劉備
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
~ 劉備 について、曹孟徳
劉備(Liú Bèi りゅうび、161年 - 223年)は、漢王朝の後継者と称し、蜀漢(季漢)を立て中国制覇を狙った人物。字は有名な玄徳(「元徳」とも)。子(養子?)は劉封、劉公仲(名は「悳」とも)、劉禅、劉永ら。孫(養孫?)は劉琳、劉理、劉璿、劉堪(王偏 + 甚)ら。正室は寇后?(先妻?)、穆皇后呉氏(後妻)。側室は麋夫人(ふたり娘の生母?)、甘夫人(劉禅、劉永の生母)ら。
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[編集] 生涯
[編集] 系譜・概要
彼は豪族の子として涿郡涿県楼桑邑(楼桑郷とも)に生まれた。前漢の中山靖王・劉勝(景帝の皇子)の末裔と法螺を吹いたが、実は中山靖王の末裔ではなく、本当は後漢の光武帝(劉秀、劉勝の異母弟の長沙定王・劉発の後裔)の長兄の斉武王・劉縯の庶子の北海靖王・劉興(なんとなく「中山靖王・劉勝」と発音が似ている)。まあ、兄劉縯の家系が「新田氏」で、末弟の光武帝の家系が「足利氏」みたいなもんだと解釈すればわかり易いかも。
ちなみに劉興の庶子は臨邑侯(現在の山東省東阿県)に冊封された劉復で、その子の劉騊駼は父の爵位を継ぎ、学者としても有名で、126年に没した(マヂです。『後漢書』に載ってます)。というわけで劉備は臨邑侯の分家出身なのである(『典略』にあるよ)。余談ながら遠祖の劉縯は「剛毅で仁義を重んじ豪放磊落だった…」とあるので、劉備はそのDNAを濃く受け継いでいるのである。
祖父の劉雄(劉騊駼の庶子)は孝廉に推挙され、東郡范の県令(同じく山東省にある)まで昇進した、父の劉弘(劉広とも)は州郡の官吏を勤めたが早世した。…というけれど、実は遠縁筋で同じく後漢の宗族の冀州刺史の劉焉(劉璋の父、光武帝の曾孫の平春悼王・劉全の末裔)が州郡の官吏の劉弘に向かって「お前の息子二人をワシの人質として差し出せ。」と言われるも、断固として拒否したため激怒した劉焉の手討ちによって父・劉弘は惨殺された…らしい。
その反面「みみずく野郎」、「狸親爺」の異名も持ち、呂布、曹操に敗れて、平気で家族を置き捨てる放置プレイを楽しんだり、沛の住人の劉安の妻を殺害して、その「人肉」を平気で喰ったり(『三国物語』)、息子の劉封、劉永を処刑したり、飼い殺しする冷酷な父親ぶりを鮮やかに表現している。嫡子の劉禅が幼児の時に平気で阿呆(劉禅)を地面に叩き投げたりしている(劉備を弁護するわけではないが、幼児に父を失い、父性の本質がわからないのだから仕方ない)。
[編集] 何をやっても上手くいかない期
父・劉弘を失った劉備は幼い頃はこわいこわい劉焉おぢさんの人質として弟・劉叔郎(名は不明)といとこの劉徳然(名は冀)と過ごしたという。やがて十余歳になると人質から解放され、叔父さんの劉子敬(名も敬、お父さんの弟)に養われたらしい。そして竹馬の友の簡雍(耿雍)・田豫(田予)・傅士仁(名は不詳。「士仁」は士燮のいとこ、虞翻の旧友で別人)らと共に組んで、近所の子供に向かって「俺たちは後漢のお偉いさんの子孫なんだぞ。お前らとは格が違うんだよ!!あ…自分も子供だよ」と言った。当然、腹を立てた子供達と喧嘩に発展し、見事にボコボコにし、これを配下として「涿愚連隊」を結成し、涿郡周辺でブイブイした。
不良行為を繰り返す息子の将来を案じた母は下僕とともに蓆と草鞋で生計を立てていた。玄徳少年が15歳の時に同郷で元九江郡太守の硬骨な学者・盧植の門下生とさせる。学費は小金持ちだった亡父のいとこ劉元起おじさん(名は亮、徳然の父、臨邑侯・劉騊駼の嫡孫)が出してくれた。勉学はそこそこに遊びまわり、今時の大学生を先取りしたセンスを発揮する。師匠の盧植から、居酒屋で会ったゴロツキ先輩の公孫瓚らに向かって「ええな? 伯珪(公孫瓚)に玄徳よ。朝廷の癌の宦官ちゅうオカマはブッ殺さなあかんのや。お前もワシのように漢(おとこ)になったれよ。」と諭したという。
黄巾の乱が勃発すると、祖父劉雄と亡父劉弘の旧知である中山の豪商・張世平とその甥の蘇双の軍資金の援助により、若さのノリと勢いで義勇軍を結成し挙兵した。弟の劉叔郎といとこの劉徳然、竹馬の友の簡雍、田豫、士仁をはじめ、飲み友達であった関羽・張飛・趙雲らと共に、校尉の鄒靖の配下として活躍したが、ライバルの曹操と比較して地味だった。ともかく功績により、辺鄙なに地方の中山国安喜県の尉(警察署長クラス、軍事長)の地位を与えられた。しかし督郵(国の監察査察官)みたいな人が遊びに来た際、何となく気分が悪かったのかボコボコに叩きのめしてしまう。さすがにこれは拙いと思ったのか、警察署長の地位を返上して逃亡生活に突入した。
その後、187年ころにゴロツキ先輩の公孫瓚の元に身を寄せた。当時の公孫瓚は、残しておいたゴマ団子を勝手に食べた袁紹と対立しており、劉備は公孫瓚に従って何度かの喧嘩を経験している。このころに初恋の人の芙蓉姫と結婚し、芙蓉たんとアーン♥♥しながら、その間(189年ころ)に劉封(定説では養子)が生まれたらしい。
反董卓連合軍にも参加していたものと思われるが、有名な虎牢関の戦いについてインタビューを受けた劉備は「はい?!なんで俺が呂布と直接喧嘩しなきゃならんの? そんな事したら普通俺死ぬでしょ、常識的に考えて。つうか、虎牢関ってどこ?…でも…おいらにゃあ~そんなの関係ねぇ~!!」ときっぱり否定している(もちろん兄貴分の公孫瓚も同じコメントを出している)。
徐州の陶謙が曹操に攻められると、公孫瓚に援軍要請した。公孫瓚はこれ応じて、武将の単経・田楷の両将を援軍とし、劉備は田楷の副将として駆けつけた。慣れない土地であったために様子を窺っていたところ、曹操の大事なお菓子をあずけた友達の張邈が仲間の陳宮、呂布に横取りされた情報が入った。それを聞いた曹操が急に「お腹が空いたよ~」と言い出して急遽に撤退しちゃったそうだ。よくわかんないうちに徐州に留まる事になる。その間に旧師の盧植の兄弟子の鄭玄の生徒の孫乾を自分の外交官として、部下にした。
やがて、陶謙が喉に餅を詰まらせてこの世を去ると、孔融(孔子の後裔)をはじめ、陳珪・陳登父子、麋竺・麋芳兄弟ら有力者らの推薦で劉備が徐州を治めるようになる。その決定方法について、本人は「みんなにしてやられた。竜ちゃんしちゃったよ」とダチョウ倶楽部ネタを仄めかしている。やがて麋兄弟の姉の麋夫人を正室に、沛の甘夫人(劉禅、劉永の生母)を側室にした(実は…芙蓉たんは「名門ヲタの芙蓉イラネ」とつぶやいたDQNダンナの劉備の密命を受けた関羽に殺害されたらしいYO。劉封カワイソス…)。しかし、劉備は元来が女たらしなので、好き放題に麋夫人・甘夫人たちとチョメチョメしたという(…玄徳さん…ほら、あなたのうしろに芙蓉たんの怨霊がいますよ…)。
曹操に追い払われた呂布が逃げ込んでくると、劉備はこれを受け入れた。その後袁術との戦いに出陣し、これを見事にボコった劉備だったが、この時すでに徐州の統治に飽きていた。そのため、留守には微妙に信用の出来ない曹豹様々を配置。勝手に寝返ってくれないかなーと思っていたところ、これが大当たり。曹豹様々はすでに袁術と密約を結んだ呂布に城を明け渡したのである。これを聞いた劉備は小躍りして徐州にとんぼ返りし、呂布に徐州を譲って自身は付近の小沛に移った。
その後、よくわかんないけど気付いたら呂布との喧嘩になっており、よくわかんないうちに曹操の元に身を寄せる事となった(曹操は劉備を評価し、豫州牧とした。以降から劉備は「劉豫州」と呼ばれ、同時に魯の人の劉琰を幕僚に加えた)。よくわかんないうちに袁術の武将の楊奉、韓暹らを海西という所で、ウソだらけの酒宴の席で騙し討ちして、その軍隊を吸収した。よくわかんないうちに曹操も呂布を攻撃する事になり、よくわかんないうちに呂布は敗れて捕らえられる。そしてよくわかんないけど呂布は処刑されるのである。刑死寸前の呂布は「この劉備こそ、喰わせ者のタヌキオヤジぞ!決して信用できる人物じゃあない!!」という物凄い最期の言葉を残している。
翌年になると、宮中では献帝の密書をもらった舅の董承(献帝の祖母の「おい」)が曹操暗殺計画を企てており、劉備は酔った勢いでうっかりこの計画に参加してしまう。翌朝にはこの判断を早くも後悔し「やべ…孟徳(曹操)ちゃんに睨まれたら、俺終わりぢゃん」と焦り、一案を浮かんだ。曹操に「遠足に行きたい」と直訴して、朱霊と路招とともに徐州旅行を許可される。こうして劉備は董承のオッサンが企てた計画からおさらばするのであった。やがて、袁術を餓死させ、勢いあまって徐州の留守居で曹操の家来の車冑にむかって「徐州は俺のモンだああ!!おめえは死ねやあああああ!!!」と言って、可哀想な車冑をヌッ殺したのである。
劉備の裏切りで、部下の車冑が惨殺された情報を聞いた曹操は激怒し、まず、劉岱と王忠を討伐させるが、両人は劉備の小便を引っ掛けられ、逃げ帰った。この報を聞いた曹操は「モルアアアアアアアーーーーー!!あんのクソ「狸野郎」があああああ。ワシをバカにしおってえええ!!!」と逆鱗しブチ切れた勢いで、直々に大軍を率いて徐州を攻撃した。丁度トイレで踏ん張っていた劉備は敢え無く敗れ去り、子の劉封、孫乾、張飛、趙雲とともにとりあえずは青州刺史の袁譚(袁紹の長男)の元へ逃れ、やがて袁紹を頼った。この時、舎弟分の関羽と劉備の家族が曹操に捕らえられている。もちろん、そんな些細な事を気にする劉備ではない。
袁紹は曹操と対立しており、互いに兵を出して睨み合いという状況が続いていた。劉備は曹操の背後を撹乱する作戦を提案し、袁紹に認められる。こうして、いつものようにお世話になった人の元をあっさりと出て行くのである。「袁紹の将顔良を討ち取り、曹操との義理は果たした」と嘘ぶいて、曹操の元から逃げ出した関羽が、具体的に何をしようかなんて事をまったく考えていなかった矢先に偶然にも遭遇し、劉備の家族とともに、再び合流を果たした。
汝南郡の山賊の劉辟と協力して、曹操の背後を撹乱し、夏侯惇らを撃退するなど目覚しいゲリラ式襲撃の総指揮を行った劉備だが、曹操の送り込んできた武将の李典・于禁の軍勢によってこてんぱんに叩きのめされる。今更袁紹のもとへ帰るのも面倒なので「遠縁の荊州牧の劉表にも協力を頼んでみるよ」と言い、案の定そのまま劉表のところに居候する事になり、急におとなしくなった。
[編集] 急に運がめぐってきた期
平和好きで、学者でもあったお人好しの劉表に表面的には信頼された(外戚の蔡瑁らは劉備らを荊州から追い出せと進言していた)劉備は、南陽郡新野県に駐留して何回か曹操軍のピクニック隊を追い払った。しかし基本的には平和なので、戦場に出る事は稀であった。そのため太ももに贅肉が付いてしまい、何となく情けない気持ちになった。その事をある日、劉表と酒を飲んだ時に『髀肉之嘆』の起源となった『故事成語』として今日に伝わっている(劉表はこの時に「蔡瑁らのいう通りだ。この戦狂いの男を追い払わねばならん。ワシかて191年末に峴山で孫堅を討ち取った実績もあるしの…」と呟いた)。
この頃、曹操・劉表のもとで就職活動に惨敗したニート諸葛亮クンの存在を知った劉備は「この際大学卒の若造でもよい」と判断し、アポ無し凸撃を敢行している。急な訪問を受けたニート書生の諸葛亮はこれに驚き、とりあえず居留守を使って帰ってもらう事にした。劉備も一度は帰途に着いたが、道中で「あれって居留守使われたんじゃね?」と思いなおして再度凸撃。諸葛亮の弟である諸葛均が受付窓口を担当していたが「だから居留守だって言ってるじゃん。帰ってくれ」と劉備を冷たくあしらう。強引に押しても駄目か、と諦めた劉備は再度帰途に着いた。しかしその途中で「あれ、あいつさっき「居留守」って言わなかったか?」と気付いてUターンし、三度目の凸撃を行う。うっかり者の弟に心底がっかりしつつも、諸葛亮は仕方なく幹部候補の事務官として劉備に仕える事となった。これが世に言う『三顧の礼』である。
その後は何だかんだで曹操の魔の手から逃げる日々が続き、母が曹操に庇護されたため処士の徐庶とも別離し、一時は妻子が敵中に取り残されるという状況にも陥るが、曹操が追撃の手を緩めた事もあり、どうにかこうにか態勢を立て直す事に成功。呉の孫権が陣中見舞いに送った任侠的な漢(おとこ)の魯粛に「ワシは旧知の蒼梧太守呉巨を頼ろうと思うんだが」と、泣きついた。劉備の「狸親父」の術中に見事にはまった魯粛は「呉巨なんぞ田舎の太守は放置しましょう。拙者が主君に支援を請いましょう。主君が首を縦に振らなくとも。強引に承諾させます。私も曹操が大嫌いですから」と強く発言した。こうして、魯粛は意気喧々に諸葛亮をつれて帰国した。そして、諸葛亮やアンチ曹操でもある呉の名将周瑜らの口車に乗せられ、優柔不断だった孫権は張昭ら降伏支持者を押しのけて曹操との開戦を決意した。烏林の戦い(赤壁の戦い)では、劉備はほとんど何もしなかったが、とりあえず孫権・劉備連合軍という形で曹操軍を撃退した。
この後、気付いたら荊州南部を制圧していた劉備は何となく「益州攻略しようかなー」なんて気を起こした。丁度この頃、亡父との因縁関係もある益州の劉璋(劉焉の末子)は漢中の張魯からの攻撃に苦しんでおり、劉備に援軍を要請してきていた。こいつはラッキーとばかりに、子の劉封、魏延、黄忠と新参者の法正、孟達を従え、いつものようにノリと勢いで益州へ進駐。適当な頃合を見計らって、楊懐、高沛らを斬殺し、劉璋を裏切るものの、あまりにも適当すぎる頃合だったせいか、大苦戦。
関羽、張飛、諸葛亮と趙雲らを荊州の守りに残していたため、この時の軍師は龐統であったが、戦場でつい考え事に夢中になってしまった龐統が流れ矢に当たって戦死してしまう。援軍に駆けつけた諸葛亮、張飛、趙雲らの尽力でどうにかこうにか戦局を好転させ、降伏した李厳、李恢らを配下にした。一度勢いに乗ると止められない劉備は曹操に追われた馬超を配下にし、そのまま劉璋を降伏に追い込んだ。
劉備の勢力拡大にビビった曹操は、益州における北の玄関口とでも言うべき漢中へ兵を進めた。ここを抑えられると困る劉備は、曹操への恐怖心をどうにかこうにか堪えて漢中侵攻を決意し、後に諸葛亮から「よく頑張ったねー」と褒められていい気になった。この頃になると諸葛亮も「ノせてしまえば何とでもなる」という劉備の扱い方を心得たようである。例によって劉備本人は大して働かなかったが、配下が頑張ったので漢中攻略に成功。曹操本人が漢中奪還のために襲来すると、さすがにビビって籠城。しかしこの籠城作戦が意外と有効打で、対陣の長期化を嫌った曹操が根負けして撤退。赤壁ではほとんど何もしていなかったが、劉備は曹操との直接対決で待望の初勝利を挙げたのである。
その後、一説では脳腫瘍を患っていたとされる曹操が死去。その跡を継いだ曹丕が漢を滅ぼして帝位につき、魏を建国。曹操の息子に負けちゃいらんねぇとばかりに、劉備も対抗して蜀漢を建国して皇帝を名乗った。
こんな時に蜀漢お家騒動が起こった。諸葛亮・李厳らがゴマをすって「粗暴な封公子をさっさと殺っちゃいましょうぜ!」と両人の言葉をそのまま信用し、子の劉封を廃嫡の挙句に斬首した。後に劉備は嫡子の劉禅の阿呆ぶりに嘆き「やはり、封を斬るべきではなかった。阿呆はしょせん阿呆だからな~」と冷酷な父とは思えない矛盾的な愚痴をこぼした…らしい(蜀漢のお家騒動を参照)。
[編集] 一気に人生下り坂期
蜀漢を建国する前年、呉が荊州に侵攻して関羽を殺害していた。その際に復讐を心に誓った劉備であるが、脊髄反射で弔い合戦に挑むような事はしなかった。2年掛けて準備を整えるという念の入りようで、少なくとも4万、多くて10万の軍勢を動員して荊州に攻め込んだ。一説では80万人を動員したとも言われているが「益州の人口ってご存知? 100万人足らずだよ。80万なんて数字ぶちあげたのはどこの馬鹿だ?」と、劉備本人はこの説を否定している(さすがのタヌキ劉備も耄碌したもんだ…)。
緒戦は順調に勝ち続けた劉備だが、ふと気付いたら陣地が妙に長くなっていた。何か気になるなあと思いつつも放置しておいたのだが、これが大失敗。呉の指揮官陸遜は武将の朱然に命じて、夜襲&火攻めのダブルパンチをお見舞いし、劉備軍は大敗北を喫してしまった。世に言う夷陵の戦いである。ところで陣が長くなってたんなら、火計の被害ってそんなに大きくならないはずだよね。おかしくね?
派手に炎上してしまった劉備は、ほうほうの体で白帝城(永安宮城)へ逃げ帰る。未だ嘗てないやらかしてしまった感に苛まれ、病を発症。自分でも嫡子劉禅が無能っぽい事を察していたのか「公嗣または阿呆(劉禅)が国を治める器量がなければ君が国を取れ」と泣かせる台詞を諸葛亮に向けて残し、この世を去った。ちなみにこの泣かせる台詞、実は李厳ら諸葛亮以外の家臣に対して「諸葛亮がわが漢の帝位を奪うかもしれんから警戒せいよ!」と言い遺した「狸親爺」劉備の狡猾なメッセージであったとも言われる。
ただし、明末清初の学者・王夫之は自著の『読通鑑論』で、劉備の遺言は君主あるまじき「乱命」と評している(翻訳:「そんな危ない遺言をすると、有能な家臣の手足を縛って国を傾ける結果になるから、やめたほうがいい!」と言っている)。だけど、後世に生きた王夫之が千年以上も後になって、今さらそんな事言ってもどうしようもないと思う。
[編集] 人物評価(感情論的行動)
- もともと、戦上手で「幽州の北斗七星」、「渤海一の弓取り」と謳われたほどで、曹操も劉備の軍事統率力を高く評価していた(袁術をボコボコしたのも、劉備の指揮が大きい)。
- 実は曹操と義兄弟の契りを結んだ(親友の孔融はそれが面白くなかったらしい)。
- 実は関羽より年下(義兄弟の契りは年齢は無関係だった)。
- もともとの経緯は大した事なかったが、諸葛亮をわざわざ三回も会いに行って味方に付けるほど、人材活用には優れた。
- …と言うけれど実は曹操・劉表の臣下になる就職活動に失敗したニート書生くずれの諸葛亮がゲーマー友達の司馬徽・徐庶に「誰でもいいから、適当な君主はいないか?お金が欲しいんだよ、私は」と泣き付きながら依頼して、たまたま劉備が書記官を募集してたから、結果オーライで諸葛亮が劉備のもとで就職ができたのが真相だとか。
- 戦のプロの劉備が「諸葛亮は噂のゲーマボーイと同じように戦のゲームは巧いが、現場での指揮はヘタレ。俺のほうが断然巧い!」と台詞を言ったことがある。
- 曹操が彼の分析を頼んだ時、中央にいてはだめな人間で、辺境に行くと覇者となると出た。すなわち田舎好きであったため、結局覇権は取れなかった。
- 儒教的視点で見ると「旧王朝の復興」という名目があるため、最も好まれた人間であったが、実際には感情に任せて戦争をし、法正・諸葛亮に呆れられることが幾度かあった。現在では政治家としては駄目人間の象徴となっている。
- その駄目さは、後継者の劉禅がどんな人物だったかということに象徴される。
- しかし生き馬の目を抜く後漢末を結果的に生き延びた事から、少なくともサバイバル技術は有ったと思われる。
- 現在では演義の影響か、仁君と言う風評が立っているが、正史を読むとかなりの無茶をやっていた事が分かる。
- 今世紀になって、劉備は徳川家康とかなり似ている人物であることが判明(どちらも短気で、ヤクザの親分みたいな人だもんなあ…)。
- 邢道栄を捕縛した際に速攻で「斬れっ」と叫んだのはあまりにも有名な話。諸葛亮に宥められてようやく撤回。
- 中国人の劉さんの先祖は劉備(マジ)。嘘だろと指摘してはならない(殺される)。
- モブ(笑い)
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