ホロコースト

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ホロコースト(Joro Coast)とは、フィリピンにある島、ホロ(Joro)にある海岸(Coast)の総称である。何か問題があるだろうか?ホロはフィリピン国内でも有数の貿易港として古くから栄えており、中世のころから中国東南アジアを結ぶ港町として栄えていた。なお、この項目では純粋にホロコーストについて記述するため、某ライトノベルに登場するキャラクターについては、当該項目を参照のこと。

このように、該当項目に偶然同じ名前の有名キャラが存在することもあるが、あくまで偶然である

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概要[編集]

ホロコーストは、フィリピン南部スールー諸島はホロ島に存在しており、アメリカ西海岸にある「パシフィックコースト」(別名、アメリカ西海岸)、コートジボアール共和国の昔の名前、「アイボリーコースト」(別名、象牙海岸)やアフリカ交易の中心地として有名だった「ゴールドコースト」(別名、黄金海岸)などと並んで世界的に有名な海岸である。しかし、この海岸の歴史は悲しい歴史に彩られており、多くの人間がこの海岸の名前を聞くだけで悲痛な想いを抱く。

ホロ島[編集]

ホロ島は、島国であるフィリピンの中央に位置する火山島で、北方のスル海と南方のセレベス海の境に存在し、マレーシアとの国境近くにあるため、ボルネオ島とフィリピンの島々を結ぶ重要な交易の中心地になっている。その名前の由来は、交易に来た中国人がこの地に暮らす人々の素朴で正直な様を見て「良き人々」と名づけたのが始まりとされている。また、中心都市であるホロは、この地域を支配していたイスラム教国家、スールー王国(1457年~1898年)の王都として繁栄し、当時の名残として、現在でも住民の90%がイスラム教徒であるなど、キリスト教徒がほとんどを占めるフィリピンの首都マニラとは好対照の文化を持つ島である。また、島にはタウスグ族、バジャウ族、バンギギ族が住んでいる。なお、バンギギ族は土地を持たない漂海の民として知られている。

国を持たない漂泊の民(ディアスポラ)ではない。念のため

ホロコーストの歴史[編集]

古代[編集]

ホロコーストの歴史は古く、主に東シナ海と南シナ海を結ぶ南海交易の中継地点として古くから存在している。歴史上において同地の名前がいつ存在し始めたかは定かではないが、その名前にもあるように、中国系商人が交易を目的に同地を訪れたのは、中国の海洋交易が著しく発展した宋王朝時代(960年~1279年)のころと思われる。現地で生産される交易品は海産物が主流であるが、それ以上にその立地条件に拠るところの中継交易がホロコーストの存在を大きくしていくこととなる。

併せて、世界中のどの場所においても、異文化が交わる場所では、利益も生み出すが悲劇も生み出すことが一般的である。

王国の誕生[編集]

歴史上、初めてホロコーストが大きく取り扱われるのは、1380年にアラブの商人がこの地を訪れたことにより、それまで南洋を中心とした交易網に、新たにイスラム圏経済が登場し始めたことによる。それは、宋王朝が金王朝に滅ぼされ、その金王朝もモンゴルによって滅ぼされるなど、中華経済が混乱した状況にあったことも大きい。その間隙を縫う形で、海のシルクロードをさかのぼるようにしてアラブ商人が南シナ海まで進出、それと共にフィリピン国内でイスラム教を広く信仰されていくことになる。そして、1450年ごろ、マレー半島出身のアラブ人シャリフル・ハセム・シェド・アブ・バクルがこの地を王都としてスールー王国を建国する。これは、彼が戦火を経て建国したわけではなく、ブルネイ王国によって彼が当地のスルタンに任命されたことによる建国である。もっとも、当地に暮らしていた各民族にとっては青天の霹靂であったことは間違いない。

なお、それ以外の説として、1200年代にスマトラ島に住んでいたミナンカバウ族のスパイス商人たちが北方に進出、1390年にスールー王国を建国したという話も存在する。もっとも、この説だと下記に示すような異文化、および別の宗教に対するエグ味が少ないため、あまりアンサイクロペディア的には美味しくないことも確かである。

奴隷[編集]

スールー王国が建国された後、もっとも特筆すべき事例は、主な特産品に奴隷が加わったことである。これは、インド経済圏やインドネシアを中心とする南洋の経済圏では主な労働力が奴隷であったことと、それらのイスラム教国において、イスラム教徒を奴隷にすることが禁じられていたため、供給源を外部の異教徒に求めたことによる。そして、イスラム教の宣教師が来る前まで、フィリピン国内の宗教はヒンズー教系の土着宗教だったため、ある意味、信仰的にも、商売的にもとてもおいしい場所にあるおいしい存在だったことは確かである。もっとも、数千年におよぶ人類の交易の歴史の中で、奴隷はいつの時代も重要な商品であったことはまぎれもない事実であるため、特に気にすることはない。併せて、近現代のアメリカ合衆国の白人キリスト教徒がやっている奴隷交易とは違い、あくまで商品として尊重される存在だったことにも気をつけること。あっちは経済に名を借りた民族浄化です。そのため、スールー王国では、15世紀の建国から19世紀に滅亡するまで島外に度々出征、多くの人間を南方に送り込み、近隣諸国から海賊として恐れられていくこととなる。それは16世紀から始まる大航海時代が本格化しても行われ続けたため、歴史上、スールー王国は海賊の国という位置づけになっている。ちなみに、現在でも大きな問題となっているフィリピンの国内の宗教対立の原因が、まさにこの王国にあったりもする。併せて、現在でもこの地域の住民の90%がイスラム教徒であるという事実は、この王国が現地人をどう扱っていたかについても端的に示している。

宗教が勢力を拡大するとき、往々にしてえぐいことがさらっと行われるのが歴史というものである。

日本との関わり[編集]

ホロコーストと日本の関係は、1592年、豊臣秀吉によって朱印船貿易が開始されたことに始まる。当時スペイン領だったフィリピンはルソン島のマニラ港が重要な貿易ルートに当たったため、ホロコーストにも同じように日本船が往来することになる。ただし、当時は戦国時代。朱印船交易の開始直後、日本からの輸出品に、しっかりと奴隷が含まれていたことに留意すること。なお、日本に向けてホロコーストで買い付ける産品は、以外なことに中国産のが中心だったといわれている。これは、当時、倭寇の全盛時代だったため、中国の港に日本船が入港できず、世界一の品質だった中国の絹を手に入れるためには朱印船を中継交易地に派遣するしかなかったことが大きい。しかし、その後、江戸幕府の成立とともに倭寇の取り締まりも本格化、中国とも交易を再開することになり、南洋交易の重要性は徐々に失われていく。併せて、奴隷交易は秀吉の存命中に禁止されている。さらに1637年島原の乱が起こると、江戸幕府は交易の相手であったキリスト教国家との決別を決断。そして、キリスト教の禁教のために鎖国政策を本格化させることになり、併せて、朱印船貿易もその短い時代を終了することになる。もっとも、その後、世界中で奴隷交易が本格化した中で日本が取り残されたことにより、その後の江戸期における日本独自の文化が爛熟していくことになるのと、ホロコーストやアフリカのように奴隷を輸出していた地域が軒並み没落していく様子と、まさに好対照である。

思いっきし、世界情勢から取り残されたけれどね

大航海時代[編集]

16世紀、大航海時代の訪れとともに、ホロコーストにもキリスト教と植民地支配の魔の手が伸びる。実際、世界一周を成し遂げたフェルディナンド・マゼランは、その後、彼の名前で呼ばれるようになる海峡を越え、はるばる太平洋を横断した後、フィリピンのマクタン島で戦死している。このように、西からイスラム教が進出してきたように、今度は東からキリスト教が進出することで、ホロコーストはまさに宗教対立の最前線と化すのである。

当初、フィリピンに進出してきたのは、太陽の沈まない国と言われたスペインが最初だった。彼らは1565年にセブ島を占領。その後も続々と領土を広げ、1571年にはフィリピンの大部分を征服することに成功する。しかし、そんな彼らもホロコースト一帯のスールー王国支配地域では激烈な抵抗に遭遇、結局占領を諦めることとなる。その後、スペインの国力の低下と共にホロコーストを併合するプランも失われ、スペインとスールー王国は同じ地域における交易相手として支えあっていく。交易品は聞くな

もっとも、19世紀に入ると併合大好きイギリスがホロコーストで新たに交易をはじめた他、フランスも同じように触手を伸ばしてきたため、あまり国力のなかったスペインもついにホロコーストの併合を決意。1876年、スールー王国の首都ホロを占領、1878年に王国全体を保護領とする。その結果、いらんことしいの某大国を呼び込むという、現在もフィリピンの国情に深く関わることになる悲劇が始まることになる。

米西戦争[編集]

スールー王国が占領されたのと同じころ、スペインの植民地にしてアメリカが喉から手が出るほど欲してたまらなかったキューバで長年続いてきた独立運動が激化し、内戦状態になる。そして、同じように欲しくてたまらなかったフィリピンでも、内戦が勃発。スペインは立て続けに起こった外地での反乱に大きく国力をそぐこととなる。そして1890年代、アメリカで、新聞を売るには戦争を起こせばいいということに気づいたバカがいて、そして、やけに手近なところで延々と続く内戦があった。

市民ケーンでも有名なこのエピソードは、つまり、スペイン軍がキューバで非人道的な行いをしていると、アメリカの新聞がでっちあげてスペイン(漢字で書くと西班牙)への怨嗟を高め、アメリカ政府に内戦への介入を要求。一気に米西関係を不穏な情勢にしたことで始まる。現地ではそんなことはまったくなかったのだけれど。そして運命の1898年2月15日、キューバの首都ハバナで停泊していたアメリカの軍艦がなぜか爆発、260人が死亡する事件が発生。渡りに船とばかりにアメリカはスペインに宣戦布告して、1ヶ月であっという間にキューバを占領。返す刀で世界中のスペインの植民地にも続々派兵。1898年12月10日、パリで和平条約が締結されたころには、世界中のスペインの植民地に星条旗がはためいていた。

ちなみに、新聞の部数は1500部が160万部まで増えている。

米比戦争[編集]

1899年米西戦争に勝利したアメリカ合衆国スペインの植民地だったフィリピン(漢字で書くと比律賓)をスペインの人でなしどもから守ると称し大規模な兵力を差し向けるが、結局は植民地としてフィリピンを獲得することがバレバレであったため、当時フィリピンの独立を求めていたエミリオ・アギナルドを中心とした独立勢力と激突。米比戦争が勃発する。その結果、アメリカは1913年まで12万人を超える兵力をフィリピンに向けて送り続けることになる。そんな中、1900年代に発生したフィリピン南部で発生したイスラム教徒の反乱、米国での通称でいうモロ族の反乱によって、ホロコーストはまさに血塗られた歴史の舞台と化してしまうのである。ちなみに、モロ族とはスペイン語でいうムーア族、すなわちイスラム教徒がなまってできた言葉である。正式な民族名は上記したものであるため、現地の政治情勢を覚える際に大変めんどくさいという側面がある。ちなみに、現在でもモロ族と呼んでいる。このように、本来ならモロ族という言葉は存在しないのだが、いかんせんアメリカだから。また、当時の西欧列強は未開の土人を教育するためにはどんなことをしてでも許されるなどと、国を上げて考えていた時代であるため、ホロコーストを中心とした地域に在住し独自の文化を発展させてきたイスラム教徒の各民族が全てモロ族という未開の土人として一括りにされてしまった結果、アメリカ軍による教化と書いて虐殺と読むいつもの話の対象となってしまう。つまるところ、独自の文化を育んできたネイティブ・アメリカンの諸民族がインディアンとして一括処理されたのと全く同じ道のりである。

最終的に、1913年に戦争が終結するまでの間、アメリカ軍は米比戦争においてフィリピン全土で60万人もの人命を奪ったといわれている。一応、米西戦争の際に、スペイン人による非人道的行為を糾弾した国である。

王国の滅亡[編集]

スールー王国の歴史は1898年にスペインの植民地を全てアメリカに渡した時点で新たに米国とスールー王国間で結ばれた条約をもってして終了したことになっている。どうも、翻訳の違いでそうなったらしいが。そして、1903年、米比戦争の最中に一帯を現地民の話なぞ一切聞かずに、王国全体をフィリピン国のモロ州とした段階で、そらあ反乱が起きるわ、ということである。実は米比戦争自体、開戦当初の段階でほぼ独立軍を掃討していたのだけれど、ドサクサにまぎれてフィリピン南部のイスラム教支配地域を併合しようとしたら、反乱が勃発。鎮圧に10数年かかったという話である。無辜の住民が何万人も殺され続けた結果、海洋国家としてのスールー王国は壊滅、数多くの文化や伝統が失われることになる。

当然のことながら、この段階でイスラム教徒はキリスト教徒および他国から来た人間が大嫌いになる。それは、現在まで続くこの地域の混乱を象徴している。

第二次大戦[編集]

第二次大戦中の1942年、日本軍がフィリピンからアメリカ軍を駆逐し、ホロコーストを含むスールー諸島一帯も白人支配から解放されることになる。しかし、住んでる人間にとっては、スペインがアメリカになってアメリカが日本になっただけの話である。当然、日本軍は現地のイスラム教徒と激戦を繰り広げることになる。その中の逸話の一つとして、後の総理大臣である中曽根康弘が従軍した際にこの地域の海岸に上陸、原住民であるモロ族と激戦を繰り広げたという逸話が存在する。いや、だからそれは民族名ちゃうって。

そして、1945年、日本の敗戦と同時にフィリピンは独立する。もっとも、ほとんどアメリカの植民地であるという状況に変化はなかった。

現代[編集]

この話は21世紀になってもまだ続く。フィリピンの独立は同時にフィリピン国民という意識を高めるためにキリスト教を主体とした各種教化政策を実行させることになるが、ホロコースト一帯に住む住民にはイスラム教徒が長年培ってきた伝統と文化をキリスト教のそれと入れ替える同化政策と映ったため、さらに反発が広がる。そして、1970年、ミンダナオ島でモロ民族解放戦線が結成、武装闘争が開始される。これは、1960年代にフィリピン南部に、キリスト教徒が入植してきたことも大きい。その後、路線対立の結果、内部分裂を起こすなどするも、1986年に起こったフィリピン革命で独裁者兼アメリカにとって大変都合のよかった大統領フェルディナンド・マルコスが失脚したことをきっかけとして解放戦線はフィリピン政府と対話路線に変更する。そして、1990年にホロコーストを含むイスラム教徒在住地域にイスラム教徒ミンダナオ自治地域を建設することに成功するが、もっとも、独立したい連中はやっぱり存在し、アブ・サヤフなどのイスラム系テロ組織として現在でも活動を続けている。

ホロコーストの現在[編集]

2009年現在、ホロコーストを含めた一帯は外国人目当ての誘拐事件が多発するなど、外部の人間にとってかなり危険な地域となっている。そのため、ホロコーストを中心とした南国リゾートへの観光もほとんど行われていない。また、この地域で発生する数々の事件がフィリピン国内への観光産業へ大きな打撃を与えていることも確かである。そのため、まともな経済活動は成り立たず、貧困が蔓延、その結果さらに治安が悪化するという悪循環に陥っているのが現状である。

関連項目[編集]