厚木海軍飛行場

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「厚木海軍飛行場」の項目を執筆しています。

厚木海軍飛行場(あつぎかいぐんひこうじょう)とは、厚木市にあるかもしれないしないかもしれないと言われている軍用飛行場である。一般には厚木基地、厚木飛行場と呼ばれる。

[編集] 沿革

1938年に大日本帝国海軍の中の人が「鉄道や街道が走ってて、横須賀からもそこそこ近くて、その気になればすぐに東京にも横浜にも箱根にも遊びにいける厚木に基地を作ったら便利じゃねえ?」と酒の席で発言したことがきっかけとなり、1942年にこの基地が完成した。

太平洋戦争中の1945年(昭和20年)8月14日、日本がポツダム宣言を受諾し降伏を決定。しかし当時この基地に配置されていた第三〇二海軍航空隊(略称302空)司令の小園安名大佐は、翌15日の玉音放送の後も降伏を受け入れず自らに賛同する部下とともに軍事組織「国境なき世界」を名乗って決起、反乱を起こした。そして、かつての彼の部下の一人で、米内光政海軍大臣に反乱鎮圧を命じられた横須賀航空隊のエースパイロット坂井"サムライ"三郎と基地上空で激しい空中戦を演じた果てに坂井に撃墜され散った、と一般に信じられているがこれはまったくのでたらめである。実際のところは当時の坂井は、「反乱? そんなの関係ねぇ!」とばかりに、『もう戦争は終わった』と思いのんきに飛んでいた米軍機をゼロ戦でおちょくっていたというのが本当であり、そうこうしているうちに反乱を起こしていた小園司令は知恵熱を出して寝込んでしまい反乱は終息してしまったのである。

その後、8月21日に米軍のダグラス・マッカーサー元帥が自慢のコーンパイプを見せびらかしにこの基地に降り立った。なお、なぜ彼が東京の羽田飛行場でも立川飛行場でもないここに降りたのかという理由については、「東京はピカドンの毒にやられている」という誤情報によるものという説が有力である。

その後しばらくは米軍がキャンプ座間で使用するテントや飯ごう炊爨セットやキャンプファイヤーセットなどの荷物置き場に使われていた。しかし1950年代から徐々に基地として使われるようになっていく。当時の米軍基地司令は「アツギエアベースは使いづらいとばかり思っていたんですが、使ってみたらこんなに便利だったなんて! もっと早く気づいていればよかった!」というコメントを残している。あまりの便利さに、海上自衛隊もこの基地に住み着くようになった。

1973年には、米空母が艦載機をここに置きっぱなしにするようになった。空母なのに艦載機を他のところに置きっぱなしにした理由は、空母の搭乗員たちが飛行甲板でバスケットボールフットボールをして遊ぶには艦載機が邪魔だったからである。この状態は現在も変わっていないが、近々艦載機を山口県の岩国基地に移して厚木基地の格納庫でもバスケットボールをしようという動きがある。

[編集] この基地はどこにあるのか

有名な基地であるが、厚木市の地図を隅から隅まで探してもこの基地は載っていない。それだけなら軍事機密のため地図に載っていないとも考えられるが、実際に厚木市内の実地調査を行ってもこの基地を発見することはできない。 この基地が見つからないのは、ゴルフ場に見せかけた入念な偽装が行われているからとされている。地上から見ても、上空から見ても、そこにはゴルフ場があるとしか見えないのである。厚木市内やその周辺には多数のゴルフ場があるため、ゴルフ場にまぎれてしまいこの基地は発見できないのだ。 もしあなたがゴルフ場に偽装した厚木基地を発見してしまっても、決して誰かに言ってはならない。さもなければ……検閲により削除。 なお、この件についてJR厚木駅との関連が検閲により削除

[編集] 関連項目