一条燦

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ウィキペディアの専門家気取りたちも「一条燦」については執筆を躊躇しています。そのような快挙を手際よくやりおおせたことは、我らの誇りです。

一条 燦いちじょう さん1947年6月6日 - 1989年6月6日)は埼玉県春日部市出身のプロ野球選手。現役時代は各球団を転々とし、数多のチームの優勝に貢献した。1989年のシーズン途中に交通事故に遭い、その年に出産予定の子供の顔を見ることなく亡くなった。

目次

[編集] 略歴

[編集] 民明書房刊『桃月の偉人たち 第6版』

一条 燦(いちじょう さん)

1969年ロッテオリオンズに入団した一条燦は、監督とグラブ捌きに付いて口論したこともあり、 その年のオフに自由契約となってしまう。しかし、テスト西鉄に入団し、翌シーズンでは、プロ2年目 ながら3割30本30盗塁を達成する。西鉄に3年間在籍した後、本人の意向により広島に移籍し、 さらに3年後、今度は阪急に移籍し、優勝に貢献した。その後は各球団を転々とし、1988年にはとうとう 12球団を渡り歩いてしまった。西鉄時代からの変わったパフォーマンスや12球団を渡り歩いたこともあり、 ファンの間からは「次に何処のチームに行くのか、一条燦は俺(が応援しているチーム)の嫁(自分のチー ムに来て欲しいという意)」と呼ばれていた。しかし、1989年、最初に入団したロッテに戻ってきた一条は 奇しくも、自分の誕生日の6月6日に、トラックに撥ねられて死んでしまう。一条はその年の秋に出産を控えた 妻がおり、「自分の子供が見たかった。残念だ」と病院のベットの上で発言したのを最後に、家族、球団のオ ーナー、試合中にもかかわらず駆けつけた監督に見守られながら天国へと飛び立った。 その後、無事生まれた子供は、父親譲りの変わったパフォーマンスや天才的な行動により、一部関係者から は「昔の父親を思い出す。父の高校時分の愛称一条さんで呼ぼう」といった一連の流れはあまりにも有名 で、現在、桃月学園に在学中の子供が一条さんと呼ばれているのは至極当然のことだろう。

民明書房刊『桃月の偉人たち 第6版』より。

[編集] 来歴・人物

愛称は「イチジョー」、もしくは「一条さん」。高校時代に野球部に在籍中だった頃、後輩から「さん付けで呼ぶと下の名前と被って 呼び捨てに聞こえてしまう」と言われ、それを聞いた同級生らがからかって「一条さん」と呼び始めたのが始まりである。ポジション は外野手子供は長女が一人いる。

少年時代は家がとくに貧困である、というわけでもないが、小学校低学年の頃から新聞配達のアルバイトなどをしていた。これは本人曰く、 「お金が貯まるのが面白かった」からである。中学校1年生のときに路上でひったくり犯を見かけ、400mも追跡した上、犯人に飛び膝蹴りを 喰らわして捕まえ、市の表彰を受けた。また、当時から逆立ちが得意で、家から学校までの800mもの間を逆立ちで移動したこともあるほど 力があり、しばしば喧嘩の際に相手を病院送りにすることも多かったという。中学校3年生の夏休みの時に、「ちょっと大阪いってくる」と言 った後、自転車でわずか6日で大阪に着き、さらに5日後には家に戻ってきたことがあった。これに関して母親は「今度は九州まで行くか?」 と冗談めかして本人に言った。

埼玉県に住んでいるにも拘らず、東京都大田区にある、私立桃月学園に進学することになったのは、大宮に 出かけた際、偶然路上に蹲っていた老人を背負い、近くの病院に運び込んだが、その老人が桃月学園の理事長だったため、「感動した!見 ず知らずの老人を背負って病院まで連れて行く少年に感動した!是非我が学園に進学してください」と強く勧められたため、12月なのにまだ 進学をする高校を決めあぐねていた背景もあってか、すんなりと入学することとなった。野球部に入部するきっかけとなったのは、飛んできた 球を100m先の野球部員めがけてノーバンで返球したことがあったため、野球部の監督から直接入部を頼まれ、さほど野球には関心がなかっ たが、なにか運動系の部活に入ろうと思っていたため、あっさりと入部することになった。入部したての頃から、監督からその強肩を高く評価さ れ、対外試合などではたびたび、スタメン出場することが多かった。当初は、その肩の強さから投手になることを強く勧められていたが、私は走 るのが好きなので外野で出させてください、と監督に言い、足の速さも、陸上部員をあっさりと抜くぐらい速かった為、以後3年間はずっと外野で 試合に出ることとなった。

高校を出た後は大学には進学せず、自らのを追い求めるため、全国各地を放浪することになった(がなんであ ったのかは本人が墓場まで持っていくと言っていたので不明である)。プロに入るきっかけだったのは、愛知県の某市民球場で草野球を観戦し ていたら、急に野球がしたくなったため、草野球チームの監督に願い出て助っ人としてグランドに立つこととなった。そこにたまたま通りかかっ たロッテのスカウトの目に留まり、その年のドラフトで7位で指名され、入団することとなった。しかし、シーズン中盤、監督の濃人氏とグラブ捌き について口論し、その3日後に2軍落ちを宣告され、結局、そのままペナント終了まで1軍に再びあがることはなかった。そして、契約更改のとき にまたもや口論が発生し、結局1年で自由契約となってしまった。その後、西鉄テストを受け、すんなりと合格し、プロ2年目で3割30本30盗塁 を達成してしまった。1973年には広島に移籍し、1975年には広島の優勝の陰の立役者となったのである。その後は球団を転々とし、1988年中日に入団したことにより、12球団すべて渡り歩いてしまった。これは、本人が一箇所に留まっているのをひどく嫌ったため成せたことである。 1989年に、最初に入団したロッテに再び入団することとなったのだが、シーズン途中、自分の誕生日6月6日の朝に赤信号を無視して交差点 に進入してきたトラックに跳ね飛ばされ、近くの病院に搬送された。そのことを聞いて駆けつけた球団のオーナー、秋に出産予定だった妻、試 合開始直後、このことを聞いて飛んできた有藤監督に見守られながら「自分の子供が見たかった。残念だ」と遺言を残し、奇しくも自分が生ま れた14時14分14秒に医師により死亡と判断された。葬儀は家族と球団関係者で行われ、参列者には球界から3000人も訪れて彼の死を偲んだ。

[編集] 通算成績

  • 実働20年
  • 試合 2402試合 (歴代8位)
  • 打数 8911
  • 安打 2740本 (歴代4位)
  • 打率 .307 (歴代9位)
  • 本塁打 676本 (歴代2位)
  • 打点 2117打点 (歴代2位)
  • 得点 1330点 (歴代8位)
  • 盗塁 590盗塁 (歴代3位)
  • 犠打 33個
  • 犠飛 76本
  • 四球 1149個
  • 死球 149個
  • 三振 901三振
  • 併殺打 176個

[編集] 年度別打撃成績

年度チーム背番号試合打数得点安打本塁打打点盗塁犠打犠飛四球死球三振併殺打打率失策
1969年ロッテ9625344153156102010.4410
1970年西鉄1130480811453911134225444611.3026
1971年12746876140311093111567439.2998
1972年126459771392910829234753912.3026
1973年広島122444721473412136055894516.3313
1974年1264707915542131240661115618.3297
1975年1344818816135127302376949 5..3348
1976年阪急11242243120199918.51356281.2842
1977年巨人11441539133221012270253245.3205
1978年ヤクルト1224556710225812943434351.22413
1979年近鉄121471551342213035275596917.2847
1980年日本ハム1124277114744100220365135410.34410
1981年1274759816733655322742391.3515
1982年広島1194617713950130150977215513.3010
1983年129477851512012947265073710.3168
1984年131486791445512021067817557.2965
1985年阪神122455601224811020178497810.3687
1986年大洋1154445514040704523653381.3152
1987年南海12145764144381002904594409.3156
1988年中日125469791554512033056765510.3307
1989年ロッテ964216127412401100180150.2480
通算2402891113302740676211759033761149149901176.307115

[編集] 獲得タイトル・記録

  • 首位打者 3回(1975年、1981年、1985年)
  • 本塁打王 3回(1982年、1985年、1988年)
  • 打点王 10回(1972年~1976年、1979年、1982年~1984年、1988年)
  • 得点王 3回(1975年~1976年、1981年)
  • 盗塁王 3回(1973年~1974年、1988年)
  • 最多安打 2回(1975年、1981年)
  • 20年連続シーズン2桁本塁打(1970年~1989年)

[編集] 関連項目