中国の奥地

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動: 案内検索
Wikipedia
ウィキペディア専門家気取りたちも「中国の奥地」については執筆を躊躇しています。そのような快挙を手際よくやりおおせたことは、我らの誇りです。

中国の奥地(ちゅうごくのおくち)とは、奇妙奇天烈な出来事や奇想天外な事物が待つ魅惑の秘境である。

中国の奥地への誘い[編集]

奇岩の中に立ち込めるあの雲の向こうへ行ってみよう

中国沿岸部に流れる大河を上流に遡ること数千里、桂林は中国の奥地への入り口である。町からははるか連なる奇岩が一望できる。漁師は川に小舟を浮かべ、水の中へ銛を衝いては獲れた魚を腰籠へ入れている。町を望む斜面では、娘らが木々の間に入って李を摘んでいる。川辺のなだらかな丘には棚田が広がり、朝に夕に日差しを受けて水面が輝く。そこには平和な時間が流れている。

奇岩が林立するあの向こう側へ行ってみよう。が、が立ち込めるその先へ進んで行こう。さらに深く、中国の魅力を知ることができるはずだ。

奥地への旅[編集]

SLに乗って出発

沿岸の都市部から遥か離れた内陸部。そこには高速鉄道もハイウェイも走っていない。さらに奥地へ進むには、軽レールの上を走る昔ながらの汽車に乗り込むか、凸凹の土道を走る旧式のディーゼルトラックに揺られるか、そのどちらかしかない。だが、わざわざ奥地に向かうのにあくせくする必要はなにもない。2時間後にSLが出発するから、それまで駅舎の横の井戸小屋で刻み煙草でも吹かしながら気長に待とう。だが今日はこの一便きりだ、乗り遅れないように気をつけよう。

さて3時間後、予定を1時間遅れて出発した汽車だが、どうも様子がおかしいようだ。何もないところで停車した。どうやらこの客車ブレーキの利きが悪いようだ。車掌に促されるようにして前の客車に移る。他の客は、もうこんなこと慣れっこだと言うような顔をして、女はおしゃべりしながら客車内で授乳を始めたし、男は相変わらず煙草を吹かしている。ようやく運転再開したのは30分後だった。これでも早い方だと、隣に座っていた初老の男は笑って黄色い歯を見せた。

しばらくすると目的の駅が見えてきた。人民服姿の駅員が手信号で汽車を止める。乗客がぞろぞろと客車から這い出る。ここからは現地のポー君に案内を頼んでおり、旧式のジープに乗って旅を続けることになる。「窓から手を出すと蔓に絡まって危ないヨ。道が悪いから酔い止めに煙草を呑んだほうがいい」ポー君は笑顔で煙草を差し出した。

道はたしかにひどく荒れている。路面にも大きながごろごろと転がっているが、ポー君は構わずスピードを上げる。「おい!もう少し安全運転してくれ。パンクしたらどうするんだ」そう言うとポー君は少し困った顔をした。「このスピードで走らないと日が暮れるまでに着かないヨ。この道で夜になったらトラが出るから危ないヨ」

そうして、ポー君の荒っぽい運転とヤニ臭さと途切れることのないお喋りとに酔いそうになりながらも黙って耐えていると、ようやく村が見えてきた。薪を背負った少女を追い越して、埃まみれのジープは村の中に入っていく。

辺境の村[編集]

中国の奥地には無数の村が点在する。それらは香港上海のビル群と同じ国だとは想像もつかない未開拓の集落だ。電化はされておらず、郵便も届かない。ラジオがあることは稀で、識字率も極めて低く、外部との交流といえばたまに訪れる旅行客か遭難者と話す程度である。国内のどこへ行ってもいると言われる人民解放軍の兵士も、このような辺境の村々にまでは及んでいない。一人っ子政策も浸透していないため、たくさんの子供が走りまわっている。毛沢東を知らない者も珍しくない。

村の文化や風習はそれぞれ異なる。ある村は福建土楼を彷彿とさせる大きな建物に全ての住民が寄り添って暮らし、またある村では高床式、葦葺きの家が並ぶ。稲作が行われているかと思ってよく見れば、それはヒエキビカラスムギということもある。蛇使いがいたり、石器を作る職人がいたり、呪術師がいたり、案外と多様な職業が見られたりもする。言葉も独特のもので、それぞれに違う。もし日本人が彼らと会話したければ、日本語北京語または広東語→いわゆる少数民族の言語→彼らの言葉、というように3人の通訳が必要になる。

多くの場合、旅行者が訪れるということは村にとって一大イベントとなる。酋長の指示で宴席が設けられることも多い。供される食事も豪華で、主菜となるイトウないしクエに似た大型の魚(艪樹魚、蘆蓑魚、雲南擬鯔、小籠獏鮒)の串焼きや煮付、川蛇(泥瘤擦龍、葡庵蛇)の腸詰などを中心に、焜蝋梨の包み焼き、琶琳椿の青酢和え、蒙古狆黍の勾豆粥などが並ぶ。どぶろくに似た自家製の唐苞酒や多少癖のある檎獅酎が勧められこともあるが、村によっては飲酒の文化がない場合もある。後者のような村では、全員が下戸という場合もある。

小さな村では窃盗などの犯罪が起こり得ないため、旅行者にも村の秘宝などを惜しげもなく見せることも多い。反対に非常に閉鎖的で、女には一切会わせない村や、部外者が隣家を訪ねるような際にも必ず槍などを持った屈強な見張りをつける村もある。しかしひとつ共通して言えることは、酋長やその侍従には逆らわぬべきという点である。宴席後に用便を勧められたのにそれを断ったがために、反逆者と看做されて牢屋に閉じ込められたという例もある。さらに、うつ伏せで寝てはならない、を剃ってはならない(刃物を当ててはならない)、男に便所の場所を聞いてはならないといった不可解な掟が存在することもあり、そうした掟に触れぬよう、事前に案内人に生活や習俗について細かく聞いておく必要がある。

様々な事例[編集]

謎に満ちた高峰アムネマチン

間宮海峡が発見され、南極点到達も成され、チョモランマも極められた20世紀半ばにおいても、中国の奥地の地形は謎に満ちていた。たとえば崑崙山脈近くの黄河原流域にあるアムネマチンという山は、標高5800メートルとも、9030メートルとも言われていた。山域の晴天率は低く測量が困難だったうえに、小型飛行機で高度8000メートル以上の高空を飛行中に目の前に壁のように立ちふさがったといった逸話がいくつも残されている。聖なる山とされ外国人探検家がなかなか近付けなかった上に、現地の少数民族が部外者の安易な来訪を拒み続けてきたことも理由のひとつである。

雲南省の奥地には、日本からは移動だけで最低1週間、川蛇で川を遡行しなければ辿り着くことが出来ない秘境中の秘境の村がある。過去にこの村にやってきた人と言えば、数十年前に不慮の航空事故で不時着したイギリス人パイロットだけだという。そしてこの村の一番の特徴として、鳥のごとく空を飛ぶ人がおり、子どものうちから飛び方を覚えると言う。この村について、日本の作家が世に知らしめた際は、大きな反響を呼んだ。

この村は極端であったが、しかし他にも特徴的な村が多い。ある村では10代半ばの少女が村長を務めているという。またある村では、たった一本のロープに金属をかけて滑り降りることにより、急流を渡って子どもたちが通学している。

華山の長空桟道。命綱をつけて歩くが、転落死亡事故は後を絶たない

一般の観光地ですら日本の常識をはるかに超えている。たとえば陝西省の華山は、その名の通り可憐な花々が訪れる者を楽しませる。しかしその桟道の恐ろしさも有名で、長空桟道は高さ数百メートルの垂直の崖にわずかに4,5枚の板を渡しただけという恐るべき道である。さらに天候が急変することで視界不良となることも珍しくなく、毎年およそ120名が墜死している。長空桟道以外の階段も、ほぼ垂直に聳える大岩を削って形ばかりの段差を作ったようなものであり、一歩間違えればやはり墜死は免れない。これが観光地として立派に成立しているのだから、中国おそるべしといったところだろう。

近代史における中国の奥地[編集]

中国の奥深さは歴史の中でも大きな役割を果たした。たとえば近代以降、中国共産党は幾多の辛苦を味わってきた。日中戦争文化大革命などだ。共産党内部には、日中戦争を経験した世代もいれば戦後の若い世代もいる。しかし日中戦争の経験の有無で党員が差別されることはない。強い共産主義国家中国を実現するという大きな目的の前では、日中戦争の経験の有無ですら些細なことだからだ。しかし、長征だけは違う。長征とは1934年から1936年にかけて、国民党軍に敗れた共産党が中国の奥地を12,000kmも彷徨った出来事である。このときの苦難は相当のものだったようで、戦後も相当長い期間、党員は「長征前(長征を経験している世代)」と「長征後(経験していない世代)」とに差別されていた。中国の奥地を転戦する苦難は、日中戦争(三光作戦南京事件をも含む)以上のものがあったということだ。

その日中戦争でも、日本軍が圧倒的な力で中国を攻め立て、北京、上海、南京武漢香港と主要都市を相次いで陥落しながらついに中国政府を降伏させられなかったのは、やはり中国の奥深さによるところが大きい。日本が総力戦で長江流域を制しても、中国側は重慶成都西安と首都を転じるだけで捕まえようがない。深追いすれば底無しのゲリラ戦となってかえって戦況を悪くするだけであった。中国の奥地そのものが巨大な要塞として機能したのである。

映秀鎮に向かう救援隊。余震が頻発するなかで、活崩落面を長々と歩く彼女たちも命がけ

災害とて日本のそれとは根本的に異なる。2008年の四川大地震では、映秀鎮という町で住民の8割近くが死亡したと伝えられる。これは津波を伴わない地震災害としては通常あり得ない死亡率である。中国内陸部の急峻な地形によって生じた無数の土砂崩れ地滑りが悲劇を生んだ。こうした内陸部の町の被災状況は中央には伝わらなかったが、後になってようやく被災地に辿り着いた人民解放軍や救援隊は、想像を絶する被害に絶句したと言う。

中国は地理的に、日本やチリインドネシアのように海域の巨大地震は起こり得ないが、しかし地震により何万人、何十万人の犠牲者を出すことがしばしばある。たとえば1920年の海原地震でも、多数の地すべりで生き埋めとなる者が続出し24万人が死亡している。さらに古くなると、横穴住居が潰れて死者が増えることが多い。また、これらの地震は正確な被害が把握できていないことが多い。それほど中国の奥地は中央政府から遠い場所なのだ。

古代史における中国の奥地[編集]

中国の奥地はしかし古代から決して未開なだけではなかった。すでに5世紀には巨大な雲崗石窟が造られているし、秦始皇帝陵及び兵馬俑坑があるのも沿岸部から遥かに離れた奥地だ。天下の奇峰廬山にも4世紀には寺院が建っていたし、万里の長城も北京近郊から遥か奥地に続いている。おそらく中国の奥地だけで世界レベルの七不思議を選ぶことができるだろう。

かの高僧鑑真が、当時船がよく難破した東シナ海を越えて未開国日本に渡ることを決意したのも、中国の奥地に比べればはるかにマシだという思いがあってのことだった。またそれは、真の奥地を旅した玄奘三蔵に比べればどうということもないという気持ちによるものであった。

また、の時代に編纂された地理書『山海経』には、開明獣、窮奇、燭陰といった珍獣や妖怪が多数収録されている。さらに鑑真がいた代には、隴西(現在の甘粛省にある)の役人が発狂して虎になったという逸話も残っている。マルコ・ポーロの時代には、スペイン人が推定体長数十メートルの巨鳥のかけらを中国から持ち帰ったという記録もある。さらに19世紀の大英博物館には、中国の奥地から人面魚、水竜などが持ち込まれていた。中国の奥地は古来から得体の知れない謎の生物が蠢く場所としても認知されていたのだ。

真の奥地[編集]

ここまで色々と述べてきたが、これでも中国の奥地の半分も紹介していない新疆ウイグル自治区チベット自治区に触れていないからだ。

広大な砂漠を持ち、西遊記に見られるような妖怪変化が跋扈し、敦煌などの古都や遺跡が点在する新疆ウイグル自治区。今なお謎が多いチベット仏教の文化が色濃く残り、グランドキャニオンを凌ぐ渓谷や大湖が連なるヒマラヤ高原が広がり、世界の屋根と言われるチベット山脈カラコルム山脈が聳えるチベット自治区。上で散々述べた摩訶不思議な世界の背後に、さらにこのような広大で謎に満ちた大地が広がるのが中国の奥地なのである。

参考文献[編集]

この記事を執筆する上で、ウェブ上の様々な情報のほか、以下のような文献を参照した。記事中には俄かに信じられない内容もあろうが、断じて筆者の出まかせではないことをお断りしておく。

  • 日本児童文学家協会『世界を驚かした10の不思議』、金の星社
  • 椎名誠『中国の鳥人』、新潮社
  • 謝毓寿・蔡美彪・他『中国地震歴史資料彙編』、科学出版社
  • 中島敦山月記』、岩波文庫

関連項目[編集]