レフ・トロツキー

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レフ・トロツキー
Trotsky2.jpg
トロツキー様のご尊顔。
基本資料
本名 レフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン 
通り名 トロツキー、中トロ 
生没年 1879年10月26日~1940年8月21日 
職業 革命家 
嫌物 スターリンとピッケル 
出身地 ウクライナ

レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー(露: Лев Давидович Троцкий:ラテン表記:Lev Davidovich Trotsky)は、ウクライナのユダヤ系出身のソビエト連邦革命家、厨二病患者のマルクス主義思想家、雪山である。登頂に成功した者にはスターリン勲章が授けられるが、同時に投獄を覚悟しなければならない。なお、彼の著作物はロシア人の例にもれず表現がまわりくどく読みにくい。

生涯[編集]

少年期[編集]

1879年のロシア帝国時代ウクライナ南部で製粉工場を持ち、最盛期には労働者数千人を雇うユダヤ系富農の子としてレフ・ブロンシュテインは(以下断りなしにトロツキー)生を受ける。父ダヴィードは根からの起業家であったらしく、土地を元手にコツコツ働き大地主となり、結果坊チャン坊チャンと可愛がられて育ったトロツキーは9歳までビニールハウスと温かい照明の元から出たことすらないモヤシっ子であった。家系的にはユダヤ人であった一家だが、ヤハウェを信奉していたわけではなく、トロツキー自身も生涯無神論者を自称している。

9歳の時父親のたっての希望からオデッサにあるドイツ人学校に一年在籍した後、当時ユダヤ人の進学受け入れ率は1割程度であったが「お金のチカラ」によって無事有名校に進学。6年の間トロツキーはトルストイシェークスピアなどの作家の作品を読破し、成績面においても主席の座を保ち続け自分が富農の子であること、主席であることから「ボクは選ばれた子だ……」と虚ろな目で自尊心の塊となっていった。中二病に罹患したのはこの時期かと思われる。

しかしある日、『本を片手に制帽をかぶって意気揚々と街を闊歩していたトロツキーに同い年程度の少年が痰を吹きかけた事件』が発生し彼の高慢チキな自尊心を打ち砕いた。この事件をきっかけにユダヤ人の中にも差別と格差が存在する事実が心の奥底に沈殿し、学校を卒業したトロツキーは父親に「私は左翼になりたい」と夕食の席で告白。彼を後継ぎとして期待していた父親はぎゃあと叫んで暴れ、彼と父親の確執はこの問題を巡って数十年続いた。

たのしいシベリア旅行[編集]

サザエさんヘアー。

1896年、時代は明らかに動き始めていた。学生たちが妙にソワソワする中彼はマルクス主義に触れ、感激のあまり絶頂に達してしまったと伝えられている。この感激を誰かに伝えたいと考えた彼だったが、残念なことにマルクスの著作は変なシミだらけになった一冊しかなく、彼は自ら文献を作るしかなかった。1897年完成したパンフレットをこんにゃくに書き、大学生たちの学食に混ぜたところこれが好評を博し、工員たちや学生の間でマルクス主義が広がっていくが、このような動きを当局に監視されていたため翌年には彼を含む200名が逮捕され2年間のシベリア旅行へと赴いた。そこで観光するものといえば冬の名物マイナス44度とアカギレ、夏の名物アブの大群であり、何故か多数の自殺者も出た。

1900年にまたもやシベリアへの旅券(今度は4年間である)を手に入れた彼は寒さ凌ぎと称して同じく旅行中の女性を裸にすると抱きつき、「いけない人ね」などと言われつつも子供を二人産ませてしまった。しかし2年後にウラジーミル・レーニンの著作を手に入れるとまたもや革命に心を躍らせ、1歳になったばかりの娘と妻を差し置いて脱走を決意する。泣く泣くベットの中にお気に入りのぬいぐるみを入れ時間稼ぎをし脱走、シベリア鉄道に乗り込むと偽旅券に「トロツキー」という偽名を書きこみブロンシュテインという名を捨てた。しかし汽車に揺られチューリッヒに到着するや「ハロー、チューリッヒ♪」と彼は新しい妻ナターシャと結婚し、前の妻のことを忘れるのだった。

血の日曜日以降[編集]

2年間のチューリッヒ暮らしのある日、彼は日の出の夢を見る。1902年パリを経由してロンドンに到着した彼はあこがれのレーニンとの対面を果たすのだが、レーニンの頭を見た彼はまさしくこの男がロシアの日の出であると信じ、「ありがたやありがたや」と彼の頭を一日中撫で回して拝んだ。(なお、このときレーニンをゆでたまごと評したプレハーノフとマルトフは二人とも結核で死亡した。)一時離別していた二人だったが、1905年1月に「血の日曜日事件」が発生するとトロツキーは混乱続くロシアに帰国し、10月にはストライキなどの指導者として名を馳せた。12月に逮捕された彼は裁判の後ついに勲章とも言えるシベリア旅券(一生涯保障)を手にした。やったね!

投獄され、そこで執筆活動に勤しんでいた彼だったがついにシベリア旅行の日がきてしまう。しかしソリで護送される途中彼は「腹が痛い」と突然泣き始めた。初めは無視していた兵士たちもあまりにうるさいので途中の病院に彼を入れるが、トロツキーは数日で処方箋をもらい退院。当たり前である。護送兵たちが「脱走だ脱走だ」と騒いでいるうちにトナカイのソリに乗ったトロツキーは一週間かけてツンドラとタイガ地帯を抜けてウラル山脈に到着し、ウィーンへと逃亡した。革命が失敗したため彼はこれより約10年間謹慎生活を送ることとなる。

革命[編集]

1914年に第一次世界大戦が始まるとスイス、ついでフランスへと赴いたトロツキーは反戦について数多く雑誌に投稿する。しかし既に参戦を決めたフランスは翌年うるさいトロツキーを国外追放し、追放された彼はアメリカはニューヨークに行く。そこではニコライ・ブハーリンとロシア語新聞を手掛け、「このホットドッグは実に本場の味がするね」などと旅行気分を満喫していた。

1917年ロシア本土で2月革命(実は勃発したのは3月である)が勃発するや口からソーセージをぶら下げたままロックフェラー財閥にノコノコやってきては強引に2000万ドルの資金提供をさせブハーリンとともに帰国。ボリシェヴィキ(レーニン率いる党多数派)には参加せず、別のサークルで革命にとりあえず参加したが結局7月にはボリシェヴィキに統合されてしまった。皇帝勢力への次なる攻撃のために労働者などを「下半身で成り上がったような男が支配する国で良いのか!勃ちあがれロシア!」などという演説で煽動し、10月革命(実は勃発したのは11月である)では皇帝側重要拠点である郵便局や銀行、発電所、印刷所などをトロツキー率いる赤衛隊(ソ連陸軍の前身)が襲うも、誰もいなかったためあっさりと制圧した。革命のクライマックスである冬宮突入もほとんど誰もおらずあっさりとした終結であったが、それでは面目が立たないということで、「革命バンザーイ」を三回皆で復唱した後とりあえず激しい戦闘があったことにした。

一番生きが良かった頃。

政権掌握[編集]

晴れて皇帝は逮捕され、政権を奪取したレーニンは人民委員会議議長(首相)に任命され、内乱の鎮圧、列強の干渉に対しての対応など、殺人的忙しさに忙殺された。彼自身は外務人民委員(外相)に就任するとドイツとの講和に当たり、翌年1918年に辞任して軍事人民委員・最高軍事会議議長に就任、ソ連赤軍(陸軍)を組織した。

煽動を得意とし、また革命の第一人者である英雄レーニンの外見があれであったため、美男子であり毛根もしっかりしているトロツキーは国民からの人気を得て精力的に活動にあたり、反革命軍の鎮圧や、1922年に発生したストライキの抑圧や、ウクライナ地方の農民アナキストたちの全滅などを行ったが、この行為は後世の歴史家などから「なんだスターリンと一緒じゃないか」と批判されがちである。しかし結果として、トロツキーは革命の立役者としてレーニンと共に二大巨頭の地位を確固たるものとした。

失脚[編集]

1922年、働き盛りのレーニンが突然脳卒中の発作を起こし倒れた。急先鋒の若手ヨシフ・スターリンが彼の口におかゆを運ぶ役職に就任し、2度目の発作の後から「どうも同志はだめになってもうたらしい。」との噂が立っていたが、まだレーニンは病床から様々な指示を出せる状態であった。しかし3度目の発作で本格的にだめになってしまい、1924年の4度目の発作により54歳の若さで世を去った。

レーニンは『共産主義における「左翼」厨二病』にてトロツキーの欠点を指摘していたが、彼の中二病は治ることはなかった。

病気療養中に彼の死去を知ったトロツキーは衝撃を受け、葬式へ参列することを電報で表明したが、葬儀の日程を欺かれ参列することができなかった。全てあのヒゲが行ったことであることは言うまでもないが、参列しなかったトロツキーを激しく弾劾し、トロツキーと対立姿勢を示した。二人は1907年に初対面した頃からゆでたまごの食べ方について意見が対立しており、「最初から嫌いだった」とスターリンは平気で公言すると、書記局長のポストを生かしてボリシェヴィキを巧みに取り込んだ。また、トロツキーの「世界中を社会主義に」というちょっと無理がある主張に疑問を投げかけ、彼を次第に党内で孤立させていき、1925年官職を外し2年後には党から除名させた。

亡命[編集]

革命から10年余りで共産党を除名された彼は1929年ソビエト連邦から追放処分を受けるまでに至った。亡命生活を送ることを余儀なくされた彼はまずトルコで生活したが、トルネケバブの香辛料のきつさに辟易し執筆活動を続けながら1933年フランスへ渡航、スターリニズムを批判した著作『裏切られた革命』が予想外のヒットをもたらしたが、2年後には物価の高さに辟易しノルウェーに転居。しかし翌年1936年にはソビエトからの圧力で追い出されてしまい、最後に転居したのが遠く離れた南米メキシコであった。

昼間は50度近くなる暑さと乾燥が寒冷地育ちの彼を襲い、次第に神経はすり減っていった。ついに1938年暑さと連日のタコスに耐えかねた彼は「世界革命じゃああああ」とキチガイじみた声を出し、第三インターナショナル(ソビエトを中心とする社会主義運動組織)に対抗すべく「明るいナショナル」をスローガンに第四インターナショナルを結成した。

しかしその頃、ソビエトでは大粛清の嵐が吹き荒れていた。スターリンの邪魔となるであろう、10月革命を指揮したボリシェヴィキ指導者は見せしめ裁判の後次々に適当な理由で処刑され、邪魔にならない人間であろうと粛清された。「疑わしくなくとも罰せよ、疑わしきには言うまでもない。」の粛清において、ペンでスターリンを攻撃し続けるトロツキーが粛清リストに入らないわけがなく、スターリンは早くトロツキーの首が見たくて仕方がなかった。さすがの秘密警察NKVDでもメキシコでは手が届かないので、フランス留学中のトロツキーの息子をとりあえず惨殺すると、トロツキーはやっと危機を覚えて自宅を要塞化した。その後、『スターリンを崇拝する画家ら数十人が自宅を囲んでマシンガンを乱射事件』が発生するもトロツキーは怪我ひとつしなかったのだから運が良い。

踏破される[編集]

しかし、そんな運がいつまでも続くはずがなかった。最後にスターリンが送り込んだ刺客はラモン・メルカデルという登山家の青年であった、スターリンが未だ誰も踏破したことのない雪山があると彼に囁いたのである。彼は登山バッグを背負うと「フランク=ジャクソン・モルナール」との偽名を使用してトロツキーの秘書を誘惑し巧みに肉体関係を持ち、恋人になり済ますとトロツキーへにやにやしながら接近を試み始める。一商社マンを装い彼と知り合いになって数週間経ち、信頼されたと感じたラモンは鞄から柄を短くしたピッケルを取り出し、外套の内ポケットへ入れると昨日ヤケクソになって書いた論文を持ってトロツキーの元へと赴いた。

雪山の反撃。

トロツキーの書斎でラモンは自分の書いた論文を読ませ、ラモンは後ろに立つと「うわなんだこの論文中学生でもかけるぞ」とつぶやくトロツキーの頭にピッケルを振り下ろした。トロツキーは頭に刺さったピッケルを抜こうともせず「ワシを雪山扱いするなああああ!」とラモンに飛びかかると指に噛みつき、漫画顔負けの激しい乱闘が始まった。トロツキーは60歳とは思えない速さでインク壺やら丸めたティッシュやら元気玉やらナイフやらを投げ、それらはラモンの体に突き刺さり激しい流血シーンとなる。声を聞いて駆け付けた警備員たちも集まり、総勢5人で好きなだけラモンをボコボコに殴り倒すと力尽きたようにトロツキーは倒れた。妻ナターシャに介抱されながら入院し手術が行われたが、ピッケルが刺さったままレントゲンを撮った所が少しかき回されていることが判明。翌日まで頑張ったが傷口に良からぬモノが入ってしまい、1940年8月21日午後7時25分「第四インターナショナルの勝利を確信している……前進せよ!」と相変わらずちょっと無理がある遺言を残し死去した。

一方スターリンは書斎でヘラを持って待っていたが、その知らせを聞いた途端に嬉しそうな顔をしてレーニンの演説写真からトロツキーの部分をガリガリ削り始めた。「おい、モロトフお前も手伝え」と困った顔をするモロトフにもヘラを渡してトロツキーを削らせた。

血まみれになったラモンは逮捕され、トロツキー暗殺についての尋問を受けたところ「そこに山があるから」と、わけのわからないことを答えたため懲役20年の判決を受け、21年後ソビエトでよぼよぼになった彼は「とんでもない山を踏破した功績」でスターリン勲章を受賞し、嬉しさでバハマまで走るとその数年後死んだ。

関連項目[編集]

Wikipedia
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