徳川家康

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディア専門家気取りたちが「徳川家康」の項目を執筆しています。

徳川 家康(とくがわ いえやす・1542年1616年)は、徳川王朝の開祖の源氏である。松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康と、軍神様同様に名前をコロコロ変えたためとても面倒くさい人である。

血族[編集]

伝家康公肖像画。これは家康の命により台詞を付けた絵師が書いたもの。人間状態でも妖怪の片鱗を見せる貴重なものである。

松平清康の孫、松平広忠の嫡男、生母はお大の方(伝通院)。そっくりさんの影武者が沢山いたことで知られており、あまりにそっくりさんなため、クローン技術を自家薬籠中のものにしていたのではないか、とさえ言われている。死んで影武者と入れ変わった、という説が色々な方面から提唱されており、それほどまでに死んで欲しいと恨まれていたようだ。天下人は大変だ。

実家の松平氏は、源氏でもなんでもなく新興の土豪だったのだが、名義上、源氏の末裔じゃないと、源氏との縁深き三河を統治しにくかったので、新田義貞の末裔を僭称し以て清和源氏を仮冒した。他にも源氏はいるのになぜ義貞のような負け犬の末裔を自称したのか、良く分からない。多分、家康は義貞を源義経に匹敵する名将だと考えていたのだろう。そして足利一門の今川に対抗するなら新田さんトコなら良いんじゃね?ってな具合である(ちなみに家康に系図を貸した吉良氏は分家の今川氏に領地を取られる程に落ち潰れたが、この功績で家康に取り立てられて子孫から吉良上野介を輩出した)。松平氏の祖は放浪のスケベ坊主阿弥。だから川と名字も改めた。また家康にとってラッキーなことに、源氏の棟梁である将軍足利義輝が暗殺された直後で幕府が機能していなかったことが幸いで、もしも義輝が生きてたら、こんな偽源氏は即時却下で朝廷にお伺いすることすらなかっただろう。

概要[編集]

最終的に天下を取ってしまった所為で、天下を取れなかったほかの大名並びにその大名家の信者(戦国オタク)達から不倶戴天の敵として憎まれ、今日に至るまで恨み言を吐かれている、大変ちょっとかわいそうな人である。特に豊臣秀頼とその母淀殿を殺した事は最大の悪事として主に大坂人からバッシングされており、ウィキペディアにおいてもその是非を巡って戦国武将顔負けの殺伐とした編集合戦が繰り広げられている。秀頼、淀殿、真田幸村直江兼続島左近石田三成伊達政宗上杉景勝など、最も恐れた人物が複数いる上、その数が勝手に増えていくことでも有名。最近ではこれらに山内一豊前田利家らも加わり益々の大盛況である。具体的に恐れられた人物は下段参照。

埋蔵金をどっかに隠したといわれているが、これは日光東照宮造営などの散財によって財政危機に陥った三代将軍徳川家光現実逃避の為に、「権現様が財政危機に陥ったときの為に何処かに埋蔵金を隠している」と思い込み、土井利勝ら幕臣から末端の旗本に至るまでありもしない埋蔵金の在り処を聞きまわり、やがて日本中に面白おかしく脚色されて伝播し、最終的に桶屋が儲かったのが発端であり、実際は埋蔵金など1ペニーも隠していない。

家康を代表する言葉に「泣くまで待とうホトトギス」というものがあり、現代の自宅警備員達は、この言葉を座右の銘に、何もアクションを起こさなくてもいつか俺も家康みたいに天下取れるはず、と雌伏の時を過ごしている。息子の徳川信康結城秀康の器量を恐れ、死に追いやったり冷遇するなど親としては落第点を押される駄目親父であるが、幼い頃父と死に別れ、父親と言うものがどういうものか実感できなかったのでしょうがない、かもしれない。

「狸親爺」「みみずく野郎」などと罵られる事もあるが、狸以上に計略は上手かったと思われる。また妖術の使い手であり地蔵に化けることが出来た。我慢強かったのもこのためである。現在日本に偏在する地蔵は全て徳川家康が敷設したスパイ衛星であり、もし地蔵の半径300m以内で徳川家の悪口やタブーを言った場合地蔵の目からレーザーキャノンが照射され焼殺されるので絶対言わないように。

生涯[編集]

忍耐?の少年時代[編集]

家康の父広忠は女たらしでギャンブルに狂い借金を重ねるどうしようもない駄目人間であり、コンドームもつけずに手当たり次第に女とセックスしたため250人も落胤を生んでしまった。広忠本人も斯様に沢山の子供を作ってしまったことが信じられず、まるで竹取物語のような奇想天外な出来事であったことから落胤全員に竹千代と命名した。だが浮気に激怒した広忠の正妻伝通院の兄水野信元が織田家に寝返り、その上弄んだ女達への慰謝料や250人の息子の養育費などでただでさえ火の車だった松平家の財政は底を突いてしまい、広忠は借金の担保として落胤の内100人を今川家へ差しだすことになったが、今川家に引き渡される最中その内25人が織田信秀に強奪され、20人が途中で遭難したり崖から転落したりして行方不明になったため最終的には55人しか残らなかった。ちなみに信秀に強奪された25人の落胤は屠殺場でミンチにされ織田家の皆さんが美味しく頂きました。ちなみに越後のお寺の住職が三河から手に入れた情報によると、どうやら広忠は新しく舅となった戸田康光と一緒に火遊び過ぎて織田・今川の両方を怒らせて織田軍に岡崎城を奪われたという話があるらしい。

何はともあれ担保と言う便宜で落胤の半分近くをうまいこと処分した広忠であったが、それでもまだ100人以上の落胤が残されており、正室伝通院との間に子が生まれなかったこともあって松平家はお家騒動に発展する。この御家騒動のドサクサに紛れて父広忠は家臣の岩松八弥に殺されたという。殺害の動機は無論、女たらしの広忠が岩松の妻を寝取った事が原因だが、蘆名盛隆のように男色のもつれからアッー!されたとも。当主広忠が死んだ跡に残された150人の竹千代は生き残るために互いに殺し合い、わずか1ヶ月で三分の一の50人にまで減少した。この混乱に乗じた織田信秀、今川義元が三河に干渉し、落胤達は今川につくか織田に付くかを余儀なくされた。やがてこれらの竹千代達は三河の土豪達を糾合して独立勢力となり、三河には無数の松平家が群雄割拠するようになる。

一方、今川家に借金の担保として人質に出された55人の竹千代達は、今川義元、太原雪斎の薫陶を受けてすくすくと育ったが、その過程で10人が脱走、10人が雪斎に「見込み無し」と看做されて処分され、女湯を覗いたスケベな竹千代5人が義元ママの寿桂尼直々に金属バットで撲殺され、その後も松平家の跡継ぎを巡っての内ゲバで殺戮の応酬が相次ぎ、最終的には一人しか残らなかった(以上が徳川家康複数説の真相である)。無事バトルロワイヤルを生き延びたこの竹千代はやがて義元から一文字を貰い元信、次いで元康と改名する。

家康は義元から粗略に扱われ、今川の家臣から虐められて鬱屈した青年時代を過ごした、などと言われているが、実際は大事に扱われ、結構自由に、放縦に過ごしていた。家康があまりにも自由気ままなので、お隣さんの孕石主水を相手に家康のペットの鷹をめぐるご近所トラブルを起こした程だった(ずっと後に孕石は家康の捕虜となり、切腹)。義元も、家康の利発さを大層気に入り、実の息子のように接したという。このあたり、信長にとっての蒲生氏郷・細川忠興などと似ているが、こっちは信長死後、秀吉→家康と支配者が変わっても一途に信長を尊敬し続けている。義元の能力やカリスマ性が信長より足りなかったのか、それとも家康の根性が悪かったのか、それは分からない。

一説に寄れば、義元が家康を大事にしすぎるので、息子の今川氏真が劣等感に苛まれてグレテしまい、義元の死後、今川家があっというまに瓦解する原因になったという。

信長のパシリ時代[編集]

三国志』でも名高い「英雄論」で「この俺はDQN信長のパシリじゃない!」と反抗する家康。

そういうわけで、今川家から多大な恩顧を受けていた家康だが、その今川家が桶狭間の戦いにおける義元の頓死で傾くと、あっさりと離反して仇である織田信長に追従した。その証として元康から家康に改名、今川家への敵対姿勢を鮮明にした。せっかく貰った名前の一字を外すとは「いい迷惑でした!!」と、そのエライ人との関係解消を意味する。見方によっては不義理と看做すことが出来る。
だが、戦国時代において「寄らば大樹の陰」は生き残るための常道である。昔の恩義だの友情だの、形式的なことばかり重んじてたら滅亡へと一直線である。家康の鞍替えを「不義である」と弾劾するのは、現代人の傲慢に過ぎない。

信長に与してからは、彼が本能寺の変で頓死するまで、コバンザメのようにへばり付いていた。だが信長からは、東の脅威である武田信玄に対する防波堤として機能するので、国力が対等でもないのに「盟友」として厚遇されたという。
一応、美談に聞こえるが、厚遇に胡坐をかいてると後ろからブッ潰されるので必死にならざるを得なかった。というのが、真相に近いのかもしれない。

当時の信長の家康に対する扱いを示す例としては、信長に付き合って越前まで遠征した、姉川の戦いでも援軍、などが挙げられる。そして信長の死後になって、「金ヶ崎では秀吉と一緒に殿を務めさせられたが、徳川家のおかげで無事撤退できた」だの、姉川の戦いの際には3000の徳川軍で15000の朝倉軍と当たる様に命じられたが、徳川家のおかげで勝てた」など、自分を褒め称えつつ信長を貶める捏造をしている。

信長を援護しつつ、家康は甲斐の武田信玄と手を組んで今川を滅ぼす。しかし今川という共通の敵がいなくなると、「昨日の友は今日の敵」でいよいよ信玄と敵対することとなった。家康前半生の最大の敵は信玄といってよく、家康は信玄に幾度となく煮え湯を飲まされてきた。最も痛手を被ったのが、三方ヶ原の戦いである。

三方ヶ原の惨敗、そして脱糞[編集]

武田信玄にボロ負けした際恐怖のあまり脱糞した家康。

この時、家康は信玄が胸を患う重病を抱えている情報を得て、躍起になっていた。幼なじみの織田信長は、「お前は俺と違った意味で短気すぎる。いいな?信玄が来ても無視しろよ?突撃すんなよ!」と釘を刺しており、援軍の武将・佐久間信盛からも宥められる始末だった。しかし、生来短気で剛毅な家康は、山県昌景の挑発に乗ってしまい、頭に血が上って自軍の倍以上の武田軍に突撃を敢行。案の定、惨敗した。信盛は家康のあまりの軽率かつ浅慮な突撃に呆れて戦線離脱してしまった。

この時、家康は恐怖のあまり脱糞したことはあまりにも有名である。当時、オムツなんて便利なもんはなかったので、下袴から鎧まで、文字通りくそみそになってしまった。城に帰還し、家康の醜態を見た部下達は、笑いを堪える事ができなかった。家康は赤面して「これは焼き味噌だ!」と見苦しい言い訳をし、さらに焼き味噌であることを証明する為部下の石川数正にその糞を食わせて「美味い焼き味噌です」と言わせた。ちなみにウンコを口にするなど人間としてとても考えられない行為であり、石川数正は人類最初にウンコを口にした人間である。これ以降、調子にのって真似をする馬鹿が大勢出た結果「カレーとウンコ問題」という珍問答が生まれている。また数正はこの事を根に持っており、後年秀吉の下へと出奔した。

また、家康は逃げる途中で茶店に立ち寄り、アズキ餅を食べて一休みしていた。武田軍が追いかけてくるのを見た家康はアズキ餅の代金を払うのも忘れて馬に乗って一目散に逃げ出した。しかし、茶店のババアは彼が家康とは知らず、ただの食い逃げ犯であるとして、食い逃げは許さんとばかりに家康を走って追いかけた。のちのターボばあちゃんである。逃げている家康がふと後ろを見ると、時速50里ほどの速度でババアが追いかけてくるのが見えた。これに驚いた家康は恐怖のあまり脱糞したとされている。結局家康はババアに捕まり、食い逃げしたアズキ餅の代金を払う羽目になったのである。これが浜松市に残る地名、「小豆餅」と「銭取」の由来である。このことが由来で浜松市では現在も小豆餅のことを「銭取餅」と読んでいる。(本当だって。)

さて、何とか浜松城に帰還した後、糞味噌はともかくとして家康がやったことは恐怖に震える己の姿を絵に描かせることだった。 普通、トップになった人間は自分のみっともない姿を黒歴史にしたがるのだが、家康は後々まで自分への戒めとして手元から離さず、 現在でも残されている、という美談となっているが、単に武田に滅ぼされて後でも使える遺影が欲しかっただけなのかも知れない。よく浜松城の城門を全開したままにしたので、追ってきた武田軍が何かの作戦だと訝り、城に入れなかったという家康渾身の「空城の計」が語り伝えられているが、単に門番が門を開けっ放しにしたまま逃げただけである。家康にとってラッキーなことに、すぐに信玄が病死したので家康は九死に一生を得ることができた。跡を継いだ武田勝頼は、最近では実は悲劇の名将だと判官びいきの声も出ているが、結果だけを見れば長篠の戦いで信長と家康に大敗するのである。

妻子を殺す[編集]

家康の正室築山御前は、今川一族の生まれで、この築山御前との間に、長男徳川信康がいた。先述の通り、家康が今川を裏切って織田に鞍替えした時に、妻子は今川の本拠地の駿府に置いたままだったので直ちに今川に幽閉され、命すら危ぶまれる状況だった。「そういえば妻子が駿府にいるんだったわ」と今さら思い出した家康が、何とか人質交換で今川から妻子を奪還したが、築山御前は夫の短慮に激怒して不和が続いており、家康も家康で「せっかく今川の手から救出してやったのに、恩知らずな奴め」とウザイから始末したいと考えていた。そして1578年、家康と酒井忠次を筆頭とする徳川家臣団は、築山御前は武田勝頼と(性的な意味で)内通しているとんでもないビッチだという口実をでっち上げ、築山御前を殺害した。母親が殺された事を知った信康が激昂して暴れだしたので、服部半蔵に頼んで信康も殺させた。信康については聡明な人物だったも、乱暴で残虐な人物だったとも言われており、良く分からない。

この事件は、家康の人生の大きな汚点であった。後年、家康の知恵袋として辣腕を振るった本多正信は、この事件を何とか正当化できないか思案し、その結果「信長が築山御前と信康を殺せと命令した」と捏造した。信長のパシリであった家康だが、すでに信長はこの世にはなく織田家は没落しており、逆に家康は既に天下人となっていたので、何ら憚るところはなかった。さらに正信は家康から非難の矛先を叛けるため、酒井忠次が信長に築山御前と信康に謀反のおそれありと讒訴した、という「捏造の補強」までした。ご丁寧に、家康が「信康が生きていればもっと早く天下取れた」などと愚痴っていた、などという捏造エピソードまで付け加えた。なお、当時の家康と信長の同盟は信康と信長の娘・五徳の婚姻同盟という形態を取っていたため、信長の婿である信康を勝手に殺すことは「同盟破棄の通告」と見なされる行為であった。そのため、信長が逆ギレして家康を滅ぼすことになる前に、信長を宥める言い訳をするために派遣されたのが酒井忠次であったとみられている。

忠次の子孫達は先祖に汚れ役をかぶせた正信を怨み、後年、正信の息子本多正純が失脚する原因となった「宇都宮城釣り天井事件」のでっち上げに、土井利勝らとともに荷担して尽力したという。

猿の家臣になった狸[編集]

信長と家康の手で武田勝頼が滅ぼされると、信長から上洛を命じられる。「兵を率いてくるな、でも主な重臣みんな連れて上洛しろ」という命令で、家康は「信長に殺されるかも」とビクビクしながらその通りにしたが、そんな時に本能寺の変で信長が明智光秀に殺される。家康は内心「光秀GJ!!」と小躍りしつつも、みんなの前では「信長公の仇を討つ」と涙ながらに宣言して「家康は律義者だ」という評判を世間に広める布石を打つ。そして服部半蔵に助けられ、身を隠しながら山道を走破して三河へ逃れた。道中で盗賊に幾度もつけ狙われる命からがらの旅だが、その間に同行していた甲斐の穴山信君をどさくさに紛れて暗殺させた。三河に帰国したらすぐに甲斐を手に入れるための布石で、別に家康は信長の仇討なんて本気でする気はなかったことがわかる。信長の横死を最大限利用して三河、遠江、駿河、甲斐、信濃大半を手に入れた大大名の家康は、小牧長久手の戦いで信長の後継者として天下に覇を唱えている豊臣秀吉を痛めつけることに成功する。家康にビビった秀吉は手段を選ばず母と妹を人質に差し出して「どうか、僕と仲良くね♪」と嘆願され、家康は秀吉の家来になることを受け入れた。陰険な家康はあっさり秀吉の家来になれば、ただの一大名のパシリにされると思い、秀吉軍を完敗させて自分の強さを見せつけると、一転して自分の次男を人質に差し出して秀吉に敵意がないことを見せつつも、秀吉の上洛命令にはのらりくらりと応ぜず、業を煮やした秀吉から母と妹を差し出させた。こうして家康の価値を秀吉の中で最大限に高めたうえで、やっと家康が腰を上げて上洛して秀吉の家来になるという緻密な瀬戸際外交をやってのけた。ちょっとでも計算を間違えたら、家康は今度こそ秀吉に戦を仕掛けられて今度は潰されていただろう。秀吉と同レベルの陰険さを持った家康ならではの鋭い読みであった。

ついに天下を取る[編集]

秀吉の命令で三河から関東に国替えとなり江戸に移ると、伊達政宗と義兄弟の契りを結んだ。同時に秀吉に隠れて淀君と密通し、その間に豊臣秀頼が産まれたらしい。秀吉が亡くなると、秀吉との生前の約束をあっさり破棄して自分の天下取りへ一気に動く。秀吉の腹心であった石田三成が家康打倒を密かに企んでいると知ると、三成を斬ることは容易いがあえて放置し、三成に反徳川の諸大名を糾合させ挙兵させた。そして関ヶ原の戦いで家康が十把一絡げに反徳川の大名を粉砕し、事実上の一戦で家康の天下取りが確定した。モグラ叩きのように日本全国を東奔西走して反徳川の大名をいちいち叩いて回ってたら、時間もコストもかかりすぎるからで、これほど効率的な天下取りはない。こうして家康は意気揚々と江戸幕府を開いた。

200年の平和?[編集]

よく「徳川家康が250年の平和を築いた」と言われるが、まったくの誤解である。(余談だが、ここから家康が平和主義者という結論がされることもある)


まず年代がおかしい。どう長く見積もっても、島原の乱があった1638年から、禁門の変長州征伐のあった1864年まで、つごう226年と見るのが妥当であろう。1808年のフェートン号事件までとするなら170年だ。未遂に終わった由井正雪の変(1651年)と規模の小さすぎる大塩おじさんの乱(1837年)は武士の情けで除いてあげよう。江戸時代は一揆・打ち壊しなどの乱がたびたび起こっていたことも見逃せない。

平和の内容も問題だ。第一に、日本には外敵がほぼ存在しなかった。中華思想まみれの明・清には日本に対する領土的野心が全くなく、属国の朝鮮は話にならない弱さ。遥か遠くにあるヨーロッパの国以外に日本へ関心を持った国はなかった。

第二に、当時の日本人は強かった。世界各地を征服し植民地を増やしてきた宣教師たちが「この国を征服するのは無理です、普通に布教した方がいいです」なんて本国に報告してしまうほど、恐ろしい強さだった。おそらく今川氏真でも外国くらい蹴散らせたであろう。

第三に、江戸幕府が開かれたからといってただちに平和になったわけではなかった。江戸時代初期はそりゃもう「戦国時代と何が違うの?」っていうくらい殺伐とした世の中だった。これを変えたのがわんこ大好き将軍として有名な徳川綱吉だった事が最近明らかになってきたのだ。近年まで徳川氏や無職浪人の作成した偏向資料によって暗君扱いされてきた綱吉が、実は江戸時代の後半150年くらいの平和の立役者だったのだ。家康の功績は・・・生類哀れみの令が初めて出されたのが1687年だから・・・・・・49年?短いな。織田信長の年齢と同じだ。こりゃあ短い。家康50年~♪

三方ヶ原の戦いの珍エピソード[編集]

ナイスミドルな家康…
  • 三方ヶ原で敗北し、逃亡する最中に呑気に団子屋で休憩していたら、敵軍が攻めてきたため再び逃亡。しかし団子の代金を払わず食い逃げしたため、オリンピック選手並の足を持つ団子屋の婆さんに追い掛けられ、100mほど先で捕らえられ、代金と迷惑料を支払わされた。現場には「小豆餅」「銭取」という地名が残っている。
  • 腹を叩くと太鼓のようにポンポコ音が鳴った。祭りの際などに家康は自ら腹の太鼓を叩いて演奏したという。なお、浜松には三方ヶ原の戦いの際、浜松城で酒井忠次が打ち鳴らした太鼓は、実は家康の腹であったという伝説が残されている。
  • 武田信玄にあこがれており、自己満足のために徳川四天王とか徳川二十なんたら将などを生み出し、更に武田家の旧家臣や武具などを火事場泥棒のように集め回っていた。この事が一部で「家康は信玄の隠し子」というトンデモ話が語られる原因となった。
  • また、武田家所縁の女、特に信玄の娘に対する病的かつ偏執的な萌え属性があり、一説では、夫・穴山信君を亡くした(実は家康が暗殺したと言われているが)見性院の生活を援助したり、八王子のある寺にいた信玄の娘の松姫を引き取ったり、上杉景勝討伐計画を企てた最大の目的は、共に信玄の娘である見性院・松姫・景勝夫人菊姫を全部俺の嫁自分の側室として手に入れることだったと言われており、それに関連して穴山信君謀殺はその夫人である見性院を横取りするため、本能寺の変の際に織田信忠を見殺しにしたのはその元婚約者の松姫を横取りするための家康の謀略である疑いが強いとする説もある。しかし見性院・松姫は夫(元婚約者)の死後間もなく「夫(元婚約者)と一族の菩提を弔うため」と称して出家したため、この家康の企ての中で唯一成功したのは、関ヶ原の合戦後に「改易」と称して菊姫の身柄を景勝から横取りしたことのみであった。
  • しかし家康が菊姫を俺の嫁自分の側室にすること自体は1604年に菊姫が自殺したため頓挫した。菊姫が自殺したことは、いずれもアンチ景勝のフラッグシップ的な位置に立つ轢死化歴史家楠戸義昭花ヶ前盛明らの著書によってフェミナチ主義者やアンチ景勝などのコミュニティー内で非常に有名だが、自殺の理由は楠戸・花ヶ前らが頻繁に主張し続けているように「自分の留守中に夫がどっかの娘を妾にして孕ませたから」ではない(そもそもこの子作り用の妾を夫の元に強引に捻じ込んだ仕えさせた首謀者は、他ならぬ菊姫本人である)。実際には関ヶ原の合戦後に家康の元に身柄を召し上げられて監禁された菊姫は、家康から毎日のようにチョメチョメこれはやばいな強制猥褻や痴漢行為や性的嫌がらせを再三に渡って執拗に加えられ続けると同時に、「ワシの妾になれ」「ワシとア〜ン♥♥しろ」との強要も併せて執拗に受け続けたため、最愛の夫・景勝に対する貞操の最後の一線を文字通り「死守」し、かつ貞操を完全に守り切れなかったことを夫に対して死をもって詫びるため自殺したのである。

その他のエピソード[編集]

晩年の家康。どう見ても悪の皇帝である。
ヤクザ風の家康(でもカッコいい…)
  • 少年時代、酔っ払うと変態になる義元の趣向で公衆の面前でちんぽをさらしての放尿を強制されたことがある。ちなみにこの逸話は、後のアニメ「少年 徳川家康」、NHK大河ドラマ「徳川家康」においても忠実に描写されたため、視聴者の猛烈な抗議を招いた。今じゃとても放送できないよね。
  • 元来家康は熟女・人妻萌え属性だったが、なぜか晩年には美少女ロリータ萌えに改宗している。家康を目覚めさせたのは一時期援交関係にあった朝鮮人の美少女侍女・ジュリアおたあとも言われているが、真相は不明である。
  • 住居も食事も質素…と言うよりはむしろ貧乏性の人であった。特に家康の主食は麦飯で、現代の刑務所の囚人の主食と同じである。
  • 自分の利益のためなら平気でうそをついた。三河の一向一揆が勃発して講和する時に「寺は元通りにする」と家康は約束したが、家康は寺を全部破却して更地にして「元通りの野原に戻した」と詭弁を弄した。また豊臣秀吉の病床で家康が何度も秀吉の遺児の秀頼に忠誠を誓う誓約書を書いたが、秀吉が死んだ途端に手のひらを返して主君の秀頼を滅ぼした。しかも秀頼のいる大阪城の守りが固いので、「大阪城の外堀を埋めて真田丸を壊すなら、もう秀頼様に手を出しませんから」と言って油断させておいて、外堀どころかほとんどの堀をドサクサに紛れて埋め立てて、すぐに秀頼を滅ぼした。そんな家康が天下を取ると、江戸幕府では「武士たる者は主君を裏切ってはならぬ。約束を破る卑怯者であってはならぬ」という儒学教育を展開することになる。
  • 医者が嫌いと言って自分でを調合してみごと病気を治した。その功績を認められ、現在ではホグワーツ魔法魔術学校の魔法薬学教授をしている。
  • 何者かがタイのてんぷらに混ぜた毒で死んだという説がある。また密かに亡骸を鳥に食べさせたともされている。
  • 胃がんによる病死ではなく銃殺された、もしくは女剣士に斬殺されたという説もある。
  • 影武者がいて、本体は関ヶ原または大坂で死んだらしい。それ以降の家康は世良田次郎三郎という影武者が成り変った説もある。
  • 「岡崎の宿無し」時代に「なんだか、気分が悪いな!」と言っては今川氏真、さらに孕石主水をボコボコにしたことがある。徳川御用達の歴史書ではこの事実を隠蔽し、逆に氏真や孕石にいじめられていた事にされた。これを鵜呑みにした人々は「神君は忍耐強い」と思った。
  • 祖父松平清康譲りの柄の悪さ、マフィアボスのような要素を持っていた。そのヤンキー的な性格が息子の徳川信康結城秀康松平忠輝徳川頼宣に受け継がれた。
  • 家臣の大賀弥四郎大岡忠相の祖?)が武田勝頼おホモ達だった真田昌幸と内通し、謀反を企んだ。これを知った家康は激怒し、弥四郎を鋸挽きで処刑した。それ以後、昌幸・信繁(幸村)父子を毛嫌うようになる。
  • 彦右衛門鬼作左平八郎小平太万千代らとよく喧嘩をするほど仲が良かった。
  • 実は劉備の再来とされ、「今玄徳」の異名を持っている(福耳の特徴などetc)。
  • 秀吉に隠れて、淀君ア〜ン♥♥して、生まれたのが秀頼であることは誰も知らない。そのためかNHK大河ドラマ「徳川家康」において、家康は大坂夏の陣で本当は淀君と秀頼を殺したくなかったという事にされた。その為ア〜ン♥♥し過ぎるのは良くないと言う風習が出来た。
  • 日本初のバレーボール選手でもある。所属チームは徳川バクフス、背番号は1、コートネームはヤスであった。[1]

子供達[編集]

息子[編集]

[編集]

養子[編集]

養子といっても大半は幼女養女である。無意味なほど多い。長谷川哲也の漫画『セキガハラ』では、巨大タヌキと化した家康がそこらへんの可愛い子ちゃんをかっさらってコレクションして幼女養女にしている描写があるが、史実ではそこまでひどくはなく、スカウトマンの本多正信・松平康元に「ウチの事務所に入ったらコネで有名になれますぞグフフフフ」と口説かせたようである。AKB48みたいなものを作ろうとしていたようだが、センター格の美少女が関ヶ原合戦の時の婚姻政策でほとんど脱退した為にアイドルグループとしては上手く行かなかった。

ミニモニ結成には至らず。

それにしても、大半が家康の影武者弟の江戸城留守居役「世良田太郎三郎康元」こと松平康元の娘というのもすごい。やっぱり、そこらへんの可愛い子ちゃんをスカウトしてきたのだろうか?

落胤とされる人物[編集]

まだ増える可能性もある。

家康が最も恐れた人物[編集]


まだ増える可能性もある。というかゼッタイ増える。いや、最もっていうなら一人にしろよ…

脚注[編集]

関連項目[編集]

  • スカトロ
  • ウンコの力
  • 江戸幕府
  • 三英傑
  • 三河人
  • 竹之内波太郎
  • 滝田栄 - 家康を最も上手く演じた俳優
  • 津川雅彦 - 家康を最も上手く演じた俳優その2
  • 西田敏行 - 家康を最も上手く演じた俳優その3.最も恐れた人物が何人もいるのと同様、最も上手く演じた役者が何人もいるのも家康の特徴である。
  • 中村梅之助 - 家康を最も上手く演じた俳優その4。晩年の風貌はよく似ている。
  • 内野聖陽 - 家康を最も上手く演じた俳優その5。非主役だったが、とある人物の手によって後半の準主役となり、家康役者の仲間入りをした。
  • 風間俊介 - 家康を最も上手く演じた俳優その6。非主役で、最後まで脇役に徹したが、滝田栄以来のスマートな風貌が話題に。
  • 松本潤 - まさか松潤が家康をやるとは思わなんだ。
  • トヨタ自動車 - 現代の徳川家康。日本だけでなく世界の天下を同じ西三河出身でとった。
  • へうげもの - 劉備タイプの家康が登場している。
  • 山岡荘八 - 上記の劉備タイプの家康を書き記し、ベストセラーにした功績は大きい。
  • 横山光輝 - 上記と同様。
  • 司馬遼太郎 - 信者曰く、最も客観的、俯瞰的に徳川家康という人物を評価できる男らしいが、どう見てもTDNアンチです。本当にありがとうございました。


歴史の渦に巻き込まれる! この項目「徳川家康」は、歴史に関連した書きかけ項目から歴史に残る記事進化しなければならない。
歴史は今作られている!君の名をこの記事(の履歴)に刻むのだ。 (Portal:スタブ)
先代
(王朝成立)
徳川幕府将軍
徳川家康
1603年-1605年
次代
徳川秀忠
1605年-1623年