新田義貞
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
~ 新田義貞 について、織田信長
~ 新田義貞 について、山内一豊
~ 新田義貞 について、敏達天皇
新田 義貞(にった よしさだ、1301年 - 1338年7月2日)は、鎌倉時代末期~室町時代初期の新田氏の棟梁である。鎌倉に攻め入り北条一門を滅ぼした幕府打倒の最大の功労者だが、その後はライバル足利尊氏に負け続けて惨めな醜態を晒し、最期は越前の辺境で流れ矢に当たって無様な戦死を遂げた。竜頭蛇尾の典型である。決して凡愚な人物ではなかったが、相手が悪く運に恵まれなかった、いや恵まれなかったどころか可哀想なくらい天運に見放された男であった。色々な意味で宿敵足利尊氏とは正反対の人物。ちなみに徳川家康は義貞の末裔を称したらしいが、いくら源氏を僭称するためとは言え何ゆえ義貞のようなな負け犬の末裔を自称したのか甚だ不明である。
一応、後醍醐天皇の親政に尽力し帝に殉死したため戦前は「忠臣」として持て囃されたが、戦後になるとその反動から凡将、無能、アホウ、間抜けと散々に貶められた。楠木正成は評価の見方こそ変わったものの扱き下ろされる事はなかったのに義貞はこの扱い、酷すぎる。ちなみに南北朝時代を描いた小説などでは大抵噛ませ犬か楠木正成の足を引っ張る嫌われ役として登場する。そんなに義貞が嫌いか。
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[編集] 生涯
[編集] 前半生
14世紀前半、上野のド田舎に生まれる。新田氏は新田荘に所領を持つ御家人で、河内源氏の流れを汲む、一応名門の家柄なのだが、同じく源氏の流れを汲み、有力御家人としてそれなりの地位を得ていた隣国下野の足利氏と違って新田氏は一介の御家人に過ぎず、しかも義貞の代の頃には他の御家人同様分割相続の弊害、貨幣経済の浸透の煽りをモロに食らって窮乏している貧乏御家人であった。義貞は新田荘の開拓に精励する一方、幕府に出仕し執権北条氏へ忠勤を尽くす、普通のサラリーマンであった。
が、楠木正成や文観から天皇教に入信するよう勧誘を受けた事で義貞の生涯は一転する。折りしもこの頃、義貞は病を得て勤務を休んでいたのだが、幕府は義貞の健康を顧慮することなく、これを義貞の怠惰であると激しく難詰しており、幕府と義貞との主従の信頼関係には亀裂が生じていた。朝廷はこの亀裂に巧妙に付入り、後醍醐天皇の元でなら破格の待遇が得られるなど根拠の定かでない巧言令色を用いて義貞をヘッドハンティングする事に成功した。
朝廷は義貞に、もし幕府を打倒した暁には相応の恩賞を与えると約束を取り付けたが、空手形のつもりであった。朝廷は義貞を時間稼ぎの捨て石にするつもりであった。所詮は田舎武士。朝廷にとっては使えるだけ使って用が済んだら弊履の如く捨てるだけの存在である。義貞は1333年幕府軍に対して挙兵したが、集まった兵士は当初は100足らず、朝廷は援軍を寄越すと言ったが寄越さない。義貞軍は風前の灯であるかのように見えた。
しかし義貞軍は破竹の快進撃を見せ、派遣された幕府の討伐軍を次々と撃破、戦勝を重ねる内に兵士も自然と集まり、新田軍はたちまち雲霞の如き大軍となった。飛ぶ鳥を落とす勢いの義貞は遂に鎌倉に迫った。鎌倉は三方を山に、一方を海に囲まれた、攻め落とすのに大変難儀する天然の要害であったが、義貞はいとも容易く突破し、鎌倉に突入、幕府を滅ぼしてしまった。挙兵からわずか1ヶ月足らずの出来事であり、上野の田舎武士など所詮捨て石にしかならないと思っていた朝廷の一同は仰天した。かくして新田義貞は歴史の表舞台に華々しく勇躍した。
[編集] 後半生
…が、それからの義貞の生涯は下り坂を転がり落ちる蹴鞠の鞠の如く惨めなものであった。幕府が滅び、後醍醐天皇による建武の新政が発足されると、義貞も幕府を滅ぼした功績を讃えられ、京都の治安を管轄する武者所 の筆頭に抜擢され、名和長年や楠木正成ら新興武士と共に、建武の新政内で大いに栄達した。
しかし、後醍醐天皇は義貞ら就中優れた功績のあったものを除いて、御内や公家ばかり優遇したため、疎外された武士達が足利尊氏に叛逆を教唆、躁鬱病の尊氏はこの時躁状態だったので誘いに乗ってしまい天皇に反旗を翻した。義貞は北畠顕家らと共に尊氏の迎撃に当たり、尊氏の軍勢と幾度となく干戈を交えるが、一度は尊氏を完膚なきまでに叩きのめした顕家と対照的に随所随所で負けっぱなしであり、また湊川の戦いでは楠木正成を見捨てて京都に帰還し、奥州から上洛してくる北畠顕家と上手く連携が取れず、結局合流できずに顕家が戦死する原因を作ったりと味方の足を引っ張りまくった。幕府を滅ぼした功績で辛うじて新政内で地位を確保していた義貞だが度重なる失敗で愛想を付かされ越前に左遷させられる。転戦の最中で船田義昌を失ったり、弟脇屋義助に愛想を付かされて去られたりと凋落の一途を辿りながらも、めげずに北陸の領国経営と賊軍討伐に尽力した義貞だが、最期は斯波高経の軍勢とたまたま遭遇して交戦になり、水田でもがいている最中に流れ矢が眉間を貫通して討死にした。この時の義貞の死にっぷりは相当無様であったらしく、首を取った斯波軍の兵士は首を見るまで義貞だと気付かなかった。また義貞の部下達は義貞が水田でもがいて死んでゆくのを遠巻きに見ていただけだったらしい。指揮官のピンチを指をくわえて見ているだけの将兵が何処にいようか、義貞の兵達への指揮がよほど杜撰であったか、兵達がわざと義貞を見殺しにしたとしか思えない。いずれにしよ、義貞は落ちるとこまで落ちた末に「犬死(太平記曰く)」した。
[編集] 人物
今川義元が桶狭間で奇襲を受けて戦死してしまったばっかりに後世に至るまで凡愚の烙印を押されて嘲笑されるように、人の評価が死に際で決まってしまうということがよくある。義貞も後半生のダメっぷりとみっともない最期から凡庸、愚将の烙印を押されることが多く、迅速、的確な鎌倉攻めも「たまたま上手く成功しただけ」と言われてしまう始末である。しかし、義貞は決して凡庸な人物ではない。鎌倉攻めに関してこんなエピソードがある。義貞軍は鎌倉に攻め入るため稲村ヶ崎まで進軍したが、稲村ヶ崎は切り立った崖が多く、進軍するには難儀する隘路であった。しかし義貞は干潮によって崖下に道が開け、活路を作れることを察知し、干潮を待って一挙に進軍、鎌倉に攻め入った。「太平記」によると、この時義貞は宝剣を海の中に投げ込み、神に活路を開く事を懇願したという。果たせるかな潮が引いて道が開け、神の恩寵を賜ったと士気は大いに昂揚した。つまり義貞は干潮を士気昂揚のパフォーマンスにも利用したのである。このように機転の利く義貞は、やはりひとかどの人物だったと言える。じゃあ何で後半生はあんなに駄目駄目だったの?という話については、諸説錯綜していて判然としないが、以下のようなものがある。
[編集] 女に誑かされた
古典太平記によると、義貞は京での生活の中で某公家の娘である勾当内侍と恋仲になり、色恋にうつつを抜かす内に的確で臨機応変な判断や迅速な指揮など、武将として大切なものを喪失してしまい、彼の采配に悪影響を及ぼしたと書かれている。ここでの勾当内侍は、義貞の人生に暗い影を落とした、所謂ファムファタール(宿命の女)の典型として描かれている。しかし、勾当内侍なる女性は「太平記」の中にしか登場せず、一次史料にはそのような女性の名は全く見られないこと、軍記物なので当然なのだが、太平記における義貞と勾当内侍のエピソードは物語性が強く現実味に乏しい(ウィキペディア風に言うと「検証可能性」を満たしていない)ことから、太平記の作者による創作である可能性が高い。しかし、田舎育ちの実直で朴訥な男が都会の女との落花流水で人生を狂わせられる、と言うのはよくあることなので、可能性が無きに等しいとは一概に言い切れない。
[編集] 足を引っ張ったのは朝廷の連中だった
鎌倉幕府打倒に功績があった、足利尊氏への牽制用の駒に便利と言っても、朝廷の公家達にとっては義貞も所詮は東国の野蛮な武士、所謂「東夷」であり、公家の生まれである北畠顕家や、同じ出自の低い武士でも京都の公家、寺社勢力と緊密な繋がりのある楠木正成らとは乖離しており、密に疎外され、軽んじられていたであろう。太平記には、顕家が義貞と合流できなかったのは、義貞如き成り上がりの田舎武士に手柄を上げられるのが気に入らない顕家が合流を拒んだからだと書かれている。連帯感が取れなかった責任を義貞一人に押し付けるのは酷ではないか。むしろ正成や顕家ら、朝廷やそれに付随する西国武士に瑕疵があったのではないか。
…と、このようなことをいくら声高々と提唱したところで、濁世の俗人共はヒーローである正成やイケメン貴公子顕家を礼賛し、都合の悪い点は全て義貞に擦り付けてくるのだ。酷いよね。でもこれが現実なんだよね。
[編集] 中の人が入れ替わった
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