徳川家光

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

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「…何だと!!俺の一族が徳川の将軍だと??家康の野郎、何勝手に俺の血を交えて他の家系の存続を考えているのだ!!!!」
~ 徳川家光 について、織田信長
「なんで信長なのじゃああああああああああぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁ!!!!!うちの血筋もまぜてくれえええええええええぇぇぇぇwwwwwwww!!!」
~ 徳川家光 について、足利義昭
「徳川家光?贅沢な名だね。今からお前の名前は徳光だよ!」
~ 徳川家光 について、湯婆婆

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は江戸幕府3代将軍。略して「徳光」。徳川秀忠の嫡男。実の弟を死に追いやり大名を改易しまくった挙句島原の乱で大量虐殺を行い天草四郎時貞と死闘を演じた事から粛清将軍と呼ばれ恐れられた。しかし少年時代ひきこもりのエロゲオタであったせいかエロ規制に対しては寛容であり全国のオタクからは支持されていた。

[編集] 生涯

柳生宗矩二男でイケメンの友矩とはアッー!な仲だった
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秀忠の嫡男として生まれるが幼い頃はなんだか冴えない顔でありピーマンやにんじんが食べられない、夜一人でトイレに行けない、毎晩おねしょする、初恋相手は剣術指南役というガチホモ、真性ひきこもりであり、毎日部屋にこもってボーイズ系のエロゲーしたり、お忍びで有明に向かいジュネ系サークルを回ったり、美小姓の恥ずかしい画像を集めるなどどうしようもない人物であり、弟である忠長の方が有望視されていた。父・秀忠は廃嫡もやむ終えなしとさえ思ったが家光の祖父である徳川家康が、「今細木数子に聞いてきたら長幼の順序を守って兄を将軍にしろって言われた、だから家光は絶対大物になる!絶ッ対廃嫡すんな!コノヤロー!」と反対した為秀忠は彼を後継者とする事を決めた。ちなみにこの後継者争いは、たびたび後世においてネタにされた。忍者同士十対十で殺し合ったというあやしい説が特に有名である。しかしそれでもやはり不安はあったため南光坊天海金地院崇伝らに頼んで帝王学を叩きこみ、さらに一日エロゲーは1時間と家光のオタ化を防ぐ為のリミットをかけた。最初は内気でネクラだった家光も大久保彦左衛門と一緒に鬼退治したり春日局の母乳から「萌え牛乳」を作ったり、天海に「実は俺明智光秀でなんです、あ、実は左馬介かも」などとネタばらしをされたり、柳生三厳のおっぱいぽろりを目撃したり、柳生友矩と若竹を育てたりしている内に、たくましい男になっていった。一部、性的な意味で

やがて家光は1=2を鼻ぶくちょうちんかきながら説明できるほどの聡明な男になりやがて秀忠から家督を譲られて3代将軍となった。一説には彼の中に眠る織田信長の血(家光の母は浅井長政と信長の妹お市の方の娘であり、彼には織田家の血が流れている)が覚醒したとも言われる。この時家光は勝手に真剣での御前試合を行ったりするなどのDQN行為を重ねた弟・忠長を切腹に追いやった。また、春日局の洗脳により女にも目覚め、跡継ぎを作ることにも成功した。しかし目覚め過ぎて某女子高生巡る大戦争を起こした事も。

[編集] 武断政治

家光はまず幕府の安定と不穏分子の抹殺のため外様譜代問わずちょっとでも煙が立てば大火災が起こったかのように騒ぎ立て大名を改易しまくった。しかしこれにより大量の浪人、つまりニートフリーターを増やしてしまい社会問題にまで発展した。また家光は一方で各地の大名達に「1年おきに俺の元に来て江戸で奉公しろ。ただし通行運賃と江戸屋敷の建設費はお前らが負担、あとお土産忘れんな」と命令した。所詮、参勤交代である。

[編集] 鎖国への道

また家光はオランダ人から手渡された書物により十字軍の凶行などを知るようになりキリスト教に対して危機感を抱くようになりやがてキリスト教の駆逐に着手した。しかし朝日新聞などから「軍靴の音が聞こえてくる」と非難を浴びた。1637年の島原の乱では鎮圧の為大軍を派遣したが思うようにはかどらず、業を煮やした家光は自ら出陣。織田信長の血を引く彼はライトセーバー片手に天草四郎時貞と激闘を繰り広げた。途中、天草の暗黒面に引き寄せられそうになるもホモ達の堀田正盛らとの絆で暗黒面の誘惑を断ち切って見事天草を討ち破った。



江戸幕府将軍
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先代:
徳川秀忠
次代:
徳川家綱


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