三顧の礼

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三顧の礼(さんこのれい)とは、零細企業が優秀な職員を募集する方法の一つである。

概要[編集]

冀州・青州・并州・幽州の四州を支配する袁紹に仕えていた劉備は、袁紹が官渡の戦いで曹操に敗れると、荊州劉表に仕え新野を与えられていた。

文学では非力かつ無知に描かれている劉備だが、実は安熹県の尉というパシリの身分だったころ、郡の督郵に面会を断られたため、マジギレして柱に縛り付け、柳の枝で200回鞭打つようなガチムチ兄貴だったため、配下に文人が少なかった。はっきり言ってそれまでの劉備の武将生活は、呂布とほとんど変わらないものだった。劉備がその悩みを数少ない文人の麋竺に訴えると、彼は「戦国策・燕策」を劉備に紹介した。


戦国策・燕策

(注)ここの文は忠実な内容です。

燕の昭王は、隣国の斉に一度滅ぼされかけたこともあり、強い恨みを抱いていた。 しかし斉は大国、燕は弱小国。逆立ちしても勝てっこない。

だがどうしても恨みを晴らしたい、ならばまず人材だ!と思った昭王は、側に居た郭隗に尋ねた。

昭王「賢臣を集めるにはどうしたらよいか」

隗「昔、ある王様が家臣に名馬を買いに行かせたところ、その家臣は死んだ名馬の骨を五百金で買ってきました。王様が『名馬を買ってこいと言ったのに、死馬の骨を買ってくるとは何事じゃ』と叱ると、『死んだ名馬の骨でさえ五百金で買うという噂はあっという間に広がり、それを聞いて生きている名馬を連れてくる者が現れるでしょう』と答えた。その言葉通り一年も経たないうちに三頭の名馬が集まりました」

昭王「なるほど。で、賢臣を集めるにはどのような者を登用すればよいのじゃ」

隗「まあ、この隗のような愚人を取り立てることでしょう」

昭王は隗の言葉に従い、彼を師として崇め屋敷を建ててやったりした。その噂が広まると、隗でも大切に扱うならば私もぞんざいには扱うまい、と続々と賢臣が集まってきた。(『隗より始めよ』の語源)

そうして集まった楽毅を初めとする優秀な人材もあって、昭王は遂に斉を滅亡寸前まで追い込んだのである。


劉備「話は分かったが、麋竺、わしはそちを取り立てているつもりじゃが」
麋竺「私ではだめです。はっきり言って、若いころの私の声望は劉玄徳様より上でした。正真正銘のどこの馬の骨ともわからぬ男を五百金でお買いなさいませ」
劉備「そうか」


決断後の行動は早い劉備は早速実行に移した。

笛を吹いているニート「ああ…誰もオレを雇ってくれねぇ。」
劉備「君、何やってんの?」
徐庶「え? ああオレはたん…いや、徐庶って言うんだ。ちょっと学問をかじったが仕事に恵まれなくてこうして笛を吹きながらぶらついてんのさ。」

この後劉備は彼と雑談、彼は故郷では任侠を気取ったDQNであり人殺しをして荊州に逃れてきた事も知った。 この時、劉備は「麋竺の助言の状況そのものじゃん」と察し、心意気も共感できる彼を採用したのである。

徐庶「ホントに雇ってくれるのかい? 人殺しのDQNであるオレのような奴でも?」
劉備「ああ、今求めるのは君のような義人だ。(お前は俺か!!! …と言うか学問を真面目にやってる分、俺よりはマトモだな。)」

このように荊州の人材を集めていった。


また賢人の下を訪ねて今後の方針を相談したりもした。

司馬徽「こんにちは、劉備殿。」
劉備「この辺りで優秀な人材っていない?」
司馬徽「そうですね…伏竜と鳳雛なら天下を狙うことも出来るかもしれませんね。」
劉備「誰の事?」
司馬徽「よいぞ、よいぞ」
劉備「え? ちょっと」
司馬徽「よいぞ、よいぞ」
劉備「…自分で探せという事か。」

(このやりとりを聞いた何処ぞの英雄) 孫権「何だこの無礼者は、俺なら即座に叩き斬っているぞ。」 曹操「荀彧登用したときの事を思い出すなぁ…まあ、この位の謎解きは出来んと天下なんて取れないよな‥」

この後劉備は伏竜と鳳雛が誰なのか手がかりを探しに奔走…

劉備「伏竜…鳳雛…」
徐庶「あれ? 何でオレのダチの事知っているっすか?」
劉備「え?」
徐庶「伏竜は諸葛亮、鳳雛は龐統のあだ名ですよ。 オレと同じ先生のとこで学んでいたマブタチっすよ。」

…する前に以前雇った徐庶があっさり教えてくれました(笑)

こうして、劉備は諸葛亮という20歳のニートを登用するため、彼の家に自ら迎えに行った。が、諸葛亮は引きこもり生活に安住しており、劉備の勧誘を断った。

劉備「なんということじゃ。これだから近頃の若い奴らは」
麋竺「いえいえ、そういうヒッキーのニートを再訪してこそ、劉玄徳様のもとに文人が集まるのです」
徐庶「アイツ、結構頑固な所がありますからね…」
劉備「そうか、では仕方ない」

劉備はそれから更に二回、諸葛亮の家を訪ね、登用することに成功した。麋竺の言葉通り、DQNの徐庶を厚遇したりニートの諸葛亮のような男にも三度断られても勧誘するような誠意を尽くすなら、自分はもっと厚遇するだろうと、龐統伊籍馬良馬謖らの文人が劉備の元に集まるようになった。

後に諸葛亮の知略・仁政として伝えられている事業は、すべてこの四人の文人などの功績だが、劉備や劉禅は麋竺の言葉に従い、諸葛亮の功績として顕彰した。

徐庶?ああ、彼は母が曹操に捕らえられた為に泣く泣く降り、飼い殺しにされました。

補足[編集]

当時はTVやインターネットはおろか週刊誌や新聞すらも存在しなかった。 情報を入手するには人々の噂話を聴いたり、直接密偵を送り込んで情報収集するなど情報の入手にも相当のコストやリスクが付きまとい、かつ信憑性も薄いと言う状況であった。

こんな状態では各人の個人人脈や知識や経験は貴重な財産であり、人がたくさんいればそのような知識の質、量ともに充実していくのである。 また、各地の気候や土地の慣習は住んでいる(いた)ものしか分り難く、ちょっとした知識が限定的状況下で役に立つと言うエピソードも多かった。 乱世の状況では雑学程度の知恵や諺であってもそれが窮地を救うという事が決して珍しくなかったのである。

それと概要のやり取りの様に例え本人がカスであっても人脈筋を当たって配下を雇い、更に雇った配下の人脈を当たって…と言う様に希に見る天才に巡り合いその人物を登用できる可能性が高まるからである。 (徐庶の名誉のために言っておくと彼もなかなかの知恵者である。)

雇われる側にしても知人や親戚がいればコネで雇用してもらえる可能性が高いと考えて自分から仕官してくる者も出てきて態々探しに行く手間が省けるというメリットもある。

隗が自分を厚遇しろといったのも麋竺がそれに倣えと言ったのも人脈の力を理解していたからだと言える。 世の中はやっぱり人脈やコネが一番重要であるという事であろう。

誤用[編集]

「三個の礼」:礼の数は「個」ではありません。それ以前に3回なのは「顧」(出向いて尋ねる)ことです。
「産後の例」:何かすれば「何このメール? この女は誰?」、何もしなければ「あんたもお風呂に入れるくらいしなさいよ!」
「三個の霊」:あるかもしれません。
「珊瑚の例」:K・Yと削られています。というか削りました。
「俺が欲しけりゃ、あと三回来な」:自分がゴミだと気づいていない例。というか既に1回終わってますよ。

画像[編集]

関連項目[編集]

Wikipedia
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