張飛
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~ 張飛 (益徳) について、曹豹
張飛(ちょうひ、ニックネームは「虎髭」、168年 - 221年)は、中国の蜀漢の時代における武将。字は益徳で、もとの字は「翼徳」。涿郡県の人。子は張苞・張紹・敬哀皇后・孝懐皇后(張皇后/星彩)。孫は張遵ら。父母兄弟の名は未詳。
爵位は西郷桓侯。涿郡の郷士の子で、屠殺業(肉屋)を営んだ。芙蓉姫の幼なじみで、生まれつき酒豪的な勇猛な名将として有名な人物である。申年生まれである。
劉備、関羽より年少だったために、両人を兄事して仕えたという。
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[編集] 人物・略要
『大徳元本』によると、張飛の生家は後漢の雲代28将のひとりで、上谷郡昌平県の豪族・寇恂の家系(つまり芙蓉姫の実家)に下僕として代々仕えたという。
張飛の出身が現在の北京あたりにあり、劉備の故郷の涿郡涿県と近く、芙蓉姫を交えて、劉備の母方のいとこの簡雍(耿雍)、隣接する広陽郡(葪)の人・傅士仁、漁陽郡雍奴県の人・田豫、すぐ南の常山郡真定県の人・趙雲、さらに洛陽の北方の河東郡解県から逃亡した関羽、おまけとして劉備の弟の劉叔朗、いとこの劉徳然も加えて、「涿郡愚連隊」を組んでブイブイしたのである。
[編集] 劉備の古参として
184年に張世平とその甥の蘇双が、劉備の祖父の劉雄(東郡范県の令)の懇意があった豪商のために、軍資金を差し出して、劉備は私兵を結成して、黄巾党討伐のために蜂起した。鉅鹿郡広宗県で師の廬植の軍勢に参加して活躍したが、洛陽から派遣された宦官の左豊のために廬植が更迭されたのである。
そのときの張飛はまだ17歳だったが、バリバリのヤンキーだったために、左豊にむかって「廬植先生をなめんなやーーーー!!!このオカマが~」と叫んで、フルボッコして憂さを晴らして、劉備と公孫瓉らに従い、涿郡に帰郷してニート生活を過ごしたという。
187年、平原郡大伾県の豪族・劉平の推挙で、劉備が校尉・鄒靖と何進が派遣した毋丘毅(毋丘倹の大叔父)の従事として、青州の黄巾党と張純・張挙の反乱軍を討伐した。平原郡田野県で劉備はもと黄巾党の頭目で張挙の部将の程遠志と鄧茂の軍勢と遭遇し、大敗した挙句に弟の劉叔朗といとこの劉徳然が戦死し、劉備は恐怖のあまりに死んだふりをして、不様な感じで逃亡したのである。
そのときの張飛は「まったく、スカトロな殿(劉備)だぜ!俺たちがいないと頼りねえ人だぜ」と叫んで、劉備を護送したのである。
だが、鄒靖と毋丘毅は劉備の奮戦を評価して、中山郡安喜県の県尉に任命したのである。だが、先年に張飛に怨みがある左豊は劉備の知り合いである督郵(目付)を派遣して、劉備の身辺を荒さがししたのである。
もともと短気な劉備だったので、督郵に対して激怒し、関羽と張飛と趙雲を呼び出し、自ら軍勢を率いて督郵の宿舎を襲撃、縛ったのである。そこで張飛が真っ先に督郵をフルボッコにしたのである。それを見た田豫が見かねて「張飛どの、そのくらいでよかろう」と言った。劉備も飽き飽きしたので、県尉の印綬を放り投げて、鄒靖と毋丘毅を頼ったのである。
[編集] 張飛、大いに咆哮す!
だが、鄒靖と毋丘毅がせっかく官職を紹介しても、劉備が惰性のために職務放棄の結果のため、鄒靖と毋丘毅は匙を投げたので、劉備は兄弟子の公孫瓉を頼った。191年である。
それ以降、劉備は頭角をあらわし、公孫瓉の武将で青州刺史・田楷が田豫の親族のために、その旗下の平原郡の相として、袁紹と戦った。193年夏、曹操 の父・曹嵩が泰山郡の費華県で、徐州刺史の陶謙の部将の張闓らに惨殺される事変が起こった。
曹操は激怒し第六天魔王のように、徐州の老若男女の区別なく虐殺を繰り返した。驚愕した陶謙は公孫瓉に援軍を依頼した。公孫瓉は田楷に徐州を派遣させた。劉備も同伴した。
陶謙は喜び、劉備をスカウトした。こうして劉備は徐州刺史となった。曹操は参謀の陳宮と友人の張邈らが呂布を迎えて反乱を起こしたため撤退した。
翌194年秋、曹操に敗れた呂布が劉備を頼った。だが、張飛は呂布をみるや「このDQN野郎~!!!てめえはこの俺が殺してやらあーーー!!」と叫んで、呂布に襲いかかった。だが、劉備が「よさんか!!益徳、わしの大事な客将に手を出すでない」と張飛を制御した。
劉備には劉備の考えがあった。それは呂布を傍らに置くことで、自分の知名度を上げる計算があった。だが、それは甘い考えだった。劉備と仲が悪い陶謙の部将の曹豹は、自分の娘を呂布の側室に差し出したのである。
劉備はそれを聞くと激怒し、張飛に命じて曹豹を惨殺させたのである。これを聞いた呂布と陳宮は薄笑いして、ひそかに袁術と連絡して、劉備の襲撃を企んだのである。はたして、劉備自ら淮南郡に討伐し、下邳と自分の家族をを張飛に任せたのである。195年の冬のことだった。
案の定、張飛は酒におぼれて、気に入らない部下を斬り捨てるなどやり放題だった。これを見た呂布らは下邳を襲撃し、バカな張飛は劉備の妻子を忘れて、逃げだしたのである。その途中、沛郡銍県に通りかかり、その県長が呂布の旧部将だった秦宜禄だったので、張飛は腹癒せのために、これを惨殺し、そのまま劉備のもとへ向かった。
翌196年に、徐州を乗っ取った呂布が、竹馬の友の河内郡太守・張楊から「雲州馬」という名馬を購入するが、呂布嫌いの張飛が劉備の命をうけて、何度も強奪したので、激怒した呂布は高順率いる精鋭の「陥陣営」千七百騎を率いさせて、劉備がいる小沛を猛襲撃させた。そのため、劉備は曹操を頼ったのである。
[編集] 部下を散々に虐待した挙句の末路
歳月はながれ、呂布が曹操によって処刑されると、劉備は徐州の主に戻れた。だが目付として、曹操の腹心の車胄がいたので、気分を害した劉備は張飛に命じて、車胄を惨殺したのである。激怒した曹操は「あのタヌキ(劉備)が!とんだ食わせ者だったわ!!」と叫び、劉岱と王忠を先鋒として自ら五万を率いて、徐州を討伐した。これを聞いた劉備はアレをもらして、さっさと息子の劉封と張飛とともに逃亡して、青州刺史の袁譚(袁紹の長男)を頼った。
下邳にいた関羽はホモ達の張遼の説得を受けて、降伏した(後に顔良を討ち取ると、劉備の下に帰参した)。
ふたたび歳月は流れ、208年の長坂陂の戦いで、劉備の三男の劉禅と四男の劉永兄弟を護衛した趙雲の無事を確認した張飛は、橋で鬼の形相をして曹操 らを撃退させたのである。そのおかげで劉備らは命ひろいをしたのである。
その後、蜀王の劉璋を討伐したときに、その配下の巴西郡太守の厳願の硬派な態度に惚れて、これを手厚く迎える漢ぶりを見せた。
217年、法正の進言で、魏延と雷同と呉蘭を従えて、馬超とともに漢中を討伐し、魏の曹洪(曹操の族弟)の部将の張郃の軍勢と戦った。
以後の張飛は閬中を任されて、車騎大将軍となった。だが、盟友の関羽の哀れな最期と、息子のように可愛がった劉封が諸葛亮の讒言で刑死すると、精彩を欠けるようになり、些細なことで部下を処刑したので、心配した劉備が「益徳よ、お前は人を殺しすぎだ。お前のためだ、以後は考えを改めよ!」と諭した。
しかし、張飛はまったく反省する様子はなく、呉の孫権討伐に専念した。さらに準備が遅い下級将校の張達と樊彊にむかって「てめっ!!なにグズグズしとるんじゃい~!!!!」と叫んで、これを執拗にフルボッコしたのである。
怒りがおさまらない張達と樊彊は「このままでは俺たちは虎髭に殺られちまう。どうせなら先に手を打ってやる!」と呻いた。
ある深夜に張達と樊彊は典医に変装して、張飛の寝所に潜り込んだ。案の定、張飛は酒で泥酔して豪快なイビキをかいていた。
張達と樊彊は張飛の寝所に張り込んで、両人は「俺たちの怨みだ!!!残酷な虎髭はさっさと死にさらせ!」と叫んで、これをズタズタに斬り刻んだのである。こうして張飛の最期の言葉は「グワッ!!」という叫びで、斬殺されたのである。221年秋7月のことだった。齢54。
溜まりに溜まった怨みを晴らした張達と樊彊は張飛の首級をもって、そのまま呉に奔ったのである(その後の消息は未詳である)。
数日後、張飛の部将の都督・呉班(蜀漢の外戚、呉壱・孝穆皇后呉氏の従兄)が劉備に謁見した。それを見た劉備は直感で「嗚呼…益徳が死んだか…」と呻いたという。
張飛の長男・張苞は父に先立って若死し、その子の張遵は幼く、次男の張紹が父の跡を継いだ。次女の孝懐皇后は北地王・劉㻣を産んでいる。
[編集] 関連項目
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