柳沢吉保

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「急に柳沢吉保が来たので」
柳沢吉保 について、柳沢敦

柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす)は、江戸時代中期の政治家。5代将軍徳川綱吉の側用人として栄達した。キチガイ将軍として知られる綱吉のお守りが唯一まともに出来た傑物。時代劇では悪役俳優が扮し、悪巧みをしていたり、水戸黄門に悪事を喝破されて狼狽したり歯軋りするシーンがよく描かれ、ステレオタイプの悪役と化してしまっている。

賄賂の横行を助長したとか、自分の保身と栄達の為に権謀術数を尽くしたなどと言われているが、一方で無欲で潔い人間だったとも言われており、その人物像についてはよく分からないところが多い。ただ、旧来の幕閣や忠臣蔵信者を中心とする連中から蛇蝎の如く嫌われたのは事実で、本人の人格や資質がどうであれ多くの人に嫌われたことが現在に至るまでのマイナスイメージを醸成させたと考えられる。

側用人制度[編集]

吉保は側用人という役職にあった。側用人というのは、将軍に常に近侍して身の回りの世話をする仕事で、将軍の寵愛を受けた側近がなった。そのため、俄然将軍との結びつきが強くなり、将軍の権威を傘にきて幕政にも関わるなった。

側用人制度が生まれた理由は二つある。その一つは、綱吉が大老や老中など、幕政を主導するブレーン達を嫌ったことにある。綱吉は将軍に就任したばかりのことは、大老堀田正俊を幕政の主軸に据えて政務を執行していた。ところが、厳格で妥協しない堀田は綱吉に忌憚なく諫言することが多く、とくに贅沢を嗜めることが多々あり、奢侈好きな綱吉と、その母である桂昌院は、次第に堀田を煙たがるようになった。綱吉は、サイコパスであり、パラノイアであった為、嫌いな人間はトコトン嫌い、殺意さえ抱く。綱吉は堀田に対して、憎悪を通り越し殺意を抱き始めていた。そして堀田は稲葉正休に殿中で斬りつけられて殺される。綱吉が堀田を葬ろうと裏で画策したという風聞が飛び交い、殆どの人間はそれを信じた。綱吉は、堀田以外の老中らに対しても、堀田ほどでは内にしろ煙たい感情を抱いていた。もともと、甲府から来た綱吉と、家綱の頃より幕府に勤仕していた老中達とでは、波長の合わないところもあった。堀田の死以降、綱吉は自分と幕僚達との間にワンクッションを置いた。そのワンクッションが側用人である。大老、老中らが綱吉とコンタクトを取る際は、いちいち側用人を経由しなければならない。権威が高まるのは自明であった。

もう一つの理由は、綱吉の精神的な問題に起因する。何度も言うが綱吉はキチガイである。学問を好むなど聡明なところもあるのだが、突飛な言行に走ったり、城中でウンコを垂れ流しにする、僅かなことで斬れて近習・旗本を撫で斬りにするなど、狂気の沙汰としか思えない素行も多かった。その為、被害が拡散しないよう、綱吉の行動を制御し、常にご機嫌取りを行い、文字通りの尻拭いができる人物が必要だった。これが側用人制度が採用された第2の理由である。

吉保の前に、牧野成貞という側用人がいた。彼は綱吉の御機嫌取りのため、自分の嫁と娘まで妾として綱吉に献上したという。それでも綱吉の奔放さについていけず、側用人の座を吉保に譲渡して逃げてしまった。かくして吉保は側用人となったのである。

業績[編集]

綱吉に追従し、その権威を傘に着てやりたい放題やっていたと言われる吉保だが、実際やりたい放題やってたのは綱吉で、吉保はその尻拭いに身を粉にして尽力した。まず、綱吉は、一日に二回は、必ずと言って良いほどウンコを漏らした。それもわざとである。後始末をするのは、吉保である。始末が遅れると、まず綱吉から叱責される。そして、城中がウンコ臭くなるので、老中とか、大奥の女中からも難詰される。矢面に立たされるのはいつも吉保であった。

おまけに、吉保がお守り、御機嫌取りをしなければならない相手は綱吉一人ではなかった。綱吉には、桂昌院というママゴンがいた。桂昌院は我侭で奢侈を好み、幕府の貯金は湯水の如く蕩尽され、また彼女の気まぐれ一つで政務や行事が大幅に停滞することも少なくなかった。吉保は桂昌院の贅沢の為に自らの私財を投じたという。回りの人々からは、綱吉と桂昌院に迎合し、追従しているだけのイエスマンと思われていたようだが、想像を絶する苦労人だった。

綱吉に近侍する吉保は、綱吉と談話することも多かった。キチガイである綱吉だが、勉学には熱心で、荻生徂徠ら哲人達の講釈を受け、知識は豊富であった。そんな綱吉との会話では、自然と学術的な話題となることが多い。一定以上の知識がないと、話にならない。しかし、吉保は綱吉同様学問への熱意が深く、綱吉に劣らぬほど潤沢な知識を持っていた為、話相手として不足はなかった。

元禄赤穂事件が起こった際は、逡巡する綱吉を後押しし、浪士達に切腹させることを主張したと伝わっている。このため、忠臣蔵の信者からは綱吉、吉良上野介と並び三悪党として糾弾されている。所詮テロリストに過ぎない赤穂浪士に武士として名誉ある切腹の措置を下してやっただけでも充分寛大じゃないのかとつっ込んではいけない。忠臣蔵信者はシーシェパード並に冗談の通じない頑迷な連中だから。

綱吉が死ぬと、これでようやく重荷から解放されましたと言わんばかりに幕政から退き、所領である甲府に逼塞して静かな余生を過ごした。身の程を知っていたのである。身の程を知らなければそもそも側用人など務まらない。

お膝元である甲府ではそこそこの善政を敷いたそうで、郷土の名君として慕われているかと思い気やあまり人気はない。露骨に吉保を称賛しようものなら忠臣蔵信者と山梨県の全面戦争になりかねず、また忠臣蔵信者は山梨県にも多いため、県民は皆吉保を称賛することを憚ってしまっているのがその原因である。また甲府には武田信玄こそ山梨の唯一無二の英雄と信じてやまない信玄教と呼ばれる頑迷な宗教があり、その教徒達が忠臣蔵信者と結託して吉保の顕彰活動を妨害しているとも言われている。

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