ペレ

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内, 検索
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「ペレ」の項目を執筆しています。

ペレ(Pelé, 1940年10月23日 - )は、ブラジルの元サッカー選手アフリカ系ブラジル人。アルゼンチン以外では「王様」と言われる。

目次

[編集] プロフィール

[編集] ユース時代

大統領経験者が多いといわれるミナスジェライス州に生まれる。父も無名のサッカー選手であった。なお、ペレは本名でなく愛称である。貧しいブラジル社会のとくにジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス独裁政権時の混乱にあって、ペレの出生記録は残っておらず、現在では専ら愛称のペレで呼ばれている。なおこの愛称の由来は、ペレ本人が父親の所属していたサッカーチームのGKのベレの大ファンであったものの、言語障害で「B」の発音が出来ず「P」となっていたので、それを聞いた近所の年長者がペレとからかったことに由来する。本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらずしばしば名付け親の年長者グループに反発し、いじめ返されることもあったという。

第二次世界戦や政治的混乱により、ブラジルは政情が不安定で市民は経済的にも困窮を極めた。とくにサッカーの試合が成立しないことも多く、選手たちはその日暮らしを余儀なくされた。ペレは少年時代、丈夫な麻袋に紙屑を詰めてボールにし、路地裏でサッカーに明け暮れた。もともと学問の機会にも恵まれなかったためにペレはサッカーしかすることがなかった。加えて手製のボールは非常に重く、結果として彼の脚の力を鍛えることになった。

こうして幸か不幸か圧倒的な練習量を積んだペレはめきめきと上達、1954年にユースでデビューした。ヴァルガス大統領が自殺し徐々に復興を遂げつつあった都市部でも、親子二代の貧乏サッカー選手として嘲笑を持って受け入れられた。

[編集] プロ時代

1956年には、サンパウロの郊外を本拠地とするサントスFCでプロデビューした。その後1975年までの19年間は同クラブのみに所属した。なおこれはサンパウロにしか所属できなかったといったほうが正しい。というのはリオデジャネイロの名門クラブは彼との契約に最後まで難色を示した一方で、サンパウロは貧民層の割合が高く抵抗がなかったためである。さらに同じく大都市でありながら貧しいレシフェへ行く旅費もなかったとのことである。

しかしペレの活躍は目覚しく、数々のゴール記録を樹立する。1954年に14歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働23年で1363試合に出場し、1281ゴールを挙げている。1試合5得点が6回、4得点が30回、ハットトリックが92回。さらに1試合で8点を挙げたこともある。

ペレの活躍によりサントスFCはトヨタカップからアメリカスカップ凱旋門賞キノコカップなど数々のタイトルを総なめにした。そのためイントレピッド艇のセイラーからリボーまでもがペレの活躍を認めざるを得ない。

[編集] ブラジル代表及びFIFAワールドカップ

1957年7月7日に早くもサッカー王国ブラジルの代表としてデビュー。当時16歳。これはワールド・ベースボール・クラシックに高校1年生が出場するようなものである。清原和博もびっくりである。ワールドカップには、1958年のスウェーデン大会に初出場。当時17歳。準決勝でジュスト・フォンテーヌジネディーヌ・ジダンを擁するヨーロッパの覇者フランスを相手にハットトリックを達成した。

ワールドカップには、「ヨーロッパ大会では南米勢は優勝できない」というジンクスがある。しかしスウェーデン大会で唯一このジンクスを破ったのがペレである(余談だがジンクスを破ったのはブラジル代表ではない、あくまでペレである。ウィキペディアにもそう書いてあるのだから仕方ない)。ペレの上手さは格別で、彼がゴールを決めたときに、スウェーデンのディフェンス陣が、余りにも見事に抜かれたためペレの元へ祝福に駆け寄った、という逸話がある。当時のゴールキーパーもペレに決められるなら仕方ないと半ば諦めていた。ただしアルゼンチンの選手だけはペレに対して唾を吐くなど露骨な嫌がらせを行い続けた。

その後もチリイングランドメキシコの計4大会に出場し、3度の優勝に貢献した。ペレ自身も代表として歴代最多記録の77ゴールを記録した。日本を代表する中田英寿ですら引退までに13ゴールしか決めていないので、この記録は特筆に価する。中田はポジションがMFだろ!と気づいたあなたは鋭い。

[編集] サッカーの王様として

生涯で1281ゴールを記録するというその実績と、神がかり的なゴールでブラジル黄金時代を築いた業績から、「20世紀最高」、あるいは「サッカー史上最高」と評されている。日本以外で「王様」と言ったら、直訳ロックの怪しげなミュージシャンではなくペレのことだと思ってまず間違いない。ただしアルゼンチンではペレの貧しい少年時代をからかって「裸の王様」と呼ぶ。

身長171センチとブラジル人サッカー選手としては小柄であった。数年に一度の小兵と言われた田臥勇太よりもなお小柄である(もちろんhydeよりは長身だが)。しかし身体能力が抜群であり、バランス感覚も中国雑技団員並みと言われていた。自身より大柄な相手ディフェンダーの激しいタックルにも当たり負けしなかった(ただしサッカーモンゴル代表の朝青龍明徳がいたらどうだったか分からない)。

また、小柄ながら並外れた跳躍力で打点の高いヘディングを行い、さらに100メートルを10秒台で走る俊足を持ち合わせていた。そのため十種競技で8000点を叩き出していた。その一方でチームプレイに徹し、自らのゴールを減らしてでも周りの選手の能力を最大限に引き出していた。このプレイスタイルについては意外にも賛否両論あり、ペレが一人でドリブルして一人でシュートを決めたほうがチームとしてももっと得点を稼げたのではないかとの意見もある。ちなみにマラドーナがドリブル突破してシュートするスタイルを好むのも、ペレへの対抗意識の表れでもある。

しかし相手チームにとっては大変な脅威であり、相手チームのどんな手を使ってでもペレを止めたいという思いから悪質なファウルに悩まされることになった。中には頭突きを仕掛けてくる選手もいれば、ボブ・デービッドソンによる八百長判定、中東の笛など審判からも非常に厳しく不可解な判定を受け続けた。とくにアルゼンチンからの嫌がらせは目に余るものがあった。

[編集] 人格者として

ペレは人格的にも非常に尊敬されている。1995年からはブラジルのスポーツ長官を務めるなど、引退後も仕事が後をたたない。現役時代に稼いだ金よりも引退後の仕事で得た報酬のほうが多いと言われている。

また、サッカーにおける功績と数々のボランティア活動に対して多くの国が勲章を授与している。その一例を挙げると、

なお日本の文化勲章は諸外国に比べて格が著しく劣るのではないかと国会で議論となり、急遽大勲位も授与された。

また主要国ではアルゼンチンだけがなんら勲章を与えていない。

なおバイアグラのCMに出演しているが、ペレ自身は勃起不全ではない。むしろ女癖は悪く、ブラジル中に隠し子がいることで有名。そのため彼の宣伝には甚だ疑問がある。

[編集] ペレ伝説

ペレに関しては様々な逸話が残る。

  • 泥沼の紛争中にもペレのサッカーだけは見たいと言って、ナイジェリアビアフラの内戦が中断した(ペレ休戦)。
  • 主審がペレの暴言に対してレッドカードを出したが、人格者のペレが暴言など吐くはずがないとして主審が退場を命じられた。
  • ユベントスがペレに対し「契約金はあなたの言い値で」と言わんばかりに白紙の小切手を送った。
  • 1999年にブラジルで自動車強盗に遭遇したが、強盗に向かって「ペレだが?」と告げたところ強盗は「すみません」と謝って何も盗らず逃走した。以前自動車強盗にあったロマーリオを奪われたが、ペレとロマーリオではやはり選手としての格が違う。
  • ブラジルのアイドルであったシューシャと愛人関係にあった。なおペレとつきあう前にシューシャがつきあっていたのはアイルトン・セナである。世界二大スポーツスターと付き合ったシャーシュの凄さはモニカ・ルインスキーの比ではない。
  • 2002年フォーミュラ1ブラジルグランプリでゲストに招かれ、チェッカーフラッグを振る役を任された。しかし最終ラップでスタッフと打ち合わせしている間に1位のミハエル・シューマッハ、2位のラルフ・シューマッハが通過してしまい、3位からようやくチェッカーを振るという珍事となった。しかし国際自動車連盟もペレが相手では抗議もできず苦笑いするしかなかった。
  • ワールドカップ1970年大会では、ペレを擁するブラジルに勝ち目のないアルゼンチンが適当な理由をつけて不参加を表明した。またオマール・シボリはアルゼンチンにいても埒が明かないとイタリア国籍に変えてしまった。
  • アルゼンチンには1950年代、60年代には目立った成績を残した選手はいない。これは南米大会で活躍の機会をことごとくペレに奪われてしまったためである。このころの選手は「ブラジル戦ではボールを蹴った回数よりもペレの脛を蹴った回数のほうが多い」と口を揃える。
  • 1968年にブエノスアイレスで開かれたアルゼンチン対ブラジルのサッカー親善試合で、主審が開始30秒でペレに対して2枚目のイエローカードを出して退場させた。これはさすがにやりすぎだとして非難されたが、おかげでアルゼンチンは11年ぶりにブラジルに勝利した。
  • ブラジルではペレと言えばどの町でも盛大に歓迎され、数日は引き止められる。同国で田舎に泊まろう!というテレビ番組を始めても、ペレは出演者になれない(相当な制約をつければよいのかもしれないが)。
  • 世界中に何の脈絡もなくペレの名を冠した物が多数ある。フィンランドのペレビール、ツバルのペレ切手シリーズ、中国のペレギョーザ、ソ連のペレストロイカベネズエラのペレスボナルデ駅など。
  • 2002年のワールドカップ日韓大会に観戦に訪れた際、パスポートを紛失したために、大使館で「飛行機に乗って帰れない。再発行してほしい」と頼んだ。大使館はペレの帰国用に専用機を用意した。
  • アイルトン・セナジーコはしばしばペレと並んでブラジルスポーツ界のスターとされるが、二人は畏れ多いと言って恐縮した。とくにジーコは「白いペレ」「アーサー王」のニックネームがあったが、「ペレと喩えられるのは荷が重過ぎるし、王様は一人で十分だ」と語っている。
  • 20世紀最高のスポーツ選手としてマイケル・ジョーダンモハメド・アリらとともに名が挙がる。ジョーダンはファッションリーダーとしての業績があり、アリはベトナム徴兵拒否による引退と復帰という点がその評価を高めている。純粋にスポーツの功績を見ればペレが最高であるとの意見が支配的である。
  • 神の子と評されるマラドーナはペレを超えられないことを悩み、自棄食いに走ったと言われている。

[編集] 他のサッカー選手との比較

  • アルゼンチンで「史上最高のサッカー選手と言えば?」と聞くと、ほとんどの人が「マラドーナだ。そして最高のイカサマ選手はペレだ」と答える。
  • オランダで「史上最高のサッカー選手と言えば?」と聞くと、ほとんどの人が「ヨハン・クライフかペレだ」と答える。
  • ドイツで「史上最高のサッカー選手と言えば?」と聞くと、ほとんどの人が「ベッケンバウアーかペレだ」と答える。
  • 日本のおばちゃんに「史上最高のサッカー選手と言えば?」と聞くと、ほとんどの人が「顔なら間違いなくデビッド・ベッカム、でもペレって人はサッカー巧かったらしいわねえ」と答える。
  • 20世紀最高のゴールキーパーと評されるレフ・ヤシンは、ペレがいなければ20世紀最高のサッカー選手になれたかもしれないと言われている。
  • ブラジルにはペレをも上回る1329ゴールを決めたアルツール・フリーデンライヒがいるが、ペレ信者からその記録について難癖をつけられている。
  • 日本の政治家に「史上最高のサッカー選手と言えば?」と聞くと、ほとんどの人が「ペレか小泉純一郎。でも最高のディフェンダーは柳沢敦だ」といわれている。
個人用ツール
View and edit namespaces data

変種
操作
案内
編集者向け
姉妹プロジェクト
ツールボックス
他の言語