平野恵一

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平野 恵一(ひらの けいいち、1979年4月7日 - )は神奈川県川崎市多摩区出身の2008年現在阪神タイガースに所属する身長1.0833333hydeの内野手である。

目次

[編集] 学生時代

中学時代はサッカーをやっていたが、身長の低さとフィジカルの低さを理由にコーチからクビにされ野球に転進することになる。高校受験にあたり高校野球界では神奈川県内はもとより全国に名を知れた横浜高等学校を志望するが、母親から「あんなチンピラ学校に行くのは許さないざます」と言われ、神奈川県では横浜高校に次ぐ実力を誇る桐蔭学園高校に志望校を変えるが、当時の桐蔭学園は偏差値69を誇る進学校であり、彼の中学の成績では到底合格できる学校ではなかった。だが、彼は小島よしおもビックリの1日18時間勉強という荒行を経て見事、桐蔭学園普通科の合格を勝ち取ったのである。

桐蔭学園野球部は全国各地から選りすぐったエリート推薦入部部員として幅を利かせレギュラー、エントリーメンバーは推薦入部部員から全て選ばれるというように一部の野球エリートの為の部活であった。そんな中彼は入部当初から甲子園を目指すことを公言し、事実トイレの時間と風呂の時間以外はグラブをはめたまま生活するといった常識では推し量れない努力の末、2年生の秋には一般入部の部員としては初めてキャプテンの座をつかみ取るのである。桐蔭学園時代のチームメイトで、後に阪神でもチームメイトになった浅井良は「平野ほど努力をする人間は見たことがない」言っているくらいである。努力の末に勝ち取ったショートの守備でも高い評価を見せ、高校3年時、神奈川県の海外遠征選抜チームでは監督の渡辺元智(横浜高校野球部監督)は自チームのキャプテンを差し置いて平野をキャプテンに指名したとことからも野球の実力、統率力ともに秀でたものを持っていたのである。

大学は桐蔭学園野球部の過去のOBの進学傾向から言って慶應義塾大学か、桐蔭学園野球部の土屋恵三郎監督の母校、法政大学に入るかと思われたが、彼は高校時代、野球だけに集中していたあまり勉強をおろそかにしてしまって、落第ぎりぎりの成績であったために両校の推薦は得られなかった。土屋監督はせめて母校の法政大学に入れるように必死で工作してみたものの、大学側から「どうしてもって言うなら入れてもいいけど、今後おたくの選手を入れる際はかなり厳しくなるよ」言われたため断念、結局成績関係なしに熱心にオファーを出した東海大学へ進学することになった。

東海大学では1年生の春からショートのレギュラーポジションを獲得し、4年間の間に6度首都大学リーグのベストメンバーに選ばれ、4年次には全日本大学野球選手権村田修一那須野巧擁する日本大学を破り、日本一に輝く。この頃から小坂二世」「平成の牛若丸」と称されるようになり、2001年のドラフトでオリックスブルーウェーブに自由枠で入団した。

[編集] オリックス時代

入団直後からレギュラーとしての活躍を期待されるも、春のキャンプでかつての大先輩田口壮がやってしまった魔送球をやらかしてしまい、石毛宏典監督から「全然ダメ! ショート失格!」の烙印を押され二軍生活を送った。

二年目からセカンドにコンバートされたが、肝心なところで魔送球をやらかしてしまい、石毛監督更迭の要因を作ってしまう。しかし後任のレオン監督、伊原春樹監督は辛抱強く使い続けた結果、セカンドのレギュラーに定着していった。

2005年、前年の球界再編騒動によりオリックスは近鉄と合併し、水口栄二阿部真宏というライバルが加わったが、セカンドのポジションは譲らず、このままレギュラー安泰かと思われたが、翌年に就任した負 広監督のトンデモ采配により彼の運命はねじ曲げられていくことになる。負広監督は平野をセンターにコンバートし、たまにセカンドを守らせる方針にした。そんなどっちつかずの方針に野球の神様も腹を立てたらしく、2006年5月6日ロッテ戦でセカンドとして出場したときに風速10メートル以上の強風の中、ファールフライを追って一塁フェンスに激突、打球を捕ったものの、胸部軟骨損傷、右腰の肉離れ、右股関節の捻挫、手首の捻挫と、多村仁もビックリの大怪我を一度に負ってしまったのである。これにより「青いスペランカー」という有難くないあだ名を頂戴することになった。

2007年テリー・コリンズ監督のもとセンターにコンバートされたが、前年に負った怪我の影響からか出場は58試合に留まってしまった。

[編集] 阪神へ移籍

2007年11月26日阪神タイガースオリックスバファローズ両球団は濱中治吉野誠と平野恵一・阿部健太のトレードを発表した。オリックスは、怪我ばかりで全然使えない清原和博に代わるスラッガーと左の中継ぎを必要としていたのと、その上、セカンドとショートが守れて俊足巧打の選手を売るほど揃えていたというチーム事情と、阪神は、セカンドのレギュラー候補関本賢太郎藤本敦士坂克彦がいずれも帯に長し、たすきに短しだったのと、右の先発ローテーションの駒を揃えたかったというチーム事情により両球団の利害が一致していたためである。

阪神移籍後は、守備固め、代打の切り札的な存在になると思われたが、オープン戦で活躍したのと、関本、藤本、坂の3選手が伸び悩んだことにより、2008年のシーズンでは2番セカンドのポジションを獲得した。

と思ったら、5月28日、因縁のロッテ戦で走塁中に右足を痛めて交代、病院での診察の結果、ふくらはぎの筋損傷と診断された。全治は未定だが、故障個所から長期離脱の可能性もあるとのこと。これで新たに「虎のスペランカー」というあだ名が加わることになってしまった。

[編集] 人物

一言多い性格であり、そのために彼自身も痛い目に遭っている。

  • 中学時代、サッカーチームに所属していたとき、身長が低い、フィジカル面が弱いと言う理由でクビになったとき、コーチに「背が低くても一流になった選手はいるじゃないですか! マラドーナや日本代表でいえば北澤さんのような選手はどうなんですか!」と口走ったため、コーチの怒りを買い、他のチームへも移籍できないようにさせられてしまった。サッカーを断念し野球に転向したのはこの為である。
  • オリックス入団直後、同い年で高校時代ナンバーワン左腕ともてはやされた川口知哉がいまだに二軍で伸び悩んでいる姿を見て、「あるぇー? イチローさんに代わってオリックスの顔になるんじゃなかったの?」と冷やかしたために、川口からフルボッコにされてしまった。そのため1年目はほとんど二軍暮らしを強いられた。
  • 2006年10月21日の練習見学会で、見学に来たファンに向かってこう口走った。「こんな小さな身体のボクを見て、頑張れば自分もプロ野球の選手になれるんじゃないか、と思ってくれているチビッコたちにひとこと言いたいと思います……そんなに甘かねぇぞ!」当然のことながら、ファンはドン引きだった。

[編集] 関連項目


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