天罰

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天罰 (てんばつ) とは、他人任せの典型である。

概要[編集]

自分が嫌悪している人間が、不慮の事故によって死亡したり、重病によって悶死したり、または、死ぬまではいかなくとも、大怪我をしたり、本人ではなく身内や親交の深い人物などが立て続けに死亡した場合、人はそれを天罰と呼ぶ傾向にある。ここでいう「天」とはつまり神様のことであり、日本ではアマテラス、ドイツではオーディン、ギリシャではゼウス、淫夢ではGOが「天」に値する。つまり、自分の嫌っている人間が不幸に陥った場合、彼らが罰を与えてくれた、と人々は思い込むのだ。

天罰と因果応報[編集]

類義語に「因果応報」があるが、天罰と因果応報には微妙に差異がある。空に向かって唾を吐いたら、その唾が自分の顔に降りかかった。これが因果応報である。ギリシャ神話イカロスが上昇しすぎて太陽に焼かれて死んでしまったのも、因果応報と言える。

これに対して、その辺で立ちションベンしてたら、それをけしからんと考えたゼウスに雷を落とされ死亡した、これが天罰である。「因果」と報いに対して直接の因果関係がないものは、因果関係が不明であるゆえに神秘性を帯びる。そして、人々は、あいつが悪行を働いたから、神様が罰を下してくれたんだと、自分に都合がよいように解釈するのだ。こうして、天罰と言う概念が誕生する。

他人任せと責任転嫁[編集]

本来、人を裁く権限があるのは司法官だけであり、司法官は権限を振るう上で十戒では到底足りないほどの戒律に拘束される。それほど人を裁くことは重いことなのだ。しかし、世の中に、「裁きたい」と願う人は多い。彼らは、悪党と認識した輩に対して、裁きたい願望を募らせる。一方で、人を勝手に裁くことはご法度であるため、誰かに裁いて欲しいと願うようになる。その「誰か」が、天、つまり神様である。「天罰が下った」という喝采は、「自分に代わって誰かが自分が裁きたいあいつを裁いてくれた」という身勝手な意思表明に変わらないのである。

自分の行動を神格化するために用いられる天誅[編集]

中世の時代には、人を裁く権限が、今ほど厳格化されていなかった。新選組など、人を裁く人が多勢いた。しかし、そんな彼らも、人が人を裁くことの不遜さは本能的に察知していたようである。彼らは、人殺しを行う際に「天誅」という言葉を度々用いた。「天誅」も天罰の一種であるが、天誅を敢行した人々は、「天が自分に変わって罰を与えた」と考えるのではなく、「自分が天に代わって天罰を与えてやった」と主張しているのである。神様に罰を与えてもらおうという他人任せの思考をしないで、自分から罰を与えにいこうという姿勢は積極的ではあるものの、自分を神の代行者と勘違いしており、非常に尊大というか傲慢であると言える。

神は気まぐれで自分勝手[編集]

ギリシャ神話など、神話を読めば分かるが、ゼウスにせよオーディンにせよ、人々から「天」と呼ばれる神々は、意外と人間臭く、人格も高潔ではない。それゆえ、自分が気に入らないからという理由で簡単に人を殺す。「天罰が下った」と喝采を叫ぶ人々は、自分から見た悪人にだけ天罰が下ると都合の良い思い込みをしているようだが、実際には神様はあーこいつ殺してえとその場で思った人間を大した配慮もなしに殺しているだけなのである。天罰は悪人への制裁などではなく、身勝手な殺人の象徴なのだ。つまるところ、ハリケーンで人が多勢死ぬのも、地震や津波で多勢の人間が死ぬのも天罰である。そして、それらで自分が嫌悪している人間達が死んだ場合のみ、人々は「天罰が下った」としたり顔で語るのである。

関連項目[編集]

東日本大震災で、自分が忌み嫌う「今時の堕落した日本人」が多勢死んだので、欣喜雀躍して思わず「天罰が下った」と発言してしまった。一方で、彼自身に天罰が下るべきと考える人間も多い。果たして天罰は彼に下るであろうか。