曹邵

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』

曹紹 から転送)
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「曹邵」の項目を執筆しています。

曹邵(そうしょう、? - 190年)は、後漢末三国時代武将は伯南。または「曹紹」とも呼ばれる。『三国志演義』には登場しない人物である。

[編集] 生涯

豫州沛国譙県の人で、曹操夏侯惇夏侯淵いとこにあたり、曹真・曹彬の父、曹遵・曹文叔の伯父にあたる。娘はそれぞれ夏侯尚(夏侯淵の甥)・夏侯威(夏侯淵の四男)に嫁いだ。

一方、裴の字が引く『魏略』では、「秦伯南」(宜禄?)とされ、曹操のホモ達で、興平年間に袁術に追われ、農家に潜んだ。彼は曹操の身代わりとして「俺が曹操だあ!」と叫んで躍り出し殺害された。その子の「真」(?)を哀れに思った曹操の養子になったと記しているが、これは裴の字によるトンでもな誤りである。

三国志』「曹真伝」「郿載公子整伝」(曹操の22男の曹整の伝記)と『世説新語』『曹瞞伝』『民間伝承』とをあわせると、曹邵の実父(名は不詳、一説には「曹泰」とも)は夏侯氏の出で、曹操の父の曹嵩の実弟で、ともに宦官の曹騰の養子になったとされる。

また、曹操がヤンキーだった青少年時代に、叔父であった曹邵の父は甥の曹操の行為を快く思わず、兄の曹嵩に甥の与太ぶりを注意した。そのため、曹操は父に呼ばれて厳重注意を受けたのである。叔父の余計な行為に恨みを持った曹操は一計を浮かんだ。

あるとき、曹操は叔父と偶然出くわしたときに突然、発作を起こして、倒れた。これを見た叔父は兄のもとに飛び出しこれを告げた。曹嵩が息子のもとに駆けつけると、曹操は平然としていた。曹嵩が「お前は発作を起こしたのではないか?」と訊いた。すると曹操は「私が発作ですって?まさか…叔父上は私が大嫌いなので、あることないこを好き勝手に告げ口したいのでしょう」と笑っていった。それ以来、曹嵩は弟の忠告を聴かなくなった。しかし、その叔父の息子の曹邵と曹操は仲が良かったという。

曹操が20歳で孝廉に推され、洛陽の北都尉になったとき、いとこの曹邵も同時に郎中(宮中侍従官)となった。

歳月は流れ、権力を握ったブタ董卓に反抗した曹操が189年または190年に蜂起した。激怒した董卓は豫州牧の黄琬に命じて、曹操討伐を命じた。しかし、黄琬は董卓の命によって召還されることになり、黄琬は部下である沛国の相・袁忠(字は正甫、袁紹・袁術の親族)にその代行を命じて、自分は洛陽に帰還した。

まもなく袁忠は軍勢を率いて曹操を討伐した。このとき曹邵は殿軍を引き受けて、曹操を陳留郡酸棗県まで逃がしたのである。残った曹邵はあわれにも部下とともに袁忠軍に討たれてしまい、その首は玄関の飾り台にされた

これを憐れんだ曹操は、亡きいとこの曹邵の子曹真を引き取り、自分の子曹丕とともに寝食を共にさせたという。


余談として『魏書』「武帝紀」によ~るとね…、袁忠は陳留郡の辺譲と沛国の桓邵(なぜか曹邵の名と同じ…)とものすごく仲が良かったんだってさ。…というのも、袁忠は辺譲と桓邵は若き日の曹操と曹邵に向かって「こいつらは、「アレ」がない宦官の孫~宦官の孫だ~」とさんざんに馬鹿にした過去があったらしい。

後に曹操が兗州刺史に出世すると、今までの怨恨をはらすためにまず辺譲とその妻子をヌッ殺してしまった。これを聞いてビビった袁忠と桓邵はインドシナにある南方の交州(ベトナム)に逃げ出すも、「いとこの仇!」と叫ぶ執念深い曹操は交州刺史の士燮に命じて、袁忠と桓邵の一族郎党を皆殺しさせたんだとか…くわばら、くわばら。曹操はやはり第六天魔王だった…(曹操による復讐ではないが、黄琬も非業の最期をとげている)


歴史の渦に巻き込まれる! この項目「曹邵」は、歴史に関連した書きかけ項目から歴史に残る記事に進化しなければならない。歴史は今作られている!君の名をこの記事(の履歴)に刻むのだ。 (Portal:スタブ)