ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、1770年 - 1827年)は、耳の聴こえない音楽家。こう書くとほぼパラドックスだが、厳密には、音楽家になったのにだんだん耳が聞こえなくなってしまった人である。バッハブラームスと共に「三大B(三大仏頂面)」と称されるが、こんな表情であることに、三人のうちで一番まっとうな理由がある。その生涯および作品につきまとうあからさまな苦悩や悲壮感ただようイメージゆえに、おもしろおかしく書きにくいことこの上ない。

耳が遠く、近頃はもの忘れも激しい

生涯[編集]

ベートーヴェンの幼少期について、NHKは以下のような見解を示している。

子供の頃 ベートーベンは 音楽なんて好きじゃなかった

ピアノ弾くよりドリブルやパス サッカー選手になりたかった

ベートーベンの おばあちゃんは 孫に音楽やらせたかった

こっそりボール パンクさせて 彼をピアノに縛りつけた


たしかに彼はサッカー選手に向いていたかもしれない。小柄でずんぐりむっくりした体型で、動きは機敏だったという。だが残念なことにベートーヴェンのおばあちゃんは彼が生まれる前にアル中になり発狂して修道院に隔離されて死んでいる。

彼をピアノに縛りつけたのはおばあちゃんではなく、父親のヨハン・ヴァン・ベートーヴェンである。宮廷楽長だった親の重圧に負けそうになりつつも、どうにか宮廷教会つきのテノール歌手になった男だ。せっかくそこまで達成したのに、自分の母親と同じく酒で身を持ち崩して予定よりだいぶ早く引退せざるを得なくなる。しばらく親の遺産で暮らしたがそれももう先がないと思ったとき、ヨハンは自分の3人の息子のうち、音楽の素養がありそうな二男ルートヴィヒを天才少年音楽家に仕立てて稼ぐことにした。ルートヴィヒをピアノしかない部屋に閉じ込めておいて自分は酒を飲んで寝るという斬新な英才教育を施した結果、数年後には立派に稼げるようになった息子によって隠遁させられ、夢のニート生活をその死まで貫くことができた。

親のせいでかなりたくましい青年に育ったベートーヴェンだが、その自立心の強さが他人には傲慢と映ったらしく、師匠のハイドンとはケンカ別れし、敬愛したゲーテからもあまり好かれなかった。本人の性格および作風の、激しくて大袈裟なところが気に食わなかったらしい。あるときゲーテが食卓で友人のへっぽこ音楽家ツェルターとともにベートーヴェンの曲を「うるさいだけだ」とこきおろしていたら、ツェルターの弟子のフェリックス・メンデルスゾーンがとても悲しそうな顔をしていたので慌てて「いや冗談だよ、かなりアツいよね、あのズシンズシン来る感じ、ステレオで聴いたら家が崩れそうだよ、ハハハ」と言ったのが、「ベートーヴェンを心の底では認めていたことが分かる記録」として後世に伝わっている。

その容姿に関してもひどい記述がたくさん残っている。なんでも、顔色がいつも赤く、鼻がつぶれており、アゴと口がでかく、額が突き出ていて、顔じゅうに天然痘の痕がブツブツになって残っており、ゲジ眉で、ド近眼のためいつも銀縁の変なメガネをかけ、その奥で焦点の合わない目をぎょろつかせていたらしい。肖像画を修正する必要がある。

素ベートーヴェン.jpeg

「楽聖」よりも「学生」に近くなった感がある。そう、もうお気づきと思うが、シューベルトはそのダサいメガネといい、ごつい赤ら顔といい、容姿の上でもベートーヴェンの正しきフォロワーといえるのである。

さらに悪口もとい証言を書いておくと、服装に気をつかわず髪も髭も伸ばしっぱなしのときが多かったらしく、知人や弟子からは「クマ」「ロビンソン・クルーソー」などと散々な言われようである。窓辺に裸で突っ立っていて、外からそれを見た子供たちが「チンチンだ!チンチンだ!」とはやし立てたという話もある。さらに、ものを投げる癖があったらしく、かんしゃくを起こした彼にタマゴを投げつけられたとか、肩に噛みつかれたとか、ここまでになると人間のことを書いているのかどうか自信がなくなってくる。アメリカ人がセントバーナードに彼の名前をつけたのはあながち的外れではないかもしれない。いや、やっぱりクマか。

ただこのクマさん、これだけ馬鹿にされている外見にもかかわらず、20代の頃はけっこうもてていたらしく、このあと耳が聞こえなくなるのは漁色の末にもらった梅毒のせいだという説がある。ただ彼の名誉のために付け加えると、先天性の梅毒であった可能性もある。なんにせよ20代のうちに梅毒と腸炎を発症し、やがて親ゆずりのアル中も加わって、このコンボに生涯苦しめられることになる。

待てよ。腸炎には何故かかったんだろう。をどうにかしたのか。梅毒と併せて考えるとやはりこれは。いやしかし……。

ちなみに、ナポレオンビスマルクなど、押しの強いトリッキーな軍人たちにはこよなく愛されていた。彼の音楽がである。

耳の話に戻るが、26歳の頃にはもう耳鳴りが始まっていたらしい。はじめのうちは丈夫なアゴをいかしてしのいでいた。棒を噛みしめて、その先を楽器に突っ込んで骨伝導で音を感じ取っていたのである。だんだん聴力自体がなくなってくるとそんな方法では間に合わなくなり、補聴器を作ってもらって使い始めた。メルツェルという工作大好きおじさんの手によるもので、むろん当時としてはすごい技術なのだが、けっこうでかいラッパみたいなのを耳にはめてピアノの前に身をかがめているクマみたいなおじさんを想像してほしい。同情を禁じ得ないはずだ。鍵盤を叩いているつもりがタッチが弱すぎて鳴らせていなかったり、機械仕掛けのムクドリが耳元で啼いていても気付かなかったり、小銭を落としてもそのまま歩いて行ってしまったり、散歩中に平原綾香を踏み潰しても気がつかなかったりという痛ましい事態が頻発した。

聴力が失われるにつれ性格は偏屈さを増し、酒量も増え、肝臓を悪くして、赤かった顔が黄色くなり、その変わりように自分でびっくりして親戚に手紙を書いたりした。ささいなことを伝えるのにも筆談具が手放せなくなり、その結果、気の毒なことに「腹が痛い」「膏薬を貼ると腕が動かせなくて困る」「尻から血が出てきた」などの詳細な病状だけでなく、思わず書いた罵詈雑言の類まで後世に残ってしまった。赤ワインが大好きで、マカロニチーズを肴にガブガブ飲んでいたらしいが、晩年になると飲んだそばから吐いてしまっていた。無惨である。

気の毒なことは星の数ほどあるが、なかでも有名なのが、早死にした弟の息子カールを引き取って愛情を注いでいたものの、見事にあだで返されたことだ。成人したカールはしょっちゅう賭博でスってはベートーヴェンに金をせびり、断られそうになるとリストカットしたりピストル自殺しようとしたりして叔父さんを本気で泣かせたあげく、無駄に子宝に恵まれて壮年のうちに死んだ。おばあちゃんといいこのカールといい、発狂しやすい家系だったのだろうか。

ベートーヴェンの哀れさを強調するうちにだんだん人間味が戻ってきた気がするので書いておくと、なかなかよく本を読んだ人であったらしい。正規の教育はほとんど受けていなかったにもかかわらずシェークスピアの『コリオレーナス』『マクベス』、ゲーテの『エグモント』などを解釈して音楽にしたてた。劇作家グリルパルツァーとは陰気なところが似ていたせいかウマが合い「いつか君の作品をオペラにする」と約束している。『ガープの世界』でコケにされたことで死後は多少有名になったとはいえ、生前いまいち売れなかったグリルパルツァーがどれほど喜んだことか。苦心して仕上げた本をベートーヴェンに渡して完成を心待ちにしていたところへ、ベートーヴェンの秘書シンドラーがやってきて告げた。「ごめん、死んじゃった」

嵐の夜に、雷鳴がとどろくとともに右手を振り上げ、カッと目を見開いて死んだという。雷にびっくりしたのかな。

作品[編集]

エリーゼのために[編集]

「テレーゼ」だったが、字が汚すぎて「エリーゼ」と間違われた結果がこれである。出だしの部分をドイツ語の音階に直すと“Therese”になるなどキモい工夫をこらした結果、振られた。

ヴァイオリンソナタ第9番 クロイツェル・ソナタ[編集]

これもカノジョに捧げようとしたが振られたので、たまたまそのへんを歩いていたヴァイオリニストのルドルフ・クロイツェルに捧げた曲。このときクロイツェルが作曲者に対しておぼえた殺意はトルストイに受け継がれた。

ピアノソナタ第8番 悲愴[編集]

ベートーヴェンが珍しく自分でタイトルをつけた曲。これと第26番『告別』以外のタイトルは大体他人によるデタラメである。この曲が作曲された当時、殆どのピアニストがあまりにもひどい演奏をしたのに腹を立てて「悲愴」とういタイトルを付けたことは有名である。

ピアノソナタ第12番 葬送[編集]

古寺の和尚が月夜の晩に自らの腹を叩き、その音に誘われて狸が群がってくる不気味な光景を描いたもの。

ピアノソナタ第14番 月光[編集]

テキトーな題名をつけたのがどこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている名曲。

この曲がレコードに収録されていると売り上げが伸びるので、無名ピアニストのCDには必ず入っているという噂である。

ピアノソナタ第26番 告別[編集]

金づるのルドルフ大公のために書かれた曲。1809年ごろ、ベートーヴェンがウィーンに嫌気がさして田舎に引っ込もうとしていたときに、大公はロプコヴィッツ侯爵、キンスキー侯爵とともに大金を出し合って彼を引きとめた。4千グルデン、一千万円を軽く超す年俸を保証したのである。二人の侯爵がのちに手を引いて額はだいぶ減ったが、ルドルフ大公だけは自分の分をずっと支払い続けた。ベートーヴェンがこの恩義に報いたことで、『告別』以外にも『幽霊』『大公』といったゴキゲンなナンバーが後世に残されることとなった。

ピアノ三重奏曲第5番 幽霊[編集]

はじめルドルフ大公に捧げようと思って書いていたが、当時居候して生活費を出させていた伯爵夫人が「あたしのためにも何か書いてよ」とうるさかったので「ババアはこれでも聴いて悦んでろ!」と乱暴に突っ込んだのがこれ。『マクベス』の魔女をイメージしたともいわれるが、伯爵夫人にもヒゲが生えていたのだろうか。ヒモをやるのも大変である。

ピアノ三重奏曲第7番 大公[編集]

これもルドルフ大公のために書かれた曲。明るく優雅で、とてもくつろいだ雰囲気がある。村上春樹の小説『海辺のカフカ』で「百万ドル・トリオ」(昔の漫才みたいだ)の演奏したバージョンが印象的な使われ方をしてからはそれにひっかけて売られることも多くなった。村上春樹にケチをつけるわけではないが、カザルス・トリオの方がいいと思う。

交響曲第5番 運命[編集]

ノックの音を「ダダダダーン!」で表現するベートーヴェンの雑なユーモアが光る。

交響曲第9番[編集]

ベートーヴェン晩年の大作である。第一楽章~第三楽章は「交響曲第8.5番」と呼ばれる場合がある。昔はこの交響曲に第四楽章の演奏で「合唱」が付いているものと付いていないものがあったため、わざわざ「交響曲第九番(合唱付き)」などと書かれてあった。第四楽章、シラーによるやけに多幸感にみちた詩の合唱『歓喜の歌』が有名である。交響曲に合唱を入れるのは当時あまり普通のことではなかったが、ベートーヴェンはどうしても最後を合唱でしめたかったので(最初から合唱を入れなかったのは、聴衆がいなくなるという懸念をかなり抱いていたようだ)、アンバランスになるのを承知で第三楽章までのオーケストラに強引につないでしまった。どうせ聴こえないし、もうすぐ死ぬし、と思って自棄になったかどうか知らないが、やってしまってから後悔したのか、1824年の初演の際、ベートーヴェンは観客のほうを絶対に見ようとしなかった。女性歌手に手をひかれて嫌々客の方を見やったベートーヴェンを、満場のスタンディングオベーションが迎えた。ここで死ねたら幸福だったかもしれない。想像してほしい。あなたの耳にも聴こえてくるはずだ。大工の合唱が。