報道しない自由

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
移動先: 案内検索

報道しない自由(ほうどうしないじゆう)とは、報道の自由が存在意義であるはずのマスコミが行う緩慢とした自殺の総称である。あわせて、災害時に発揮することで、図らずもマスメディアに関わる人間を殺人者にする発想である。

概要[編集]

報道の歴史の始まり。それは、どこぞのヨハネス・グーテンベルクが1445年に活版印刷を発明し、大量の文字、すなわち情報が多くの人々の目にふれたことに始まる。思想知識、さらには信仰にかかわる様々な考えが人びとに伝達されることで社会文化、さらには学問芸術といった分野に革命が起き、そこからヨーロッパおける近代社会が始まることになる。

フランス革命後、さまざまな党派的利益が衝突して混乱を起こした際には、パリ議会の「情報」がヨーロッパ各地で求められ、新聞がこぞって読まれた。また、伝書鳩という当時最速の情報伝達手段を用いていち早く情報を収集し、投機に成功した商人が現れてからは、「情報」そのものに価値が認められるようになってきた。こうして壁紙から新聞ラジオテレビといった媒体の変遷の中、人々は金銭を持って情報を得ることが常識となっていく。その結果、金銭が全ての資本主義において、情報を金銭でコントロールするという発想が生まれ、人々の知識欲と対立するなんて話も生まれる。無論、それが社会主義だったら、社会のトップが情報をコントロールし、原理主義であれば宗教が情報をコントロールする。

大事件でも矮小に扱えば人々はすぐ忘れ、どうでもいい話を延々と繰り返し報道すれば、どうでもいい話で事件を隠すことができ、さらには誤報や不祥事といった会社の存続に関わる話でも、人々の記憶に残らない早朝や深夜などの時間帯でお詫び会見をしたり、どうでもいい紙面の片隅において謝罪広告を掲載することで、既成事実として読者に頭を下げれば、メディアに対するバッシングはいずれなくなっていくという話が、こりゃまたインターネットなる超長期情報保存媒体ができるまでは、当たり前の話であった。人間の記憶というものは大きな文字、大きな見出し、ショッキングな事実を心に刻み込めても、小さく矮小でどうでもいい話は即座に忘れるようにできており、社会を動かす情報の操作を、マスメディアが担っていた時代が確かにあった。

しかし、そういった報道しない自由にどっぷり浸かったメディアは、どこの国でもどんな社会でも、より知識を得たい人々にとって憎悪の対象となり、逆にそういったコントロールから脱却し、人々に違う情報を与えるメディアが喝采を浴びる。よくある話である。本当に、1990年代までだったらよくあった話である。問題は、それがインターネットという情報の爆発の結果、誰でも好きなときに好きな情報を得られなおかつ発信できる体制が整えられたにも関わらず、いつまでもコントロールしようとするメディアが存在し続けているということである。

無論、過渡期というものはそういうものであり、まったく間違ってはいないのだけれど、どう考えても自分達がいけにえの羊であることを理解してない。自分とこの会社を傾けてでもコントロールを続けようとするメディアは、いつの間にかインターネットの情報量の前に風前の灯となり、そのコントロールしようとする無駄な努力を笑われるだけの存在となっていく。

信頼[編集]

2011年3月11日。東日本大震災が起こった直後から、日本のマスメディアのレベルが急激に落ちていく。嫌になるほど堕ちていく。とりあえず、その原因は明らかで、人間の命がかかっているときに、情報をコントロールしようとするアホどもが報道各社に雁首をそろえていたことがまずひどく、人々が求める情報がまったく分からなかったことがさらにひどく、そして、その結果として、自分達の信用が失墜したことにすら気づかなかったことが一番ろくでもない。

で、信用を失えばそれはすなわち、マスコミがそれまで行っていた社会のコントロールができなくなることを意味する。自分達の言葉で動く人間の数が減少し、自分達の匙加減で利益誘導できていた分野が衰退していき、人々はいかにして報道機関の出す恣意的な情報から隠された内容を推察するかが、生きていくために重要なスキルになっていく。どこぞの中国とまったく同じ光景である。実際、大陸では数億人もの人々が、いかにして生きていくかを共産党の発表する各種報道の中から推理。どんな裏が隠されているかを住民らが過去の事例や経験、噂話、さらにはインターネットなどで調べまくることで、生き延びる術を身に着けている。そして、それができない数億人に対して一歩も二歩も有利な立場を築き上げる。んで、それとまったく同じ光景が、報道の自由があったはずの日本でも行われている。

だのに、そんな時代が訪れたにも関わらず旧態依然の報道を続けるメディアがいるんだから、ひどいひどい。福島第一原発から漏れる放射能の情報を全国民が欲していたのに、なんら対応できなかったマスメディアが、いまさら情報化社会の最先端に居続けようったって無理がある。そういったメディアに誰も「そのままでは死ぬよ」と伝えてあげないんだからまぁ、かわいそうな話であると同時に、結局それもまた、情報を発信する側の自由だったりする。生きるための情報を出せないメディアなんざ死んじまえと思われるのもまた、報道の自由の真実であり、逆に自由というものの本質には、首をくくることも自由であるという事実をマスメディア自らが人々に啓蒙している。

そもそも、そういった現実の前ではアンサイクロペディアなるクソどうでもいいサイトですら、立派な情報媒体である。人々に嘘を気づかせる訓練という意味では、本当に役立つ情報の山である。そんなジョークのような時代を受け入れるのに、ジョークが必要だってことは誰だって分かる。むしろ、ウィキペディアと情報産業が分かってないところがろくでもないだけで。

劣化[編集]

そして、読み手の信頼を失ったメディアのレベルが劣化していくのもまた必然である。社会はどうあれ自分たちこそ正しいと思わないといけない状況では、読み手を啓蒙するなどという考えは次第に後に回され、釈明やおためごかし、論点のすり替えなどに時間と手間をかけなければならなくなるため、マトモな精神だったらいたたまれなくなるわいな。そして、コラム社説などが、んなアホな文章書くぐらいなら墨塗りのほうがマシという状況になると、これまた必然的に下で働く連中のやる気が失われていく。その結果、2000年代以降の新聞の情報の質の悪化はすさまじく、テレビにおいてもまた、現場の情報がまともに吸い上げられない体制と、それを問題視すらしない姿勢が顕著になっていく。

そして、おかげ様で、インターネットではTwitterフェイスブック、さらには各種ブログに果てはアンサイクロペディアまでもが情報源として認識され、既存のマスメディアの劣化は2014年1月現在、もはやいかんともしがたいところにまで来てしまっている。

関連項目[編集]


この記事「報道しない自由」には赤リンクが多すぎるかもしれません。赤リンクを減らし、青リンクを増やしてくれる人を求めています。また、記事の書き直しも求めます。 (Portal:スタブ)