張遼
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~ 張遼 (文遠) について、孫厨房
~ 張遼 (文遠) について、呂布
張遼(ちょうりょう、ニックネームは「遼來々」、165年 - 222年)は、中国の魏の武将。字は文遠。雁門郡馬邑県の人。旧姓は
爵位は晋陽剛侯。生まれつき怪力を持ち、合淝で呉の孫権を心底凍らせるほどの「泣く子も黙る」勇猛な名将として有名な人物である。
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[編集] 人物・略要
[編集] 前半生
はじめは并州刺史丁原(実質的にはマフィアドン風の柄の悪いオッサンだったらしい)の従事だった。やがて、丁原が董卓の利益に負けた呂布にヌッ殺されると、呂布の「三本の指」に入るほどの筆頭武将となった(他に高順、
192年夏に董卓が王允、黄琬とともに組んだ呂布に惨殺されると、李傕らによって王允と黄琬は殺害され、張遼は呂布に従って長安を脱出した。
袁紹、袁術兄弟の客将を経た呂布だったが、利害をめぐってトラブルとなって離脱し、張遼は呂布の共をした。こんな時に兗州刺史だった曹操の参謀に陳宮がおり、彼は曹操の構想に不満を持っていた。
193年、たまたま曹操の実父の曹嵩が末子の曹徳(曹疾)とともに息子を頼った。だが、泰山の費・葉両県境で徐州刺史陶謙の部下の張闓(もと黄巾党の頭目)らに殺害され、激怒した曹操は中国版比叡山の大虐殺のように、徐州遠征し民百姓、老若男女の区別なく酷薄な惨殺を行った。これを見た陳宮はこれをチャンスと曹操のホモ達で陳留郡太守張邈、張超(曹操大嫌い)兄弟を誘惑し、呂布を迎え入れ、曹操に向かって反乱を起こした。この報を聞いた曹操は激怒し、緊急に領土に戻り呂布軍と激突した(濮陽の戦い)。
この時に彼の張遼は曹操の武将の典韋、許褚と交戦しここに「泣く子も黙る遼來々!!」という威圧的な存在感をアピールし、曹操が張遼に惚れる出会いとなったのである。 やがて、惨敗した呂布は徐州刺史となった劉備を頼ることとなる(張邈は袁術を頼るも、部下に殺害された。実弟の張超も雍丘城で籠城するも、城は陥落し張超は甥(張邈の息子)とともに焼身自決し、張邈の遺族は曹操によって処刑された)。
呂布が、劉備の客将時代に張遼は関羽と義兄弟の交わりを結び、夜毎に寝室で関羽とアーン♥♥したという。しかしその幸せな時期も続かず、呂布が袁術と組んで劉備を裏切ったため、張遼は愛しの男色関係の関羽と離別しなければならなかった。
198年冬、下邳城で籠城した呂布は曹操・劉備連合軍に包囲された。呂布は嫁の厳氏と可愛いムスメの言いなりになり、陳宮とトラブルを起こした。高順はこれをなだめたが、張遼と臧覇は陳宮嫌いだったので、これをスルーした。間もなく呂布は親戚の魏続と侯成、宋憲の裏切りで陳宮、高順らとともに捕捉された。だが、不穏な空気に勘付いた張遼は臧覇と一緒に一足先に曹操に降伏し自らを処刑するよう申し出た。ホモ達の関羽と徐晃は助命を嘆願し、曹操は「私は濮陽の戦いで、彼の勇猛さは知っている。君達と同じく張遼が大好きだ!」と言ってそれを受け入れ、武将として召し抱えたのである。同時に臧覇も赦された。しかし、曳き立てた呂布が劉備に向かって「たぬき殿(劉備)よ!ワシを助命させてくれ!!」と嘆願すると、これを見た張遼は「かつて丁建陽(丁原)を惨殺した男が今さら見苦しいぞ!!」と一喝したという(間もなく呂布は陳宮、高順とともに絞首刑にされた)。
こうして、張遼は大好きな関羽と再会し、洛陽で仲良くアーン♥♥したのである。しかし、今度は劉備が董承(霊帝の母方のいとこ)のオッサンの曹操暗殺計画にうっかり参加し、徐州に逃げたために、再び関羽と別れた。
だが、200年に董承一派が曹操に処刑され、曹操自身が徐州に討伐すると劉備は青州刺史袁譚(袁紹の庶長子)を頼って蠅のように逃亡した。一方、関羽は下邳城に劉備の妻子を護衛した。曹操に従軍した張遼は愛しの男色関係の関羽に再会できるとワクワクしていた。それを見抜いた曹操は張遼を呼んで和議の使者として命じた。張遼は下邳城に来て「雲長どの、曹公(曹操)に帰順されれば、以前のように私とアーン♥♥できますぞ」と説得した。弱点を衝かれた関羽は根負けして、曹操に降伏した。こうして張遼は再度、関羽と毎夜に寝室でアーン♥♥を繰り返したのである。
曹操が袁紹と対峙すると、張遼も関羽と従軍した。しかし、袁紹陣営に劉備がいると知った関羽は、顔良を討ち取り、さっさと劉備の下に劉備の妻子とともに戻ったのである。そのときに関羽は張遼宛に「…ゴメン、やはり殿(劉備)は僕がいないとダメなんだよ。ホントにゴメンね」という置手紙を残していた。これを見た張遼は「雲長のバカバカ!!なんで僕を捨てて、劉備を取るんだよぉ~」とおもわず涙を流したという。
[編集] 後半生
関羽と悲しい別れをした張遼は、以前から彼を愛撫した曹操と毎夜ごとにアーン♥♥して、その信頼は絶大となった。やがて、201~202年の官渡の戦いでは、活躍した。202年夏に袁紹が亡くなり、その息子の袁譚、袁熈、袁尚らを追い詰め、袁兄弟の後援であるモンゴル系烏丸(烏桓)を撃退した。さらに、黒山賊の孫軽らを降し、江夏郡で反乱を起こした陳蘭、梅成を斬首した。
その活躍が認められ、曹操から合淝肥の駐屯を任され、楽進、李典を副将にして呉の孫権に備えさせた。
208年に烏林の戦いでは、周瑜らが曹操軍を烏林で撃退していたが、一方孫権は合淝に攻撃した。だが、そこには李典と喧嘩した張遼がタッグを組んで、孫権を撃退したのである(翌209年に孫権は討伐するも、張遼の奮戦で失敗に終わる)。
215年、体制を整えた孫権は二十万の軍勢を率いてが合淝に攻めた。孫権は皖城の朱光を降し、意気揚々と合淝に向かって攻撃した。守備兵が少ないため、張遼は逍遥津にいる孫権の本陣に奇襲をした。はたして呉軍は混乱を起こし、孫権は命からがらに付近の小師橋を乗り越えて逃げたのである。
222年、故夏侯惇(亡き曹操のいとこ)の後任として、江都(楊州)に駐屯した張遼は、彼を慕う曹丕(曹操の三男)の破格な見舞いを受けるも、重い疫病に罹ったまま没した。享年58。
その訃報を聞いた曹丕は「うわあぁぁぁぁん!!カッコいい張遼おぢちゃんが死んじゃったよ~!」と駄々っ子のように喚いて、重臣たちを困惑させながら涙を流したという。
前半の張遼と比較すると、後半の張遼はワクワク感が薄れたような感じがするが、気のせいだろうか?
[編集] 関連項目
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