天智天皇

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飛鳥寺近くに現存するイルカ首塚(他の部分はもちろん食用とされた)

天智天皇(てんぢてんのう)。(626年-672年)本名は葛城王とかなんとかだったが、通称中大兄皇子と呼ばれた。母である斉明天皇の後を紆余曲折ののちにずいぶん経ってから次ぎ、第38代天皇となる。日本史上、最初で最後と思われる「イルカ」殺しをした天皇としても有名で、捕鯨反対団体等から「日本は野蛮」というイメージのために国際的に目の敵にされる原因を作った。
しかし第82回アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受賞したイルカ漁を隠し撮りした米映画「ザ・コーヴ」に関して、「イルカは“鯨類”に分類されるものの、国際捕鯨委員会(IWC)の管轄外であり、漁業法に基づき許可を得て期間を定めて実施され、適法・適正に行っているもので何ら違法な行為はない。」とコメントしている。

乙巳の変[編集]

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良い子のみんなが大化の改新として覚えさせられる事件である。

蘇我氏が系譜に関係なく、好き勝手に天皇を決めていた時代、お母さんの宝皇女だってようやく3年まえに皇極天皇にしてもらったばかりだってのに、その第二王子であるというだけで大きな顔をして「俺に天皇の権利があるんだい!」と恩人の蘇我氏のうちで飼っていたイルカを殺してしまった。イルカを可愛がっていた時の権力者・蘇我蝦夷は悲しみのあまり自殺し、こうして中大兄皇子の時代が到来した。

女性姻戚関係[編集]

皇族関係の奥さんは倭姫王(のち皇后舒明天皇第一皇子・古人大兄皇子の娘)のみである。他にも持統天皇元明天皇の母として有名な倉山田石川麻呂の娘である遠智娘・姪娘姉妹や、阿倍内麻呂の娘橘娘、蘇我赤兄の娘、など有力者の娘から、のちに弘文天皇として即位(すぐに壬申の乱で殺されちゃう)の大友皇子の母伊賀采女宅子娘(ようするに召使)などまで手をつけた女性は幅広い。しかし、有力者の娘をもらっておきながら、義父である古人大兄皇子・倉山田石川麻呂・阿倍内麻呂などは中大兄皇子が嫌疑をかけ殺すというサディスティックな一面を当初から顕している。なお、有間皇子殺しの片棒を担いだ蘇我赤兄は「天知る、地知る、赤兄知る、おのれ全(もはら)しらず」の名文で名高い。

もうひとつの女性関係[編集]

中大兄皇子には同じ母・同じ父をもつ妹がいた。「間人皇女(はしひとのひめみこ)」とおおせられる孝徳天皇の皇后であるが、兄と恋仲であると噂されていたために(この時代でも父母がまったく同じである兄妹の恋仲はタブーだった)母斉明天皇没後も長い間、中大兄皇子は皇位につけなかったらしいという説がある。

カルタ大会において[編集]

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百人一首第1番
絵柄だけが妙に可愛い

天智天皇の歌は「小倉百人一首」に収録されており、年代順に収集されているためか(はたまた織田信長と並ぶ歴史の魔王とされるせいか)1番を独占している。この歌が、またややこしい。

 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ

というものだが、競技かるたは下の句のみ書かれた札をみて行われるため、
第15番の「君がため春の野に出でて若菜つむ わが衣手に雪は降りつつ 光孝天皇」
と混同しやすい。何しろ平仮名でしか書いていなくて読みにくいうえに、下の句が5文字しか違わないのである。不評である。この初心者でもとれそうな句のために逆に自信を失わせ、初心者を敬遠させる原因にもなるため競技かるたの人間には嫌われている。しかし決まり字が「あきの」で決まり、79番の「あきかぜに」がすでに読まれていれば「あき」の時点で取れるという意味では「あ」から始まる16枚の札の中では冷静に考えてみればそこまで嫌われる筋合いはない。(最悪なのは六字決まりの後者の方である)。この札でお手付きする者は疲れているか、初心者かのどちらかである。

そもそも作業をしていれば袖が汚れるのは当然のことなのに、そんなことをわざわざ詠んだ両天皇の御製をみると、マリー・アントワネットちゃん的カマトトさを感じずにはいられない。

天智天皇の統治[編集]

645年の乙巳の変から672年に崩御するまでの27年間、中大兄皇子は実質的に政治権力を一手に担っていたが、天皇であった期間は668年からの9年間のみで、それまでの間は皇太子としての称制であった。

天智天皇の失政[編集]

中臣鎌足以外に力を持つ臣下は次々に粛清した。
→権力は確立したものの、最後には忠告する家臣さえいなくなり周囲はイエスマンばかりになった。
白村江の戦いに出兵して大敗した。
→下手に百済に肩入れしたために、国力が低下した。あれはなんだったんだ?
近江大津宮に遷都してみた。
→結局、次の天武天皇により飛鳥浄御原宮(母・斉明天皇の飛鳥板葺宮のあった場所)に戻されている。

天智天皇が頑張った政治[編集]

元号を制定した。
→年号がわかりやすくなった。
律令政治の元となる政治も行った。
→戸籍を作ったり、近江令を作ったり、官位の整備を行ったり、のちの律令政治の基礎を作った。
国防を頑張るようになった。
→白村江の戦いのあと、防人や水城等、江戸時代には考えられないような先進的な海防策も考えた。
→「親も無し妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆いた林子平がこの時代に生きていたら泣いて喜んだだろう。
日本で一番最初の時計を作った。
→時間が分かりやすくなった。

後継者争い[編集]

力のある臣下を次々と粛清していたために、中大兄皇子は常に孤独であった。

とはいえ弟の大海人皇子(のちの天武天皇)が頑張ってくれて政権も保たれていたこともあり、途中までは次の皇位を約束していた。しかし息子の大友皇子が大きくなってくると親の情で息子を天皇にしたくなった。大海人皇子(のちの天武天皇)は弟としてそばでずっと見てきただけに中大兄皇子の性格はよく知っている。今までさんざん尽くしてきたのに、と荒れた時期もあったが、天智天皇が生きているうちはおとなしく引っ込んで大友皇子が即位してから天皇位を取ればいいや!という結論に至った。

天智天皇の死とその後[編集]

672年1月7日、天智天皇が近江宮において46歳で没すると、同年7月27日に大海人皇子は吉野で挙兵し、壬申の乱に勝って天武天皇として即位した。

皮肉なことに天智天皇の多くの子供たちの中で天皇となったのは、きっと予想もしていなかったであろう持統天皇元明天皇と男の子ではなく二人の娘であり、巨大なる権力を持って君臨し律令政治の完成推進と奈良時代の基礎を築き上げた。

関連項目[編集]

先代
斉明天皇
天皇
天智天皇
次代
弘文天皇 or 天武天皇