六条公麿三位中納言

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六条公麿三位中納言(ろくじょうのきみまろ・さんみちゅうなごん)とは貞享から元禄時代に活躍した朝廷の臣で公家。略して「六条三位」「六条中納言」、または「麿」「麻呂」の通称で知られる。

硬骨の公卿[編集]

麿の雄姿を見てたもれ。
麻呂とその家族

江戸時代は比較的平和な時代であったにもかかわらず、禁中並公家諸法度が出されていたこともあって、歴代の帝や公卿(公家)は政治に介入することも出来ず、和歌を詠んだり、学問にいそしんだりと、世事に背を向けることが一つの形式となっていた。

しかも経済的な裏づけは家格によって決まっており、上層の公卿ならいざしらず、多くの公家は体面を気にしつつも、質素な生活を送らざるを得ず、手持ち不如意な家も多かった。時に元禄、江戸で将軍綱吉が政務を執っていたころ、京都では東山天皇がその位にあり、霊元法皇が形ながらの院政を行っていた。すでに太平の世に馴れた公家の多くは、幕府に対し何ら抗う力なく、怠惰で閉塞的な日々を送っていた。

そんな中にあって、例外的に幕府や徳川家に真っ向から立ち向かったのが、六条公麿三位中納言である。六条家は村上源氏の流れを汲む名門で、かの承陽大師道元禅師や、伊勢の戦国武将北畠家と同族という誇り高い一族であった。簡単にいえば六条家初代・通有の叔父さんが道元禅師、いとこが北畠家初代・雅家である。皇室式微の極みでもあった戦国時代には、自らの資財をなげうって、時の帝に粥をおおさめしたとの伝もある家であった。そんな中で幕府に靡くことを潔しとしない、公麿の性格が形成されたのであろう。同時に、一族の前田慶次郎(北畠の分家の滝川家出身)から南蛮の学問を学んだことが、後の日本初の掲示板創設に繋がったという説もある。

朝権の復古に賭して[編集]

戦国時代に途絶えた多くの朝儀の復活のため、費用を算出し、有職故実に基づいて、プランを立てたのは六条公麿を中心とする少壮の公家たちであった。めでたくも貞享4年(1687年)に200年ぶりに復活した大嘗祭の成功で、従三位中納言に進み、六条は一躍朝廷の時の人になったのである。

しかし一方では、普段から幕府を軽視するような発言が相次いだため、翌年には武家伝奏から「軽挙妄動すべからず」と、朝参を停止させられている。天皇の懇願により、なんとかまた政務に戻ることになったが、位階はほとんど変化がなく、しばらく鬱屈した日々を送ることになる。また山崎闇斎垂加神道に傾倒し、よりラディカルな尊皇思想へと突き進んでいくのも、この時期のことである。

徳川光圀に頭を下げない唯一の男[編集]

京都における幕府の介入が、そもそも朝威回復の最大の障害であると見取った六条は、京都所司代とそれにつるむ悪徳商人の関係を断ち切らせようと腐心していた。特に禁裏御用達の看板をいいことに幕府に内通していた、お茶屋、料理屋、呉服屋、菓子屋、土産物屋を徹底的に詮索した。

最大の元締めが、菓子屋の女主人と「うっかり八兵衛」と名乗る山師であることに気付いた六条は、彼らを拘引しようとするが、ここで新たにややこしい事態がからんできたのである。なんと山師「うっかり八兵衛」は、徳川光圀(水戸黄門)の部下であったのである。光圀は水戸藩士を引き連れて、無断で六条邸に上がり込み、刃向かうものを片っ端から粛清する虐殺行為に出て、幕府と徳川家に対する緘口令を敷こうとしたのである。「静まれ、静まれ、この紋所が目に入らぬのか?」と粛清の合図をする水戸藩士。

しかし六条三位は、頭を地面に擦り付けて命乞いをするような男ではない。身に危険が及ぶにもかかわらず、豪胆な六条は、例の「だまりゃ!麿は恐れ多くも帝より三位の位を賜わり中納言を務めた身じゃ!すなわち帝の臣であって徳川の家来ではおじゃらん!その麿の屋敷内で狼藉を働くとは言語道断!この事直ちに帝に言上しきっと公儀に掛け合うてくれる故、心しておじゃれ!」と威勢のいい啖呵を切って、逆に水戸藩士たちを震えさせたのである。

徳川光圀は結局、六条に頭を下げさせることも出来ず、逆に「こやつらは水戸の老公の名を語るニセものじゃ、出会え、出会え!」と形勢逆転され、石もて追われるが如く、逃げ帰ったのである。それを噂すずめの京童どもは、「逃げるは水戸の黄門、追うは六条中納言」と囃し立てたのである。

徳川光圀の転向[編集]

これに恐れをなした徳川光圀は朝廷の実力者でもあった菊亭左大臣を通じて、和解と調停に努めた。六条はこの事件の責任を取り隠居、京都洛北北畠に庵を構えて隠棲した。晩年は儒者、武士、一般庶民とも心やすく交わり、風雅の友から贈られる雅な絵を「字府」(じふ、じっぷ)と名付けた掲示板に貼って楽しんでいたという。この掲示板は誰でも見ることが出来、庶民も絵を貼ることが出来た。これが日本初の掲示板である。現在、ネット上で絵を貼るときに「zipでくれや」というのは、この「字府」に基いている。また、六条の庵を訪れるときには「字府」に何か絵を貼るのがしきたりとされたため、「画像貼らずに六条行くな」ということわざが出来た。すなわちこれが「画像も貼らずにスレ立てとな!?」の起源である。

この時期から徳川光圀は朝廷の底知れぬ力に畏れを抱くようになり、六条のような人材がいることを警戒し、徳川氏は尊皇思想によって補完されるべきだという水戸学を起こす力となった。ちなみにこの調停に当たって勅使の派遣が決定したが、この勅使饗応をめぐってのイザコザで、元禄14年(1701年)吉良義央浅野長矩に斬られた。

すなわちあの「松の廊下事件」である。

フィクションでの描写[編集]

フィクション作品「水戸黄門」において、六条公麿ないし彼をモデルとしたと思わしき公家が、たびたび登場する。史実では硬骨漢の公家であるが、本作中においては水戸黄門が主人公である事から、主人公と敵対する悪役という形で描写される。

六条三位
「だまりゃ!その方ら麿を何と心得る!畏れ多くも帝より三位の位を賜り、中納言まで務めたこの麿に指一本でも触れたらどのような事になるか、わかっておるのか!麿は徳川の家来ではない!帝の臣じゃ!その麿に向かって狼藉を働けば朝敵じゃ!謀反人逆賊と呼ばれても言い訳はできまいが!そればかりではない!畏れ多くも廣幡右大臣様の御名を騙り麿を呼び出すとはな~んたることじゃ!この事直ちに帝に申し上げ、公儀に掛け合うてくれる故、さよう心得られよ!」
第10部-第15話「京の都の悪退治 -京-」 俳優:蜷川幸雄
城崎三位
「だまりゃ!その方麿を何と心得る!畏れ多くも帝より三位の位を賜る麿、徳川(とくせん)如きの家来ではない!帝の臣なるぞ!」
第16部-第12話「京人形に賭けた芸妓の意地 -京-」 俳優:菅貫太郎
一条三位
「だまりゃ!その方ら麿を何と心得る!麿は恐れ多くも帝より三位の位を賜わり中納言を務めた身じゃ!すなわち帝の臣であって徳川の家来ではおじゃらん!その麿の屋敷内で狼藉を働くとは言語道断!この事直ちに帝に言上しきっと公儀に掛け合うてくれる故、心しておじゃれ!」
第18部-第23話「夢芝居!? 八兵衛の若旦那 -京-」 俳優:菅貫太郎
近衛少将・東北條基近
「笑わせるな!何が水戸や!何が徳川や!片腹痛いわ!麿は帝の家来ぞ!田舎侍にとやこういわれる覚えはないわ!控えるのはそっちや!」
第38部-第9話「世捨てお公家の悪退治 -敦賀-」 俳優:渋谷哲平

※なお黄門様の役者で見分ける方法もある。また23部では坊門從三位惟光が同様な役回りで登場するが、他の公家に比べて知名度が低い。

※ちなみに六条三位役の蜷川は、女優の太地喜和子から「蜷川さん、こないだ『水戸黄門』で公家の役をやっているのを観たわよ」「あんなヘタな演技を見てしまったら、演出家としてのダメ出しが聞けなくなるわ。頼むから役者は辞めてちょうだい」と強烈なダメ出しを受け、以後は演出家として生きることを決意したという(『私の履歴書 蜷川幸雄』日本経済新聞より)。なお蜷川は2016年に死去したが、その演劇文化への貢献を讃えられ従三位に叙されることが閣議決定された。本当である。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]