市丸ギン

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市丸ギン (いちまる -) はBLEACHに登場する死神。斬魄刀「神槍」を持つ。卍解の掛け声は「射殺せ神殺槍(かみころしのやり)」。・・・で、あるのだけれど、ここではわざわざ「市丸吟」と改称して昭和初期から60年にわたって活躍した大歌手市丸姐さんの生涯とその楽曲についてを記載する。あわせて、有名マンガのキャラクター紹介記事を求めて海外からやってくるオタクどもに、アンサイクロペディアの現実を知らしめることとする。

アンサイクロペディアの半分は優しさでできています。もう半分は悪意です

概要[編集]

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「市丸」の項目を執筆しています。

1906年に長野県に生まれたと書いてあるくせに、テンプレートには広島県出身とある相変わらずのウィキペディアクオリティについてはここでは触れない。とりあえず、彼女が長野県は諏訪地方、松本市は浅間温泉の温泉宿で芸者見習いとして働いていたことは事実である。もちろん、大正期から昭和にかけてはごく当たり前のように子供の身売りが行われていた時代。松本市に生まれ地元の温泉宿に年季奉公に入ったか、もしくは遠く広島から女衒に連れられて信州の山間にまで売られたかは誰も知らない。

木遣り 伊那節[編集]

温泉芸者見習いとして芸の道を歩み始めた市丸だったが、当時の芸界はレコードの普及と録音技術の進歩により、様々な歌が巷にあふれかえる、一種のルネサンス期に当たっていた。そのため、都から遠く離れた諏訪地方でも最先端の楽曲と流行歌手、果てはそれまで田舎では触れることのなかった様々な江戸文化があふれかえっていた。

そんな時代であるからこそ、酔客から木遣り伊那節といった地元に伝えられる節回しではなく、江戸長唄を求められるのも当然の話。そして、半玉(見習い芸者)時代の市丸が、芸者のくせに長唄どころか小唄も歌えぬことを酔客にバカにされるのも当然であった。そんな些細な出来事をきっかけに、負けずぎらいの少女が70年以上も芸の道をひた走っていくのだから世の中は恐ろしい。

本当に恐ろしい

しかし、こんな話はそれこそ全国どこでも起こっていた話であるけれど。もっとも、皮肉な話で1923年関東大震災で東京が壊滅し、日本中から労働力が東京にかき集められることになると、逆に東京の芸界のほうが多種多彩な全国の節回しに屈することになる。

客層の変化ってのもやっぱり恐ろしい。

結局、全国の民謡が東京を埋め尽くすほどに流れ、日本中に響き渡った結果、全国各地で新民謡と呼ばれる観光PR用の歌が大量に制作されることになる。

そんな時代を背景にして、市丸は19歳にして単身上京し浅草に居を構える。鄙びた温泉の半人前の芸者にすぎなかった彼女がなぜ単身上京できたのか。上京することになったのか。それは誰にもわからない。

浪花小唄 祇園小唄[編集]

上京後、浅草の芸者置屋に身をおいた市丸は、浅間温泉でバカにされた長唄をはじめ、清元小唄といった生粋の江戸文化を会得していく。最終的にそれら全てで名取と呼ばれる一人前の証を手に入れ、その天性の美貌とともに、一気に花柳界で名を上げていく。最盛期には一晩で10件以上もの宴席を掛け持ちするまでの人気芸者となるんだから、世の中、負けず嫌いってのは恐ろしい。

そんな市丸に、時代の風が吹く。

1929年、東京府は日本橋葭町の芸者で、初の芸者出身の歌手として知られる藤本二三吉が、レコード会社であるビクターにて吹き込んだ「浪花小唄」がヒット。続けざまに吹き込んだ「祇園小唄」にいたっては映画の主題歌に採用され、日本中で大ヒットする。これにより、一気に新しい才能の金鉱として日本古来の職業である芸者にスポットライトが当たることになる。中でも、声はもとよりその美貌でも知られた市丸は数々のレコード会社の垂涎の的であり、その多くから引き抜きの誘いがかかるも、そのことごとくをそでにしていく。

まぁ、客のあしらい方を知らなけりゃ、芸者とはいえないわけだ。

しかし、ここで引いては男の恥、裏を返さねば客の恥、諦めることなく各社による引き抜き合戦が続けられた結果、最終的にビクターが彼女を口説き落とすことに成功。この駆け引きを手練手管という。そして1931年に市丸は「花嫁東京」で歌手としてデビュー。芸者稼業との掛け持ちであったけれど、ビクターにとっても彼女にとっても実にいい結果だった。

ちなみに、当時はレコードやら流行歌などは全てナニガナニヤラヨクワカラヌ世界。そもそも歌手という職業の基盤すらできていない時代。音楽学校在籍者が実名でレコードを吹き込んだら即退学処分なんて話はそこら中に転がっており、それでもお金が欲しかった某音大生は、結局、吹き込む際には仮名で吹き込むも、なんのことはない、その美声が日本中で大ヒット。結局ばれて停学処分になったなどという、後の国民栄誉賞受賞者の逸話もある。

平たく言えば、藤山一郎

そんな実名で歌えなかった歌手のことを覆面歌手と呼ぶ。当時は本当に覆面をして写真に納まっていたケースも存在するんだから、ひでえ話である。これは、この時代の日本が、基本的に芸事で金を稼ぐことをバカにする時代だったためである。汗をかいて勤労奉仕が当たり前だった時代、自分の好きな遊びの延長で金を稼ぐなどとは言語道断、を知れという風潮はそれこそ江戸時代から連綿と続いていた。そんなこんなで、歌手という職業が基本的に身元を隠すのが常識だった時代の中で、むしろ、芸者という立場だからこそ、積極的にレコード会社も売り込めた点は大きかった。また芸者の持ち歌である小唄や端唄、民謡といったものの多くが、たとえ売れなくても地元の固定客や愛好家たちが買うことも、レコード会社としてはありがたい話だった。

茶切節 青空恋し[編集]

浅草の芸者だった市丸が最終的にビクターを選んだのにはわけがある。というのも、ビクターには長野県出身の作曲家として名を馳せていた中山晋平が在籍していたことと、何よりも、当時のビクターの録音技術が群を抜いていたこと。あわせて、芸者の気質を理解していたことが挙げられる。

市丸と同郷である中山晋平は当時、全盛時代を迎えており全国から作曲以来が殺到。特に、新民謡と呼ばれる各地のPRソングを数多く手がけ、多くのヒット曲を生み出していた。また、録音技術については、ビクター自体、アメリカのRCAビクターレコードの子会社であったことから、当時の最先端であるアメリカの機器を積極的に導入した結果、現代でも十分に鑑賞に堪えうる多くの美声、演奏を現代に伝えている。

そして、芸者の気質については、すさまじいほど、本当にすさまじいほど理解していた

市丸のデビューは順風満帆といえ、デビュー曲の直後に発表した静岡鉄道のPRソング「茶切節」の再録音版(元は1927年に発売)で全国にすぐさまその名を知られることになる。そして、翌1932年には大スター片岡千恵蔵主演の映画「旅は青空」の主題歌「青空恋し」を発表。その美貌とあわせて、一躍芸者出身歌手のトップに躍り出る。

そんな彼女の後ろ姿を、同じ年に同じビクターに移籍していたもう一人の芸者出身歌手がどのような思いで見つめていたか。

それは誰にもわからない。ただ、1932年の大晦日に、一曲の新民謡が放送された後で、日本の歌謡界が彼女と、彼女の終生のライバルによって変わったことだけは確かである。

柳の雨 島の娘 東京音頭[編集]

1932年、昭和7年の大晦日に全国に流れた新民謡「島の娘」は、瞬く間に人々の話題となる。歌ったのはビクター所属で日本橋葭町で芸者をしていた勝太郎。新潟県出身で市丸より2つ年上だった彼女は、幼い頃よりその美声で知られ、1929年に清元の師匠となるべく上京。ただし、情報媒体によっては若干の誤差が存在し、ウィキペディアには大正末期、新潟市にある彼女の顕彰碑には1932年に上京と書いてあったりと色々情報がある。もっとも、明治座の裏で女中をしているときに、その美声を聞きつけたレコード会社の人間によって見出されたことは確かなようである。あわせて、昭和6年に初レコードが発売されているため、顕彰碑の内容はどうも違うようである。

当時は、同じ葭町で芸者をしていた藤本二三吉が浪花小唄祇園小唄で大ヒットを飛ばしていたさなかでもあり、当初はオデオンレコードという会社で「おけさ」を吹き込んでいる。その後、奇しくも市丸と同じ1931年にビクターに移籍、葭町勝太郎の名で活動を始めると、すぐさま翌年に四家文子の歌う「銀座の柳」のB面「柳の雨」が人口に膾炙するようになる。しかし、まさに同じ月、同じ会社で同じ芸者出身の歌手が、大スターの映画の主題歌で最初の大ヒットソングを飛ばしていた。

このことが、市丸に勝るとも劣らない負けず嫌いの勝太郎の芸者魂に火をつけることになる。まぁ、つけたのはビクターだったけれど。

計らずも2つ年下の市丸の後塵を拝することになった勝太郎は、打倒市丸に烈火のごとく燃え、その自慢の美声と、宴席で鍛えに鍛えぬいた超絶なテクニックを生かせる楽曲を捜し求める。そんな中、出会ったのが新鋭の作曲家佐々木俊一の楽曲「島の娘」。この、おっそろしく難しい楽曲に取り組んだ勝太郎は、なんと録音の際にオーケストラとの間で、通常は5~6回で終わる録音で、なんと32回ものリテイクを敢行。完璧の上に完璧に仕上げたその楽曲を、これまたビクターが一年で最も人々が静かに音楽に耳を傾ける大晦日にぶつけるという念の入れよう。しかも、勝太郎はこの歌のヒットを願い、好きだった肉を絶ってまで神仏に祈願したほどだった。

このように、まさに本人の情熱と会社の思惑が一体となった結果、島の娘は1933年、昭和8年の初頭、発売から3ヶ月で35万枚を売り上げる大ヒット。島の娘よりもベートーベンが好きだってやつぁ日本人じゃなくドイツ人にちげえねえ、とまで言われるほど日本人の心を鷲掴みにした。

さらに、同年8月。東京府はそれまで「丸の内音頭」と呼ばれた盆踊りのための楽曲を東京中で歌えるように改題、録音しなおした「東京音頭」を各レコード会社に競作で発売させたところ、勝太郎と民謡歌手三島一声とのデュエットで録音、発売したビクター版が売れに売れ、東京どころか日本全国、果ては昭和を通り越して平成の御世に至るまで「踊り踊るな~ら、チョイと東京音頭ヨイヨイ)」のフレーズを日本人の脳内に刻み付ける。その後、プロ野球チームヤクルトスワローズの応援歌になった結果、1971年の段階で2,000万枚以上を売り上げるなど、まさに時代を越えて歌い継がれる名曲となる。

そんな彼女の大成功は、それまでの芸妓のイメージを一新させることになり、ビクター以外の大手レコード会社も続々と歌の上手い芸者をスカウト、続々とデビューさせ、巷では芸者出身の歌手を鶯芸者と呼ぶようになっていく。まさにその頂点の座に勝太郎は上り詰めることになる。

そして、当たり前の話であるけれど。もう一人のほうの超絶な負けず嫌いのほうの芸者魂にも火がつくことになる。もちろん、ビクターが点火して。

天竜下れば[編集]

勝太郎の超絶な大ヒットは、ビクター以外のレコード会社に芸者出身の歌手を雨後のたけのこのごとくに登場させる余波も見せ、世はまさに鶯芸者が謳歌する時代を迎えることになる。そんなタケノコたちの中に埋もれそうになった市丸だったが、巷で狂ったように東京音頭が鳴り響いていた1933年の半ば、同郷の中山晋平が作曲した1つの曲のとの出会いが彼女を変えることになる。

天竜下れば」は、長野県飯田市にある天竜峡のPRソングとして作られた新民謡で、発表当初はそれほど話題にならなかった。しかし、彼女は自分が歌う機会の全てでこの歌をまず最初に歌い、それまで歌った数々のヒット曲を脇に押しやってでもこの歌を人々の間に広めることに情熱を注ぎ続けていく。その結果、発表当初は話題に上らなかったこの歌も少しずつ少しずつ売れ始め、最終的に、昭和8年の末から9年にかけて大ヒット曲となる。

ちなみに、「天竜下れば」という題名の中に“天下”の二文字が隠れていることは秘密だ。

この頃になると、市丸はその歌声はもとより、その美貌でも全国に知られる存在となり、ブロマイドや映画などの様々な広告媒体に取り上げられた結果、市丸は勝太郎が上り詰めた鶯芸者の頂上の座に並び立つ存在となる。

押し上げたのはもちろんビクター。

しかし、ここまではビクターの手のひらの上のできごとであったのだけれど、まさかこの2人の意地の張り合いで、まさかビクター自身が振り回されることになろうとは、お釈迦様でも気づくめえ。

芸者家業[編集]

芸者とは、今でこそ日本文化の一面として語られる存在であるけれど、明治大正昭和初期にかけてはまさに賤業の1つであり、苦界と言われた世界を象徴する職業である。松本市に生まれた市丸、本名「後藤まつゑ」が16の年に浅間温泉の苦界で半玉になり、19の年に浅草に居を移し、苦労に苦労を重ねた末、27歳にしてようやく天下をとったように、新潟生まれの勝太郎、本名「佐藤かつ(結婚後、眞野かつ)」もまた、幼くして両親を亡くし養女として引き取られた料亭で、15の年に内芸者の形で苦界に身を落とす。そこから、歌の才能一本で勝太郎の名を世に知らしめるまで、10年以上の月日が経過している。

なお、両者とも、歌手として大ヒットを飛ばし続けていたにも関わらずに、ある時期まで歌手と一緒に芸者としても活動を続けている。これは、あくまでも芸者というものは芸の世界で生きるものであり、レコードが売れ、世人に名が売れたとしてもその身とその心は苦界にあったためである。そもそも、「市丸」や「勝太郎」といった名前からして、江戸から引き継がれた辰巳芸者(気風のよさを売りにした芸者)の芸名である。戦後から高度成長期、そして昭和の終焉にいたるまで、市丸も勝太郎も、はたから見れば時代遅れに見えるその名前や和服三味島田といった姿を変えることはなかったのは、芸妓というものがそうやって引き継がれていった文化であることが大きい。

そして、近代以前、芸とは主に河原乞食と呼ばれた最下層の世界で培われ、継承されていったものでもあった。結局のところ歌舞伎にしろ人形浄瑠璃にしろ、果ては白拍子瞽女虚無僧チンドン屋見世物興行手相筮竹その他もろもろ、テキ屋家業も全部ひっくるめて、とにかくに関わる職業のほとんど全てが士農工商のそのまた下、エタ非人の世界に属していた。昭和になってさえ、高名な役者の逸話の1つに、強烈なものがある。

・・・母親が僕を指差す子供をしかりつけて言うのです役者指差すな。指が腐る

しかも、戦後の話である。

ただ、そんな時代を経たからこそ、文化が成熟していく。役者にしろ芸者にしろ、その身を守ってくれるのは、その文化でしかない上に、そんなバカにされる職業に就かなければ生きていけない人間は、いつの時代も大勢いた。そして、も上り詰めれば、バカにされるどころか、賞賛され、絶賛され、果ては世人の上に立つことも可能だった。そんなことはまずなかったけれど。そんなことはまずなかったけれども、歌手と言う職業が賤業のイメージを脱却することができたのは、そんなことをなしとげた藤原義江田谷力三藤山一郎淡谷のり子といった先人の積み重ねの結果である。

その積み重ねの中に、市丸も勝太郎もしっかりと名を刻んでいる。

1934年前後、相次いで市丸と勝太郎は芸者を廃業して歌手一本でその身を立てることを決意する。そして、あの時代が訪れる寸前の日本の歌謡界は東京府を中心に様々な鶯歌手が覇を競う、まさに戦国時代へと突入していく。

代表的な鶯芸者の楽曲[編集]

市勝時代 勝市時代[編集]

世はまさに市勝時代、もしくは勝市時代と謳われるほどの人気を博した両者だったが、そのライバル意識は相当なもので、どちらも相手に負けたくないの一心で芸一筋に打ち込むことになる。勝太郎は、芸者を廃業した後にそれまでの葭町勝太郎から「小唄勝太郎」を名乗る際にわざわざ歌舞伎座で襲名披露興行を行い、市丸も負けじと芸者を廃業。柳橋に自宅を立てて歌一本で生き抜くことを誓う。

何しろ、勝太郎の「島の娘」と「東京音頭」の爆発的なヒットは、レコード枚数では完璧に市丸を負かしていたけれど、市丸は勝太郎にないその美貌を武器にして露出媒体の多さで巻き返す。すると、勝太郎も負けじとさらにレコードで引き離す、しかし市丸もしぶとく食らいつくといった形で、いかにビクターが両者の決着をつけたくなかったかがよく判る。

中でも、ビクターやコロムビアといったレコード会社各社のスターと競合で出すことになった1934年春の映画「さくら音頭 涙の母」の主題歌「さくら音頭」は、勝太郎がその歌唱力を存分に発揮、ビクターの一人勝ちの状態でついに市丸との間に決着がついたか!と思ったら、なんのことはない、映画版さくら音頭には市丸が出演しているといった具合。そもそも、この時代の市丸を評した言葉に「顔で損をしている(顔が綺麗すぎて歌も上手いのに損をしている)」なんていう言語道断な話も伝わるぐらい、この時代の勝太郎の圧倒的実力とそれに張り合う市丸というライバル関係は商売する方には都合がよかった。

いかにビクターが両者の決着をつけたくなかったがよく判る。

もっとも、後に勝太郎はビクターからコロムビアに移籍することになる。その気持ちもよく判る。

この両者の意地の張り合いは大いに日本中を湧かせることになったが、着物の値段や出演順といったまだかわいい話で競り合うレベルならまだしも、出演料という、まさに芸の根幹に関わるところで競り合いが始まると、今度はビクターのほうにその余波が来ることになる。

トンガリ5人組事件[編集]

1936年9月、ビクターの設立10周年記念事業の直前、所属する5人の歌手が丸ノ内ホテルでビクターに対し最低限の生活の保障とレコードの印税制度の廃止を訴えるという、前代未聞のスキャンダルが勃発。これは、ビクターの歌手に対する報酬がレコードの印税で支払われていたことへの不満が爆発したものである。

この制度は、市丸や勝太郎といったビッグネームへの報酬を捻出するには都合がよかったが、逆にデビュー直後の若手には死ねと言うに等しい厳しいものだった。なんせ、売れなかったら自前で制作費をあてがわなければ成らなかった。結局、ビクターはこの訴えを無視。直後に謝罪した渡辺はま子を除く4人は、翌年新会社に移籍することになる。さらに同じ1937年、今度は小林千代子が芸者連中を優遇するビクターに絶縁状を叩きつけ、後に夫の説得によって撤回するものの、結局、ビクターという会社のイメージが傷がついたことに変わりなく、この傷口から新興のレコード会社の躍進が始まることになる。

もっとも。このような事件が起こる以前の話として、いかに芸達者な2人といっても、芸界の頂点でライバル関係を維持し続けるのはムリである。

1937年、昭和で言うなら12年、まさにわが世の春を謳歌する勝太郎とそのライバル市丸の戦いに陰を落とす事件が起こり、日本の歌謡史もまた、そのうねりに巻き込まれることになる。

日支事変。もしくは支那事変。分かりやすく言うなら、日中戦争勃発。芸者の歌を楽しみ、2人の芸者の意地の張り合いを楽しむような時代は終焉を迎える。

戦中[編集]

まず、時代の洗礼を受けたのは勝太郎である。大ヒット曲であった「島の娘」はその歌詞が紊乱であるとされ、変更を余儀なくされてしまう。さらに1941年の真珠湾攻撃後には、完全に放送禁止、歌唱禁止とされてしまう。これはむしろ、鶯芸者の第一人者であり、絶頂を極めた勝太郎だからこそ、検閲の対象として槍玉に上がったと思われる。

なんせ、歌唱力はもとより、その気性の豪快で知られた勝太郎は、元芸者の身でありながら那須に別荘を持って歌舞伎役者と浮名を流し、酒もタバコも麻雀もなんでもござれ、果ては競走馬まで持つほどだった。だからこそ、その舞台で見せる愛嬌に芸の凄みがあった。

が、いらん話で目を付けられる可能性も随分高かった。

そして市丸もまた、華美を禁ずる世情の中、同じように活動を狭められていく。しかし、時代が暗くなっていったとしても芸能への欲求はその分強くなっていくため、この時代、ビクター専属歌手として、2人は大陸への巡業や地方公演へ赴き、あわせて元の稼業であった宴席で糊口をしのぐことになる。

国民的大歌手としてしのぎを削りあってからわずか5年。街中には軍歌や大陸の歌があふれ、どこを見渡しても鶯芸者のの字すら見つけられない時代になっていた。この時代の両者にヒット曲と呼ばれるものはあまり多くない。ただし1942年に島の娘が歌えなくなった勝太郎が歌った「明日はお立ちか」はリクエストが殺到するほどの大ヒット曲となっている。しかし、その内容はまさに戦時と別れを歌ったものであり、勝太郎の持ち味である豪快さと愛嬌が消えた分、悲しくなるという話でもある。

戦後[編集]

1945年8月15日、ついに終戦を迎えた直後から、焼け野原になった東京をはじめ日本全国で、進駐軍の音楽が氾濫。市丸も勝太郎ももはや時代遅れの存在であり、鶯芸者などという往時の夢はもはや省みられなくなっていた。

けれど、そんな時代の風に抗おうとするからこそ芸人である。翌年、勝太郎が新たな活躍の場を求めてビクターからコロムビアに移籍したのは、そんな抗いの1つの姿である。

移籍直後に、勝太郎はコロムビアの専属で、すでに時代を席巻していた古賀政男のメロディーで数曲のレコードを録音。また、1948年にはコロムビアからテイチクレコードに移籍し、映画の主題歌「大島情話」をヒットさせ、その存在感を十二分に発揮。

対する市丸は再び勝太郎の後ろを追いかけることになったわけだけれど、すでに勝太郎は別会社に移籍、本人はほぼ過去の人、ライバルとはあまりにも大きな差をつけられた状態だったが、そこはそれ、彼女も昭和の芸界に燦然と名を残す芸人である。ここで潰れるようでは、わざわざ超絶な負けず嫌いと形容するわけがない。

しかし、苦労するのも確かである。

結局、新しい時代に古いと見られた彼女が心機一転、それまでになかった楽曲を捜し求めることで現状を打破しようともがく。まさに、もがく。そして彼女がたどり着いたのは、新進気鋭の作曲家で「ブギウギ」の第一人者として日本を席巻していた服部良一のところであった。

服部と笠木シヅ子による「東京ブギウギ」はその破壊的なリズムと松竹の楽劇で鍛えた強烈なステージパフォーマンスで、それまでの日本の芸能をぶち壊しており、本来ならば、江戸以来続く日本の芸能を体現している市丸とは相容れない存在だった。が、そんな彼女の前を「大島情話」で突っ走っている積年のライバルがいた。

結局、戦前の大ヒット歌手で鶯芸者の市丸が、自ら請うて「ブギウギ」を歌ったという現実は、彼女に再び脚光が当たるきっかけとなる。服部の作曲、佐伯孝夫が作詞した「三味線ブギウギ」は、それまでの民謡や小唄といった日本調の楽曲にはないリズムと、阿波踊りで歌われる「よしこの」を取り入れた歌詞、さらに本人も、それまでほぼ直立不動で歌うのが基本だったマイクパフォーマンスを、歌っている最中に手踊りを交える形に変えたことで、大ヒット。あわせて、それまで軽んじられていた日本舞踊と歌謡曲をあわせた市丸のパフォーマンスが、歌唱力一本でのし上がった勝太郎との差を一気に縮めていくことになる。

海外[編集]

1950年、勝太郎は渡辺はま子らとともに、戦後初めてとなる芸能人のアメリカ巡業を行う。日本人の海外への移民活動は昭和初期に全盛期を迎えていたため、調度その時代の大スターであった勝太郎が第二次大戦を生き抜いたこと、さらにはるばる海を渡ってアメリカにまで来てくれたこと、そして、何よりも昔と変わらぬその美声が、在留邦人や二世達に熱狂的に迎え入れられ、各地で行われた公演は大成功。その情熱に気を良くした勝太郎は、さらに東海林太郎らとともにブラジルまで足を運び、まさに全盛期、「島の娘」や「東京音頭」で日本を席巻したときと同じ情熱でもって迎えられる。その後を追うように、市丸もまた同年、古賀政男二葉あき子らとともにアメリカ巡業を行い、勝太郎に勝るとも劣らぬ人気を博す。

しかし、この海外公演を境にして、およそ20年に渡って歌謡界の先頭を走り続けた2人の時代は終わりを告げることになる。

前年に勝太郎は11年にわたって交際し続けた医師の下に嫁いでおり、市丸もまたいくつかのヒット曲を飛ばすも、その活動は徐々に日本の古典芸能である小唄や清元といった邦楽での活動が中心となっていく。

古典[編集]

昭和30年代に入ると、市丸も勝太郎もヒット曲と呼ばれるものはほとんど無くなっていく代わりに、全国各地の民謡や新民謡、邦楽の採録などが活動の中心になっていく。そんな中、市丸は新たな放送媒体であるテレビにも積極的にかかわり、衰えぬ美貌と美声、気風のよさでブラウン管の前の視聴者に江戸の粋というものを存分に知らしめ、昭和30年代、江戸小唄のブームを引き起こす。

手踊りを交えての歌と50代にはとても見えない色気、そして現代風にアレンジされ歌いやすくなった江戸の端唄の奥深さに、様々な歌手がカバー作品を出していく中、1960年、市丸は廃れていた江戸小唄の一派の再興を任されることになる。およそ300年絶えていた江戸小唄中村派の第17世家元を襲名、「江戸小歌市丸」を名乗る。

もちろん、小唄ではなく、小歌と名乗ったのは大変に分かりやすすぎる芸人としての意地である。

和解[編集]

昭和30年代後半、東京オリンピックを境にして世界の音楽産業がビートルズエルビス・プレスリーといった超ビッグネームの牽引によって大発展を遂げる中、日本でもグループ・サウンズブームやフォークブームといった新しい音楽が流行の中心となっていく。しかし、そんな音やメロディを受け付けない人たちの間に、自然と戦前の歌手達を懐かしむ動きが始まる。懐かしのメロディ、略して懐メロブームが始まった当初、市丸も勝太郎も還暦を迎えていたが、恐るべきことにその歌声にはますます磨きがかかっており、両者ともブームの最前線で活躍することになる。

そんな中、市丸は当時世間に広まっていたカラーテレビでの映り栄えに着目。テレビ局の技術部も唸るほどの着物の色や柄のテレビ映りや化粧の色合いといったものにこだわり、60代を迎えても未だ衰えぬその美貌と歌唱、さらに踊りを交えた華やかな舞台で第一線に立ち続ける。それに対する勝太郎はやはり、歌唱力一本槍。そして歌い終わった後の微笑み1つで、市丸と対等に張り合い続けていく。

ただし、それが金になった時代、大衆紙に載った時代はとうに過ぎ去っていた。が、いかんせん、ここまで来るともうすでに張り合うことが人生の一部というレベルであり、そのことで変遷著しい芸界を2人が生き抜いてきたことも悲しいぐらいに事実だった。同じ時代をすごした鶯芸者の多くは引退、廃業しており、中には酒で身を持ち崩して亡くなった者、芸者に復帰するも売れぬまま消えた者もいた。そんな時代のあだ花だった二人が、負けたくないの一念で30年の月日を芸の精進に当て続け、積み重ねていった実績と、その結果、日本の歌謡界はとてつもなく巨大な財産を手にしたことは、もはや誰も彼もが実感できるレベルだった。

実際、市丸と勝太郎、そして赤坂小梅の三人が民謡というジャンルに残した足跡は大きく、21世紀にも連綿と引き継がれ歌われ続けているそのメロディの多くが、彼女たちの手によって原型を歌いやすいようにアレンジ、吹き込みなおしたものである。

そんな2人にも転機が訪れる。

懐メロブームの最中、戦前と同じく両者は当たり前のように番組内でいつも顔を合わせる関係を復活させていた。が、さすがに長年のライバル意識で周囲に迷惑やら気遣いを続けさせていく年でもなく、さらに言えば、すでに孫に囲まれてもおかしくはない年齢だった。しかし、そんな家庭の幸せをうっちゃって、ともに芸の道に邁進して、1,000を軽く越えるほど歌をレコードに吹き込んで、気づいたらそんな歌手や芸人、日本中どこを探してもいない状態だった。

すぐ側以外

ここまで来るといい加減バカらしくなったのか、それとも張り合うのに疲れたか、どっちにしろ最終的に赤坂小梅のとりなしで和解したとき、いつの間にか市丸と勝太郎の間に40年近い月日がたっていた。

芸者[編集]

1971年、66歳になる勝太郎は、長年にわたる邦楽の発展に貢献し続けた成果を国に認められ、紫綬褒章を授与される。これは、宝塚歌劇団出身者を除いて、専門職の女性の歌手としては初めてとなる。あわせて、元芸者の身だと前代未聞。この授章をきっかけとして昭和40年代以降、過去に賤業と揶揄されてきた芸者の立場が大幅に改善。最終的に日本独自の文化芸能を継承する職業として、NINJAやFUJIYAMAに続くGEISYAも海外に誇れる日本文化の1つと見られるようになる。

市丸もこの授章をわがことのように喜び、勝太郎の授章記念パーティーに駆けつけて祝辞を述べている。そして勝太郎の授章をきっかけに、堰を切ったかのように多くの女性歌手に紫綬褒章が授与されていき、翌1972年には市丸と淡谷のり子、73年には渡辺はま子、74年には赤坂小梅と、歌唱力はもとより、そのケタ違いなエピソードも含めたの大きな女性たちの授章が相次いでいく。これは、40年前には後ろ指刺されるような賤業だった歌手の立場を、いつの間にか子供達がなりたい職業の上位にまで押し上げた本人達の努力の結果である。

そして運命の1974年。勝太郎は元芸者の身でありながら、国から勲四等宝冠章を受章される。しかし、すでに病魔は彼女の体を蝕んでいた。

別れ[編集]

1974年に勲四等宝冠章を受章された勝太郎は、同年、古巣であるビクターに戻る。そして、「島の娘」や「東京音頭」といった懐かしのヒット曲を再録。テレビ番組にも積極的に活動している。もっとも、医者と結婚していた勝太郎が自分の余命に気づかないわけは無かった。そして、肺をやられていることに気づかないわけもなかった。結局、肺を蝕んだガン細胞は春が終わると同時に彼女の美声を奪い、そして、同時に彼女のも奪っていく。

そして、6月。日本中を虜にした美声とともに勝太郎は逝く。芸能史に残る意地の張り合いは、40年にして幕を閉じることになる。享年69。

なお、まったく関係ないけれど、アンサイクロペディアとしてはごくごく正しい行いとして、わざわざこんな悲しい記述の直後に、この記事の本題であったBLEACHの登場人物である「市丸ギン」の項目を追加する。

アンサイクロペディア泣ける文章なんざ誰が書くか、ってことである。

市丸ギン[編集]

Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「市丸ギン」の項目を執筆しています。
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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「BLEACH」の項目を執筆しています。

右にある、ウィキペディアで「市丸ギン」で検索すると出てくるBLEACHの人物紹介文へ行く前に、以下の文章をちゃんと読むことをお勧めする。ちなみに、リンク先の文章を初見の人間はまず理解できない。100%ムリ。Oh!This is Wikipedia!! Oh,My God!とりあえず、本気で理解したいのなら、もう1つのリンクであるウィキペディアのBLEACHの項目に突入した後、数万バイトもの内容から重要な点のみを記憶、その後に最初に紹介した人物紹介のリンクへと行くべきである。それでもまずワケガワカンナイけれど。もっとも、ウィキペディアの人気アニメor人気マンガの記事は全て予備知識がなければ暗号文であるため、諦めて予備知識を得るか、もしくは時間のムダを避け、理解することを放棄すべきである。

とりあえず、リンク先の記述を読んだ後で、下記に示すYoutubeの市丸ギンの検索結果を見ると、いろんなものが分かる。理解できる。正直、内容が実に実にシャレにならない。

でも、市丸姐さんのほうはもっとシャレにならん

老い[編集]

長年の好敵手を失った市丸だったが、その後も芸道を邁進していく。1980年には日本レコード大賞特別賞、翌81年には勝太郎と同じ勲四等宝冠章を授章。その活動は衰えを知らず、古希を迎え、容姿は衰え、声も艶を失い、初めて見る人間には見るも無様と思われても仕方のない姿になってもなお、伝わるナニカと、伝えなきゃならんナニカを残すために活動し続けていく。

それを生き様という。

結局、喜寿を過ぎ、80を越えてもやはりテレビに出続ける。美貌も失い声も失い、立ち姿も手踊りも衰えた婆さんの歌う姿であり、普通に歩くことすらおぼつかなくなり、介添えが必要になっていく。けれど、結局のところ、芸を突き詰めれば人を楽しむことに行き着くわけであり、自らの一生を骨の髄まで人に味わってもらってこその芸道である。その衰えを見て思うところあればそれもまた芸。生きていることを喜んでもらえればそれもまた芸。

ここまで来ると、存在そのものがそのものになった観もある。

もう一人[編集]

1932年に日本コロムビアで徳島県の民謡「よしこの」を録音したレコードを発売した、多田小餘綾(ただこゆるぎ)という鶯芸者がいる。関西を中心にヒットを飛ばし、別名「お鯉さん」と呼ばれた彼女は、一時期「東の市丸、西のお鯉」とまで呼ばれた。結局、戦前戦中と関西を中心に活動した後、戦後に鶯芸者をやめて、郷里である徳島で料亭を営む。そして、女将として働く傍ら芸者稼業にいそしみ、「よしこの」の第一人者として活躍しつづける。

・・・活躍しつづける。

そして、亡くなるまで、現役として歌い続けた。10歳のときに三味線を習い始めた彼女は、大正9年に小学校を卒業してから芸者稼業にいそしんだ。

いつまでもいつまでも。

どこまでもどこまでも。

ちょいと89年ほど

突き詰めるってことは、結局のところ、そういうことである。2008年4月に101歳で亡くなるまで、彼女は現役として歌い続けた。

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米寿を迎え、卒寿を迎えてもなお芸の道を行く市丸だったが、その歩みもついに終わる時が来る。1996年10月、卒寿の記念と弟子である中村市之輔が江戸小唄中村派の第18代家元襲名を兼ねて開かれたパーティーで古謡「春吉野」を歌ったのが公で歌う姿を見せた最後の機会となる。ウィキペディアの記述をほとんどそのまま書くしかないのが悲しい。

その直後に体調を崩し、翌1997年2月17日に死去。享年91。本当にウィキペディアの記述をそのまま書くしかないのが悔しい。

生涯現役を体現し、およそ66年の歌手人生、75年の芸道を歩んだ中で吹き込んだ曲は1700曲に及ぶ。

市丸ギンその2[編集]

何度でも言う。アンサイクロぺディアで誰が泣かせる文章なんざ書くか。

なお、ウィキペディアの市丸ギンの記述がほぼ暗号で書かれているのに対し、個人で編集するBLEACHのデータ集では、初見者でも大変に分かりやすい記述で書かれている。ただし、読むほどに心のどこかでブレーキをかけるor緊急脱出装置が作動するor簡単に言えば、ジャンプの思う壺にはまる気がして一歩身を引きたくなるのは仕方のない気がする。

あわせて、各キャラごとに煽り文が設定されており、市丸ギンの煽り文は「それは 愛のように美しい 殺意」とのことである。

関連項目[編集]

キャプテン翼の例のアレ.jpg 市丸ギン は、漫画関連の書きかけ項目です 」

「 書きかけとかつまらないとかはどうでもいい、市丸ギン加筆するんだ! 」 (Portal:スタブ)