曹操
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なんだかんだで独裁者として君臨した曹操。よく謀反で討たれなかったもんだ。悪運が強いな。
曹操(そうそう Cáo Cāo、155年 - 220年)は、中国の魏の太祖武帝。字は知る人ぞ知る孟徳(もとの字は「吉利」、幼名は阿瞞)。その一方、『三国志演義』という「作り話」では、(つかさ みさお:So-So、英語で「まあまあ」の意)と言った明初期の羅貫中(羅本)の電波によって、まるで悪人のようにまつりあげられてしまった大変かわいそうな人物である。
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[編集] 略要
宦官の曹騰の養孫で、夏侯氏出の曹嵩の子。兄の曹喬(曹安民の父、字は劉備と同じ「玄徳」…らしい)が早世し、実質上の長兄となった。弟に曹彬、曹玉、曹徳(『後漢書』「宦者伝」では「曹疾」、字は「徳秋」とも、諡号は「海陽哀侯」)ら。(血のつながりがある)いとこは夏侯惇、夏侯淵、曹邵(曹真の父、「曹紹」と同人物?)ら。(曹騰の血族で血のつながりがない)いとこは曹洪、曹仁、曹純らである。
[編集] 曹操の実情
様々な文学作品において残虐超人に分類されている曹操であるが、それらの記述のほとんどは過剰な誇張表現が含まれている。
[編集] 作品中の曹操描写
- 『三国志』「魏書」武帝紀(正史・曹操の伝記)においては、儒学者を否定し、孔子の末裔孔融を処刑している。
- 『曹瞞伝』(著者不明)においては、「治世においては能臣、乱世においては奸雄」と評されたとしている。
- 一方、『後漢書』「許劭伝」(著者は范曄)においては、 「清平の世においては奸臣、乱世においては英雄」と評されたとしている。
- 『華陽国志』(蜀漢の郷土史、著者は常據)においては、曹操の築いた魏の勢力は三国のいずれの中でも抜き出でており、蜀や呉は常に脅えている状態となった。
- 『続漢書』(著者は司馬仲達の従孫の司馬彪)では袁術の姉婿である太尉楊彪を警戒し、その子の楊脩(袁術の甥)に対しても「勝手にわが子の子建(五男・曹植の字)を煽りおった!」としてこれを処刑している。
- 『漢末英雄記』(著者は王粲)では、執拗に漢の簒奪を勧めた功労者の荀彧を「四百年の歴史ある漢を反転させた大罪を犯した」と称して、これを楊州寿春県で自害させている。
- 『三国志集解』(著者は盧弼)では、「曹操孟徳」と呼ばれると激怒する。それはアントニオ猪木寛至やジャイアント馬場正平、ジャンボ鶴田友美と言っているようなものだからである(あくまでも「曹孟徳」である)!
- 『魏略』(著者は魚豢)では、かつていとこの曹邵(曹真の父)が190年に豫州牧黄琬に殺害されたため、黄琬に恨みがあった。
- 『民間伝承』では、212年夏に黄門侍郎黄奎(黄琬の子)は、息子の馬超の反乱で追い詰められた馬騰と組んで、曹操暗殺を企む。しかし、黄奎の弟・苗澤の密告で、馬騰、黄奎一族らは5月に処刑された(曹操は亡きいとこ曹邵の仇を討ったのである)。
- 『蒼天航路』においては、黄巾の乱の残党を引き入れ、それを軍事力として活用している。
- 『横山光輝三国志』においては、赤壁の戦いで劉備・孫権の指導者二人が曹操の野望を挫いたこととしている。
- 『三国志演義』においては、まるで世界征服を目指した大変欲深い人物のように描かれている。
- 『真・三国無双』においては、張遼に策を授けて合肥を守りきらせたとされている。また、織田信長と共に遠呂智と戦った人物である。
- 『爆笑三国志』では、人材コレクターマニアである。彼は他の群雄に仕える武将を欲しがる人物にされてる。
- (これらは全て自虐史観に基づく捏造で、実際の曹操像を大きく歪めてきたとされている)
[編集] 曹操の功績
- 実際の人物像は、「わしは周の文王となると」称して、後漢王朝の皇帝をよく助けた忠義の臣であった。
- ↑の出来事は曹操の死後、魏王朝による漢簒奪は嫡子曹丕(三男)が亡父に代わって行ったことであった。
- 黄巾の残党を兵役と農業の両者に従事される「屯田兵」の制度を取り入れて、同地域や蝦夷地(現在の北海道)の農業の復興を図った。これが兼業農家の始まりでもあり、後のDASH村などの基礎となった。
- 九品中正のもととなった諸制度をまとめ、役人雇用から儒者の天下りを根絶し、実力主義を大きく推し進めた。「キャリア」・「ノンキャリア」という言葉もこの頃生まれ、204年の流行語大賞にも選ばれた。
- 詩をいっぱいつくって現代日本の高校生とかが無駄に苦労する原因を増やした。
- それまであったお酒よりもアルコール度数の高い、新しい酒の作り方を考案したためアルコール中毒になる人を増やした。
- 『自分の名前を入れた本』(孟徳新書)を作ったが、山奥からきた面相の悪い人(張松)にセンスの悪さを指摘され、ぶち切れて燃やしてしまった(という出来の悪い作り話が『演義』に載っている。楊脩もからんでいる)。
- 今現在残っている孫子は彼が注釈を行った物であり(『魏武注孫子』)、風林火山 (NHK大河ドラマ)が放送されたのは彼のおかげと言っても過言ではない。
[編集] 曹操の功罪
- 後漢皇帝によく尽くしたものの、時折見せたツンデレ要素が問題視された。スキが高じて皇帝の弓をぶん盗っちゃったりするなどの事件もあってか、ジャイアニストのレッテルを貼られてしまい、素直に言えない分、なかなか理解されないままである。
- 先祖は「LOVE漢王朝、LOVE劉邦」だったのに先祖裏切りやがったので先祖ブチきれですよ。
- ちなみに屯田政策を進言したのは韓浩である。
- 大幅なグローバル化を打ち出す一方で、考簾や年功序列などといった旧態制度の全廃を断行したため、大幅なリストラと、それによる膨大な数の失業者を生み出し、魏王朝が団塊の世代から支持を得られない要因を形成してしまった。
- 三国が並ぶ状態を作ってしまい、住所が頻繁に変わる地域もあって、郵政業務に多大な支障をもたらしたことが推察されている。
- 最終的に、魏は西晋に滅ぼされている。要因のひとつとして、曹操がけしかけて登用した司馬懿が起こしたクーデターにあるとされている。つまりは曹操が蒔いた種なのである。
[編集] 曹操批判に関する反論
- 劉備や諸葛亮のいた蜀漢が正当であるとする『三国志演義』は、朱子学者や月刊競馬誌サラブレなどといった血統主義者らによる劉勝系正統論に基づくものである。しかし疑似科学の一端に過ぎない血統論の正確性は非常に疑わしく、また、テイエムオペラオーやサンデーサイレンスの例に漏れず、血統が個々の馬の能力を絶対的に決めるとはあり得ないのである。第一、劉勝系も中国以外ではほとんど存在していない血統であって、ノーザンダンサー系などを差し置いて正統を称するのは井の中の蛙もいいところである。
- 曹操の身長が低いということは事実であるが、少なくとも1hyde以上の高さはあったというから、大きな問題にはならない。むしろ、1hydeという単位系に問題があるとも言えよう。
- 儒学思想や東夷思想が広まり、その流れの中で曹操は悪人であるというイメージが中国人に定着したが、これが結局清末期の洋務運動の挫折など、実力主義を阻害し政治改革を停滞させ、中国が欧米の半植民地になるひとつの要因となった。
[編集] その他有名な台詞
- 啓介、啓介(鶏肋をしゃぶりながらふと鳳啓介を思い出し、嘆息したとされる)
- 君と余だ!(キミ豊田?!、もしくは君が代だ!説有り)
- げぇっ! 関羽!(赤壁の戦いの敗走中に関羽と遭遇し、思わず漏らした感動の再開の挨拶)
- 君は我が脂肪である(部下の荀彧を評した言葉。脂肪のようになくては困るが、あっても(いても)迷惑と言う意味)


