喜連川騒動騒動

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索

喜連川騒動騒動(きつれがわそうどうそうどう)とは、中世の名家一色家の末裔(以降、便宜上一色某という名で統一する)が、先祖の汚名を払拭し、歪曲された歴史の真実を白日の下に曝け出し、一色家の偉大さを世に知らしめるべく、背水の陣を敷いてウィキペディアで展開した宣伝活動。最終的に一色某は「宣伝目的、協調性皆無、コミュニティを疲弊させる利用者」としてウィキペディアを追い出されたが、彼が捨て身で展開した宣伝活動はウィキペディア全体を巻き込むどころか外部にまで飛び火し、喜連川騒動と喜連川一色家の知名度は(主にマイナスの意味で)飛躍的に上昇した。

概要[編集]

喜連川騒動という、江戸時代に田舎のちっぽけな藩で起こったボヤ騒ぎのような御家騒動を取り扱った極めてどうでも良い記事で起こった。先祖の汚名を晴らさんとする末裔(自称)の気概は立派だったが、一色家という高貴な家系に生まれ苦労を知らずに育ったか、あるいはプライドが人一倍高かったのかは定かではないが、宣伝の舞台にウィキペディアを選び、そこで自説の開陳に拘泥し、批判的な意見にはやたら攻撃的になるなどKY、頑迷な立ち振る舞いが多く、ウィキペディアを大いに引っ掻き回した挙句、当事者である一色家の末裔(自称)の追放という形で終結した。自称末裔は「いつか論文を学会に提出して無知蒙昧なお前らをぎゃふんと言わせてやるからな覚えてろ」と捨て台詞を吐いたとか吐かなかったとか。

太公望書房出版の『喜連川できつねうどんを-関係ないけどさ、ひらがなできつねうどんって書くと、きこうでんみさに似てるよね?』によれば、家老の一色なんとかのアレによって起こされたとされる。

喜連川騒動の梗概・事件の背景[編集]

この騒動の起こった喜連川藩というのは、古河公方足利家の流れを汲む名家である。関東一円を支配した古河公方足利家も下剋上の風潮が蔓延するに伴い衰退し、本家足利家同様凋落していったが、豊臣秀吉徳川家康ら時の権力者のお情に縋る事によって何とか一介の藩、大名として命脈を保つ事に成功していた。

騒動を起こしたとされる一色なんとかという輩は、やはり足利政権下で勢力を拡充した名家の有力守護大名一色氏の流れを汲む人物である。一色氏も足利氏同様下剋上の世情の最中没落し、本家の丹後一色氏は細川藤孝の仕掛けた陥穽にハマって一族皆殺しにされて滅亡し、その他の一色氏も凋落していった。没落していった一色一族の一部は、やがて元の主君である足利氏の血族である喜連川藩を頼って行き、上手く取り入って家老になったらしいが、重度の歴史オタ以外にとってはどうでも良い話である。つーか一色紗英一色ヒカルなら知ってるけど、そんな武将はどうせ信長の野望にも出てこないだろうし、本当にどうでもいい一族である。

その一色なんたらが、喜連川藩3代目藩主喜連川尊信を裏でいいように操り、傀儡政権を敷いていることに藩中で不満が鬱積してクーデターのようなものが起こり、一色某とゆかいな仲間たちには幽閉、追放、遠島処分が下されたというのが喜連川騒動という事件の顛末らしい。

で、その一色なんたらの末裔(自称)によると、喜連川騒動は仕込まれた陰謀であるらしく、一色何たらは潔白でハメられただけらしい。その末裔(自称)は何とかして先祖の無念を晴らそうとしたが、演説の御立ち台にウィキペディアを使おうとしたのが運の尽きだった。

「喜連川町誌」における事件の経緯[編集]

めんどくさいし、どうせ捏造だって言ってるので省略

喜連川騒動がウィキペディアにもたらしたもの[編集]

この騒動は、多くのウィキペディアンに「検証可能性」「中立的観点」「出典明記」の「三大方針」が如何に肝要であるか、多くの人間で百科辞典を作るプロジェクトでは、自分の主張に拘泥せず、時に譲歩し、協調することが如何に大事なことであるかを再認識させた。また、暴走する一色某に付き合ってゆく中で多くのウィキペディアンが格別調べたくもないのに図書館に脚を運ぶなどして資料を渉猟し、喜連川騒動に詳しくなり、雨降って地固まる結果となった。結果として、一色某のウィキペディアにおける宣伝行為は見事奏功したと言えるだろう。

江戸での文献と記録[編集]

一応幕府の記録にも騒動のことが書かれているという話である。

東京大学史料編纂所の「史料稿本」には次の綱文(慶安1年12月22日2条)が記されている。

是より先、喜連川邑主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、高四郎左衛門等と事を相訴ふ、是日、幕府、其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎左衛門等を大嶋に流す

この綱文によると、二階堂何とかと高なんとかが「相訴ふ」、つまりお互いに喧嘩をして、それで殿様が隠居させられ、高何とかは島流しになったことになる。『喜連川町史』『喜連川町誌』には上記綱文の「高(こうの)四郎左衛門」の名はないが、いくら一文字かぶっているからといって高なんとかが高野修理にあたるとはどこにも書いていない。

また、幕府の公式文書である『徳川実紀』の慶安元年7月3日条には、なぜか口語文法、現代仮名遣いで

「喜連川尊信が病に伏せったので、老臣が手配し松平忠次の家医である関ト養に治療をさせた」

と記録されているとかいないとか。[要出典]なお、『徳川実紀』と「史料稿本」のどちらにも、一色刑部等の記述はない。つまり、幕府の記録には、「二階堂なんとかと高なんとかが喧嘩したこと」、「殿様が隠居させられたこと」、「高なんとか一味が島流しにあったこと」、「殿様が病気(何かは不明)になったこと」だけしか書かれていない。

「まさかとは思いますが、この一色刑部だのいう人物は、あなたの想像上の存在に過ぎないのではないでしょうか?」
喜連川騒動 について、林先生

参考文献・出典[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「喜連川騒動」の項目を執筆しています。
みなさん、松平です。 この項目「喜連川騒動騒動」は、日本史に関連した企画書ですが放送日が迫っています。アンサイクロペディアではその時でないのに歴史が松平アナを動かす! (Portal:スタブ)