ベニート・ムッソリーニ

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「ハイル・ヒットラー!! この死に顔は例えるならば犬の干物だ!」
ベニート・ムッソリーニ について、アドルフ・ヒトラー
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丸い。
基本資料
本名 ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ 
通り名 ムッソリーニ、ムッツリーニ 
生没年 1883年7月29日~1945年4月28日 
身体情報 丸みを帯びている体、完璧にシンメトリーな顔 
職業 ファシスト、政治家 
所属 ファシスト党

ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini)は、ファシズムの創始者であり、イタリアの丸き革命家である。戦後日本での人気はアドルフ・ヒトラーの影に隠れてしまっているが、本来はヒトラーが二番手として語られるべきであり、また、「ローマ帝国の復活」などというたわけたことを掲げた馬鹿者と評されることもあるが、本人は至って真面目に行ったことであるから断じて馬鹿にしてはならない。

鍛冶屋で誕生[編集]

1883年7月29日、イタリアはフォルリ近郊の農村で、鍛冶屋のアレッサンドロ・ムッソリーニという男がカンカンとかん高い音を立てながら一つの鉄像を打ち出した。社会主義者として党中である程度の名声を得ていたアレッサンドロは、生み出されたその像にメキシコ初代大統領であるベニート・フアレス・ガルシアから「ベニート」、友人であり革命家のアミルカレ・チプリアニから「アミルカレ」同じく親しい間柄であるイタリア左派のアンドレア・コスタから「アンドレア」と身の回りのものからどんどん名前を足している途中に自制がきかなくなり、「ベニート・ジュゲム・アンドレア・グーリンダイ・ポンポコピ・アミルカレ・ポンポコナー・ムッソリーニ」と命名しそうになる。しかし妻に制止させられ、少々添削ののちに「ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ」と命名。これでもかなり妥協したようで、イタリア人ながらファーストネームがスペイン語なのはご愛敬である。そして、そのまだ赤く熱を持った像を水に一気に漬けたところジュワーと大量の湯気を発し、父親は息子を冷却のために数時間放置。数時間後十分に冷却されたその汚い産湯からは元気な産声が上がり、ただの鉄像からひとりの男の子が生まれたのであった。ベニート・ムッソリーニ誕生の瞬間である。

家族[編集]

アレッサンドロの妻のローザ・マルトーニは皆に慕われる小学校教師で、彼が市に働きかけて作らせた小学校に赴任してきた女性教師だった。彼は19歳の彼女に一目惚れし、無神論者を自称しながらも敬虔なカトリック教徒の彼女と結婚した。一時期アレッサンドロが彼女に自分の槌で叩き続けても子供を儲けることができなかったために鉄像を打ち出したのだが、その後は普通の方法で弟たちが生まれるようになったため、成長するうちに鉄でできた彼は肉体的、精神的に兄弟たちに比べ優位になっていった。

しかし商人ながら無駄にお人よしで信じなくともよい人まで信じてしまう彼の父親は当然収入も少なく、活動の出費もかさみ、借金を抱えた彼の家は貧しかった。昼の食事は汗よりも薄いキャベツのスープ、夜は母親の取ってきたチコリーを煮込んだもののみであり、たびたび食糧不足に陥る村の中ではとりわけて貧しいわけではなかったが、育ち盛りの子供たちを養うには不十分だった。父親は活発な社会主義活動家であったため、自宅には新聞や本ならば転がっていたが、毎日薄くなるばかりのスープに父親は腹を立て、彼に日頃読み聞かせていたカール・マルクスの『資本論』を読み聞かせ終わった後、家族の皆が見ている前で本をビリビリと破り、スープに浸し彼の前に押し出した。「さあ、うんと食べなさい」皆が茫然とする中彼だけは元気にスープをかき込んだが、弟は食べようとしない、それを見た父親は「ン?お前はニーチェがいいのか?」とやぶいたニーチェの著作をふんだんに振りかけ差し出す。その食事はベニートが中学校教育を受けるまで続いた。

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寄宿学校生活[編集]

父親の政治思想的な影響を9歳にしては無駄なほどに受け、束縛されることを好まない腕白に成長した彼は寄宿学校三年生に入学するが、そこで差別というものを知る。食事の席は貴族、中産、庶民、と完璧に分かれており、庶民階級の生徒は食事中「お前らは唾が汚い」との理由で会話を禁じられ、ぱさついたパンとスープと変な臭いのするメインで空きっ腹をごまかすことを余儀なくされた。さらに彼には「社会主義者の息子」という理由で始終監視の目が向けられており、少しでも妙なことを起こせばすぐさま自分だけ反省文を書かされ、3ヶ月間昼休みに机に座っていなければならなくされたりなど、何の自由もない学校生活に彼の不満は鬱積していった。

そして、あるとき教師と口げんかになるとついに彼は破裂、インク瓶をつかむと教師の白髪頭に投げつける。教師はまだらに染まった髪からインクをぽたぽたさせ激怒、彼の学校生活はさらにもましてつまらなさを増した。夏休みに帰ってきた彼を見て母親は全く彼が「矯正」されていないことに失望したが、彼は一向に意に介さず、このころから彼の反抗と処罰の2年半が幕を開けるのだった。

そして、反抗と処罰が学校生活の九割方を占めていたころに事件が起こる。年上の生徒と口論になり、相手を隠し持っていた刃渡り20センチの刃物のようなもので切りつけ、全治二週間のけがを負わせたのである。罰として彼はその晩寮に入ることを許されず、寒空の下番犬に追いかけられて塀によじ登り、引っかかって降りられず寝ていたところを心優しき教師に助けられ寮に入れてもらったもの、熱を出して「あばばばば」と錯乱し、学校は彼を「彼には学校よりももっと静かな場所の方が向いているようです」と退学処分にすることを決定したが、母ローザがゴロゴロと転がりまわって許しを乞うたので、五年生への進級を認め、それ以上は認めないこととして事が済んだかのように思われた。しかし、父親が学費滞納で起訴され、この裁判は数年間続くのだった。

師範学校生活[編集]

有権者諸君!

彼は次に海にほど近いフォルリンポポリの町にある、詩人ヴァルフレード・カルドュッチが校長を務める寄宿学校に転入した。そこでの暮らしは彼にとって天国のような存在であり、海風の心地よさ、人間的な規則、そして柔らかいパンの存在を初めて知ったのだった。(しかし、またもや同級生を口論の上にポケットナイフのようなもので切りつける事件も発生している)小学校の後半をそんな環境で卒業した彼は両親のたっての希望から同じくヴァルフレードが校長を務める師範学校に入学し、スポーツや論説などで同級生たちの信頼を集めていくと同時に、様々なことを経験した。ひとつが、初めての情事である。娼家で過ごした彼は犯罪でも犯したような気分になり、はじめは緊張していたもの、そのうちこの快楽の虜となってしまい、街で見かけたかわいい女の子を全員ひんむき、強引に犯すようになる。頭の中で。

さらに、ダンスホールに通うようになった彼は詩などを作ってみたもの、後に本人がほとんど焼いてしまったために数作が残されている程度である。詩はあまりにも甘く、そして若き痛さがにじみ出る作品となっているため掲載は見送るが、ダンテの『神曲』の何節かをそらんじ、寄宿舎の庭でうろうろしながら大声で狂ったように喚き始めるようになったのもこの頃だった。そして、常に自分の才能を皆の前で見せつけたいと思っていたころにチャンスが訪れる。母親が病で一時教員の座を退いていたため、彼が臨時教員を務めていた所に校長が近頃亡くなった地元音楽家の追悼演説を依頼したのであった。彼はこれにヘルニアになるほど縦に首を振り了承、しかし演説の内容は発表までは誰にも見せないという条件も付けた。

そして演説の時がやってくると、彼は蝶ネクタイを正し、観衆の前で音楽家の内容そっちのけで政治的内容たっぷりの演説を始めた。「今はただスクラップ&スクラップ!」と始まった演説に会場は騒然とし、校長が彼の勝手なプロパガンダに驚きやめさせようとしたが、場の皆から無視され失敗。意外にも演説は大好評を博し、社会党党誌『アヴァンティ!』には彼の名が掲載された。

若き編集長の座に至るまで[編集]

右手をくるくるくる

その後小学校の教員となったムッソリーニだったが、おさまりがつかないのでスイスに渡航。途中父親の逮捕を新聞で知るも大したことじゃないと気にかけず、入国後橋の下で芽キャベツを煮ていたところさっそく浮浪者として拘束、国外追放される。だがそれで諦める彼はなく、その後もめげずに入国を重ね、様々な人物とも交流を重ね、新聞、雑誌に論説を投稿し続け、次第にそれが評判となり、彼は一流のハガキ職人となったのだった。やったね。

……あ、違った。と、気が付いた彼は演説業を再開し、徹底的(この場合テッテ的というのが文法的に正しい)な無神論を唱えた。あるときは演説中に突然神は存在しないと銘打った後懐中時計を外し「神様おねがいおねがい、5分間の間に稲妻で私の体を貫いて下さいまし!」と喚き、恍惚とした表情で諸手を掲げ、稲妻が自らを貫く瞬間を夢想し、射精しながらその時を待つ。しかし五分後何も起きず、ブーイングの中彼は「宗教はアヘンでペテン。」と自信たっぷりに締めくくった。観衆の中には当時亡命中のウラジーミル・レーニンもおり、「……イタリア人ってこういうやつばかりなのか?」と述べたが、[要出典]後にムッソリーニも「彼は素晴らしい指揮者だ、しかし皆は彼の指揮に合わせて『4分33秒』を演奏している」と彼を評した。

その後は奔放な女性関係と雑誌への投稿を続け、政治的活動も活発に行ったため公安から目を付けられるようになった彼だったが、生活費がなく、極貧状態のままであり、活動は困難だった。しかし社会党が「YOU社会党入っちゃいなよ」と彼に目を付け、彼は社会党週刊誌の編集長となる。ある時は農民のストライキを指示したとして、彼がコーヒーを飲んでいる途中に当局が現れると、飲み終わるまで待てと言ったにもかかわらず連行し、こぼしたコーヒーが彼の唇を腫らすことなどもあったが、右手をくるくる回しながら行う巧みな演説の才で彼は党内での地位を高めていき、ついに党執行部から党誌『アヴァンティ!』の編集長に任命される。それからは自身の主張を誌内に色濃く投影させ、前任の編集長からの投稿を無期限にブロック。古参の社会党のじさまたちからは支持されなかったが、存在感を高めていった彼は地元選挙で当選を重ね、市民たちに彼の名は浸透してゆくのだった。

第一次世界大戦へ参加[編集]

第一次世界大戦が勃発した1914年、彼は戦争こそが美しいイタリアを作る第一歩と信じ、はじめ否定的であった戦争への参戦を強く主張するようになり、またもや社会党のじさまたちから煙たがられる。しかし続けざまの当選に気分がすっかりハイになっていた彼は勝手に俺による俺のための俺の週刊誌『ポポロ・ディタリア』を発行。中で市民たちに「私は戦争が大好きだ」などと煽動する内容を書き連ねたのが発覚し、あっという間に社会党を追放されてしまった。しかし、その後も自分が社会主義者であると信じて疑わない彼は資金難の中週刊誌の発行を続け、瞬く間に大衆の心を掴んだ『ポポロ・ディタリア』の発行部数は『アヴァンティ!』を優に超し、その頃から彼には「ドゥーチェ」というあだ名もついた。

その後戦争が勢いを増すと彼は徴兵され、うきうきと心躍らせながら狙撃隊として東側国境カルソ山地の戦地に赴いた。社会主義者という理由で将校となれず一般兵として塹壕戦に参戦した彼だが、塹壕が自分がイメージし、「諸君、私は戦争が大好きだ」といつものように言えるような環境でないことを知り、そのストレスから胃腸炎となって入院してしまう。しっかりしろ。

復帰後は疑惑の目を向けられながら真面目に勤めを果たしていき、皆の信頼を得ていった彼が戦線に復帰して2年後、塹壕内で事故が発生した。擲弾筒が暴発し、死者五名を出す大惨事が起きたのである。ちなみに彼も爆発に巻き込まれ全身に40発破片が食い込み入院。包帯ぐるぐる巻きとなった彼に面会に訪れた国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が、体調はどうだと問うたところ、「悪い」とだけ答え、「励ますよりもそこにあるリンゴをうさぎさんの形に剥いてくれ」と国王に臆面なく言う。爆発に巻き込まれた当初は体が6つに分解し、バケツで運送されて一命を取り留めたものの、後遺症は彼を一生悩ませ、鼻から破片が飛び出したり、歯に挟まった破片を楊枝で取り出すことも珍しくなかった。そんなこんなで、彼の参戦体験は暮れていくのだった。

黒シャツ隊とローマへの道[編集]

ヒトラーも後に自らの手本とした。右のヒトラーユーゲントは感激のあまり眼がイッてしまっている。

彼は個人で独自集団「戦闘ファッショ」を創立。しかしファッショの構成員は退役軍人を中核とした前科持ちと失業者の集まりであり、その後すぐにファッショの活動と激突した社会党との間で流血沙汰にまでなる抗争が勃発、にわかにキナ臭い雰囲気が漂い始めた。しかし彼自身は至って悠長なもので、ポケットに15発の銃弾とゴムと匕首を入れ、尻を求めて毎晩街を徘徊していた。変態である。

だが、その後若い(自称)インテリや大衆、若手議員たちの間でムッソリーニの唱えたファシズムは浸透してゆき、1920年からたった一年で支部数は10倍に達し、大衆に広く受け入れられるものとなった。戦闘ファッショたちは黒を基調としたエレガントかつスポーティな制服を着用していたため、「黒シャツ隊」と呼ばれ、後のヒトラーとファッション業界にも強い影響を与えた。

そして、彼は政権掌握に向けて急ピッチで事を進める。ファシスト党を快く思っていなかった国王に対し、フリーメイソンを通じ(国王の側近は角定規とコンパスを常に携帯している人物ばかりであった)圧力を毎日20気圧ほどかけ続け、毛が抜け始めた頃に親ファシストの皇太后が突然「ドゥーチェ万歳!」と喚き散らし、ますます国王の精神と頭皮を削り取ってゆく。そんな事が続いた1922年10月28日、機が熟したと考えたムッソリーニ率いる黒シャツ隊は「我らはローマまで止まらない遠足を開始する。ローマに着くまでが遠足です!」と勝手に宣言、ローマへ向け行進を始めた。各々太鼓や鈴、タンバリンなどを自由にかき鳴らし、ムッソリーニ自身はラッパをプープー吹いて上機嫌になり、その行軍を見たファシスト支持者たちが続々と「祭りだ祭りだ」と囃したて列に加わり、遠足の列は最終的に6万人以上になる。

ついにローマの王宮に到着した6万人は、王宮の前の広場で弁当を広げ、酒をあおってそのまま寝てしまい、そんな姿を見た国王は気が変わったのか、「じゃあ、あとは頑張って下さい。頼みますよ。」とあっさりムッソリーニに政権を明け渡し、ムッソリーニ政権が突然登場した。時にムッソリーニ39歳の壮年期であり、相変わらず毎晩の徘徊はやまなかった。

首相から独裁者へ[編集]

かくして首相になったムッソリーニであったが、元々彼は他人を信用しない性格であった。彼をムッソリーニと知らずに右手をポケットに突っこんだままで、「あざーす、あ、今日首相官邸前の門番いないんすか、サーセン(意訳)」とにやにやいている警視総監をその日のうちに解雇した彼は権限を自らに集中させていくようになり、何でも自分でやらねば気が済まないようになっていった。

彼が仕事をこなす中で、あまりの急速な変化に多少の批判はあったものの、どんどんとお食事券の発行部数は激減、街の商店をにらみつけるイタリアマフィアは盛り場を追われ、町のチンピラはなぜか朝死体になって転がっているようになっていき、彼がイタリアの治安を取り戻したとして人気であったが、暗殺の危機もあった。

2月14日に首相官邸には民衆からの2トンのチョコレートと花束とそれに製造過程で混入したと思われる2キロの爆弾が配送され、見事贈り物の山を発破。彼は腰を振っており無事であったが、その後も16歳の青年が突然発砲したり(ムッソリーニの勲章が無念の横死を遂げた)、自慢のアルファ・ロメオに爆弾を投げつけられたり、果ては精神不安定のアイルランド人老婦人に鼻を撃たれるなど暗殺未遂が相次いだため、暗殺は未遂においても死刑を適用することを取り決めた。

マッテオッティ頓死事件の顛末[編集]

ムッソリーニが権力を集中させ、敵対する存在であるはずの社会党の内部にもファシスト党へ妥協を示そうとするヤワな穏健派が増える中、強硬派の社会党書記長ジャコモ・マッテオッティは議会に選挙の無効を求め、ムッソリーニを挑発した。また、下院ではムッソリーニ政権を強く批判する演説を行いファシストたちの反感を買い、ムッソリーニは「ダメだ……早くアイツなんとかしないと」と周囲に漏らしていた。

そんな時、郊外の草原にマッテオッティが転がって風に吹かれているのが発見される。酔っ払っているものと見て警察が議会に彼を連れ戻したが、そこで彼の体温が妙に低いことが判明。「アイツなんとかしないと…何とかしないと…ナントカしないと」と皆の頭の中で前日のムッソリーニの発言がオーバーラップし、当然世間の疑惑の目はムッソリーニに向けられる。しかしその事件の実はファシスト党員の独断での行動であった。自宅から出たマッテオッティを何故か(理由は諸説あり、単純に性的な目的であったというのが現在有力である)誘拐しようとしたファシストたちは暴れる彼を無理矢理車に乗せて郊外を連れまわし、とある空き地で不埒な行為に及ぼうと彼を車から降ろした。しかしまだ暴れる元気が残っていた彼はたちまち二人をなぎ倒し、逆上したファシストの一人は後ろから彼を棍棒で殴り、押し倒し……

と、周りが静かになると彼も静かになってしまったため、驚いた彼らは彼を放置して逃走した。というのが事の顛末であったらしい。この事件は当事者を解任し無理に笑ってごまかそうとしたものの、事件から数日間政府は崩壊寸前に陥り、彼自身も一日に「死にたい、辞めたい」を50回繰り返し、表情は暗くなり、猜疑心が強くなり、いつもの腰つきにもキレを欠いていた。

数日後に立ち直った彼は直ちに信頼回復に努め、「私の腹には祖国への愛が詰まっています」をスローガンに演説と公演と会談を日に食事より多く行った。この結果人気はまた以前のように振るい、先のマッテオッティ事件で解任された男が反乱を起こそうとしているといった情報が流れ緊張した雰囲気が高まる中で、全国の黒シャツ隊が一斉に蜂起。鹿の腿を引きずり、パルミジャーノレッジャーノを転がし、イベリコ豚に乗ってムッソリーニに新年の挨拶をしに来た黒シャツ隊の前で彼自身も政権を完全に自分のものとすることに決意。年明けの国会でいつものように右手をくるくる回しながら、「今日から独裁者やります。よろしくおねがいします。」という趣旨の演説を行い、全ての政権を掌握した。

エチオピア戦争へ[編集]

平和の中での戦争が国民の士気を向上させ、生産率を上げると信じたムッソリーニは、景気付けにマラリアをイタリアにもたらすポンティーニ湿原の埋め立てを成功させ、エチオピアへの侵攻を決定する。国際連盟から経済制裁を受け、早期に決着を付ける必要を感じた彼は当時国際社会の間では禁止されていた毒ガスを使用しエチオピアを制圧し、国民は皆クスリを摂取したかのように踏んだこともない土地での勝利に酔い支持は絶頂に達した。しかしイタリアは毒ガスを使用したために国際連盟から糾弾され、ムッソリーニは「エチオピア人は猿なのでガスを使ってもよいと考えました。以上。」と弁明、全米及び世界中を幻滅させる。

すり寄るヒトラー[編集]

不器用ながらも彼がファシズム国家を形成する途中に、何度も何度もドイツから自分の切り揃えられた髭と茶色くなった薔薇の花を挟んだファンレターを送ってくる男がいた。アドルフ・ヒトラーその人である。ひと月に数千通届けられるファンレターになるべく目を通そうとしていた彼だったが、「初めは手紙を暖炉にくべていたムッソリーニだったが、髭の焦げる臭いに辟易したのか返信するようになると、ヒトラーは感激し、「きっと私に気があるのだ」と自信に満ち、ナチスが政権を掌握した後に初めての会談を行う。

ヒトラーが帰った後ムッソリーニは「あんな下品な髭と八二分けは鼻持ちならん」と不快感を示し、友好的とは言えなかったものの、エチオピア戦争の際に見た黒人にそれ以上の不快感を覚えた彼は人種差別政策を掲げるヒトラーと同盟を結ぶことを決定。「君は道で死んだ象を齧る猿と乳児のペニスに刃物を入れる黒服どっちが嫌いかね」などと談笑を交わす程度に打ちとけるようになった。

クラレッタ・ペタッチ。少々写真うつりが悪いのが難点である。

怒涛の腰振り歴[編集]

他人を信用しない彼は、女性への認識も「穴」程度のものでしかなかった。彼はほとんど死ぬまで毎晩腰を振り、関係をもった女性はウン百人を超えたが、ほとんどが衝動的な一回限りの関係であり、妻の存在は不動であった。しかしそのような生活の乱れは妻のラケーレから常に厳しく追及されており、朝になると梅毒に感染しているのではないかという妄想に怯え、彼が大きな事を起こすたびに周囲は梅毒のせいだと囁く。彼の人生の悩みはほとんど梅毒への恐怖に捧げられたといっても過言ではないが、彼の死後脳を研究したアメリカの研究所は、彼の脳に何ら梅毒の症状は見られなかったと公表した。この世の奇蹟と言うほかない。

彼が数百人の女性と関係をもっていたことは前述の通りだが、彼が二度以上関係を続けた女性は数人と言われており、そのなかに貴族の末裔の娘クラレッタ・ペタッチという女性がいた。少女の頃からドゥーチェことムッソリーニの熱心なファンだった彼女は頻繁に手紙を送り、例の爆発事件で入院していた際も理屈っぽい八二分けの手紙で鼻水をかんだ後彼女からの手紙を開くムッソリーニの頬をほころばせていた。

数年後20歳になったクラレッタと会う機会があり、彼女を見たムッソリーニは驚く。魅力的な黒髪、整ったスタイル、美しい顔、なにより彼が惹かれたのはその豊かな胸であった。たちまち彼の頭はおっぱいでいっぱいになってしまい、急いでポケットに入っていたヒトラーからの手紙を鼻に詰めて別れたものの、自分より20以上年下の女性ファンへの妄念が離れず、しばらくは政務もままらなかった。その後もう一度会うことになった際には「あなたをおかずにパン6斤イケました(意訳)」や、「私は孤独だ……慰みが必要だ……」などと巧みな言葉で関係を持ち、その後も関係を続けるが、彼のことであるから彼女を一度子宮外妊娠させ不妊症に陥らせている。

第二次世界大戦と失脚[編集]

第二次世界大戦が勃発し、ドイツが激しい戦闘を開始すると同時に、日本、イタリア等の枢軸国当てに「勝利へのおさそい」という書簡が届けられた。中には

やらないか

とだけ記されており、当初参戦派でなかったムッソリーニはこの書簡を暖炉にくべる。しかし、英国への和平工作が失敗に終わり、ドイツへの接近をままならなくされたその時、ドイツから遣わされた外相リッベントロップが彼の魂胆を尋ね、ついに臍を固めたムッソリーニはイタリアが枢軸国側として参戦する事を決定し、それを知ったヒトラーはほくそえんだ。もうすでに後輩ヒトラーに乗せられてしまっていたのである。

しかし参戦後の状況は思わしくないどころではなく、むしろイタリアにとっては葉巻の煙を肺に注入され続けているかのような多大なる苦痛であった。西アルプス作戦ではフランス軍に敗退、イタリアの港町ジェノヴァを砲撃したフランス艦隊は無傷で帰投した挙句イタリア軍を「蚤」呼ばわりし、おまけに弱小と多可をくくっていたギリシャ軍にも敗退、「蚤がホコリにつまづいた」と揶揄され、エチオピア含む北アフリカ戦線もイギリス軍によって軒並み陥落、イギリス軍の爆撃部隊はイタリア海軍の最大基地であるターラントを襲撃、イタリアにおける機動戦艦の半数を海の藻屑、もといモズクにし、驚異のヘタリアぶりを露呈させる。ギリシャ軍に負けたことが信じきれず、悩みこんだ挙句胃潰瘍になって意気消沈したムッソリーニ含むイタリア軍は、参戦を促したドイツからも少し休んでは如何と忠告されるほどだった。

その後は日本の参戦、ドイツに勧められてのエジプト侵攻などで一時的に選挙区が改善したように思われるも、エジプトで何故か紅茶の匂いを振りまく大英帝国軍に遭遇、驚愕したイタリア軍は潰走し敗北を重ねた。結果他の枢軸国同様後輩のドイツに頼らざるを得なくなり、屈辱その他によりムッソリーニの胃潰瘍が悪化し、彼の心と威信とイタリア軍備と国民の期待と胃壁は荒んでいった。

失脚とイタリア消滅[編集]

そんな中ムッソリーニへの不安感を隠しきれない議会メンバーは「夏休みの課題」と称して密かにムッソリーニ解任案を作成。議会に提出するや否や議会は「クビ!」の一言でムッソリーニを罷免。失脚したムッソリーニは、朝自分を迎えに来るはずのアルファ・ロメオが遥か彼方に停まっていることに気が付き、その途端憲兵と憲兵大尉が「御用だ御用だ御用だ」と彼を大八車に乗せて運ぼうとした。突然の出来事に彼は「この人痴漢です!」と叫んで近くの老婦人に助けを求め、アルファ・ロメオに乗り込もうとするも失敗、憲兵の乗ってきた赤十字社の黄色い救急車に乗ることを強制され、どこに保護されるのかと思いきや渡された着替えは、黒と白のストライブが印象的な機能的洋服であった。ここで彼はやっと自分が逮捕されたことを知った。

顔からしてやる気が感じられないピエトロ・パドリオ。

ムッソリーニ失脚のニュースは直ちにラジオでイタリア国民に伝えられ、ラジオを聞いた途端に拳銃自殺する者が現れるなど全国のファシストを混乱させた。新政府は連合国側に直ちに全面降伏し、早急な混乱収束が求められたが、後任のピエトロ・パドリオは政治に関し全くの無能であり彼の一日の政務は目を覆いたくなるものだった。

  1. 午前9時:起床しラジオ体操とビーフステーキとキューバの葉巻を愉しむ。
  2. 同11時:執務室に現れ、キューバの葉巻を愉しむ。
  3. 0時:美食と葉巻を愉しみ、一日の公務終了。今日も頑張った。
  4. 0時半:ハードな公務の後は昼寝に限る。
  5. 午後5時:友人と白の良いやつを開けながらポーカーに興じる。くそ、次は負かしてやる。
  6. 午後6時半:夕食とワインを楽しむ。人生って素晴らしい。
  7. 午後8時半:健康のために夜は早く寝る。

パドリオは本当に何もしなかった。連合国との交渉も、イタリア領をいつの間にか蚕食し始めていたドイツへの牽制も、何に対してもやる気は無、すなわち0であった。イタリア中に広がった混乱に政府は瓦解し、国家は分裂、兵士は強制労働者としてドイツ及び各地に送られ、ガリバルディが貢献したイタリア統一からわずか一世紀足らずでイタリアの民は国土を失った。

グラン・サッソ襲撃事件[編集]

イタリアが消滅し、大混乱を呈している頃、彼はパドリオに騙され流刑の地である離島ポンツァに幽閉されていた。部屋には壊れた椅子と骨組みだけのベット、知恵の輪が転がっているのみであり、40度近い気温の中肌に張り付く黒白ストライブシャツを着替えることもできず、また着替えもなかった。現金もなくルンペン同然の生活を強いられた彼は今更ながら自分が囚われの身であることを実感し意気消沈。見かねたマリーニ軍曹が彼の60歳の誕生日祝いとして二つのを彼に送る。彼の粋な計らいに感動したムッソリーニは桃を二つ割にすると、桃の断面を見ながら故郷のぴーを偲び、二つの桃を大切に夜の慰みとして使い、後処理はナチスのゲーリングから送られた祝電で済ませた。

モザイク桃.jpg
いたって真面目である。

その後、彼を救出しようとするナチスの動きを知ったパドリオは、ムッソリーニを頻繁に各地へと移動させた。ドイツは暗号解析などで彼が山頂グラン・サッソのホテルに軟禁されていることを突き止め、1943年9月12日、武装親衛隊オットー・スコルツェニー率いる部隊がグライダーで滑空しながら山頂のホテルの窓目がけ突撃。ムッソリーニは窓から見えたその様子に涙を流して驚き、窓から出してはいけないといわれていたはずの顔や手を出して救出をやかましく求めた。

グライダー部隊は無造作にムッソリーニを掴むと無造作に引きずり出し、縄に括りつけ逆さ吊りにするとグライダーでヘリの待つ地点まで帰投。途中ムッソリーニの顔が地面と無造作に擦られる形となり、少々身長が減ったが、軽くなったためヘリに乗せるには好都合であった。しかし、身長190センチ、体重100キロという大柄なスコルツェニーをヘリに乗せる番になると、助手席に搭乗していた指揮官クルト・シュトゥデントは「ちょっと待って……あー彼は無理そうだ」と重量オーバーとみなされ、彼は残念ながら放置という判断が下された。

傀儡帝国と逆さ吊り[編集]

ヒトラーと会談したムッソリーニは、ドイツが支配した北イタリアに新共和国を樹立することに合意、イタリア社会共和国を樹立しそれを指揮することとなった。しかし、彼自身は失脚、幽閉生活、胃潰瘍、そしてダイエットと続いた生活に気力を失い、政治からの引退を内心望んでいたと推測される。パドリオへの意地とヒトラーのいささか力を込めすぎる後押しで(結果的にヒトラーは彼を2時間ドラマのラストばりの断崖へ後押ししていたものの)やむにやまれず就任したが、久しぶりの公式声明を苦手なラジオで行ってしまい、たどたどしい演説で国民をポカンとさせ、眼鏡を必要とするほど老けこむ。しかしなおも精力的に活動を続ける彼に驚嘆した側近に理由を問われた際は「俺はなのさ」とだけ答えた。なんとも意味深な発言ではある。

たてまえ上同盟国のドイツは、今やイタリア社会共和国の実質上支配者だった。彼にはドイツの監視が一日22時間つき、彼がしとねに入り、隣にあるはずの尻をまさぐるとそこにあるはずのないやけに引き締まった尻もとい軍服男を発見するなどして彼をたびたび憤慨させた。このような仕打ちに彼が耐えたのも、ヒトラーとの個人的友情からであり、若いファシスト志願兵たちの活躍も彼の精神を支える大きな要因であった。

しかし、ミラノが連合軍に占領されたのはそれからほどなくの事だった。

逮捕[編集]

ミラノが占拠されると、レジスタンス運動を続けるパルチザンは暴走、ファシストたちを蠅でも叩くように虐殺し始めた。共和国は北イタリアに名目上存在する毛玉のような存在に成り下がってしまい、ムッソリーニは敗北への不安と自分もパルチザンに捕らえられて剥かれてこねくりまわされてすり潰されるのではないかという懸念から、初めは拒否していた他国への亡命を打診する。いざ出発する夜、県庁では最期の防衛戦(すなわち玉砕である)を期待したファシストたちが彼を止めるために集まり、ヤレ押すな押すなの大騒ぎが起こった。「出発するなドゥーチェ!一緒に残れ!私たちは貴方を守るのだ!」と止める盲目の元軍人や、彼の顔をつねる老婆、太鼓を叩きラッパを吹く者や出店まで登場し、彼の決心を鈍らせたが、部下が彼を車に押し込み事なきを得る。その時ムッソリーニの足や腕がよくわからない方向にねじれたが、気にせずコモ湖畔の町へ車で向かった。

しかしその地の県知事はすでにムッソリーニの敗北とみており、パルチザンに寝返る覚悟だったため、彼らは冷たくあしらわれ失意のうちにコモ湖畔を移動する羽目となる。そして1945年4月27日、コモ湖畔の小村の峡道でムッソリーニと途中合流したクラレッタ、そしてドイツ兵数百名は待機していたパルチザン数十名に包囲された。そこでなぜか数百名のドイツ軍は数十名のパルチザンにあっさり降伏、ムッソリーニを明らかにサイズの合っていない軍服でドイツ兵に変装させてあっさり引き渡してしまう。しかし目に白内障ができるほど知っている顔である、捕虜を調べているうち不意にパルチザンの一人が「あ、ムッソリーニだ」と叫び彼はクラレッタ及び51名のファシストと共に逮捕された。

逆さ吊り[編集]

逮捕時のムッソリーニは顔面蒼白で泡を吹いており、目は虚ろで屠られる前の豚のように震えていた。その夜クラレッタとともに雨の中を車で連れまわされ、とある農家にクラレッタと共に放り込まれたムッソリーニは、そこで何かに憑かれたように藁を捜し始める。必死で藁をかき集めるとその上に自分の外套をかけて粗末なベットらしきものを作った。なんということでしょう、彼はこの期に及んでに及ぼうというのである。彼は元来昼間も夜も忙しい男で、必ず向こう側から今夜は何人目と訊かれるほどであったから、ふたりにとって一晩を共にするのは最初で最後であり、傍から見れば呑気な行為であるが、二人にとってはそうではなかった。

翌朝、二人のもとに自動車に乗ったパルチザンが「もう安心して下さい、解放しにきました。」とやってきた。抵抗なくついてきた二人をさる別荘の前の壁に並ばせると、ここでやっとムッソリーニは自分がどうも射殺されるのではなかろうかと気が付き、案の定パルチザンはトランクから機関銃を取り出し銃口を向けた。彼はここで外套の胸をはだけ、靴下を脱ぎ、ベルトをはずし、「胸!……いや足を撃て!」と勇ましくも吠え、パルチザンもそれに了解し足を撃とうとしたが、狙いが外れて見事全弾胸に被弾した。クラレッタにも偶然弾丸が20発程度命中し即死。穴だらけになりながらもまだ息があったムッソリーニをパルチザンが、もうこんなに穴があるのなら少しぐらい増えてもかまわないだろうと2発頭蓋に穴を開けて止めを刺した。夕方になると、15人のファシストたちがやけにぞんざいな方法で車の荷台に乗ってやってきたため、パルチザンはムッソリーニとクラレッタを荷台に乗せると予定通りミラノのロレート広場に向かい、17人となった乗客をロレート広場内のガソリンスタンドの前に下ろし、夜明けを待った。

吊るされたムッソリーニ。

翌朝は晩春のよく晴れた日だった。太陽の光が広場に射すと、民衆が蟻のようにぞろぞろ集まり始め、転がっている丸い男+その他を発見。「本物のムッソリーニや」、「ワア始めて見た」と、動かないブヨブヨとしたそれはつねったりひねったりちぎったり揉んだり蹴ったりふんづけたりぶん殴ったりなど好き放題され、さらには「みんながよく見えるように」とどこからか脚立が持ちだされ、遺体は括りつけれる。

ガソリンスタンドの柱に括りつけられたクラレッタ(スカートがめくれたので観客たちを楽しませた)とムッソリーニと数名の遺体は、そこに数時間の間さながらイエスの受難のように鎮座し民衆の罵声を浴び続け、ミラノに突如現れた逆さまの十字架とも言うべきものは、イタリアの受難の姿の象徴となった。

死後[編集]

その後アリマタヤのヨセフではなく、ミラノ大学教授に引き取られたムッソリーニの遺体はパルチザンの監視の下解剖され、塩を振られたの一部はアメリカ情報機関員によって封筒に入れられて持ち帰られた。その後はミラノのムソッコ墓地にパルチザンによって潰された九百数十名のファシストたちの中心に埋葬されたが、墓は毎日痰壺もしくは便器と勘違いされ清掃も行き届いていない状態にさらされる。1946年4月、これを嘆いたファシストの青年が彼の遺体を掘り起こし他の場所に移したが、手違いで体が少しばらけてしまい、暗闇の中で焦っていたためか足が一本残されてしまう。4ヶ月後これを手掛かりに警察が遺体を押収、ばらけた遺体を治安維持の名目で警察が保管し、遺族からの引き渡しの要求は当分却下された。

遺体は1957年にやっとラケーレに引き渡され、生前彼自身が作った小さな礼拝堂に安置されることとなる。しかし遺族はアメリカが脳を持ち去ったことを忘れてはおらず、「脳返せ!」と訴え続ける。9年後の1966年、やっと要望に応え、アメリカ大使館の事務員は遺族のもとに菓子折りと薄汚い封筒を持って現れた。封筒の表には間違った綴りでムッソリーニの名が記されており、封筒の中には萎びた海綿のようなものが入っていた、すなわち残りの脳である。12年後のとんだ贈り物であった。

関連項目[編集]

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