南光坊天海

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南光坊天海(なんこうぼうてんかい、1536年(天文5年)~1546年(天文15年)? - 1643年11月13日(寛永20年10月2日))は、人間五十年と織田信長が敦盛を引用して語ったように、平均寿命が短かった戦国~江戸時代において100年以上も生きた超人の一人。法名は随風、後に天海と改める。

貫禄ある天海和尚…
貫禄ある天海和尚…

[編集] 天海の謎の諸説

南光坊天海の頭蓋骨は、その死後木魚として日光東照宮の境内に奉納された。叩くと天地がひっくり返るほどの轟音が鳴り響き、落雷が発生するため、一般人は触れることさえ禁じられている。
南光坊天海の頭蓋骨は、その死後木魚として日光東照宮の境内に奉納された。叩くと天地がひっくり返るほどの轟音が鳴り響き、落雷が発生するため、一般人は触れることさえ禁じられている。

彼の生年は諸説があり一切不詳であるが、本人曰く1536年であり、なおかつ晩年に天海自らが「実はサバ読んでました、それもかなり」と暴露したことから、最低でも1536年よりも20年以上前に誕生した事になる。一方、没年は1643年とされているが、これはあくまで「歴史の表舞台からお隠れになった年」であり、その後は江戸城か日光東照宮の地下にある巨大な空洞に隠遁し、仙人になり、大政奉還の年に検閲により削除歳で身罷ったと伝わる。徳川家光に「何故天海はそれほどまでに長く生きられるのか」と問われ「毎日牛乳飲んでれば100歳ぐらいまでは平気で生きられる」と冗談交じりに語ったと言う逸話があるが、その驚異的な長寿の理由は未だに不明である。

天海は東北の大名蘆名氏の一族であると永らく言われてきたが、蘆名氏と結びつけるものが乏しい事や、そもそも北国の大名の血縁者なら「南光坊」を名乗るのはおかしいじゃないか、などの理由で蘆名氏の一族であるとの説は希薄になっている。

天海は晩年になると家光や幕臣達を相手に様々な妄言を口走ったとされ、それらの妄言の中でもとりわけ破壊力のあるものを列挙すると、川中島の戦いを見物した、ついでに厳島の戦いも見物した、フランシスコ・ザビエル神父とも知り合いだったなど、どれも捏造と疑われても仕方がないような信憑性、現実性が欠如した妄言ばかりである。これらの話を聞いた幕臣土井利勝は「幕府の知恵袋と言われた天海上人も、ついに耄碌されたか」と嘆いたと言われる。しかし天海はそれらが事実であると言う物的証拠を見せ、さらには川中島や厳島の決戦の有様を細部に至るまで説明し、利勝達を仰天させた。この一件に関しての後世の歴史家達の見解は多少の差異はあれど概ね一致しており、「豊臣家に謀反の疑い有りとでっち上げたほどのペテン師なら、それぐらい用意周到にやって当たり前だ」と、天海のしたたかさ、才智を評価した上で、これらの発言は戦国の世が完全に終わってから誕生した「もののふのゆとり世代」を茶化すために天海が口走った戯言であろうと否定的な意見が大半を占める。

天海はそのあまりに謎の多い生涯、戦国から江戸初期という、人気の高い三英傑の時代を生きたこと、そして天下人徳川家康の知恵袋として活躍しながらも、出世、権威に貪欲な林羅山金地院崇伝(足利一門一色氏出身)らとは異なり、政治的にも一歩距離を置いたポジションに身を置く事から生ずる妙な神聖さから、色々と妄想のネタにされやすい。最も有名な妄想と言えば、天海専用のトイレや彼の愛用のティッシュ箱に桔梗の紋が刻まれていたことなどから、同じ桔梗を家紋とする明智光秀、並びにその女婿で、鬼武者の主役となった事により知名度を上げた明智左馬介(秀満)と同一人物であるという説である。ウィキペディアでは天海=光秀だよ派、いやいや天海=左馬介だよ派、蘆名家の出身だと言う旧説は正しくて実は夭折した蘆名盛氏の嫡男蘆名盛興だよ派(←おそらく大半が会津市民)、何の関係もないよいい加減に妄想やめろ派の四つの派閥があり、彼らによって天海の記事は悲惨なほどに荒らされている。ちなみに浅見光彦はこの辺の諸説を折衷して、蘆名氏の一族で、最初舟木秀光と名乗って光秀に仕え、後に家康に仕えたという説を提唱、喧伝した。所謂アサミスト達はこの説を妄信している。

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