安倍貞任

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「安倍貞任」の項目を執筆しています。

安倍貞任(あべのさだとう 1019年? - 1062年10月22日)は平安時代に陸奥に栄華を極めた蝦夷、奥州安倍氏の最後の当主。安倍頼時の次男。長兄に当たる安倍晴明が失踪してしまったため家督を継承した。弟に安倍宗任安倍正任安倍重任安倍則任安倍家任安倍行任らがいる。阿部定は娘で安倍晋三は甥。源義家とは宿敵同士であり、幾度となく刃を交え、度重なる戦の果てに両者の間には奇妙な友情、いや同性愛が芽生えていたようで、真冬の衣川でしばしば密会しては、氷雪を溶かすほど熱く肉体を絡み合わせていた。

[編集] 安倍氏

安倍貞任の肖像画
安倍貞任の肖像画

安倍氏は日本神話に登場する長髄彦の兄、安日彦の子孫を自称していた。長髄彦は剛毛のスネ毛に覆われた文字通り長いスネを持つハードゲイの英雄で、饒速日命に仕える忠臣であった。新世界の神を名乗り邪知暴虐の限りを尽くす野蛮人、神武帝を相手に奮戦したが、神武帝が光の矢を放って脅したところ、ビビったヘタレの主饒速日命は長髄彦を騙し討ちにして殺し、その首を手土産に差し出し神武帝に平伏、隷属した。安日彦はこの恥知らずで卑劣漢な饒速日命の暴挙に憤慨し、神武帝に反逆したが脚の小指一本であしらわれ、ほうほうのていで津軽へ逃亡、神武帝への復讐を誓い雌伏の時を過ごしたという。貞任ら安倍一族は自らをその安日彦の末裔であると信じていた。辺境の部族である彼らにとって、安日彦の子孫であるという誉れは一種のアイデンティティでもあった。最も、安日彦は結局復讐を果たせず津軽で恨み言を吐きながら半ば引き篭もりのような余生を過ごしたのだが、それでも安倍一族にとって安日彦の子孫である事は誉であったらしい。また安日彦の名前は古事記日本書紀に確認されず、その実在性が平安の当時より疑問視されていたのだが、「勝者によって塗り替えられた歴史だから、敗者である安日彦の存在が抹消されているのは当然。長髄彦の兄を討ち漏らしたという情けない史実を隠蔽するためになかったことにした」と彼らは言い張った。

[編集] 生涯

貞任の父、頼時の代には安倍氏は奥六郡を支配する大豪族となっており、最盛期を迎えていた。肥沃な土地と豊富な資源に恵まれた衣川は京都に劣らないほどの繁栄を誇っており、この後勃発する前九年の役はこの豊富な資源と沃野を欲した朝廷が無理矢理難癖をつけてふっかけてきた戦争だと東北県民は皆主張している。頼時の次男として生まれた貞任は類を見ない巨躯の持ち主で、六尺有余(180cmオーバー、この時代の平均身長を30cm程上回る)にして腰周り224mという、ハート様並の恰幅に恵まれた偉丈夫であった。。そのためアベ・ハートと呼ばれることもあるが、安倍晋三と混同されるため現在はこちらの呼称は滅多に使われなくなった。ちなみに、陸奥話記によると、貞任は戦場では太刀のほかに自分の頭蓋二個分ほどの大きさの鉄球を振り回して戦ったという記述がある。このことからKOFのチャン・コーハンは貞任がモデルだと思われる。

東北地方の行政を司る陸奥守という役所がある。数年周期に京都から派遣されてくる従五位上のみに任命される高給取りの役職だが、この役職に任命される事は左遷も同然で(中央から辺境に飛ばされるわけだから左遷だと思わないほうが異常)であった。しかも、京都育ちの彼らには蝦夷に対する先入観があった。それは即ち一般人のヨハネスブルグに対する認識のようなもので、陸奥守に任ぜられたが最期、生きて京都の土を踏む事はないだろうとまで言われていたほどである。中央の人々から、蝦夷は蛮族が群雄割拠するリアル北斗の拳的な国であると思われていたのだ。新たに陸奥守として赴任した藤原登任もその一人で、安倍一族は新たに任命された登任に対して盛大な饗応をもって出迎えたが、屋敷に入るやいなや登任は蒼白になる。目の前には盛大な海の幸山の幸が並んでいたが、登任はその全てに毒物が混入されていると妄信していた。この饗宴は自分を抹殺するための安倍氏の策謀だと信じて疑わなかった。さらに登任に追い討ちをかける事態が起こる。襖を開けて入ってきた貞任の姿を見て登任はまた仰天する。2mを越す巨漢の貞任が、登任にとってはダイダラボッチか何かに見えたのだろう、登任は突然発狂し屋敷から逃げ出し、あまりにいそいで駆け出したものだから氷結した地面に滑って頭を強打し植物人間状態になってしまう。この一件が、安倍氏が陸奥守に対して害意を持って暴行を加え、廃人状態に追いやったと曲解され、陸奥守の軍勢と、秋田城介平繁成に攻められる。これが前九年の役の幕開けとなる。

結果を先に言うと、国司軍は返り討ちにされた。繁成も秋田城介に任命されただけあってかなりの豪壮の者であり、決して惰弱だったわけではないが、一つ大切な事を忘れていた。それは貞任が「蝦夷の呂布」の異名を持っていた、つまり貞任に立ち向かってはならない、ということである。

朝廷に遣わされた陸奥守、秋田城介の軍勢が辺境の蛮族にコテンパンにされたという話はたちまち日本中に伝播し、朝廷の権威は丸つぶれとなった。朝廷は逆切れし、何が何でも蝦夷を討伐せんと躍起になり、武勇の誉れ高き源頼義、義家親子が派遣される。この派遣は朝廷の公家達にとっては二重に好都合であった。貴族達は頼義ら武士の台頭を快く思っておらず、彼らを僻遠の地に追い払い、奥州の蛮族と潰し合わせることで一石二鳥を得ようとした。