ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

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時よ止まれ、君は実に美しい!
ゲーテ について、オスカー・ワイルド
ギョッ、ギョッ、ギョエテかシルレェルか♪
ゲーテ について、野坂昭如
ゲーテは、ドイツがEUに加盟するまで、ドイツの人々に最も尊ばれた偉人である。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 1749年8月28日 - 1832年3月22日)はドイツを代表する文豪である。小説戯曲だけでなく紀行文などさまざまな分野で多くの著作があり、中でもその生涯を通じて書かれ、死の直前に完成した『ファウスト』は、ドイツ文学を語る上で欠かすことの出来ない、彼の代表作である。しかしその長大かつ重厚なストーリーゆえに、知名度の高いわりにきちんと読まれていない作品の代表ともなっている。

少年期[編集]

ゲーテの父親は生まれながらの資産家で、服は立派だったが思想的には樽のごとくがらんどうであり、本人にもその自覚があったのか、息子を自分より立派な人間にしたいという一心で、幼い息子にものすごい英才教育を受けさせた。哀れにも、3歳のころから綴り間違いの一切許されない厳しい読み書き教育を受けることを強いられ、続いて古典語をはじめさまざまの語学、地理歴史乗馬ピアノダンス、ありとあらゆる教養を叩き込まれたゲーテは、16歳でライプチヒ大学に入ったときには、母国語のほかにラテンギリシャフランスイギリスイタリア語を自在に操り、たしなみ多く、書体は流麗という、想像するだけで胸のむかつくような糞ガキに成長していた。ゲーテは大学入学後半年で遅めの反抗期を迎え、学業をほっぽり出して恋人にこっぱずかしいポエムをささげ、妹や友人に手紙を書きまくり、を浴びるように飲んで、一日中お馬さんに乗って駆けずり回るなどしていた。パパの重圧から解放されて有頂天になったゲーテであったが、1768年6月、突如として大量に血を吐き、下宿の床を真っ赤にしたのだった。「うわあ、死ぬる死ぬる」とあわてて医者を呼び、ベッドに寝てじっとしていたら吐血は収まったが、ほっと一息、鏡をのぞくと頬骨がすけ、おまけに変な腫瘍が出来ていた。鼠のウンコを顔に塗りたくり、奇怪な呪文を唱えながら死の恐怖におびえる彼を見て困り果てた医者は、水に観葉植物の肥料をまぜて異臭を放つ液体を作り、万能薬と偽って彼に飲ませた。なぜかゲーテは瞬く間に回復し、人間の生死に異常なまでの関心を寄せるようになった。そして20歳になった彼は、『ファウスト』を書き始めたのだった。

若き作家の悩み[編集]

1774年9月、ゲーテは25歳にして、小説『若きウェルテルの悩み』を出版、大ベストセラー作家となる。若く美しい少女ロッテへの熱烈な恋に破れたウェルテルは彼女の触れたピストル自殺する。この極めて不幸な愛を描いた恋愛小説はたちまちヒットして何ヶ国語にも翻訳され、世界各国の若者たちを熱狂させ、その中でもとりわけ馬鹿な男たちの頭を吹っ飛ばした。かのナポレオンも9回読み、作者との面会を渇望し、1808年にそれが叶ったときには彼の目の前で「いた!ゲーテがいた!いたよお!」と大声でのたまい、ゲーテは一時難聴に悩まされたという。このとんでもない小説は、ゲーテ自身のつらい体験に基づいていた。

1771年フランクフルト弁護士をやっているはずの息子がろくに仕事をせず、青臭い騎士道物語を書いていると知った父親は大変怒り、翌年、ゲーテをヴェツラーという小さな町に強制的に移らせた。そこで彼は一人の可憐な少女シャルロッテ・ブーフと知り合い、激しい恋に落ちたのである。彼はなんと言うかその、弱くて早かったので、すぐに嫌われてしまった。それでもあきらめず訪問を重ねるうちに、彼女にケストナーという婚約者がいると分かった。悔しかったが、彼女を奪って逃げる勇気は彼にはなかった。愛のために危険を冒すどころか、怖気づいて町を去ったのだった。ウェルテルのように、別れ際にシャルロッテに接吻するでもなく、実にこそこそと退散したのである。やるせなさのあまり自殺を図るも果たせず、いじけているうちに、73年4月、愛する彼女がケストナーと式を挙げることとなった。結婚式の当日、悲しみにくれるゲーテは机に向かい執筆中であったが、意を決して式の済んだころに彼女の新居に向かった。鍵があいていたので勝手に入ってみると、シャルロッテが無残にも胸をえぐられて横たわっていた。物が散乱し、そのいくつかは血で汚れていた。机の上になにやら包んで置いてあり、震える手で開くと、なんとおぞましいことか、彼女の心臓だった。わけも分からず目の前の小瓶をつかみ、叩き割る。と、中に金属製の名札、そこには思い出したくもない忌まわしい名が!「おお!私が誰か分かったぞ!」ゲーテはあまりのことに絶叫した。やがて声が枯れ、よろよろと部屋に戻ると、爪を伸ばした不気味な男がゆったりとカウチに腰掛けて微笑んでいる。「どうだ、小賢しさがいかに虚しいか分かったろう。君は悪魔に魂を売ったのだ。」耐え切れなくなったゲーテは、彼女の家を飛び出し、雨の降りしきる中を必死に駆けていった。

と、こういうを見たのであった。

楽しい講演旅行[編集]

バセドウ先生

恋破れて逃走したゲーテは、気を取り直して友人二人とトリオを組んでライン地方に講演旅行に出かけた。二人はそれぞれ神学者のヨハン・カスパール・ラヴァーターと、教育学者のヨハン・ベルンハルト・バセドウで、トリオ名は「ヨハンズ」だった。3人は仲良くひとつの船で川を下り、行く先々の宿屋や、貴婦人のすむ豪邸で講演会を開いた。彼らは右からバセドウ、ラヴァーター、ゲーテの順に立ち、ポーズを決める。そして生意気なゲーテと過激な性格のバセドウがかけ合い、議論が白熱してきたところで、温厚な性格のラヴァーターが得意の聖書についての話でその場を丸くおさめ、「こんなん連れてやってますがな、苦労するでホンマ。ほな、サイナラー。」とやるのである。彼らの講演はいつも大人気であった。しゃべり疲れた夜には、3人は連れ立って近くの酒場へ行き、卑猥な歌を歌って夜通し騒ぐのであった。50代と30代と20代の凸凹トリオは、互いにからかいあって楽しみつつも、講演を頻繁に行うことで、それぞれのパトロンをしっかりと得ていった。ゲーテはこの旅行中にも失恋を経験しているが、そのことを馬鹿にするものは誰もいなかった。振られたのは旅行後だったのだから。二人の友人はどちらもゲーテより先に亡くなるが、今日残っているゲーテの彼らに関する記述には、どれをとっても深い愛情が感じられるとともに、バセドウについてのみいささか悪口が多いのが気になるところである。

シュタイン夫人との出会い[編集]

美しい詩に押し葉を添えて これであの娘もイチコロさ

講演旅行の際にザクセン=ヴァイマル公カール・アウグストに気に入られ、1775年ヴァイマルに招かれたゲーテは、到着して間もなく美しい女性と出会い、に落ちる。当時すでに夫との間に7人の子をもうけていたシャルロッテ・フォン・シュタインである。くそ、またシャルロッテだ。ゲーテはその美貌に強く惹かれ、彼女のとりこになった。その思いはすさまじく、最初の熱烈な恋文を書く間に5回もパンツを取り替えねばならなかったほどだった。この恋は、夫人の夫との夫婦生活がうまくいっていなかったこともあって、ゲーテには珍しく成就し、12年も続いた。この間ゲーテは数多くの多様な形式の詩を夫人に送り続け、そのかたわら政務官として活躍し、しまいには宰相に任命された。『ファウスト』執筆を含め文学的活動はいったん停止するも、政治家としては絶好調であった。

失踪、実はイタリアへ[編集]

彼なりに一生懸命やっているのだから笑ってはならない。

そんな良い時期にもかかわらずゲーテは突如として誰にも告げずにヴァイマルから姿を消し、偽名を使ってイタリア旅行に出発した。1786年のことであった。永遠に続くかに見えた彼のシュタイン夫人への愛が、彼女の本当の年齢を知ってから急速に冷めていったことが原因であった。付き合い始めた当初、彼女はゲーテと同い年だと言い、彼もそれを信じていたが、12年たって肌の老化を化粧でごまかしきれなくなった夫人がついに観念し、白状したところによると、なんと彼女は7歳もさばを読んでいたのだった。ゲーテは絶望した。彼は断然年下が好みであったのだから。そしてそのときすでに二人の間に長男アウグストが生まれていたにもかかわらず夫人と縁を切る決意を固め、その手段としてイタリアへの逃亡を選んだのだった。イタリアは彼にとって実に素晴らしい場所だった。母国の娼婦たちはあまりに早い彼をあざ笑ったが、イタリアのさんさんと照る太陽の光を浴びて、陽気であたたかな性格に育った娼婦たちは、彼を馬鹿にすることなく、むしろいたわり、彼がいいように気を配ってくれた。そのほかにも、何度もヴェスヴィオ火山の頂上で「フニクリ・フニクラ」を歌い、カリオストロの親戚を相手に探偵ごっこを繰り広げ、道行く人に即興の詩を捧げ、うまいものを食べ、商人という仮の身分を忘れて大騒ぎした。よほどいい気分だったのだろう、この2年に及ぶ旅行中、ゲーテはかなり頻繁に手紙を書いてあちこちの知人友人に送っている。彼はそれらの手紙の写しをとっておいて、30年以上かけて自分に都合の悪い記録を丹念に消した上で『イタリア紀行』として発表している。

ゲーテは自然科学者としても活躍し、人間の骨格は背骨とその変態の寄せ集めであるから、したがって人間はみな生まれながらにして変態であると考え、それは植物に関してもいえる、つまり、植物も変態であるというひじょうに斬新な論を『植物変態論』という書物にまとめ、1790年に発表している。この論は多くの自然科学者を驚かせ、やがてはチャールズ・ダーウィン進化論につながってゆく。彼の自然科学者としての輝かしい功績はそればかりではない。彼は旅行先のさまざまな場所からを拾ってきて、よく磨いて種類別にコレクションするのを趣味としており、その数は1万9千点にのぼる。このイタリア旅行中も石集めは欠かさず、行く先々で必ずいくつか持って帰ってきて、うれしそうに旅行かばんに詰め込んでいた。激しい噴火の続く火山に危険を冒して登ったのも、できたての溶岩がどうしても欲しくてたまらなかったからなのだった。中身が石ころだらけのかばんを胸に抱いて絶えずにやついている不気味な男の馬車に相乗りするものは誰もいなかった。

よき友シラー[編集]

旅行から帰ったゲーテは、一人の若い詩人と出会った。今日ベートーヴェンの第九の原詞で知られるフリードリヒ・フォン・シラーであった。小さな新聞社に詩を寄稿して何とか食いつないでいたこの貧乏詩人は、ましな職を求めてさまよった末ヴァイマルに訪れるも、人事担当のゲーテが旅行中だったため待ちぼうけをくっていたのだ。ゲーテはシラーの才能を認めつつも「折角晴れやかな気分で帰ってきたのにこの若造はなぜ私に対してこんなにも怒っているのか、全く嫌な奴だ」と思ったが、シラーのほうでも彼の横柄に見える態度に不満を抱かずにはいられなかったようで、お互いに好印象を得られずにいったんは別れる。しかし、1789年にゲーテがシラーを大学教授に推薦したことで二人の関係は一変、やっとこさ職にありつけたシラーはゲーテに深く感謝し、何度も会ううちに意気投合、無二の親友となってゆくのだった。二人の友情はそれぞれの生涯にわたり長く続いた。手紙のやり取りは盛んに行われ、詩に関係ないことも多く語り合った。『ファウスト』を再執筆するよう助言したのもシラーであった。1805年、二人で劇を見に行ったのを最後にシラーは重い肺の病に臥し、ゲーテより先に亡くなってしまう。この視を深く悲しんだゲーテは、シラーの骸骨を無断で持ち出し、いつも眺められるよう机の脇に置き、寂しくなったときに話しかけていた。

生涯の伴侶[編集]

クリスティアーネ・ブルピウスが突如としてゲーテの元に訪れたのも、彼がイタリアから帰って間もないころだった。自らが意図したこととはいえ、シュタイン夫人に去られたことに少なからず心が痛んでいたゲーテには、クリスティアーネは三文小説家のが無事に職に就けるよう口添えを頼みに来た健気なではなく、一人の女として映った。「うん、分かった分かった、ところで、君は今幾つだね?」23歳だった。16歳年下。ひゃっほう。ゲーテはおもむろに立ち上がると、ドアに鍵をかけ、彼女にずんずん向かっていった。ゲーテ39歳、四十を前にしていささか焦っていた感もある。数日後クリスティアーネを家政婦として家に住まわせるが、これはあまりにあからさまであったため、世間から散々中傷された。しかし、兄が家庭教師の仕事を手に入れることが出来、経済的な援助も受けられたこともあり、クリスティアーネはゲーテに心から感謝し、また愛し始めていた。しかしゲーテは世間体が悪くなるのを恐れてか彼女との結婚届をなかなか出そうとせず、中傷はますます厳しくなり、「半神をたぶらかした売春婦」とよばれたクリスティアーネは激しいストレスに悩まされた。その上、生まれた5人の子供が立て続けに亡くなるという悲劇が起こった。シュタイン夫人がクリスティアーネの夢枕に立って舞い、その度にひとりずつ死んでいったのである。ゲーテはそのつど嘆き悲しみ、毎日のように神に祈った。そして、5人目が犠牲になった翌日に、シュタイン夫人もまた、服についた芥子の匂いが取れず、ついに出家するのであった。度重なる苦難にクリスティアーネは耐え、めげることなくゲーテに付き添った。ゲーテは彼女の変わることのない愛に感動し、1806年10月、やっと婚姻届を提出、慎ましやかな式を挙げた。世間は「ゲーテが家政婦と結婚しおった」と騒いだが、二人はもう気にしなかった。彼女はとなってからも献身的に彼を支え、彼女のおかげでゲーテも安心して女遊びを楽しむことが出来た。

温泉通い[編集]

ほら、とってもきれい

ゲーテのような偉大な人物とて年には勝てない。1806年から、腎臓病を癒すべく頻繁に温泉に通うようになった。温泉は彼に安らぎと集中力を与え、ゲーテはそれまでいろいろと理由をつけてのびのびにしていた『ファウスト』第一部をついに完成させ、発表した。

また、自然科学者として色と光の研究を熱心に行い、環を描いて、青と黄色をその対極に据え、それぞれに近い順に色を置いていくと、虹のようになってひじょうにきれいだということを発見し、この環を「色彩環」と名づけている。1810年にこれを『色彩論』として発表、色彩環が子供の遊ぶ独楽の絵柄に採用されるなど注目を浴びた。

老いてなお恋多き体質は変わらず、クリスティアーネ・ヘルツリープ(分かりづらいな)という18歳の少女に恋をするも伝えられず、未練たっぷりに17もの詩を書いた。その中には「彼女に嫉妬を感じさせることが出来たら、ひょっとしたら帰ってくるかもしれない」という、大間違いにもほどがある作品が混じっている。もはや彼の感覚は、彼の愛する女性の若さに追いつかなくなったのであった。

ゲーテはかのルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン1812年に対面しており、生でピアノの演奏まで聞かせてもらっているが、「才能は認めるが、抑制の効かないうえに暗く不愉快な性格で、周りにまでどんよりした空気を蔓延させるので辟易する。もっとも、耳が聞こえないことも原因だろうとは思うので同情はするが」という否定的な見解を残し、「また来てくださいね」という社交辞令を真に受けて喜んで再度訪ねてきた友達の少ないベートーヴェンに「帰りなさい」とやんわり伝えている。ゲーテは基本的に名の知れた音楽家の音楽を好まず、彼の数多くの詩に曲をつけているシューベルトにも冷たかった。彼の好んだのは当時無名の楽長ツェルターであった。彼のこの傾向は絵画の分野にも見られ、旅行先で親しく交流するのは決まって売れない画家たちだった。

『ファウスト』完成、晩年[編集]

少女からの返事を待つ老ゲーテ

1816年に妻に先立たれ、彼もまた悲しみと共に老いを極め、それでもなお彼の癖は直らず、1821年、今度はウルリーケ・フォン・レヴェツォーという17歳の少女に告白し、当然ながら振られている。しかし彼はこの恋の成就に絶対の自信があったようで、彼が彼女に送った甘ったるい詩がずたずたに引き裂かれて返ってきた後、告白の伝達係を務めた親切なカール・アウグスト公に失笑されつつ「何かの間違いだ!」と騒いだ挙句、またも未練たらたらの詩を書いた。またこの年は『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』が発表された年でもあり、この中で彼は「あきらめましょう、あきらめましょう、すっきりしましょう、ぱっぱっぱらっぱ」と説いている。ようやくゲーテにも老いの自覚が出来たとみえる。

この恋の後、その死の直前までゲーテは『ファウスト』第二部の執筆に力を注ぎ、82歳のときについに完成させた。メフィストとの魂の契約を行ったファウストは、最終的に愛による救済を受け、天に昇る。生涯をかけた大作にふさわしい素晴らしい大団円である。この間、シュタイン夫妻との間の息子であり、隠れて復讐の機会をうかがっていたアウグストが亡くなるが、この『ファウスト』完成という偉業の前には、彼の死などほんの些細な事件に過ぎなかった。

もっと女を!

1832年3月22日、ドイツで、いや世界でもっとも偉大な文豪ゲーテは、薄暗い部屋の中で、「おい、暗いよ。もっと明かりを大きくしてくれ。ただでさえ窓が小さくて困っているんだから。全く近頃の若い者は年寄りをいたわる気持ちが足りておらん。」と言っている途中に絶命した。大往生であった。天に召された彼の体には、一人の若い女性がすがりついていつまでも泣いていた。おい、じじい、いい加減にしろ。

考察:甘え抜いたゲーテの人生[編集]

前述の『遍歴時代』には無数の箴言が含まれている。鋭い指摘もあるものの、理想主義者(世間知らず)の戯言という側面は否定できない。作中で「諦観」について語っているが、それは「万能になれないなら、せめて自分の仕事だけはちゃんとしよう」というごく当たり前の思想をかっこよく言ったに過ぎない。しかもそれさえ、芸術・学問に関しての発言である(作中の学校には「絵画」「音楽」などの学科しか存在しない)。現実の生活を見てこなかった人間であることが明瞭に浮かび上がってくる。若き日にヒット作を飛ばして何ら生活の辛酸を舐めず、それで一生食ってきた人間ゆえの浅はかさ。さる公国で「政治家」をやっていた時期があるらしいがその実態は疑問である(責任ある立場を放りだしてイタリアへ逃走したりしている)。また最後の大作『ファウスト』を七回も推敲したことで知られる。それだけに極めて優れた作品ではある(「世慣れた人」を自称するだけあって、社会を風刺する評論詩としては第一級である)。しかしラストで、騙し裏切って見捨てた少女(主人公の私生児を生んで途方にくれ、ついに殺してしまった咎で死刑になった)の魂に救済されるところに、ゲーテのぬるい性格が現れている(真摯さも覚悟もそこには見受けられない)。まことに甘えに甘え、甘えぬいた人生だった。