有島武郎

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有島武郎(ありしま たけお、1878年(明治11年)3月4日 - 1923年(大正12年)6月9日)は明治・大正に活躍した作家で、社会運動家で、自由恋愛論者で、話の分かる素敵なおじさまであり、3人の息子のパパだったが、彼こそが「或る女」であった。しかし悲しいことに、彼は旧士族の家の長男として生まれた。
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女になるまで[編集]

有島武郎の父・武は大蔵省の官僚でありのちに実業家となった人で、自分が薩摩藩士の子であったから、自分の跡継ぎとなるべき武郎にも同じように幼いころから『論語』を読ませ、体が弱いのに弓道や乗馬の練習を強いた。その一方で「これからはアメリカ人を相手にビジネスをしなければならないのだから英語を」と教育ママみたいなことを言って5歳からアメリカ人の牧師の家に通わせて英会話を習得させた。武郎はその英語を駆使して外国の小説を読み始めることになるのだが、父が文学を軽蔑しているのでこっそりと楽しむのだった。

ところでそのアメリカ人の家での英会話には、武郎だけでなく妹の愛子も行かされていたのだが、あるとき勉強の出来が悪いために愛子だけがオヤツをもらえないことがあった。武郎は自分のぶんのお菓子を口の中に隠して持ち運び、泣いている妹に与えた。なんか兄弟愛というより母猿の愛情であるが、サムライの息子としてはこういうこともこっそりとやらねばならなかった。

うんざりするくらいナイーブな男の子で、何かというと自分を責めた。妹が溺れて死にかけたときうまく助けに行けなかったとか、自分がちょっと目を離したすきに弟が碁石を飲んで……とかいったことをいい大人になってもまだ覚えていて、深い後悔の念とともに書いた。自分のやさしさや弱さを罪と感じ、それを隠そうとしながら武郎は成長した。見た目がいかにも押しの弱そうな美青年だったため隠しきれず、学習院の中等科では皇太子に気に入られて毎週末の遊び相手を務めた。結局親が期待するような「男子にふさわしい仕事」である政治家や軍人になることを諦め、農学者を志して札幌農学校に入ったが、そこで事件が起こる。

有島武郎は、学生の頃から、読んだ本の感想や人に言えないようなことを漢文体や英語で日記に書き残しており、そこから引用する。

(明治31年12月30日) 「卅日。晴天。昨夜ハ余ト森本君トニ取リテ實ニ非常ナル時ナリキ。余ハ其時ノ出来事ヲ日記ニ載スルモ厭フナリ。嗚呼若シ余ニシテ平生毅然タル丈夫ノ心アラシメバ森本君ヲシテカゝル挙動ニ出デシムルヿハ夢之レナカリシナリ。畢竟余ガ鍛錬ノ至ラザル罪遂ニ累ヲ森本君ニマデ及サシメヌ。余ハ秀麗貧夫モ其心ヲ正フスベキ此定山渓ノ山水ニ對シテ此事アリシヲ痛ク恥ツルモノナリ。余ハ再ヒ山水ヲ覲望スルノ勇氣ナキニ至リヌ。涙ハ余ガ此日終日ノ伴侶ナリキ。悲シキモノハ惡ニ誘ハレ易キ人ノ心ナルカナ。」

森本君というのは友人の森本厚吉のことである。有島は儒教教育でがちがちに固められた模範的優等生、いっぽうの森本はクリスチャンで、成績は良くなかった。男子校において親友とそういうことになるのはそう珍しい話ではないが、この場合はどうやら森本のほうが襲ったらしい。だが有島はまた自分を責めている。「私がもっと毅然としていたら森本君だってあんなことしなかったはず。私の日頃の鍛錬が足りないせいだ」と言ってその日一日泣き暮らしている。ハタチにして目覚めてしまったわけだが、事態はさらに面倒なことになっていく。

(明治32年2月10日) 「君ハ愁然トシテ曰ク、昨夜君ト爭論シテ相距ルゝノ夜、〔夢〕ヲ見タリト。而シテ之ニ次クニ涕ヲ以テシ、余ガ君ノ病ノ中嘗テ見舞ヒニダニ来ザリシヲ責メテ聲涙共ニ下ル。余之ヲ聞キテ實ニ云フ所ヲ知ラズ一言ノ君ニ對ス可キ辭ナシ。君ガ一種ノ幻影ニ襲ハレ不眠ノ病ヲ醸スニ至リシハ、實ニ世ノ賴ム可ラザルヲ悲シムト共ニ君ガ刎頸ト賴ミシ余サヘモ一囘ノ訪問ヲモナサゝリシガ爲メ深ク悲哀ニ沈ミシニ依ルナリ。然ラバ余ハ實ニ君ガ病ヲシテ甚ダ重カラシメタル惡魔ナリ。余ハ實ニ君ニ對シテ非情ナリキ。余ハ君ニハ眞ニ友情ヲ竭ス可キ誓フ居タリ。而シテ從来及ハズト雖モ之レヲナセリト信セシナリ。而シテ今此愚ヲナス。余ノ心ハ實ニ馬鹿ノ極ナリ。余ハ此時眞ニ只一死以テ君ニ謝スルノ外ナシト思ヒタルナリ。然レドモ君ノ病モ甚ダシキ所ニ余ガ死セバ或ハ却テ君シテ益々病ヲ重カラシムルヤモ知レズト思ヒカエツ。」

二人が喧嘩をしてしばらく会わなかったことがあり、森本はショックで寝込んでしまった。有島が久しぶりに森本に会いに行くと(行くなよ)、森本は「君と喧嘩別れしたあの夜、夢を見たよ……」と言い、続いて「僕が病気の間一度も見舞いに来てくれないなんてひどいじゃないかよ!」と泣きながら訴える。そこで有島は再度距離を置くのではなく、「薄情な事をした。本当にすまない。君の病気が重くなったのは私のせいだ。これはもう死をもって君に償うほかない」と言ってしまうのである。彼はいまや森本を完全に受け入れ、彼のペースにのって自分をこれ以上ないところまで追い詰めていた。しかもその後で「君が臥せっているこのタイミングで私が死んでしまうと君の病がますます重くなるかも」と言う。うっとうしい話である。このあと二人は深夜の神社の境内で長いこと語り合い、一緒に死のうという話になる。なんでだよ。そして山奥深く二人して手をつないで入ってゆき、ピストルで心中を図るも果たせず、代わりに森本と同じ宗教に入る、ということで話がつく。当然、家族から猛反対され、志願して軍隊に入ることで一時そこから逃れたが合わずに翌年除隊、次はアメリカに逃げた。それも森本厚吉と一緒に。昼ドラのあらすじではない。

アメリカに逃げたと書いたがハヴァフォード大学大学院への留学として行ったので勉強はまじめにやり卒業する。が、森本がまたやった。今度はアメリカ人の女とトラブルを起こし、止めに入った有島はまたピストルを突き付けられて死ぬ思いをしたのである。こうして有島のキリスト教への熱は冷め、トルストイゴーリキーを読んで社会主義に傾倒し、ホイットマンを読んで感激するなど思想的に大きな変化があった。どうもゴツイ、男臭い作家が好みらしい。

それで野戦病院で働いたホイットマンの真似をしてか現地の精神病院で働き始めるが、元が繊細なので自分も気が狂いそうになってすぐやめている。そのあとハーヴァード大学に入るが勉強が手に着かず、アメリカからヨーロッパ各地を回って好きな小説を読み漁ったり芝居を見たりと、初めて自由な生活を楽しむ。スイスでは、ティルダ・ヘックという一つ年上のゴツめの女に熱烈な恋をし、思わずキスをしたら「婚約してるの」と言われ、以降この家庭のある女性と生涯にわたって文通を続けるという、当時としても異様だし今の基準で考えてもなかなか凄いことをやっている。

帰国する船上で武郎の妄想は膨らみ、こんな日記を書かせている。

(明治40年3月11日、原文は英語) 「今日は自分がヴァイオリンであると空想していたら、ヴァイオリンのような気持ちになった。大音楽会で、とても才能のある中年の女性に使われた。見たところこの女性はかなり沈んだ気分のようだ。弓が僕の弦に触れるたびに、僕の心臓は突き破られるようだった。そこで彼女の気持ちに合わせて、僕は声を高くした。彼女が弾き続けるにつれて僕の感情はますます深くなり、ついに僕は彼女のなかに没入し、僕の中に彼女を見出すに至った。それで彼女がどうして暗い気持ちになったかが分かったのだが、…若いとき彼女はとても美しく、夢のような生活をしていた。が、ある日突然、ひとりの男が現れて、その男がヴァイオリンとなった。そのヴァイオリンが僕である。彼女はそのヴァイオリンを、演奏するときはとても丁寧に扱うが、そうでないときはゴミの山の中に放り出しておく。優れた聴衆の前で演奏したあとにしのばなくてはならないこの苦痛を僕は想像した。」

男である自分が、ふくよかで女性的な形をした楽器であるヴァイオリンとなり、才女の思いのままに歌い、役目が終わればゴミの中に捨て置かれる!以前から押しの弱いところはあったが、この遊学時代に、有島の「強い女に操縦され、彼女の身になって感じ、一つになりたい」というマゾヒスティックな願いは確固たるものになった。

作家活動スタート、家族をもつ[編集]

1910年。学習院を出たやんごとなきおぼっちゃま二人が「志賀君、文芸雑誌をやらないか」「いいとも武者小路君、ところで前から思っていたんだが、君はやけに色が白くてしかもどことなくカバに似てるよね」などと話し合って、同人誌を始めた。かの有名な『白カバ』である。帰国後の有島はこの同人誌にエッセイや小説を発表した。北海道大学の講師となり、寄宿舎の監督係として学生にしっかり自律しろ、オナニーするななどと説くかたわら、自らの理想や欲望を芸術に昇華させる日々を送っていたのである。それから強そうな女も見つけた。海軍中将の娘、神尾安子である。31歳のとき彼女と結婚し、ようやく童貞を捨てた。極寒の地でやることがあまりなかったのか、3年間のうちにたて続けに3人の男の子を産ませている。

1914年発表の『An incident』という小説がある。子供が夜中にぐずるのを妻がなだめていて、いっこうに収拾がつかないので自分も行こうとするが、子供に「ママちゃんのそばに来るな」と言われて戻る。その後もなかなか泣きやまない子供に妻が「パパが怒りますよ」と言った瞬間、パパはキレて子供を押し入れに放り込んでしまう。子供が中で泣くのを背中に聞きながら寝た振りをしつつ激しく後悔しているところに妻が「出してやらなくていいんですか」と冷ややかに言うので「おまえ出してやれよ」と言うと、「あなたが入れたのを私が出したら私ばかり良い役になってしまう」と言い返される。パパは言われた通り布団から出て子供を連れて戻ってきて「さあママちゃんに謝りなさい」と子供に頭を下げさせるが、子供がすっかり畏縮してしまっているのと妻が向こうを向いたまま何も言ってくれないのとで自責の念はさらに増し、妻子が寝てしまった後もどうしても眠れない。ほぼ実話だろう。うんざりする話である。家で子供に「パパ」「ママちゃん」と呼ばせているのが分かってしまうのも何だか嫌だが、このママが自分は常に「良い役」の位置にいて、ほとんど動かずにパパを操縦している、そのやり方は実に見事だ。キレてしくじり、女々しく後悔し、人の言いなりになっている情けない役は全部パパである。

主従関係については理想的だ。だがまだ足りない。妻の身になって感じるところまでなかなか至らない。どうしたものかと思っているとその妻が結核にかかってしまったので、教職を辞し、家族で東京に戻って懸命に看病するも3年後に亡くなる。かけがえのない女王様を失ったその年に、彼に「武家の長男」であることを強いた父親の武も死ぬ。

愛の人へ[編集]

望まない束縛と自ら望んだ束縛の両方から解き放たれた有島武郎は、当時の社会通念に反することを猛烈に書き始める。

『小さき者へ』は3人の幼い息子たちにあてた手紙だが、いきなり「かけがえのないママを失ったお前たちは不幸で、その傷は癒えない」と言う。その上で、自分たちは経済的には何不自由なく暮らし、ママからも愛されて幸福だが、世の中にはそうでない人もいる、だから今後はその溝を埋めるために働こう、と続ける。

「お前達と私とは、血を味った獣のように、愛を味った。行こう、そして出来るだけ私たちの周囲を淋しさから救うために働こう。私はお前たちを愛した。そして永遠に愛する。それはお前たちから親としての報酬を受けるためにいうのではない。お前たちを愛する事を教えてくれたお前たちに私の要求するものは、ただ私の感謝を受取って貰いたいという事だけだ。」

儒教思想においては子に親孝行を求める。だが有島は、若い力を死にゆく親のために使うべきではなく、私が死んだその後から、力強く歩んで行って欲しい、と言う。彼は、妻や子を私有財産と考える従来の家族制度を否定した。

「愛のある所には常に家族を成立せしめよ。愛のない所には必ず家族を分散せしめよ。この自由が許されることによってのみ、男女の生活はその忌むべき虚偽から解放され得る。自由恋愛から自由結婚へ。」『惜しみなく愛は奪う』

愛によってのみ家族はつくられるべきで、愛がなくなれば別れるべきだ、自由恋愛から自由結婚にいたるのが良い、と言うのだ。今どきの話ではない。大正である。有島武郎のもとには彼を慕う文学青年、女性運動家、社会主義者、無政府主義者、無産運動家、そのふりをした押し売り、宗教の勧誘、金の無心、ちんぴら、有閑マダム、近所の子供などが出入りするようになった。彼は社会に抑圧され、自由を求めて闘う人々のスターになった。女性誌にもひっぱりだこである。

❤有島先生の恋愛相談室❤[編集]

Q.自由恋愛は男女間に愛があるうちはいいですが、愛がなくなったがゆえに家庭を分けてしまって、子供はどうするのですか?

先生の回答

「子供を財産の一部と見なさずに、つまり所有観念を離れてみるときは、ただ純粋に可愛いだけであるべき筈であります。そうすれば自分の子供が成人した時に、その愛人を物質的な量で批判して、子供達の恋愛生活に嘴を入れるなぞということもなくなるわけであります。子供が所有物でなくなる時、親はその子に対して生みの親として純粋な本能的な愛を感ずれば足りるのであります。そうすれば、ひとり自分の子供だけがかわいいのでなく、一般に子供というものが可愛くなってきます。」

そこまで行くと「人間愛」だが、このときはそこまで書かなかった。


Q.三角関係に陥ってしまいました。どうしましょう。

先生の回答

「後から現れた第三者の魅力が超大であって、夫妻の恋愛関係をも断ち切るほどの強さがある場合には、これは施す術のない運命的の悲劇であって、いよいよ切羽詰まったカタストロフには死ぬか殺すか殺されるかまでゆく場合も起こりましょう。…こういう運命的の悲劇に対しては批評の余地がありません。私たちはただ人間共有のさびしさ、せつなさを嘆いて、悲劇の主人公にひと掬いの涙を注ぐばかりであります。

私有財産制度というものが破壊せられて、もっと合理的な社会組織がわれわれの間に待ち来される日が来たならば、その時こそ、運命的の悲劇を除く他の多くの禍根が除かれて人々はもっと純粋な本能的な愛の力によって結びつくことができるでありましょう。(大正12年、女性誌『婦人世界』)」

どうしようもないそうです。

1919年、これらの思想をふまえた有島文学の集大成『或る女』が完成する。

或る女[編集]

才女・葉子は3人姉妹の長女で、美しく気が強い。「お前はヴァイオリンを上手く弾くが、所詮は小手先のテクニックがあるだけじゃ」と男の音楽教師に言われて「あっそ」と言ってヴァイオリンを窓から投げ捨てる場面がある。ヴァイオリンはバラバラ、有島の性癖が存分に現れている。葉子は有島がかつて船上で、自分の中に見出した女なのである。

葉子は何人もの男を手玉にとり、というか、純粋な恋愛の時期を過ぎて男が威張り始めるころあいを見計らって、その直前に捨ててしまうことを繰り返していた。最初に結婚した作家の木部もなんか小うるさい、女々しいしょうもない奴だと分かって離婚し、彼の娘・定子を彼に知らせずに産んで、彼女の母が私生児をいじめないように乳母に預けた。その後若き実業家の木村と結婚するため渡米する船の上で、学者夫人に嫉妬されたりという青年をかわいがったりしていると、野性的な船員(事務長)の倉地と出会い、妻子ある彼にどうしようもなく惹かれる。

(葉子の感情を最も強くあおり立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を充分回復した健康な男の容貌の中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力がこもっていると葉子は始終感ずるのだった)葉子は倉地に存分な軽侮の心持ちを見せつけながらも、その顔を鼻の先に見ると、男性というものの強烈な牽引の力を打ち込まれるように感ぜずにはいられなかった。息気せわしく吐く男のため息は霰のように葉子の顔を打った。火と燃え上がらんばかりに男のからだからは desire の焔がぐんぐん葉子の血脈にまで広がって行った。葉子はわれにもなく異常な興奮にがたがた震え始めた。

倉地の船室で、起きぬけの寝間着姿の彼に野獣のように抱きすくめられて「抗えない」と思ってしまうのである。有島がこれを書いたとき親友の欲望を拒めなくて涙したハタチの夜を思い出していたかどうか知らないが、彼は倉地の生命力、マッチョぶりを礼賛する。倉地には3人の娘がいる。3人の息子を持つ武郎の鏡であり、彼がなれなかった理想の男だ。賢いはずの武郎、じゃない葉子がワイルドな船乗りにぞっこんになるだけでもいやらしいがさらに意地の悪いことに、葉子には子宮の病があり、このとき痛みがぶり返すのである。 身体感覚に訴える描写は多く、女でなければ書けないようなところがある。葉子が娘の定子に会いに行こうとする場面を引用する。

心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子の頬の膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんすの弾力のある軟らかい触感を感じていた。葉子の膝はふうわりとした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がり角の朽ちかかった黒板塀を透して、木部から稟けた笑窪のできる笑顔が否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。

息子にお乳をやったことがあるのだと思う。父乳を。

葉子は木村に気を持たせたまま帰国し倉地と結ばれるが、倉地は学者夫人にチクられて失職、スパイに身を落とし、葉子は木村に倉地とのことを知らせず、アメリカから金を送らせて妹たちや倉地や時々通ってくる岡とともに贅沢に暮らす。生活は行き詰まり、葉子は倉地の元同僚から恐喝されるようになったり、妹が倉地とデキているかもと疑ってヒステリックに暴れたりと追い詰められていき、やがて倉地が失踪、葉子は以前からの持病が悪化し、手術ミスで子宮をえぐられて痛みにもだえながら一人で死ぬ。最後まで子宮である。男のように好き勝手に生きた罰として最後の場面で「女」が逆襲するのだという評論もあるが、見舞いの花を怒りを込めて握りつぶすカッコイイ場面もある。自業自得だなんて彼女にも分かっていて、その上で自分を曲げずに結果を一人で引き受けて死んだのである。

有島武郎自身も。

二度目の心中まで[編集]

大作を仕上げた後、有島は社会運動に励んだ。彼が若いときに父親が、もし息子が自分のような職業に就けずとも食っていけるようにと北海道に買っておいた広大な農地があったのだが、資産家になりたくなかった武郎はそれをまるごと放棄し、小作人たちに解放して自分は借家に移った。農地解放の試みは失敗に終わったが、「完璧な計画を立てて、それでもしくじってモミクチャにされました。とても満足です。」という声明を発表し、創作に邁進した。

『或る女』は先に書いたとおり、賢い女の「運命的悲劇」だし、中編の代表作とされる『カインの末裔』も北海道の粗暴な農民がムチャクチャをやって自滅する話である。しかし晩年の有島の創作には明るい結末が多い。

死の前年に発表された第二長編『星座』はとてもかわいらしい話である。出てくるのは札幌農学校に学ぶ若者たちで、みんなおぬいさんという娘のことが好きだ。そのおぬいさんに英語を教えていた学生が病気のため帰郷することになり、その役目を科学者志望の優しく慎重なにゆずる。園君は戸惑い、おぬいさんに役目を断り、ブサイクで頭のいい渡瀬に代わりを頼む。渡瀬は自分の容姿を自覚していてそのあたりをひょうきんさで隠している男で、おぬいさんと一緒にアーヴィングを読みながら、何でもないふうに彼女に「園君のことを好きだろう」と訊く。そのときの反応を見て両思いだと確信した渡瀬は園に「自分の気持ちを話せ」と伝え、やけ酒をあおる。園の父親が亡くなって帰郷せざるを得なくなり、その前に園はおぬいさんと彼女の母親の前で、自分の思いを告白する。おぬいさんがさっと立ちあがって出て行き、隣の部屋でしのび泣くのが聞こえて、園君は悩む。家を出る時、おぬいさんが奥から出てきて、畳に手をついて深ぶかと頭を下げる。顔が見えないので「ふつつか者ですがどうかよろしくお願いいたします」なのか「ごめんなさい」なのか分からない。園君が悶々としつつ故郷を目指すところで話は急に終わる。芥川龍之介ら同時代の作家に「バタ臭い」「NHKの朝の連続テレビ小説みたい」と酷評されたから途中やめにしてしまったのである。しかし、答えはイエスだという気がする。

同じ年に書かれた戯曲『ドモ又の死』も似たような話で、貧乏な画家の卵たちみんながモデルの女の子を好きで、誰か一人が彼女と結婚するかわりに死んだことにし、スポンサーの成金に彼の遺作展を開かせれば仲間の絵も世に出せるぞ、という計画を立てる。最終的にモデルの女の子が好きな相手を選んで話がまとまり、その幸せな一人に仲間が「お前ブサイクだからこれでいいな」と言いつつベートーベンの胸像に色を塗ってニセの死体を作っているところで幕である。おおらかなことだ。

1923年、死ぬまさにその年に発表された『親子』では、頑固な商売人の父と理想家の息子が対立するが、父が最後にぽろっとこのように言う。

「俺し(わし)は元来金のことにかけては不得手至極なほうで、人一倍に苦心をせにゃ人並みの考えが浮かんで来ん。お前たちから見たら、この年をしながら金のことばかり考えていると思うかもしらんが、人が半日で思いつくところを俺しは一日がかりでやっと追いついて行くありさまだから……」  そう言って父は取ってつけたように笑った。 「今の世の中では自分がころんだが最後、世間はふり向きもしないのだから……まあお前も考えどおりやるならやってみるがいい。お前がなんと思おうと俺しは俺しだけのことはして行くつもりだ。……『その義にあらざれば一介も受けず。その義にあらざれば一介も与えず』という言葉があるな。今の世の中でまず嘘のないのはこうした生き方のほかにはないらしいて」  こう言って父はぽっつりと口をつぐんだ。

それで息子は戦意を喪失し、実家の縁側に出て景色を眺めながら父の人生に思いをはせる。ここにきて有島は、社会通念のくびきであり、憎むべき旧制度の象徴だった父に理解を示し、ついに和解した。全ての人を受け入れ愛することができるところまで彼は到達し、その後も円満に人生を送れたかもしれない。波多野秋子が現れなければ。

彼女は女性誌の記者で、押しの強そうな、ウルトラマンセブンみたいな顔をしている。彼女によって有島武郎のマゾは再燃した。秋子にはけっこう年上の夫がいたのだが、二人は何度か関係を重ね、ついに夫にバレて武郎はぶん殴られている。

武「ンンン゛ッ!!もっと、もっと強く」
夫「何だお前は。警察行くぞ。姦通罪で訴えてやる」
武「それもいいなあ。みんなから散々罵倒されたあげく、牢屋に入れてくれるんでしょう。おまわりさん警棒でぶってくれるかな」
夫「じゃあ金だ、妻はやるから金をよこせ」
武「それは嫌だ。私たちの愛をお金で解決するなんて。全然気持ちよくない」
夫「ホント何なんだよお前ら。チクショー、ただじゃすまさんからな」

というやりとりのあと、夫が去って二人きりになった部屋で、秋子が武郎に囁いた。「ねえ、死のっか」

若い頃から、頼まれると断れなかった。自殺することを知人にうちあけたとき、やはり武郎は「頼まれたから……」と言った。女から「死」の言葉が出た時点で、彼にもう選択肢はなかった。

武郎「どこで」
秋子「軽井沢の別荘に二人で行きましょう。もうすぐ夏場だから、見つかった時は私たちきっとグッチャグチャに腐りきっているわね」そんな汚らしい、なんて、なんてすばらしいんだろう!武郎の心は動いた。「それからね、」秋子は続けた。
「私の着物、着ていいわよ」武郎は喜びにうちふるえた。

こうして大作家、有島武郎は、最後に軽井沢の別荘でウルトラマンセブンとおままごとをして、首に女の帯をうれしそうに巻いて死んだ。死なないと着たい服が着られなかった。遺書には「私達の死骸は腐乱して発見されるだろう」と書いた。その通りになった。どっちがどっちか分からないほどだった。

彼の死後、その死については多方面からくそみそに書かれ、彼の著作を教科書から外すという話も出た。志賀直哉は老いて頑健さを自慢し、竹馬に乗って遊んだし、武者小路実篤はボケて、ヘタクソな芋の絵を色紙に書いて喜び、やがて二人とも死んだ。有島武郎の長男は人気俳優となり、1954年『或る女』映画化の際にはマッチョな船乗りの倉地を演じた。彼も死んだ今、有島武郎の柔和な瞳は、生きづらい我々をまだ見つめているのだろうか。そして奥秀太郎の女だらけのあの映画をどう思うだろうか。

Upsidedownmainpage.jpg 執筆コンテスト
本項は第36回執筆コンテストに出品されました。
ばなな
流行記事大賞 残念で賞受賞記事

この記事は2016年流行記事大賞にて何も受賞していません。
いや、ただこれを貼っただけなのですが、何か?