上杉謙信

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鬼畜王伝第7巻(ジパングの書)中の挿絵より。超絶キャワワです(><)

上杉 謙信(うえすぎ けんしん、1530年2月18日 - 1578年4月19日)は、三ええケツやライバル武田信玄と並び、激動の戦国時代を代表する戦国大名の一人である。他の戦国大名に限らず中世の人物にはよくあることだが、長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、そして不識庵謙信と名前がコロコロ変わったため呼称が大変紛らわしい。上杉謙信で統一していいじゃないか。

重度の中二病患者で、自身は毘沙門天の化身だと周囲に主張し、その痛々しい言動に対して家臣は対応に苦慮したと言われている

なお、おにゃのこである。武田信玄とは北信の地を巡って、また死後は「どちらが信長をもっとも恐れさせた漢か」「どちらが戦国最強か」という争点を巡り何度も争っている。深刻なニートであった実の兄貴をぶっ飛ばしたりしたお転婆娘だが、何故か後世では「義将」扱いされている。

概要[編集]

武田信玄のライバルであり当時としては貴重なふたなりとも。戦歴を見る限りなのだが、やはり女性に見える毘ジュアル系の外見である。あるいは彼女は武田信玄とサシで戦うことが出来る女性剣豪、または毘ジュアル系であったかもしれない。

大柄であったとされるが、身長は土井八郎とまったく同じ1hydeである。身長1hydeは16世紀当時としても男性としては小柄な部類だったが、女性としては大柄であった。

病弱な兄を隠居させて当主になり各地で奮戦、軍神と呼ばれるほどの戦上手であったが部下の怠慢や汚職に嫌気が指して「私は国主をやめるぞ―――ッ!!」とボイコットを起こす、川中島で信玄と激闘、敵に塩を送った事から御塩先生と呼ばれたりするとかしないとか、酒の飲みすぎで真っ白に燃え尽きて逝去大河ドラマで1年持つほどの歴史的英雄である。

自らを毘沙門天の化身と称した。大衆が自らを崇めるように自分は神だと主張するものは多いが、彼女(彼?)は自らが神そのものだと思っていた。このことから中二病患者どころか(いい意味で)正真正銘の気違いだったのではないかと言われている。しかし、戦歴を見る限り魔王の素質を持っていることは明白である。

CVは非公開だがコンシューマ進出の際には斎藤千和奥島和美になる予定だったが、とある戦国の大戦でビッチがCVを担当した。未確認情報であるが、音楽屋であり異能生存体であるGacktこそが転生した謙信であるとも噂されているが性別が判明しないために不明である。

生涯[編集]

ん? 私のカオにナニかついてるのか? …細かいことは気にするな!

室町時代、越後の守護代長尾為景の末娘として誕生。彼女を見た父為景はあまりの可愛さに萌え狂ってしまい、こんな萌えるおにゃのこを戦場に出すなんてとんでもないと言う事で、神社・・・のはずがなぜか禅寺の巫女さんにさせられた。しかし預けられた寺の住職が重度のイン哲ヲタかつ軍ヲタだった為、自分は毘沙門天の化身であるという勘違いを抱いてしまうに至った。彼女の姉であった仙桃院こと綾姫(通称:綾姉@あやねえ)は彼女の不良化をひどく嘆いていたとされる。

越後長尾一族の有力者、長尾政景は妹の謙信こと景虎タン(1544年時点で14歳)を嫁に欲しがっていたけれど大人の事情で年増の綾姉(1544年時点で28歳、結婚適齢期が12歳~18歳とされていた当時の風習からすると相当な行き遅れである)が政景の嫁になった。政景当時19歳。明らかに不自然な結婚だが詳細は禁則事項です

さて、その頃為景は隠居、長男で謙信にとっては長兄にあたる晴景が守護代となる。ところがこの晴景はハードオタクで、政務を放置プレイにしてひたすらアニメ鑑賞や、いかがわしいゲームにのめり込むネトゲ廃人であった。そこで反晴景派の国人たちが反乱を起こしてしまう。有力な味方を探していた晴景は、末妹の謙信をハケーン。黒髪ロンゲでロケットオッパイ、オトコ勝りの気性、こんなおにゃのこがを纏い一軍を統率して戦う姿を妄想し萌えまくった晴景は、謙信を将に取り立てる。戦闘ができると意気揚々に采配と剣を手に取った謙信は、瞬く間に反乱軍を鎮圧してしまった。 この軍神の登場に、越後国内では「守護代を晴景から謙信にチェンジ!」祭りが沸き起こる。晴景VS謙信の兄妹骨肉の争い勃発か・・・と思いきや、ハードオタクな晴景はむしろ守護代を辞めてアニメゲーム三昧の日々を送ることを望んだ。こうして謙信が晴景の養子となり守護代を承継した。晴景は、萌え妹を萌え娘にできた上、越後守護代という要職に就いているとうシチュエーションに萌え狂いながら隠居、アニメゲーム三昧の日々を送る。ただ、不健康が祟り数年後に死亡してしまう。

謙信は実子を儲けなかったため、養子を数人迎えた。政景と綾姉の間に産まれた子供、景勝は謙信ちゃんの養子になった。一部謙信男性説に則る資料では謙信は景勝及び北条家から貰った景虎(氏秀)と衆道関係にあったというが、謙信はおにゃのこだったのでつまり禁則事項ですである。そしてそれが後の御館の乱を招く要因となった。

第六天魔王織田信長とはどちらが本当の神であるか決定するという気違いじみた理由によって織田家との戦いが始まる。当初は優勢であったが、織田家の軍事顧問であるランスの陣に突撃し、後一歩で討ち取るというところまで迫ったものの、彼に一目ぼれしてしまい、重度の恋の病で職務すらままならなくなり、お家滅亡の危機に至るものの、彼の仲介によって何とか和平に成功した。無論その後、彼においしくいただかれた事は言うまでもない。無論処女もそのとき奪われた。しかし、本人曰く「わ、私はランス殿に純潔を奪われてなどいない! そ、そうだ替え玉だ! 替え玉なのだ!!」だと頬を赤らめツンデレ調で言っているが真偽は不明。

なお、現代ではGacktとして転生し、歌にアニメに大河ドラマ、そして戦国大名としては史上初となる個人写真集出版やNHK紅白歌合戦ジャックなど、腐女子・アニヲタ・ニコ厨など男女問わずに魅了し続けているというが、基本的にはおにゃのこなので怪しい部分もある。

逸話[編集]

某戦国絵巻より。この絵では完全な女である。馬乗りにされているのはランスである
え? ハートマークは何だと? 女の子なんだから恋ぐらいはします!

驚異的な食事量[編集]

謙信の食事量は常人のそれをはるかに上回っている。彼女が一日に平らげる食事量は、まず朝昼晩・および夜食に米1升ずつの計4升、更に午後のおやつに重箱5段分、加えて戦場では底辺30cm・高さ20cm・幅15cmの巨大おにぎりをあっという間に完食する。 食欲がなく、食事がのどを通らないときもドンブリ三杯を軽く平らげてしまう。 さすがのランスも、彼女のこの際限なき食欲には開いた口が塞がらなかった。しかし同じ大食いで有名なベーブ・ルースとは初対面で意気投合している。 おそらく謙信の胃袋は、ドラえもんの四次元ポケットと同じ構造の亜空間につながっているのか、サイヤ人の末裔なのかのどちらかだろう。 そして彼女の食費を現在の日本のレートに換算した場合、次のような公式が成り立つ。

3500/5*8*30

彼女の出身地は新潟県佐渡なので、食う米も当然魚沼産の高級コシヒカリである。 米1升を1.8kgと仮定すると、1.8*4=7.2kg、それに重箱5段分のおやつの分も加算して、+800gで約8kg。 魚沼産コシヒカリが5kgで3500円と仮定すると、8kgあたりの値段を算出する場合、3500/5*8。 それを30日間連続して同じ量を食べ続けた場合、3500/5*8*30で、しめて16万8千円なり。 しかもこの値は、単に米の代金を算出しただけのものであるため、他にもおかずやお茶等の費用を含めた場合、その金額はまさに天井知らず、20万円を超える出費となる可能性は十分すぎるほど高い。 ランスが謙信を用心棒として旅の供に連れ歩くとなると、これだけの出費を覚悟する必要がある。

  • 飲む酒の量が半端ではなかった。ある時家臣が酒の量を抑えるように諫言したところ、「酒を飲まねば神の声が聞こえなくなる」と言ったと言う。どうやら末期症状だったようだ。「酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞ! 楽天が勝ったら酒が飲めるぞ」という言葉はあまりに有名。
  • 車掛りの陣と言うマスゲームもビックリの陣形を得意とし、川中島の戦いの直後これをヒントにメリーゴーランドを生み出した。当時は謙信曰く『乗馬が苦手なヘタレを鍛える為の道具』であったが後に上杉鷹山の時代になってこの謙信のアイディアはアトラクションとして利用されることになり米沢藩の財政再建に貢献した。
  • 武田信玄とは言葉を交わさずとも心の中で通じ合っていたと言う。後年富野由悠季と言うこれまた天才と気違いの境界線に立つ男がこれを元にニュータイプと言う概念を生み出した。んだと思う。
  • 武田信玄が死亡した後、しばらくの間は飲酒量が増えた。これは心の中で通じ合っていた信玄を失った喪失感を紛らわすためのものだったが、事情を知らぬ家臣たちは「宿敵である信玄がくたばった事に対する祝い酒」と思ってた。
  • 後に大河ドラマに抜擢されたGacktは、「前世の自分をまさか演じるとは思わなかった。しかしなった以上は毘沙門天として天下統一し、世界を動かしてやる!!!!」と意気込みを見せた。
  • 後年の研究により謙信公は毎年大晦日になると大々的なライブを催し、自軍の将兵や民衆を招きいれ、除夜の鐘を聴く時刻になるまで年越しコンサートを行っていたことが明らかとなった。

上杉謙信男性説[編集]

かつては謙信は男性、もしくはふたなり、そしておにゃのこであることは疑惑とされた。アンサイクロペディアン100人にアンケートを取ったところ、7割が「謙信はおにゃのこに違いない」と言っていたため、取り敢えずおにゃのこということにしておく、という扱いだった。漫画、ゲーム、アニメ、小説(主にラノベ)などの物語的作品においても度々麗しき女性の姿で登場し、逸話にも事欠かずいじり甲斐があるため作品によっては(性的な意味で)弄ばれたりしている。
しかし、謙信自身は自分の男根を生涯見たことがないという、当時織田家の最高軍事顧問だったランス等の証言、そして戦国BASARAにおける扱いから、現在ではおにゃのこであったと断定されている。
これに対して、未だに、男性だったという反対説が根強い。以下その根拠と反論を列挙してみよう。
  • 「虎千代」「喜平次」「景虎」「政虎」「輝虎」「謙信」という名称からして男である。
←「千代」とは当時の女子名によく使われている。「喜平次」は通称に過ぎない。
イミナは男女の区別ないもの(例 井伊直虎)。「豊臣吉子」(サルの嫁)の例はあるが、公卿の貴婦人っぽい名称を採用しただけ。
それに「虎」を「コ」と読めば現代的に違和感ない。「ケイコ」「マサコ」「テルコ」で通用する。
そもそも女のコが男っぽい名を名乗ってナニが悪い。
  • 幼少時林泉寺で修行しているし、高野山に登った記録もある。お寺は女子禁制だよ!
←林泉寺は曹洞宗系の禅寺で、当時の禅寺は女子に開放的であった。地元の守護代に「娘の教育よろしく」と言われたら断れないだろう。
高野山も自身は麓まで行き、あとは家臣を代理にして記帳させたのが事実です。
  • 女のコっぽい衣装を身にまとっていたからといっても、それは現代の感覚で女性用ファッションと判断しているだけのことで、当時の感覚では男性用だった可能性がある。
←今も昔も戦国武将に萌える心は同じであるように、男性女性別ファッション感覚も同じです。
謙信の鎧はおっぱい部分が出ている形状になってます。男女ファッション価値観では説明できません。
  • 当時の大名としては非常に珍しく妻帯しなかったのは、女のコだったからではない、男性でハードゲイだったからだ!
←妻帯しなかった最も素直かつ合理的な理由は、やはり女同士の結婚は不可能だったから、になるでしょう。ホモの嫉妬で家臣に殺された人とか、男が好きすぎて離婚してしまった人(でも実子が二人いる)とか、アッー!な手紙が残っている人とか、姉弟両方手をつけた人とか、男を追い掛け回したエピソード残した人とかいますが、皆妻帯していますしネ!
  • どう見ても肖像画には髭が描かれている。よってどう考えても男性である。
←写真のない時代、肖像画が本人を描いたものかどうか疑わしい。現に、源頼朝の画とされてきたものは、平重盛の画でした、足利尊氏であるとされた肖像画が実は高師直のものであるとの研究結果が出たり、武田信玄と思われていた肖像画が能登畠山氏の誰かではないかとの説が出たりしている。
あの画が描かれたのは、謙信は男性と思われていた江戸時代です。絵師の妄想です。
とはいえ、2009年に大河ドラマのロケ中に、見つかった資料によって、謙信はおにゃにょこであったことが、正式に認められた。↓がその資料である。

信玄と謙信の愛のメール (の、一部)[編集]

送信・武田信玄.㋐躑躅ヶ崎.甲斐.通文 
件名・待ち合わせ
(信玄)今日さ、また家臣に怒られちゃった(/_;)二人の間を引き裂くことなんて出来るわけないじゃない♪ところでさ、明日また会わない?場所はいつもの川中島で、今度は1万人兵を連れてくるね!
送信・上杉謙信.㋐春日山.越後.通文
件名・RE:待ち合わせ
(謙信)メールするの遅れてごめんね_(._.)_今日も会議で遅くなっちゃった。明日出発したら越山するのに時間がかかるから明後日にしてくれる?
送信・武田信玄.㋐躑躅ヶ崎.甲斐.通文 
件名=RE・RE:待ち合わせ
(信玄)いいよ♪こっちも合わせるから。

因みに送信の後に続くのは当時のメール[email protected]

その後謙信は謎の男寝取られ、「うわーん!変なのに謙信取られちゃった〜!!」と信玄が1日中嘆いたあげく、気が狂って、上洛を試みるも、途中で死去したという話は有名。

関連項目[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「上杉謙信」の項目を執筆しています。


みなさん、松平です。 この項目「上杉謙信」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ)