる政権、南ベトナム共和国が結成される。首都は、よりにもよって南ベトナムの首都サイゴン。なお、実際に北ベトナムと戦っている南ベトナムの正式名称はベトナム共和国である。紛らわしくて紛らわしくて仕方がない。この傀儡政権の存在意義はただ一つ、外交の場に立つことだけだった。彼らは、政権成立からパリで和平協定が結ばれる1972年まで常に外交の場で北ベトナムをサポートし、1975年のベトナム戦争終結とともに、南ベトナム全土を掌握する。しかし、1976年7月1日、北ベトナムによって吸収合併された結果、南ベトナム共和国は消滅する。かわいそうなことに、南ベトナム共和国の政権をになった人間の中で、統一後もまともな役職を与えられた人間は数少ない。もっとも、主な仕事がゲリラだった人間が果たしてまともな政治ができるかと思うとはなはだ疑問であるが。なお、紛らわしい南ベトナム共和国政権で司法大臣だったチュオン・ニュー・タンは、その後、共産主義に幻滅し、フランスに亡命している。そして、情報が閉鎖されているベトナムの内幕を知る立場でベトナム政府批判を繰りかえし行っているため、大臣すら逃げ出すほどのひどい政治!という、これまた大変引っかかりやすいミスリードがなされることも多い。実際は、そんなに甘いもんじゃあない

その後、このやり方は1978年からベトナムが介入するカンボジア内戦でも踏襲される。1979年の1月に成立させたカンボジア人による傀儡政権は、結局、10年以上におよぶゴタゴタを乗り越えて現在のカンボジア政府になり、その際に外務大臣に任命されたのが2009年現在もカンボジア首相を務めるフン・センである。主な仕事がゲリラだった人間で、マトモな政治ができるわけはないのだが、マトモな人材が全ていなくなった状況から考えると、大変よくやっていると言わざるを得ない。

ひげよさらば[編集]

1969年9月2日、ホー・チ・ミンと書いてひげじじいと読む79歳の北ベトナム大統領が突然の心臓発作で急死する。北ベトナムはもとより、南ベトナムの国民までがおっさんと呼び親しんだ世界で一番有名なベトナム人の死に、世界中が悲しんだ。どこか一つの国を除いて

ひげじじいの生涯は、1890年、フランスの植民地だったころのベトナムに生を受け、船乗りとして世界をめぐり、宗主国であるフランスで共産主義に目覚めた後、ベトナムの独立のために帰国。見事に1945年9月2日に独立した後は、フランス、アメリカという世界の強国を相手に独立を維持し、そして、最後まで夢見ていたベトナムの統一を目前にして死ぬ・・・と書くと、まるでやっすい三文芝居にしか見えないが、全部事実だから困る。

けれど、安心してくれ。そのおかげで300万人死んでいる。

ひげじじい一番の功績として、1951年に北ベトナムの国家主席に就任した後、農地制度改革で旧来の地主階級を軍隊まで動員して弾圧したことが挙げられる。5万人ほど殺害して小作農に分け与えた結果、食料兵士の供給という2つの戦時における必須事項を満たしたことが、その後のベトナム戦争、および1978年から始まるカンボジア内戦への介入、そして1989年の撤退まで、30年以上に及ぶベトナムの戦時体制を維持する基盤となる。最後のほうになると、戦時体制を維持するために兵士を派遣してるんじゃないかとかんぐりたくもなる。その他にも、教育制度改革に徴兵制度改革を徹底させ、北朝鮮も真っ青の国民総動員制度を長年維持し続けたことも大きい。普通、自国の国民が戦争で100万人死んだら、分母のでかいソ連ならまだしも、1800万人しかいない北ベトナムでは国家そのものが崩壊して当然なはずなのに、その気配すら感じさせずに毎年南北ベトナムの住民を20万人以上死亡させている。鬼だ、鬼がいる

なお、1960年代に入ると年齢的な側面から政治の一線から退き、精神的指導者としての立場が強くしていく。そのため、その死に際しても特に政治的な混乱は起きず、逆にベトナム統一に向けて国民をより団結させることとなる。

分かりやすく言うとこうなる[編集]

チャップリンの殺人狂時代』より

~~1人殺せば殺人犯だが、100万人殺せば英雄だ。数が殺人を神聖化する~~

300万人殺して独立と統一を勝ち取ったその功績は世界史で見ても化け物の部類に属する。なお、アジアの現代史で彼の上を行くのは、毛沢東しか存在しない。ポル・ポトですら、200万人に留まっている。もっとも、毛沢東は数千万人規模でやってるわけだが。また、彼の残した言葉の中で特に有名なものとして、「独立と自由ほど尊いものはない」という演説の一節があるが、ベトナムが統一された後、南ベトナムに強烈な共産化と軍事体制化が行われた結果、どれだけ不自由と差別、そして混乱が巻き起こされたかは筆舌に尽くしがたい。ただし、本人は見事に死んでいたため、その名声にまったく傷はつかなかった。

ちょっと火を付けたら歴史に残る大火事になった話[編集]

火遊び大好きどこかの国[編集]

南北ベトナムを地獄と化した戦火の炎が、1970年3月、ついに隣国カンボジアに飛び火する。カンボジア国王であり、国家元首でもあるノロドム・シアヌーク中国に外遊中に、国防大臣ロン・ノルがクーデターを決行し、シアヌーク一派を国会から一掃する。そして、議会下院の承認を得た上で自分自身を首相に選出する。あぁ、もちろんCIAの支援を受けてね。これは、シアヌークが中国共産党と親密な関係を築いていたことと、さらにカンボジア領内を通るホーチミン・ルートとシアヌークルート、2つの北ベトナム軍の輸送ルートの存在を黙認していたためである。もっとも、カンボジア領内のホーチミン・ルートを爆撃し、多くの犠牲者と難民を生み出したどこかの国と親密でいられるはずはないけれど。しかし、いきなりのクーデターにより北ベトナム軍の兵站は大打撃を受け、それまで安定的に物資を運んでいたシアヌーク・ルートによる輸送が一気に停滞してしまう。さらに、追い討ちをかけるようにクーデターの翌月、どこかの国がいきなり国境を越えてカンボジアに侵攻し、カンボジア領内にあったホーチミン・ルートの中継基地を一斉に攻撃する。今度は、ロン・ノルが黙認したわけだが。その結果、ホーチミン・ルートも大ダメージを受け、結局、北ベトナム軍は南ベトナムへの物資の輸送についてルートの再構築を余儀なくされる。そして、1970年は、春から秋までの半年間、北ベトナム軍の軍事行動は著しく制限されることになり、どこかの国の思惑通りに話は進むと思われた。しかし、クーデターから2つの輸送ルートの遮断までは順調に行ったどこかの国だったが、半年後、北ベトナムは輸送ルートの防衛をさらに強力にし、それまで以上の物資をドカドカ南ベトナムへ補給しまくる。

一方その頃、戦火が飛び火したカンボジアでは・・・

国民から敬愛されていた国王を追放したロン・ノルは、首相になった時点ですでに国民総スカン状態だった。そのため、国王の従兄弟シリク・マタクを急遽フランスから呼び戻して副首相に据えるなど、国民の反感を慰撫する政策を行っている。しかし、どこかの国がカンボジア領内に共産勢力支配地域を広範囲にわたって爆撃しまくり、数万人の犠牲者と数十万人に及ぶ難民を生み出してゆくと、もはやどうなったところでロン・ノルの支持基盤を広げることは不可能になる。結局、彼は軍を後ろ盾にしての独裁を選択し、1970年10月、クメール共和国の設立を宣言する。なお、クーデター後、どこかの国が約束した支援については、金額にして1億5,500万ドル、兵力も南ベトナム駐留軍の一部を割いてカンボジアに派遣する程度しか行っていない。その上、どこかの国は、1973年にベトナムから撤退すると同時に、カンボジアからも撤退した

ちなみに、どこかの国が曲がりなりにも自国の同盟国だったカンボジアにここまでひどい仕打ちをした理由は、単に北ベトナムとの和平交渉を自分達に有利に進めたかったから、と言われている。

これぐらいではまだボヤ程度[編集]

反共産色、そして、反ベトナム色を強く打ち出していくロン・ノル政権は自国にいたベトナム人50万人のうち、北ベトナムと通じているベトナム人を弾圧し、そうでない連中を国外へ追放していった。その結果、カンボジア国内に50万人いたベトナム人のうち20万人を追放するなんて暴挙を行っている。おかげで国内の商工業は大混乱さ。しかし、その後の経過から考えると、追放されたやつらは心底ラッキーだった。発足当初からすでに民心を失っていたロン・ノル政権に対し、国内ではテロが頻発、共産勢力も農村部を中心に急激に勢力を浸透させていく光景は、明らかに7年前の南ベトナムと同じであり、事実、クーデターから12年保持した南ベトナムよりも早い、5年で国を瓦解させることになる。

そこまではいいんだ、そこまでは

一方、中国に外遊中、クーデターにより追放されたシアヌークは、祖国奪還のために自国の共産主義勢力と手を結ぶことを決断する。1970年4月23日、北京において彼は、文化大革命毛沢東にめちゃくちゃ影響を受けた共産系組織、クメール・ルージュとカンボジア民族統一戦線を結成する。なお、クメール・ルージュは、その急進的な思想から、一時シアヌーク自身が弾圧した組織でもある。そして、シアヌークは5月5日に「カンボジア王国民族連合政府」を立ち上げると、北ベトナムと連携しながら祖国の奪還に向けて動き始める。

なお、シアヌークが手を組んだ組織、クメール・ルージュサロット・サル、通称ポル・ポト1955年に作り上げた地下組織であり、シアヌークと手を結ぶ以前の1967年には武装蜂起すら引き起こしている。何よりも、政治に関して超ドシロウトであり、なおかつ、当時、文化大革命における教祖的存在に祭り上げられていた毛沢東に関して、まさにカルト信者のごとき考えを持っていた。そんな野郎どもが1975年に政権をとってしまったらどうなるか。

・・・多分、オウム真理教がクーデターを成功させると、ああなるんだと思う。

なお、ポル・ポトは、東洋のヒットラーとの悪名があるが、実際のところ、ヒットラーユダヤ人だけで600万人、第二次大戦中ヨーロッパ全域で数千万人の命を奪っているため、いくらなんでも10分の1以下しかないポル・ポトを比較対象にするのは難しい気がする。

そして大火事へ[編集]

中国からの支援を受け、再びカンボジアに戻ったシアヌークとポル・ポトは、北ベトナム軍と協力しながらクメール共和国軍との戦闘を続けていく。平時から農民に敬愛されていたシアヌークの存在は大きく、それまで弱小だったクメール・ルージュの勢力は一気に拡大し、カンボジア全土は泥沼の内戦状態に陥っていく。しかし、運命の1972年2月21日。悪人顔のリチャード・ニクソンが中国を訪問し、毛沢東と会談、どこかの国と中国は電撃的に国交を樹立させる。そして、必然的に北ベトナムと中国の外交関係が悪化した結果、カンボジア内戦から北ベトナム軍が撤退していくことになる。ここまでは常識の範囲内

最悪なのはもう一方。国交を回復した中国の支援を受けているクメール・ルージュと、自分の国が支援しているロン・ノル政権の板ばさみになったどこかの国は、まるで育てられない子猫のごとくにロン・ノル政権を見捨てた。そのため、大きな後ろ盾を失ったロン・ノル政権は、戦線の維持すらままならなくなっていく。そして、1975年4月17日ついに、首都プノンペンが陥落、クメール共和国は崩壊する。ロン・ノルは自分を見捨てたどこかの国に亡命し、副首相シリク・マタクは処刑される。一気にカンボジア全土を統一したクメール・ルージュは、1976年1月に新しい国家、民主カンプチアを建国する。

その後、何がどうしてどうなったかについては聞かないでくれ。

鎮火まで[編集]

なお、親中色の強かったクメール・ルージュと中国への反発を強めていったベトナムは徐々に対立を深めていき、ベトナム戦争終了後の1978年5月、民主カンプチアに内乱が発生したのを契機に、ベトナムはカンボジア領内に侵攻する。そして、1979年1月にプノンペンを陥落させ、ベトナムは傀儡政権であるカンプチア人民共和国を建国する。しかし、クメール・ルージュとシアヌークはタイ国境の山岳地帯に逃れ、中国からの支援を受けながら反抗を続けていく。

なお、これはベトナムによる完璧な侵略戦争であり、国際法上でも許されざる行為に値する。ただし、もし侵略しなかったら、それ以上に悲惨なことになっていたことも確かであるため、あのどこかの国ですらベトナムに対して強いことがいえないのが現状である。最終的にベトナム軍がカンボジアから撤退したのが1989年、カンボジア内戦が終結したのが1991年ポル・ポトが死んでカンボジアに平和が訪れるのは1998年になる。

そして、カンボジアに初めに火をつけたどこかの国は、最後の最後までまともな支援をしていない

安心しろ、実はラオスも濃い[編集]

カンボジアと違い、元から共産勢力の強かったラオス王国に対して、アメリカは1950年代からちょっかいかけてきている。1958年にラオスの共産勢力パテート・ラーオが選挙で大勝すると、一気にちょっかいと書いて介入と読む行為は加速する。1959年、右派勢力が共産勢力への弾圧を開始したことをきっかけに、ラオスは南ベトナムと同じくクーデターが頻発する内戦状態へ突入する。ただし、南ベトナムやカンボジアとは違い、パテート・ラーオはラオスの王族であるスパーヌウォン王子がフランスの植民地政策に対抗して組織していたため、元から国民の支持も厚い上、さらに、独自に北ベトナムと友好関係を築いていたため、よほどのバカかアメリカ人でなければ、下手に手を出したら国をひっくり返されかねないことは理解していた。そして、1961年、米英ソの三カ国の呼びかけで停戦が成立、1962年7月にラオスの中立化と外国軍の撤退が宣言された。

誰も守らなかったが。

その後、ラオス国内の共産主義勢力パテート・ラーオとラオス政府軍の対立が激化していく中、米軍も介入。1968年、北ベトナムへの爆撃を停止した後、今度はパテート・ラーオの支配地域に対して爆撃を敢行し、数万人の犠牲者と数十万人の難民を生み出していく。そして、1971年2月、前年のカンボジアで味をしめたアメリカ軍は、今度はラオスとの国境を超えてホー・チ・ミンルートを攻撃する。しかし、今回は北ベトナム軍も用意周到に準備しており、2ヶ月間に及ぶその戦闘で大敗北を喫した。この戦闘も結局は、アメリカが和平交渉を自国に優位に進めようとして行われたものであり、カンボジアと違い、今度は自分で自分の首を絞める結果となった。

1975年4月、カンボジアとベトナムで親米政権が倒されると、ラオスでも共産党勢力が拡大。12月、ラオス王国の解体と共和制の移行が決定され、ラオス人民共和国の建国が宣言される。初代大統領としてパテト・ラーオ指導者のスパーヌウォン王子が就任し、ラオスの国王だったスァーンワッタナーとその家族は、ロシアのロマノフ王家と同じ運命をたどる。

しかし、いくらなんでも人民キャンプで、全員餓死ってのはないだろう。

なお、ラオス国内ではこのことに触れるのはタブーとなっている・・・当たり前だ

ペンタゴン・ペーパーズってなあに?[編集]

1971年6月、ニューヨーク・タイムスにベトナム戦争に関しての特集記事が掲載される。正式名称を「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」、俗に「ペンタゴン・ペーパーズ」と呼ばれるその文書は、アメリカ国防長官直属の組織である国際安全保障局が制作したベトナム戦争に関する極秘文書であり、その内容はまさしく、どうやったら戦争に負けるかということに関する詳細な説明だった。もちろん、このとんでもない機密文書の暴露に悪人顔が激怒しないわけがない。早速、犯人探しとともに、ニューヨークタイムスに関して以降の掲載差し止めを命令した。ところが、ニューヨーク・タイムズが差し止められたら次はワシントン・ポストその次はボストン、さらにはシカゴと結局全米の17の新聞社で秘密が次々と暴露される異常事態に陥る。さらには、この秘密文書を受け取ったマイク・グラベル民主党下院議員が、国防とはまったく関係のない建設・土地利用小委員会でおよそ4,100ページのこの文書を読み上げるという暴挙を行い、その結果、この超機密文書が堂々と公文書として、誰でも閲覧できるようになるなど、もうどうしようもないほどアメリカ国民の知る権利とかいうやつが爆発、ベトナム戦争に関するウラのウラまで全国民に知れ渡ってしまった。そして、ついに裁判所までもが悪人顔の記事掲載差し止めを破棄する。その理由が「政府が検閲するなら、その必要性を証明しやがれ」。アメリカ国民、大喝采。その結果、トンキン湾事件が実はだったことや、敵戦力を過小評価したこと、場当たり的な追加派兵で傷口を広げたこと、何よりも、どうしたら戦争に勝てるかという考えがなかったことが国民にばれてしまう。

これらの衝撃的な内容はアメリカ国民を唖然とさせ、自国政府への信頼を著しく失墜させてしまう。このとんでもない情報漏えいを行ったのは、執筆者の一人であった国防省の元職員ダニエル・エルズバーグ。彼は後に窃盗・機密漏えい・スパイ容疑で友人とともに国から訴えられ、禁固115年を求刑される。しかしその裁判の途中、このとてつもない暴露を契機に、悪人顔が秘密裏に選任した情報漏えい専門の特別チームが、なぜだか悪人顔の再選に向けた活動で多くの悪事に加担していることが発覚。別名、ウォーターゲート事件と呼ばれる一連の裁判の中で、ついでに特別チームがエルズバーグが精神科にかかっていた際のカルテを盗もうとしたことも発覚。アメリカ政府が口をつぐむような赤っ恥の中で、晴れてエルズバーグと友人の裁判はそれ自体が審理無効となり、彼は無罪放免となった。

なお、当時の国防長官であるロバートマクナマラも、自身の回顧録で詳細にベトナム戦争の内幕を語っており、全て過ちだったことを認めている。その原因として彼は、当時のアメリカ政府が北ベトナムを共産主義者という側面ばかり見ており、もう一方の側面である民族自決や、ベトナムの歴史、民俗に関する専門家を一人も置いておらず、また、アメリカ自体、1950年代に吹き荒れた赤狩りのために、中国やソ連、何よりも共産党についての知識を有する人間をあらかた追放してしまっていたためであるとしている。そこの君、そらあ負けるわ(2回目)って言わない。

Have You Ever Seen The Rain?[編集]

1972年の大統領選挙に向けて、何とかして北ベトナムとの和平交渉を進展させたい悪人顔とパイプのおっさんだったが、残念なことに、北ベトナムの首脳陣はアメリカの最大の弱点がその選挙にあることを見抜いていたため、最大限の譲歩を引き出すためのらりくらりと交渉を長引かせていく。これは、アメリカ大統領選挙に向けて最大限のアピールをしたい悪人顔に対して、実は一番やってはいけない行為であった。この後、再選を目指すアメリカ大統領は選挙で勝ちたかったらまず戦争、という単純すぎて泣きたくなる選挙戦術を多発していくことになる。

いいかげん、交渉が進展しないことに頭にきた悪人顔は、1972年5月8日、北ベトナムに対する空爆「ラインバッカーⅠ作戦」を実行する。選挙になんとしても勝ちたい大統領がここまでするか!ぐらいの圧倒的な空爆により、北ベトナムの主要なインフラが破壊されたのに加えてハノイやハイフォンなどの市街地も絨毯爆撃で焼け野原にし、さらにホー・チ・ミンルートや、南ベトナムのベトコン支配地域に対しても徹底的な爆撃を行った。さらに、外国の船舶なんざ目に入らないかのように、主要な港湾施設を機雷で封鎖し、さらに当時のハイテク兵器であるレーザー誘導爆弾で戦略的に重要な橋脚を爆破するなど、まるでのように北ベトナムに爆弾を降らしまくった。なお、この戦闘で使用された爆弾のトン数は、2週間で20,000t。ケサン基地攻防戦並の爆撃を行っている。なお、ケサン基地の場合は南ベトナム領土であるため空爆が比較的容易であるのに対して、北ベトナムの各都市が対象となると、国境を超えて対空砲火が飛び交う中で爆弾を落さなければならないため、はっきりいって、パイロットにとっても悪夢でしかない

これ以降、大統領選挙で2回目の当選を目指す大統領に、人間性を期待してはいけないことは常識となる。併せて、湾岸戦争で勝ったのにビル・クリントンに負けたどっかの大統領を教訓に、選挙に併せて戦争しとけという、さらにひどい発展も見せている。

この作戦により、北ベトナムのインフラはほぼ壊滅に近い状態になり、弾薬や燃料なども底をつくなど、一時的に戦争の継続が難しくなるまでのダメージを負った。何よりも、本格的な市街地への爆撃は、アメリカがいかに本気であるかを北ベトナムの民衆に分からせる効果があり、それまで外交交渉を長引かせてきた北ベトナムもさすがに交渉の席に着かざるをえなくなった。最終的に、北ベトナムの軍事的損失は、施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%と莫大なものになった。さらに、北ベトナムはもとより、南ベトナムの民衆にも多大な犠牲者を出している。

Who'll Stop The Rain[編集]

この攻撃は、世界中にアメリカに対する非難が巻き起こることが分かりきった中で行われた。実際、攻撃の三ヶ月前に結ばれた米中の国交がいきなり危機に瀕するなど、悪人顔にとって、北ベトナムとの和平で大統領選挙に勝利するか、それとも世界中の非難の中、ジョンソン政権の二の舞となるかどうかの大博打であった。なお、この作戦の成果から、実はアメリカはベトナムで勝てたんだ!とほざくバカもやっぱり存在する。しかし、もしこの段階で和平協定の締結が行われなければ、アメリカは経済面で敗北した可能性が高い。すでにベトナム戦争の戦費の急増が国家経済を圧迫するまで膨れ上がっており、1971年には積み重なった貿易赤字のために米ドルを変動為替相場に移項させるニクソン・ショック(ドル・ショック)を行うまでアメリカ経済は追い詰められていた。なお、ここまで言っても分からない人は、イラクで勝利した→イラクで勝利している→イラクでは勝利に向かって歩んでいるとほざいたどこかの大統領が、積み重なった戦費と経済に対する無策のおかげで、どう考えてもイラクで勝てるわけがないことを世界中に知らしめている現況をかんがみれば理解できる。幸いなことに、悪人顔はあそこまで無能ではなかったため、経済でも戦争でも一応の結論を出すことに成功している。

それに比べて。

水門と世界最悪のクリスマスプレゼント[編集]

無謀な爆撃の結果、なんとか北ベトナムを交渉の場につかせることに成功したアメリカだったが、今度は自分達の側に看過できない強烈なスキャンダルが発覚すると、まさに、それをもみ消すがごとくの大爆撃をしかける。それが最終的に悪人顔を大統領辞任に追い込むウォーターゲート事件クリスマス爆撃である。

1972年6月17日、アメリカの首都ワシントンD.Cにあるウォーターゲートビルで、5人の侵入者が捕まった。そこまでは別におかしくもなんともない話なのだが、ウォーターゲートビルに、アメリカ民主党の全国委員会本部があり、なおかつ、侵入者の一人が悪人顔の大統領再選運動委員会の関係者の連絡先が書かれたメモを持っていたことから徐々に騒ぎが大きくなってくる。そんな中で、アメリカ政府の大スキャンダルの様相を呈してきたウォーターゲート事件の裁判がパリ和平会談の真っ最中である1月8日に決定する。そのため、混乱するアメリカ国内の状況が、北ベトナムとの交渉に大きく影響を及ぼしかねない状態だった。そこで、何としてでもベトナムからの撤退を計りたいアメリカは、国際世論をまるで無視、しかもわざわざクリスマスに大規模な爆撃「ラインバッカーⅡ」作戦を決行する。それも、軍事施設はまるで無視して、市街地を重点的に狙って。その結果、国民の関心が再びベトナムに向けられたことは言うまでもない。もちろん、めちゃくちゃに国際世論から叩かれることは悪人顔も想定済みだったことは間違いないが、まさかウォーターゲート事件のもみ消しに失敗するとは考えていなかったに違いない。ちなみに、失敗した原因が、裁判直前に裁判関係者へのワイロが発覚し、容疑者の証言がなくても有罪にすることが予め決められていたことがばれてしまったことによる。つまり、事件の裏側をまったく調べずに単なる家宅侵入罪だけで有罪にすべきという、どこかの誰かによる手回しが表ざたになった結果、不正に激怒した裁判官が容疑者に対して懲役30年を食らうか、事件の調査に協力するかどっちか選べと言ったためである。そして、一人寝返った。

もちろん、パリでは和平会談が続いていた。

パリ和平協定[編集]

徐々にウォーターゲート事件による包囲網が完成されつつあった1972年11月の大統領選挙は、予想外に悪人顔が大勝するという結果に終わる。これは、北ベトナムを和平交渉の場に着かせることに成功したこと以上に、相手側である民主党の失策が大きい。特に、民主党候補のジョージ・マクガヴァン陣営で副大統領候補に鬱病にかかっていた時期があることが発覚、急遽新しい人間に入れ替えるという大失態は、パリでの和平会談を抜きにしても、民主党にとって致命的だった。その結果、悪人顔は史上2番目の大勝(当時)で大統領に再選する。そして当選の熱狂覚めやらぬ1973年1月23日、フランスのパリでパイプのおっさんと、北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問により、和平協定に仮調印がなされ、ついにアメリカはベトナムの泥沼から抜け出すことに成功する。それは、1950年代にドミノ理論とかいう妄言に20年間振り回された結果、ドミノより先にアメリカが倒れたことを意味した。

そういえば、もう一人重い心臓疾患で倒れた気がするが、いなかったことにしよう

4日後の1月27日、南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャー国務長官、北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相にグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府(ベトコン)外相の四者間でパリ和平協定は調印される。それは、アメリカにとって名誉ある撤退を、北ベトナムとベトコンにとっては祖国統一のための道筋を示していた。

南ベトナムにとっては最後通牒を示していた。

1月29日、悪人顔はベトナム戦争の終結を宣言した。世界中がこの発表をことのほか喜び、パイプのおっさんと、レ・ドク・ト特別顧問には1973年度のノーベル平和賞を授与されることになった。しかし、トは、平和賞の受賞を辞退する。それが、南ベトナムにとって何を意味するかは明白なことだった。

なお、パリ和平協定、正式名称「ベトナムにおける戦争を終結させ、平和を回復するための協定」は8章第23条まであり、戦闘の停止や、捕虜の交換、永続的な平和や、南ベトナムの独立の維持などについて事細かに定義している。アメリカは名誉ある撤退のためにこの協定をきっちり守り、条約締結から2ヶ月以内に全兵力をベトナムから撤収させる。

そのほかの連中は、誰も協定を守らなかった。守る必要もなかった。

アメリカ軍の全面撤退[編集]

1月27日のパリ和平協定から粛々と撤退を開始していたアメリカ軍は、3月29日にインドシナ半島から全面的に撤退することになる。地獄のジャングルから生還した連中を本土で待っていたのは、不況と就職難、そしてベトナム帰還兵への差別、さらに、まったく手当てのなされない自分自身のPTSDやら薬物中毒やら、まぁとにかく悲惨な現実だった。しかも、本来なら彼らを真っ先に扱うべきマスコミも、1972年6月に発生したウォーターゲート事件に付きっ切りになり、帰ってはきたものの誰も相手にしてくれない状況だった。それはいつまでも続き、帰還から30年以上たった現在にいたっても、政府はなんの保証もしてくれないこの素晴らしさ。結局、ベトナム戦争は、英雄のいない戦争として、アメリカに負のイメージしか与えない歴史の一ページとなる。

おかげで、世界中から愛されて困る。

パリ協定では、北ベトナムに捕らえられた捕虜についても取り決めが行われ、北ベトナム各地に点在したアメリカ軍の捕虜収容所から多数のアメリカ軍人の捕虜が解放された。南ベトナム軍人においてはその限りではなかった。このとき、アメリカ本土に大勢いた行方不明者の家族は、捕虜の名前の発表の際に天国と地獄を味わうことになる。分かりやすく言うと、2002年9月17日、日朝首脳会談における北朝鮮に生存している拉致被害者の発表および、死亡した拉致被害者の発表。もちろん、北ベトナムにおいても、戻ってこなかった連中のほうが多く、彼らは、北朝鮮・・・もとい、北ベトナムはウソをついている!と大声を上げ、政府に行方不明者の捜索続行を願い続けた。日本とあまりに似すぎていて泣きたくなる。また、そういう話ほど映画や小説などのサイドストーリーに取り上げられる状況は、アメリカでもまったく変わりなかった。なお、現在でも行方不明者の捜索は続いており、決して、ランボーが行方不明者を救い出すようなヨタ話は存在せず、骨を拾い集めてDNA鑑定を行うという地道な作業が行われている。

ちなみに、2008年のアメリカ大統領選挙で共和党の候補となるジョン・マケインもこのときに開放されている。彼は、最後まで口を割らなかった捕虜として、アメリカでベトナムから生還した英雄として扱われている。いったいどれだけ英雄が少なかったかよく分かる話である。

アメリカ軍撤退後の戦況[編集]

南ベトナムからアメリカ軍がいなくなるまで、北ベトナム軍とベトコンは鳴りを潜める。これは、アメリカの気が変わることがないように配慮したためであり、ウラでは着々と物資の輸送やホーチミン・ルートの修繕を行っている。アメリカ軍の全面撤退が完了した後、南ベトナム軍はまさに兵器だけ持っていてもやる気がなけりゃ何の役にもたちゃしないことを実証するかのように、連戦連敗を続けることになる。なお、南ベトナムから撤退したのはあくまでアメリカ軍だけであり、最初に派遣された軍事顧問団はいまだに現地に存在し、南ベトナム軍への物資の補給を任されている。おかげで、最後の最後でひと悶着することになる。

なお、米軍撤退までに供給された装備の内訳とは、「共和国陸軍」M1カービン約800000丁、M16アサルトライフル640000丁、M79グレネードランチャー34000丁、AN/PRC-77通信機40000セット、半トントラック20000輌、M41軽戦車214輌、M557指揮車(M113の派生型)77輌、M113装甲車(APC/ACAV)1030輌、V100装甲車120輌、M48中戦車(M48〜M48A3)248輌、(更にM72LAW、105mm榴弾砲、155mm榴弾砲等の装備も多数保有)「共和国空軍」F-5、A-1、A-37を約200機、AC-47を30機、UH-1、SH-58、AH-1G、CH-47、OH-6等のヘリコプターを約500機(18飛行隊を組織)その他各種航空機を約600機「共和国海軍」両用戦闘艇672隻、機雷戦艦艇20隻、哨戒艇540隻、支援艦艇56隻、ジャンク船242隻、カッター艦4隻、護衛駆逐艦1隻等合わせて1400隻の艦艇及び、サイゴン造船所をはじめとする大規模な施設といった強大なものであり、これらを運用する兵員(=総兵力)は、民兵や地方軍、そして正規軍を合わせて約1000000人にまで膨れ上がっていた。

3年後、どれほどの兵器及び物資が鹵獲されたかは聞かないでくれ。

このように、軍事的な側面でまず勝つことのない軍隊に対する補給は補給とはいえず、ある意味、昔付き合ってた女がどーしても別れさせてくれずにゆすりたかりに走っているという説明が一番しっくりくる。

また、1974年1月には、北ベトナム軍が隣国のカンボジアの首都であるプノンペンに迫り、更に、9月以降、中国やソ連から更なる軍事援助を受けた北ベトナム軍が南ベトナムの北部を占拠し、南下を続けるなど南ベトナム軍の崩壊はもはや誰の目にも明らかだった・・・もとい、それでも軍事援助をドバドバ与えている国以外にとっては明らかだった

1974年8月、アメリカ大統領リチャード・ニクソンがウォーターゲート事件に関する一連の責任、すなわち、現職の大統領が選挙で勝ちたいからといって民主党の建物を盗聴させ、発覚した後はそれをもみ消そうとワイロを送るわ、裁判官をクビにするわで大騒ぎした一連の事件の責任をとって辞任すると、もはや、誰の目にもアメリカが南ベトナムを救うなんてことは出来っこないことが明らかになる。正確に言うと、アメリカ国民全員があの悪人顔とアメリカの嫌な過去を忘れたくて仕方がない中、何がうれしくてそんな無能な味方を応援せにゃならんのだ、ということである。そのため、新たにアメリカ大統領に就任したジェラルド・R・フォードは、さっさと南ベトナムから縁切りをすることを決断する。

自由だの民主主義だの、正義だのドミノだのいう戯言は全部うっちゃって

また、アメリカ経済もベトナムでの戦費やアポロ計画への出費、そしてオイルショックの発生によって大ダメージを受けており、その後のジャパンバッシングにまでつながる景気停滞やベトナム戦争後遺症と言われる国内の混乱が続き、アメリカが主導権を握れない世界情勢が後々まで尾を引いていく。

Final Round Fight![編集]

1975年3月10日、ついに北ベトナム軍が南ベトナムへと侵攻する。そらあ、ノーベル平和賞をもらうわけにはいかんわな。もっとも、以前から南ベトナム軍の自壊は始まっており、いつでも侵攻しようと思えば出来たのだが、いかんせん、和平協定の反故を理由にもし悪人顔がしゃしゃり出てきたら、という可能性をすてきれなかった。というのも、アメリカ大統領というのは、自分のスキャンダルを隠すためには、セルビアを初めとする他国へ爆撃することも辞さない存在であるため、ウォーターゲート事件の最中に攻め込んだら、大喜びでアメ公が舞い戻ってくるのが分かりきっていた。そのため、北ベトナム政府は、ウォーターゲート事件で悪人顔が辞任した後、どんな大統領が就任し、どのような政策を打ち出すかをしっかりと見極めたうえで、南ベトナムへの攻勢を決断する。その本気度は作戦名によく表れており、「ホー・チ・ミン作戦」という、センスが感じられない分、この一撃に全てをかけていることが丸分かりの命名を行っている。

すでにアメリカからの援助も激減し、さらに軍全体に無力感が蔓延していた南ベトナムは、この攻勢によりあっという間に瓦解していく。作戦開始直後、テト攻勢で激戦を繰り広げたフエを、4月にはアメリカが大金かけて軍事基地にしたダナンを制圧。本来なら北ベトナム政府は数年をかけて制圧すると計画していたのだが、前線の南ベトナム軍はあっという間に逃走に次ぐ逃走という体たらくだったため、勝っている北ベトナム軍すらあっけに取られるほどのありえない進軍スピードで南ベトナム各都市を制圧していくことになる。また、南ベトナム軍は本来守るべきはずの市民、物資、アメリカ製の最新式の兵器を置いて逃げ出したため、北ベトナム軍とサイゴンへ向かう避難民と一緒に南へ向かうという珍妙な光景も出現している。撃つわけにもいかんし、留まるわけにもいかんし。なお、このときに獲得した最新式の兵器は、ベトナム戦争後に起こる中越戦争(中国とベトナムの戦争)やカンボジア内戦で大活躍している。

1971年に南ベトナム大統領に再選していたグエン・バン・チューはホー・チ・ミン作戦開始直後からアメリカに大規模な軍事支援を求めるが、当然のごとくに拒否され、ここに南ベトナムの命運は尽きる

最終的に、南ベトナム軍は各都市の防衛を諦め、サイゴンに全ての兵力を集中するために前線から部隊を撤退させるよう、各部隊に指令を出す。この指令がきっかけとなって、逃走したくてしたくてたまらなかった前線の連中はもとより、北ベトナム軍が攻め込んでいない場所ですら軍が撤退、その結果、まるで足止めされることなく北ベトナムの戦車が市街地と幹線道路を突っ切って、サイゴンへ向けて進軍していくことになる。

土壇場でババの押し付け合い[編集]

4月21日、少なくとも先を見通せないほど愚かではないグエン・バン・チュー大統領は、一切の責任を取って大統領を辞任し、後任として軍の重鎮であったチャン・バン・フォン副大統領が大統領に昇格する。新しく大統領になったフォンは南ベトナムでは共産勢力に対する穏健派として知られ、最後の最後で外交による解決を目指すことが期待されての就任だったが、そんな甘い話はどこにもなかった。そのため、4月21日に大統領になったフォンであったが、北ベトナム政府が4月23日に交渉を正式に拒否すると、すでに存在価値自体がなく、結局、北ベトナム軍がサイゴンに迫った4月29日にこちらも辞任する。幸いなことに、穏健派であったがために、サイゴン陥落後も自宅軟禁ですんでいる。

不運なる人々[編集]

4月29日、辞任したフォン大統領の後を受け、最後の最後、どうしても誰かがやらなければならない仕事のために、ズオン・バン・ミンが大統領に就任する。なお、南ベトナム政府の高官とその家族はあらかた国外に脱出しており、そのほとんどがアメリカに亡命している。現在、アメリカに亡命政府を立ち上げて、ベトナムに対する国家転覆を狙っている。いまだに。ただし、2009年現在の首班がグエン・カーンという段階で、いかに人材が少ないか明確にわかる話である。

また、一般庶民はさらに最悪で、3月時点で南ベトナムの崩壊が明らかになると、富裕層は続々と国外への脱出を図るようになる。また、紙幣の価値が暴落したため、一般庶民は南ベトナムの紙幣であるビアストルを宝石、アメリカドルなどに交換している。その後、北ベトナム軍にあらかた没収されることも知らずに。特に悲惨だったのは中国系ベトナム人、いわゆる華僑と呼ばれる人々で、北ベトナムと中国の国交が悪化するにつれて弾圧も激しくなり、最終的に1979年中越戦争が勃発するとあらかた財産を没収されてしまう。そのため、華僑の人々を中心にボートピープルと呼ばれる避難民が周辺各国に続出し、その一部は日本にまで亡命してきている。

戦争に勝ったらイラクが平和になるなんていう考えの持ち主は、いわゆるバカの部類に属するという話。

サイゴンの最後[編集]

ズオン・バン・ミンが大統領に就任した段階で、北ベトナム軍はサイゴンに迫り、後はいつ突入するかという段階にまで来ていた。すでに南ベトナム軍は各地で崩壊し、サイゴン周辺の軍施設にも北ベトナム軍の攻撃が続いていた。そのため、民間の飛行機も離着陸するタンソンニャット空港も使用不可能になったため、国外へ逃亡する人々は、サイゴンから南ベトナムの沖合いに停泊するアメリカ軍の空母へヘリコプターや小型艦艇、小船に乗って移動しなければならないという有様だった。

そして、ベトナム戦争におけるアメリカ軍最後の作戦「フリクエント・ウィンド作戦」が始まる。・・・つまり、ベトナムに残ったアメリカ軍関係者と南ベトナム政府高官、民間人をさっさと救出してトンズラこいて逃げろ、という実に分かりやすい作戦だった。ちなみに、北ベトナム政府もそのことはちゃんと理解しており、ちゃんと逃げ出すまではサイゴンの攻撃を手控えていた。4月30日、アメリカ政府からの要請で、アメリカの南ベトナム大使とグエン・バン・チュー大統領、グエン・カオ・キ副大統領が逃げるまで待っていたんだから、ある意味優しい。もちろん、ン万人を超える国外逃亡したい人間全てを受け入れられるわけはなく、しっかりと選別が行われている。子供達だけでも!とか、妻だけでも!という悲劇も多く、ヘリコプターの発着所であったアメリカ大使館前ではとんでもない数の永遠の別れが繰り返されていた。さらにタンソンニャット国際空港が閉鎖される寸前においては、最後の飛行機の離陸の際に、飛行機の収容人数を超えてもなお機内に入れてくれと懇願するベトナム人搭乗者を、銃を構えた白人が無理やりに機外に追い出している。なおかつ、その様子を、アメリカのテレビ局が全世界に放送している

すごいよね、アメリカ人

なお、最終的にアメリカ軍の空母へ乗せる人数を増やすため、アメリカ軍は、人間を乗せてきたヘリコプターを人力で南シナ海に突き落として、次に飛来するヘリコプターの着地箇所と人間の立つ空間を確保している。そういえば700年ほど前にも南シナ海に何かが突き落とされた気がしなくもないが、面白いからそっとしておこう

そして、最終的にアメリカ人がいなくなり、ベトナム人の選別が終了した4月30日、サイゴンは陥落する。最後の南ベトナム大統領、ズオン・バン・ミンは南ベトナム大統領官邸に突入してきた北ベトナム兵によって降伏文書に調印、アメリカの傀儡国家の大統領として、ラジオで降伏宣言を行う。その結果、1955年より存在した南ベトナム、正式名称ベトナム共和国は解体し、新たに南ベトナム共和国が全土を掌握する。なお、ズオン・バン・ミンは北ベトナム兵に拘束された後、政治犯収容所に送られている。そして、1983年にフランスへ出国し、2001年、同地で死去している。

しかし、あったりまえのことだが、アメリカ人はアメリカ人しか助ける気はなく、南ベトナムにいた世界中の人間のことなんざ歯牙にもかけなかった。そのため、西側諸国のマスコミ関係者や大使館員など、多くの日本人が同地に残されることになった。もっとも、軍事的にも経済的にもベトナム戦争に関わりすぎた韓国人ほど悲惨ではなかったが。

最終的に、ベトナム戦争後にサイゴンを含めた南ベトナムには6,000人に及ぶ韓国人が取り残されたといわれている。彼らは、「在越大韓居民団」という団体を結成し、ベトナム戦争後の食糧難や、80年代のカンボジア内戦時の困窮を乗り越え、1990年代より本格化するドイモイ政策による経済発展において、日本に先駆けて本国からの投資を呼び込むことに成功している(ただし、1997年のアジア通貨危機で韓国経済がズタボロになるまでの話)。

サイゴンの最後のその後[編集]

サイゴン陥落直後の1975年5月1日、サイゴン市はホーチミン市へと改名される(漢字で書くと胡志明市)。その命名のセンスについて、責任者出て来いといいたくなる。もちろん、本格的な戦闘は終結したけれど、小競り合いは残っており、散発的な戦闘はその後も数ヶ月続いている。中には無責任な話があり、サイゴン陥落後に、「南ベトナム軍の精兵が北ベトナムに対して抵抗を続けている、希望を捨てるな」などという悪質なデマが流れたこともある。なお、国を捨てるだのなんだのというのは金がある側の話であり、サイゴンが陥落した結果、一般住民がどうこうということはなかった。それがあったのは隣の国だ。また、社会主義政権下における一般住民への締め付けはいきなり強くなるわけではなく、あくまで民心の安定を第一に、南ベトナム軍兵士がやけにならないように武装解除させることを第二に考えて少しずつ少しずつ行われていく。もっとも、それまで南ベトナムで発展していた商業も工業もサービス業も、全て米国から資金の流れがなくなって、壊滅していくことは確定していたわけで、後は、どうやったって南ベトナムに北ベトナム流の戦時体制継続の生活を植えつけるかという話でしかなかった。それまでのアメリカドルでウハウハな生活が、1日3回食べるうちの1回を我慢して兵隊さんに分けてくださいという極貧生活へと代わるわけで、結局、国民を絞りきることで戦争を継続させていくことに特化した共産化が続けられていく。そして、その色に染まることができない人間は、大挙して小型船に乗って海外へと逃亡することになる。いわゆるボートピープルというやつである。そのため、南ベトナム共和国が北ベトナムに吸収され、あまりの生活の変化に国民が逃げ出したという説明はある意味正しい。

分かりやすく言うと、北朝鮮に韓国が占領されるとこうなる

もっとも、ベトナム統一後に中国とカンボジアと戦争している以上、国民を染めやすい環境ではあったが。

南北ベトナム統一[編集]

1976年7月1日、南ベトナム共和国と北ベトナムは正式に統一され、ベトナム社会主義共和国が誕生する。統一後は、共産主義化がさらに推し進められていき、南ベトナムの住民への締め付けはますます厳しくなっていく。それは、北ベトナム軍の味方であったベトコンに対してさえ例外ではなかった。そのため、ベトナム戦争が終了し、祖国が統一さえすれば全て良くなるといった妄想は1年たたずに立ち消えとなり、南ベトナムを幻滅とため息、何よりも生活に対する実害が蔓延していく。

中でも、南ベトナム軍兵士に対しての扱いは最悪で、多くの兵士が再教育キャンプへと送られた後、二度と帰ってこなかった。でも、まあ、負けた側だし。また、仏教徒やキリスト教、その他の土着宗教に対しても徹底的な弾圧が行われ、反抗者をやはりキャンプ送りにしている。だから、敗者とはそういうもんだからだって。結局、祖国の統一という世界から支持された看板は、統一直後に架け替えられ、南ベトナムは北ベトナムの事実上の植民地と化す。つまり、そういう敗北ってことだ

ただし、それが一番手っ取り早かったという深い事情があるけれどね。統治機構が整備されてない状況が続くと、どこぞのイラクのように治安の悪化で国が崩れるのです。はい。

結局、強権を振りかざして無理やりに統一して、財産を分捕って、不平分子を再教育キャンプにたたきこんで、それに耐えられない国民をボロ船で国外に脱出させたことで、急速にベトナムという国家がまとまっていく。邪魔者がいなくなるとはそういうことだ。もっとも、外交面で世界中から非難されまくって、それまでベトナムを支持してた連中が赤っ恥をかいたわけだが。しかし、結局最後までどこぞの北朝鮮並みの鉄面皮外交を押し通し、そして、統一直後に起こった中越戦争とカンボジア内戦という二つの外憂にもまったく動揺することなく、人民解放軍とポル・ポト派に対して勝利している。

ハッピーエンド?そんなもん食えるか。

損失[編集]

ベトナム[編集]

1940年代からドンパチを繰り返したため、ベトナムで戦争における死者の算出はクソめんどくさいことになる。一応、wikiでは死者100万人、負傷者数千万人と書かれているが、イラクボディカウントのなかった時代の発表である。誰も信じない。一応、死者300万人ぐらいが妥当とみるべきである。なぜなら、世界最強のアメリカ軍がたかがベトナム人を300万人も殺せないほど弱かったわけはない。ということにしておこう。また、戦場がベトナム全土に渡っていたため、テロで死んだ人間や枯葉剤にやられた人間など、実に算出しづらい死者も多いのが特徴である。人的被害も多岐に渡るのが特徴で、特に南ベトナムの知識人に対する悪質な攻撃は、アメリカと南ベトナムの統治政策にダメージを与えた反面、統一後、内政面に大きな影響を残している。それは、現在でも政治指導者の出身派閥という点において大きい。ま、日本の明治維新でもそうだった。

国土の荒廃もまたすごく、1t爆弾などで出来た穴は現在でも残っており、観光地と化しているところさえある。また、橋や港湾などのインフラ設備の被害も甚大であり、それらの復旧には長い時間がかかっている。ただし、応急処置についてはとんでもないスピードで行われており、爆弾で落された鉄橋の代わりにで作った浮橋であっという間にトラックが通れるような仮の橋を作ったなどという馬鹿げた話も伝わっている。

統一後の混乱でも多くの犠牲者が出ており、ボートピープルや再教育キャンプのほかにも、アメリカによる最後っ屁、ベトナムと交易する連中には外交ルートを通じて制裁を与えるヨン♪、の発令や、急速にアメリカと接近しだした中国との摩擦などから、食料の自給にすら困る人々が続出、結局なんやかんやで100万人を超える犠牲者が出たのではないかといわれている。そのため、もし、カンボジア内戦に介入できなかったら、ベトナムは以前のイラクのように日干しにされた可能性が高い。幸いにして戦時体制を維持できたこと、および内戦の介入によってポル・ポト派の実態を世界中に喧伝でき、その結果、外交面での締め付けが和らいだこと、さらに、全世界のアメリカ嫌いの連中を再度味方につけることに成功したことで、徐々にベトナムの環境は安定化していく。そして、1986年からはじまるドイモイ政策によって、ベトナムに市場経済が導入され、やっとこさ40年にわたる戦争の傷跡から抜け出すことに成功する。

アメリカ[編集]

泥沼の中、抜け出せもしないで10年間もがき続け、世界中からバカにされてネタにされて自国民からもまったく相手にされなくなったアメリカの損害は、自国民の死者だけで58,000人強、その後、何年にも渡って続く麻薬汚染、そしてベトナム帰還兵による様々な問題、何よりも、パクス・アメリカーナの崩壊などなど、まさに失った名誉、プライスレスという状況だった。お金じゃ買えない勝ちがある。国民は政治からそっぽを向き、世界各国への有象無象の影響力はガタ落ち、それを見たソ連がいい気になってアフガニスタンに侵攻するぐらいに権威は低下していた。もっとも、同じ運命をソ連がアフガンでたどるわけなんだが。しかし、国内の巨大産業へは10年以上にも渡って様々な兵器を作らせ続けた結果、アホみたいに巨大で小回りが利かない企業群が出来上がっていた。また、既存の価値観は崩壊し、若者は大人がまったく理解できないロックンロールを夢中になって応援、音楽シーン一つをとっただけでもそれまでとは全く違う世界が作り上げられていく。そのため、ベトナム戦争に負けたのは既存の勢力がバカだったという考えでアメリカは一致してゆき、1980年に大統領になったロナルド・レーガンが再びパクス・アメリカーナに近いアメリカによる新秩序の構成に着手する。もっとも、その際にソ連はアフガニスタンの砂漠で地獄を見ていたわけだが。

なお、ベトナム戦争によって失われたアメリカ中心の世界秩序を再度構築したのがレーガンなら、再度破壊したのが言わずとしれた・・・言わないけどね。

日本への影響[編集]

商売相手国がおっぱじめた戦争ほど儲かるものはないのが、万国共通の商いの道であるため、日本は、この時代、とんでもないほどの経済成長を果たすことになる。なお、もしもベトナム戦争が起こっていなかったら、日本製品のシェアがアメリカ市場に食い込むことが難しかった可能性が高い。また、日本以外でも世界各国の企業がアメリカ相手に大躍進を遂げており、西ドイツ(当時)もこの時代に対米貿易において大きく躍進し、経済大国としてヨーロッパに名をはせてゆくことになる。なお、この時代のアメ車の主流は戦争でのイケイケムードよろしくパワースピードかっこよさの三点セットであったため、その後のオイルショックで軒並みやられる。その結果、日本&西ドイツ車の躍進といつもの貿易摩擦が発生する。同じように、2000年以降、パワー、でかさ、かっこよさの三点セットを売りにしたアメリカの車業界ビッグ3は、その後のガソリン価格急騰とエコ、そして金融危機で軒並みやられる。ちょっとぐらい歴史から学べと言いたくなる。

また、当時アメリカ領だった沖縄は、ベトナムへ向かうための重要な軍事基地として大いににぎわった。もちろん、アメリカ軍に対する逮捕権なんざありはしなかったわけだ。そのため、なんやかんやで事件事故がもみ消しまくられたため、最終的に1970年に沖縄市でコザ暴動と呼ばれる大規模な暴動を起こすほど、ウチナンチューとアメ公の仲は悪化している。また、沖縄のほかに横須賀も重要な補給基地として機能していたため、まぁ、もんのすごい数の母子家庭が生まれたわけだこれが。もちろん、ベトナムで死んだ人間もいるが、多くは家族を残してアメリカに帰っている。南ベトナムにおいてもしかり。もっともGHQがあった時代もそうだったが。

また、文化大革命と時を同じくしたため、ベトナム戦争反対運動は、左翼系の大学生にとっては人生で一番の騒ぐ機会となった感が強い。政府への反抗=革命という、よく考えるとちょっとアレなスローガンが大学と言う大学を席巻し、若者の情熱こそが新しい世界を作ると信じられていた。経験ってなんだか知ってる?また、それと時を同じくして、市民運動が急激に勃興していった時代である。プロ市民という言葉のなかった時代、知識人が先頭に立って行われたそれらの活動は、その後、主に選挙戦において様々な発展を遂げることになる。そんな中でもっとも有名な団体は、ベトナムに平和を!市民連合、略してベ平連だった。こんなネーミングが許されていた時代だった

これらの活動は、北ベトナムと共産陣営による完璧な情報戦の勝利であり、善=ベトナム・悪=アメリカという猿でも分かる関係と、感情に訴えかける、とてつもなく分かりやすいベトナム人への無差別攻撃といった映像や写真による、マスコミ連中の売り上げ倍増計画によるものだった。しかし、内容があまりにもアレだったため、当時の良識ある人間の中に多面的な見方をする命知らずはほとんど存在せず、ほぼ一様にアメリカに対して反発し、アメリカと仲良くやりたい日本政府に対して強烈な反政府運動を繰り広げる。その結果、ゲバ棒や角材、ヘルメットを装備して機動隊に立ち向かうという、若気の至り、もしくはその後の人生を決定付けるやつらが続出する。そして、安易に政治を変えるだのなんだのとわめいた連中の中から、日本赤軍東アジア反日武装戦線革マル派といった連中がテロに走りまくったおかげで、アメリカ以上の強烈な政治運動への無関心が巻き起こることになる。

しかし、頑固に日本政府がアメリカを支持した結果、沖縄返還が決まったことは秘密だ。

国交回復[編集]

ドイモイ政策が功を奏し、徐々にベトナムに市場経済が根付いてくる中、それまで戦時体制を維持することが国是だったベトナムにも徐々に変化の芽が見え始める。そして、1991年にカンボジア内戦が終結し、1992年、アメリカ大統領にベトナム反戦運動経験者のビル・クリントンが当選すると、ベトナムをめぐる外交環境が格段に変化する。特に、東南アジア各国が世界の工場として脚光を浴び始めた時期にあたり、その中の一つとしてベトナムに対しても外資を投入する動きが活発化してゆく。その結果、戦争の終結から20年を経た1995年8月5日に、ベトナムとアメリカは国交を回復する。なお、悪人顔1994年に死んでいることも明記しておく。ただし、ホー・チ・ミンと一緒にベトナム戦争を影で支えたファン・バン・ドン元首相にヴォー・グエン・ザップ将軍はともに存命していたが、特に何の問題もないまま国交回復はなされている。もちろん、両名とも国交回復に賛成している。なんちゅう現実主義者じゃ(ファン・バン・ドン元首相は2000年に死去)。そして、アメリカによって貿易最恵国とされたベトナムにアメリカの資本の波が押し寄せ、コカ・コーラヒルトンゼネラル・モータースなどの大会社がこぞって進出を果たす。

なお、同じようなことを考えた国がどこかにあったが、拉致問題で一発アウトになっている。

その後も、ベトナムとアメリカの関係は良化し続けており、貿易額も年々増加し、現在、アメリカはベトナムの対外貿易収支において中国に継ぐ2位の立場にまで関係を強化している。そんな中、ベトナム政府もそれまでの方針を転換し、ボートピープルとして国を去った連中の帰国を許可したほか、アメリカに亡命した南ベトナム政府高官やその家族についても帰国を許可している。ただし、一部を除く。

評価[編集]

1960年から1970年代にかけて、全世界は大きな変革の波に包まれ、その一端をになったものが世界一の強国を苦しめ続けたベトナム戦争であることは疑いの余地はない。カラー放送や従軍取材などによってもたらされた情報や画像、映像によって、世界中の一市民が強烈な一体感を持つことが可能であることをしめしている。その結果、アメリカ本国はもとより、世界各国において市民団体が結成され、いわゆる草の根の運動と呼ばれる市民運動が広がっていくことになる。ま、プロ市民なんてものも生まれるわけだが。また、アメリカにおける政治の潮流は確実にマイノリティに対しても広がり始め、黒人ヒスパニック系の社会進出が顕著になっていく。反発もすごかったが、いかんせん、ベトナムでまともな戦争できなかったのが全て白人だったもんだから、実力に見合わない立場にいるアホな白人を、いかにして切り落としていくかが重要になっていく。結果、アメリカに超実力主義社会が形成されていくこととなる。そして、アホな白人が抜けた穴を埋めるため、世界中から知識人、研究者がヘッドハンティングされ、1990年代、アメリカの国勢がピークを迎える。

2000年以降は聞くな。

ベトナムの統一とともに、ラオスカンボジアでも相次いで共産政権が樹立された結果、アメリカの唱えたドミノ理論は正しかった!という意見は現在も聞こえている。しかし、実際にインドシナ半島にやった介入は、各国の事情をまったくかんがみない金と軍隊の押し付けがほとんどであり、1945年日本を占領、統治しようと日本通の専門スタッフを大量に引き連れてきたマッカーサーが聞いたら咥えたパイプを吹き出すレベルのものだった。それが顕著に現れるのが通訳の場で、アメリカは最後までベトナム語を話せるアメリカ人を育成することができず、英語を話せるベトナム人が現場で主導権を握り続ける。なお、日本の場合は、大勢の日系移民がつれてこられ、GHQによる占領統治に寄与している。また、同じ過ちはイラクでも繰り返され、当初、イラクを民主主義の国にすることで中東諸国を民主化できるとほざいていたどっかのバカが、逆に周辺各国における民主主義的な選挙の結果として、あらかたイスラム原理主義中心の政治勢力を躍進させるという逆ドミノ現象を発生させている。まったくベトナムと同じな気がしなくもない。また、同盟各国においても民主的な選挙の結果、あらかた親米政権がこけて、アメリカから一歩距離を置く政権が誕生しまくっている。それは最大の同盟国だったイギリス日本でも同じで、特にスペインでは、国民の人気が高かったアスナール政権が、大勝が予想された選挙直前にイラク戦争に対するテロ、スペイン列車爆破事件によって、大逆転負けを食らっている。また、フランスドイツでは、逆にアメリカから一歩距離を置いた政権が倒されたのに、新政権もアメリカから距離を置いている。

つまり、アメリカがドミノっていったら気をつけろ!ってことだ。

ベトナムの現在[編集]

ベトナム戦争から30年以上が経過し、インドシナ半島ではカンボジアが民主化するも、ラオスとベトナムは現在でも共産党による一党独裁政権を維持している。しかし、両国とも、隣国に中国があることからまったく問題はない。むしろ、両国とも対中貿易を目的とした外国からの投資が活発化しており、ASEAN(東南アジア諸国連合)を中心とした各国間の連携も密になっている。だってほら、間にアメリカが絡まない対等な関係は珍しいわけで。また、2007年にベトナムはWTO(世界貿易機関)に加盟し、それまでの軍事立国から経済立国への道を歩み始めている。もっとも、そのおかげで日本のJICA(国際協力機構)の担当者が、ベトナム政府高官へのワイロで捕まるなんて話が出てくるわけだが。なお、共産政権とワイロは切っても切れない中であるため、特に驚く必要はない

報道[編集]

アメリカの場合[編集]

ベトナム戦争は、それまでの戦争とは違い、情報が戦争の推移に関係するほどの影響力を持った戦争だった。しかし、開戦当初は市民ケーン以来、ニュースペーパーを売るためなら虚報で戦争を起こすことも辞さないアメリカのマスコミですら、政府の側に立った戦果を鵜呑みにしていた。ベトナムなんてどこにあるかも知らない国で起こった戦闘なんてものは、新聞の片隅を埋める程度の存在だった。けれども、世界最強であるアメリカ軍が勝っても勝ってもまったく戦争が終わる気配が見えないという、どこぞの大本営発表と同じ堂々巡りに陥っていることに、さすがのマスコミ各社も気づき始める。そして、それまでありえなかった最前線に記者とカメラマンを派遣して取材を始めると状況は一変し、それまで隠されていた戦争の舞台裏、および最前線の常識が明らかになっていき、「この戦争って実は勝てないんちゃう?」という、ごくごく当たり前な考えが世間の常識となっていく。

ところがどっこい、アメリカ政府はそんな雰囲気をまるで無視し、ベトナム戦争において勝利に向かっているなどという、「何考えてんじゃ貴様ボケェ」的な立場に終始していったため、必然的に新聞各社と対立。双方が相手を嘘つきだとののしるようになっていく。しかし、そんなことがアメリカであったとしても、ベトナムでは刻々と戦況が悪化し続けた結果、明らかに政権側がウソをついていることが見え見えになり、最終的に1968年1月30日、テト攻勢によって、アメリカ、実は負けてましたーという事実が世界中にぶちまけられる。その後、一般市民も新聞各社も誰も政府の言うことは信用せず、一面トップに政府のウソを掲載し、各紙とも売り上げを倍増させる。この段階で、アメリカ政府は自国内部の統制にすら歯止めが利かなくなったことを自覚。ベトナムからの撤退を決断することになる。

その後、これらのマスコミの独自行動は年を経るごとにますます先鋭化し、ペンタゴン・ペーパーズのように明らかな秘密文書の漏洩や、ウォーターゲート事件のような一政権をまるごと転覆させるまでの破壊行為も見せるようになっていった。その結果、新聞は売れたがアメリカの国益とはまるで反対だったことも確かだった。そのような行いが常識となりつつある中、アメリカ政府はマスコミを一つの権力として認識し、あからさまな介入を仕掛け始める。その一つが、それまでの3大テレビネットワークに無理やりに割り込ませた政権より一辺倒で有名なFOXテレビである。もっとも、介入した結果、イラク戦争でどうなったかについては、今後の検証が待たれる。・・・待つ必要がないとも言うが。

世界のマスコミ[編集]

世界各国のマスコミも、アメリカに続けとばかりにベトナムの最前線に記者とカメラマンを潜り込ませたため、最前線で命を失うジャーナリストが続出したことも大きな特徴である。その中には、果たしてジャーナリストかどうかすら怪しい人間も多く、今で言う自己責任やら、自分探しやらいうものの延長でベトナム入りした日本人の若者も多かった。しかし、それらの命しらずのおかげで、日本人は報道における世界的な賞であるピューリッツァー賞を二つも受賞している。もっとも、2つ受賞する代わりに15人ほどいけにえに差し出しており、その中には、ピューリッツァー賞を受賞した沢田教一も含まれている。なお、1968年に同じくベトナム戦争の写真で酒井淑夫が受賞した後、40年経ても誰一人、日本人としてピューリッツァー賞を受賞した記者、およびカメラマンは存在しない。

自己責任ってすごいよね。

最終的に、ベトナム戦争からカンボジア内戦の終結までの間に死亡したジャーナリストの数は172人におよぶ。もっとも、カンボジア内戦で死んだカンボジア人ジャーナリストの数を入れると1000人は軽く超える。でも、まぁ、報道しないで殺された以上、数に入れることはできんわな。

関連作品[編集]

10年以上も長くしつこく続けた甲斐あって、ベトナム戦争はアメリカ文化に深く浸透することになる。特に映画小説楽曲などに、後世に残る良作を大量に生み出している。

映画[編集]

1960年代のアメリカ映画は、まさしくベトナム戦争の真っ只中、アメリカの若者達の反抗がそのまま映画にもぶつけられていく時代だった。しかし、それ以前のいつものハリウッドでは、よーく見られるアメリカの国策映画を大量に作り上げていく。もっとも、戦争開始直後に大量に生み出されたアメリカばんざい系の映画なぞ、残っていることがすでに汚点としかいいようがないものが多い。なお、その中の一作に、名優ジョン・ウェインの作品「グリーンベレー」(1968年)が含まれており、この作品はテト攻勢が起こった年に発表されたアメリカ軍映画という点において、彼の映画人生に燦然と輝く黒歴史となっており、シルベスター・スタローンにおける「ランボー3・怒りのアフガン」に勝るとも劣らない。なお、同じような映画が湾岸戦争ユーゴスラヴィア内戦で大量に生み出され、イラク戦争でも同じ道をたどったが、果たしてそれが面白かったかどうかは定かではない。むしろ、アメリカ人の外交観念と国際知識の欠如を笑うためのギャグ映画としか思えない作品も多い。

いわんや、ベトナムをや。

むしろ佳作と言えるのは、アメリカ軍の内実や帰還兵の苦悩を描いた作品に多く、メジャーなものでも「タクシードライバー」や「プラトーン」などがアカデミー賞を受賞している。なお、ランボーコマンドーについてはベトナムの現実の前では完璧なコメディ映画に分類される。ちなみに、シルベスター・スタローンもアーノルド・シュワルツェネッガーもベトナムにはまったく関わりがない。また、当たり前のことだが、アメリカ映画にベトナム人の苦痛を描いた作品があるわけがなく、「自分たちがこんなに苦しんでいた!」という叫びばかりを押し出すため、「ふーん、じゃあベトナム人は?」と声に出した瞬間に作品が根本から崩れ去るものも多い。

なお、映像作品については、北ベトナムでも同じような戦争映画が数多く作られている。しかし、アメリカとは違い、民衆の塗炭の苦しみについても一応は描かれていた。もっとも、目の前の現実にウソを言うわけにもいかない。しかし、戦争に勝った後は、アメリカと同じで、自分たちの被害をなるべく出さないような情報統制が行われた結果、ごくごく当たり前の存在である、ベトナム人兵士のPTSDや麻薬汚染、戦後の失業問題や就職難といった現実はとことん隠されてゆく。

いづこもおなじ秋の夕暮れ。

小説[編集]

これまた、アメリカ帰還兵の独壇場と言える。ランボー7月4日に生まれてといった映画の原作となったものや、数々のホラー、ミステリー、果てはSF小説にいたるまで、飽きるほどのベトナム関連作品が存在している。もちろん、相手である北ベトナム軍の内訳を描いた作品なんてものは存在しない。

楽曲[編集]

暗い歌を知りたければこの時代の歌を聴けばいい、ぐらいに暗い世相を反映した歌が多いのが特徴である。特に、フォークソングに名曲が多く、サギ師ボブ・ディランの「風に吹かれて」(1962年)は、発表された当初よりも、いつまでたっても戦争が終わらない時期の影響が神がかっていたため、いまだに彼を神聖視する人間は多い。他にも、反戦歌として有名な楽曲にクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルという、名前の段階でネタに近いロックバンドの代表作「雨を見たかい?」や、バリー・マクガイアの「明日なき世界」が有名である。なお、一部の人間にはベトナム戦争の楽曲=ミッキーマウスのテーマという誤った図式も存在する。

まぁ、気が狂っているという点においてはある意味正しい。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「ベトナム戦争」の項目を執筆しています。

外部リンク[編集]

ヒッピー共[編集]

この項目を書いたのは、前に、この「ベトナム戦争」を書いた奴だ。折角、時間を使ったのに、消すだなんて、嫌なネットでござんすね!!

ヒッピーというのは、一言で言えば、存在自体がギャグのような人だ。一応、その例を言っておこう。


ビートルズ[編集]

まずはビートルズとかいう、バンドだ。おそらくこのバンドをしらねーという人はいないであろう。こいつらはいかれていた。そのほんの一部を述べていこう。まず、こいつらは、麻薬にそまっていた。確かに、ヤクを使えば、最高のサウンドが作り上げられる。ヒッピー入門志願者はまずヤクを打つのが手っ取り早い。しかし、ビートルズのベーシストの、ポールとかいう奴は日本の空港で麻薬を押収され捕まっている。 さらに「ファンに愛されすぎて殺されてしまった」ギターのジョンとかいう奴は、ポールの家に、石を投げ込んで、ガラスを割っている。どう見ても嫌がらせだが、ジョンは「互いに友情を深めるためにやった」とか言っている。

ジミ・ヘンドリックス[編集]

こいつは、ビートルズよりもいかれているこいつは、もの凄い黒人ギタリストだ。ギターをやっている自分も、尊敬している。ギタリストにとっては、のような存在だ。なぜならこいつは、騒音も演奏に加えてしまうからだまあこの話は、ロックに興味がない人にはつまんない話だから、興味がある人は、自分で調べて下さい。  こいつの伝説は凄いぞ!!!!!!!いいか、この「ヒッピー」の項目は、すべて事実だぞ!!!!こいつは、演奏中にギターを燃やして、さらにそれを振り回して、ぶっ壊している。しかも何回もだ。さらに演奏中、アンプをレイプしている

使用された兵器[編集]

ほんとーに今更だがベトナム戦争で使用された兵器の一覧だ。

銃火器[編集]

  • M14

59年からアメリカ軍に配備された自動小銃。フルオート時の反動が大きかったりストックが腐ったりしてすぐにM16に置き換えられた。信頼性は高くてM16配備後も使用していた人がいるらしい。

60年から配備された自動小銃。アルミとプラスチックでできているから腐らない。でも改良されるまで機関部の問題が多かった。