上尾事件

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上尾事件(あげおじけん)は、1973年3月13日に、埼玉国(現:彩の国さいたま)の上尾駅(埼玉国上尾市)を発端に起きた、埼玉国陸軍・日本国有鉄道高崎線の乗客の双方による無差別大量虐殺事件。広義の戦争内戦でもある。この事件の1カ月後にまた、首都圏国電暴動が起きている。

事件に至った経緯[編集]

当時の高崎線の様子。

1871年に日本から独立した埼玉の主要産業は、日本へと供給されるネギブロッコリーコマツナなどの生産といった農業、行田市で生産される足袋などであり、独立から1950年代まではこれらの産業が埼玉の主力を担っていた。

日本が高度経済成長に入った1950年代半ばから、その状況は急変する。日本の首都である東京神奈川の労働力だけでは高度な経済成長にはついていくことはできず、日本よりも比較的安価である埼玉国民の労働力に頼るようになっていった。現在に続く主要産業である、東京への出稼ぎ労働の始まりである。

このことが影響したのか、埼玉国内では大規模な団地や住宅街が乱立。国内の人口が急激に増加し、事件の舞台の上尾市に至っては10年間で2倍にも人口が膨れあがっていた。これらの増加した新住民は、高崎線東北本線東武東上線などを利用し東京へと出稼ぎ労働をする人が大半であり、日に日にそれらの路線のラッシュ乗車率は増加していった。乗車率も、窓ガラスが割れ死人が出ると言われる300%の日があることも珍しくなく、埼玉国民の不満は頂点に達しようとしていた。

事件勃発[編集]

3月13日の朝のラッシュは、決算期というのも重なって乗車率も300%を超していた。乗客の精神状態も極限に達しており、車内にはイライラ感が充満していた。

午前7時20分、上尾駅1番線に籠原上野行の普通列車が入線。この時点で車内はぎゅうぎゅう詰めであったが、上尾駅の乗客が必死に車内に入ろうとし、なかなか列車は発車できないでいた。当該列車はすでに20分以上も遅延していたとも言われている。

続いて2番線に、埼玉国外の前橋発上野行の普通列車も入線。この列車も上尾駅の乗客が付け入る隙もないほど大混雑しており、上尾駅は列車に乗り込もうとする数千の乗客で埋め尽くされていた。当然、この列車もなかなか発車できずにいて、乗客たちは一触即発の状態へと立たされていた。

そんな中、上尾駅に事件の引き金となった駅員のアナウンスが流れた。「きょうも あげおえきに イラッシャイ! ていしゃちゅうの れっしゃは ふたつさきの おおみやどまりに なります。おおみやよりさきに ごようのかたは ざんねんでした。」

このアナウンスがゴングとなり乗客達がバーサーカーと化し、セクトシンパとなり、破壊的闘争路線を貫徹した。手始めに乗客たちは、運転席や車掌室に詰め寄って、運転手と車掌を集団で殴り殺し、ラッシュの不満の戦闘的炸裂を勝ち取った。まさしく、現代に言うアッピー・グランドストライクである。駅の設備は乗客たちによって壊滅状態に陥った。改札付近にいた駅員もバーサーカーと化した乗客によって、金品などを強奪され、男にも関わらずレイプされ殺された。駅員達の方もただ黙って殴られていたわけがない、鬼の国労などと呼ばれた連中であり、腕に覚えのある者が少なからずいた。彼らは押し寄せる乗客にタブレットや国労ラーメン 改札鋏やヘルメットを投げつけるなどして応戦、だが、人数の差には勝てなかった。この状態は駅周辺にまで及び、バーサーカー化した乗客に殺された地元住民はこの時点で数十人にまで及んでいる。

この事態に500人ほどの地元の機動隊員を上尾駅に派遣したが数の暴力にはかなわず、多くの隊員が殉職している。機動隊員の一部には、乗客に同情して寝返る者も現れた。機動隊側の指揮車両にバーサーカー鎮圧弾が打ち込まれたのは、機動隊到着から十数分後のことである。このため機動隊の隊長が恐れをなして逃亡を企てたが、側近に「給料の高い奴が率先して戦え」と前線に投げ飛ばされ、次に発見された時には当時85歳の老婆に強姦されている最中であった。乗客側にたまたま休暇中の警察関係者がいて、彼らが機動隊に加勢したため混戦の度合いが増した。事件勃発から1時間ほどで犠牲者は156人を越していた。

「機動隊では収拾がつかない」との報告が埼玉県警本部にもたらされたのは、機動隊が半壊状態になった後の事であった。この事件が拡大するのを恐れた埼玉県警は、周辺の警察署に動員可能な警官を出来る限り派遣するよう命令、また県知事は、市町村の消防隊にバーサーカーに向けて放水を行うよう要請。説得による事件の鎮圧も考え、県職員・市町村職員の応援派遣も指示した。

だが結果は裏目に出た。消防隊は誤って警察隊に放水。怒った警察は消防隊に向かって催涙ガス弾を発砲。消防隊もプライドを傷つけられたと感じ応戦。サイレンを鳴らしながらはしご車が機動隊を踏みにじった際には、一同から拍手が起きる始末であった。バーサーカーの説得にあたっていた県や市町村の一般職員はスーツ姿であったために警察・消防の両方からバーサーカーの一部と間違われ、暴行された。

また、県や市町村の一般職員に混入していた、上尾市の職員で結成される極左暴力集団である、上尾市職員労働組合日本自治体労働組合総連合共産党・世界暴力革命派オルグらが、常日頃の上尾市当局への不満を騒動に紛れて大炸裂させ、まさしくバーサーカーらしく、乗客・国鉄・機動隊・県や市町村の一般職員同士の見境なく、周囲の遍く人々を打倒・殲滅対象とし、激しく攻撃し続けた。

後の調査で、若手職員の中には肛門裂傷の重症を負った者が数十名いたが、原因については不問とされた。

もはや当局に残された手段はほとんど無かった。

事件鎮圧[編集]

事件から15分後、事件の報告を受けた埼玉国当局はすぐさま朝霞市にある陸軍を上尾に出動させると決定した。当時の埼玉陸軍は、小規模ながらも最新鋭の兵器を取り揃えており周りの国々から恐れられていたと言われている。

その頃、上尾駅周辺は駅員と付近住民、どさくさにまぎれて殺された乗客の死体の山で埋め尽くされており、立ち往生していた一部のバーサーカーたちは徒歩で東京へ向かおうと、8km離れた近江屋駅へと歩き出した。途中の宮原駅でも上尾駅と同様に駅員や一般乗客が無差別に虐殺されており、ここでも多くの犠牲者を出した。

最初の犠牲者が出てから1時間後、朝霞から埼玉陸軍が上尾・宮原の両駅に到着。圧倒的な武力による事態の沈静化を始めた。軍が到着した当初、バーサーカー化した乗客たちは上尾駅で対峙した機動隊員と同様に数の力で圧倒しようと目論んでいた。だがその目論みは見事に外れてしまい、最新鋭の兵器を取り揃えた陸軍によって多くの上尾駅の乗客が犠牲になった。

2時間も経てば、上尾・宮原駅の両駅は軍の開発した新型大量破壊兵器の実演場と化しており、もはや乗客たちになすすべはなかった。ドクロの形をした雲が浮かび上がり、軍の暴圧によって、正午ころには全ての暴動は鎮圧されて、けたたましいゴングの音を後に軍隊は朝霞へと撤退した。勃発から5時間で犠牲者は少なくとも1万人を越し、史上最悪の無差別大量虐殺事件となった。また、両駅はまさしく人間屠殺と化し、地獄甲子園のワンシーンに等しい状況になっていた。

事件後[編集]

高崎線は事件の後3ヶ月も不通が続き、多くの利用者がバスなどの代行輸送に移ったが、上尾事件の様な事件は一度たりとも起こらなかった。利用者はみな疲れきっており、怯えているかのような表情をしていたとも言われている。

この事件を境に高崎線の輸送量の改善がなされ、現在では本数を増加させるとともに、ロングシートを大量に増やした211系電車ヨ231系電車などの投入によりかつてのように乗車率300%を超える事態はなくなっている。混雑を原因とした死者も今ではほとんどいない。

一方国外では、隣接する日本をはじめとして、多くの国々が事件についてコメントを発表した。日本国内でも隣接する千葉県茨城県などの一部の県は抗議の意を示し、日本などコメントを発表した国の多くが、遺憾の意を表明した。抗議の意を表明した国々は、この事件を境に埼玉をダ埼玉と呼ぶ機会が増えたとも言われる。裏には川向こうの国境からグンマ民族の侵略が関わっていると言う諸説がある。

しかしながら、多くの国々とは事件から1年以内に関係を正常化させており、現在のさいたまでも主要産業は出稼ぎ労働である。むしろ上尾事件発生当時よりその数は増えており、第二の上尾事件が発生するのではないかと恐れている人もいる。

ちなみに、この事件でバーサーカーとか機動隊とか消防隊とか埼玉陸軍に木っ端みじんにされた165系電車が、立体電車パズルとして売り出された。ピースの数は数千万個とも数億個ともいわれ、完成までに何年かかるか分からん。 あと、このパズルを十数セット買い,気合いと何かで完成させた車両をしなの鉄道が使ってるって噂があるが、信じるか信じないかはあなた次第です。たぶん。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「上尾事件」の項目を執筆しています。

外部リンク[編集]

昭和30年代から輸送の量と質の改善が後回しにされていた高崎線の状況が記録されている。


東西線で押しくらまんじゅう.jpg この「上尾事件」は、延伸の案が出ています。延伸して下さる協力者を求めています。 (Portal:スタブ)