武田信玄
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武田 信玄(たけだ しんげん)は戦国時代のマルクス・エンゲルスの気持ちいい合体によって共産主義の概念が確立されるよりはるか前に共産主義体制を甲州に確立した偉人でもある。その服装や旗印などが示すように真紅様大好き人間でありその気のある戦国武将。本名武田晴信。子孫に武田鉄矢、武田真治などがいる…多分。 親不孝者で子殺し。通称武田チンゲン斎。石原軍団、ジャニーズ事務所に匹敵する大所帯武田騎馬軍団の取締役として有名。武田家の戦の要として活躍した赤備えは、信玄の信奉する共産主義の結晶である。
不毛な甲斐に領土を持っていたため、財政は逼迫していてまともな城を建てる金すらなかった。金欠で城すら建てられないことに対する負け惜しみとして信玄が放言したのがかの有名な「人は城、人は石垣」という名言である。
概略[編集]
甲斐国に共産主義のエデン武田幕府を開いて北の上杉公議と度々川中島の戦いを起こしてきた。しかし上杉公議の国家主席上杉謙信とは実は仲が良く、むしろ結婚を前提に密かにデートしていた。川中島の戦いは大規模なデートであったとする説も少数ながら支持されている。何故デートで殺し合いをするかと言えばそれは彼等の思考回路が尋常ではないから、の一言で片付けられる。あるいは愛しさ余って憎さ百倍の関係だったのであろう。重厚な雰囲気を漂わせる武将だが、意外にお茶目なところもある。例えば武田信玄はトイレで政務を執り、「草木(臭き)の絶えぬ所」であるからという理由でトイレを山と呼んでいた。この事から武田信玄は山で野糞をしたいという願望があったものと窺える。
また「英雄色を好む」の言葉通り様々な男女と関わりを持ち、昼ドラの主人公として1年持ちそうなほどの好色家でもあった。その剛毛(特に髭)から日本のレーニン、及びスターリンとも呼ばれる。資本主義を信奉するラショナリストの織田信長にとっては唾棄すべき象徴であり、後に武田を滅ぼした際、信長は徹底した「赤狩り」を行っている。
意外に知られていないがプログラミング言語「Ada」が大嫌いだった。「人は城 人は石垣 人は堀。情けは味方 Adaは敵なり」との言も残されていることからも窺い知れるが理由は まったくの不明である。
来歴[編集]
親父を追放する[編集]
武田信虎の長男として生まれた信玄は、親父の信虎を駿河へ追放するという親不幸きわまりない手段を用いて家督を継承した。信虎を追放した理由として、よく、信虎が暴君ハバネロだったとか、信虎が信玄の弟の信繁を偏愛したとか言われているが、これらの信虎を貶める説は、いずれも後から信玄の「親父追放」を正当化するためにでっちあげられた虚構である。
そもそも、信虎が信繁の方を本当に偏愛していたのだとしたら、最上さん家のように、信繁は信玄によって殺されているはずである。ところがどっこい、信繁は信玄に殺されるどころか、信玄を兄と敬い支援して八面六臂の活躍をし、最後は川中島まで信玄の身代わりとなって戦場に散華した。このような信繁の経歴を勘案しても、信虎が信繁を偏愛したなんて話はでっちあげであることが分かる。
信虎が暴君だったという話も、偏った観点から見た人物像に過ぎない。確かに信虎は工藤虎豊(内藤昌豊の父)など、譜代の家臣を何人も粛清したが、先代の頃に構築した権力の土台の上にふんぞりかえって、後継ぎの言う事を聞かない老害の譜代どもをやむをえず粛清するなんてことは、戦国時代にはよくあったことである。信虎のやったことは、戦国大名として当たり前に過ぎない。さらに言えば信虎は家督相続後から周囲は敵も同然(一族でさえも反逆)の状況におかれていたから用心深くなるのも無理は無い。
そして信玄の親父追放だが、これもこれで戦国大名としては当たり前のことである。浅井長政だって最後は和解するものの強制継承をやっている。早熟だった信玄は、信虎に早く家督を俺に譲って隠居してくれと催促していたが、ガンコな信虎は「若造が何を言うか」と、一向に家督を譲る気配を見せない。それゆえ、信玄はクーデターという強硬手段を用いて、家督を強引に継承したのだ。下剋上の風潮が流布する戦国時代にあっては、何らおかしいことはない、理に適った家督継承である。斎藤道三や大友義鑑と違って信虎は殺されないだけマシだったのかもしれない。
信州を蚕食する[編集]
武田家の「お館様」になった信玄は、さっそく版図の拡充に取りかかった。武田の領国甲斐国は四方を山に囲まれており、港を保有する戦国大名達に優位を付けられていた。海に面した領土を確保したい信玄は、海を目指して領土を拡大することを企図する。甲斐から最も近い、海に面した国は、南の駿河と南東の相模である。ところが、駿河の今川義元とは同盟を締結してしまっており、南東の相模を保有する北条は守備の強さに定評があって潰すのは不可能に近い。
八方塞がりかと思われたが、信玄はひたすら北へ進み、越後まで掌中に収めることで海に面した領土を獲得する方針を立てた。途方もなく、遠大な計画である。越後の途中には信濃があり、小笠原長時、諏訪頼重、そして北信の驍将村上義清らが割拠する。信玄の当面の目標は、信濃の征圧とそこに割拠する戦国大名らの駆逐となった。
最初のターゲットになったのは諏訪頼重である。頼重は、戦国大名であると同時に、諏訪大社の神官さんであった。大名もどきの神官など楽勝だろうとたかをくくっていた信玄だが、いざ戦って見ると頼重はひとかどの武将であり、攻略に難儀した。力押しでは駄目だと悟った信玄は、謀略で頼重を倒そうとした。頼重は、女にだらしがないところがあり、信玄はその性格につけこんで、頼重に自分の妹を嫁がせ骨抜きにさせて、嫁がせた妹の世話役として送り込んだ山本勘助に油断した所を寝首を掻かせて頼重を抹殺し、諏訪を手中に収めた。
諏訪攻めに一番功績があったのは山本勘助であったが、勘助は、諏訪頼重の娘・諏訪御前に一目ぼれしてしまい、信玄が褒美は何かと尋ねたところ、勘助は諏訪御前を幸せにして欲しいと所望してきた。そういうわけで、信玄は渋々頼重の娘を妻に迎えることとなる。父の仇である信玄を最初諏訪御前は快く思わず、暗殺しようとしたこともあったが、懐もイチモツも大きい信玄は容易く諏訪御前を篭絡し、彼女との間にやがて四郎勝頼を設けることになる。
次に信玄は、小笠原、村上の攻略にとりかかったが、小笠原長時、村上義清ともに卓越した武勇を誇る合戦上手で、真正面から戦った信玄は惨敗し、板垣信方はじめ武将を多く失った。真正面から戦って勝てないことを悟った信玄は、頼重の時と同様、ヘッドハンティングや間者を送り込ませるなどして、謀略によって小笠原、村上の家中を内側から切り崩して崩壊に追い込んだ。かくして、信玄は信濃全域を手中に収めることになった。全体的に俯瞰すると、戦上手などと言われている信玄だが、長時、義清と正面から戦った戦では負けっぱなしであり、勝ちの要となったのは謀略であり、戦は下手なくせにセコイ手段ばかり使って勝っている。謀略ばかり用いたのは孫子への傾倒と山本勘助の影響だと言われている。
宿敵との邂逅[編集]
ついに信濃を制圧し、海に面する越後まであと一歩のところまで迫った。ところがその越後には、恐るべき怪物がいた。後の上杉謙信こと長尾景虎である。謙信はおにゃのこであったが、采配は男の武将よりはるかに優越していた。信玄は港を目の前にして立ち塞がった強敵に武者震いすると共に一目惚れしてしまったらしく、上杉を蹴散らし、謙信を押し倒して手篭めにすることを人生の目標とするようになった。
信玄と謙信は何度か北信で刃を交えている。有名な川中島の戦いで、通説では5回行われたと言われているが、実際はもっと多くの川中島合戦があった。しかし、それらの多くは単なる様子見で終わり、しかも段々合戦ではなくお見合いの様相を呈するようになっていた。 また、信玄は謙信の太刀による強襲を軍配で受け止め防いだという逸話も存在する。
三国同盟[編集]
信玄が謙信とイチャイチャしている頃、南東の北条がお抱え忍者の風魔小太郎を使って何やら怪しげな行動を取り始めるようになる。背後を衝かれてはたまらない信玄は、今川義元に斡旋させ、武田、北条、今川の三国同盟を強引に結ぶ。それぞれの家の当主の娘を、それぞれの家の嫡男に嫁がせるという形式を採用した為、盥回し同盟とも言われている。発案したのは太原雪斎だが、山本勘助は俺の功績だもんねと吹聴していた。
川中島の合戦[編集]
信玄と謙信の間で行われた川中島合戦の内、最も大規模なものは1561年に行われた合戦だという。謙信が信玄に対して「タイマン勝負で勝ったらお嫁さんになってもいい」と持ちかけてきて、信玄がその誘いを承諾したことで合戦は起こった。この傍迷惑な合戦で、信玄の弟信繁が戦死した。兄貴の身代わりとなって死ねるのは至上の幸せですと言いながら死んだらしい。本人は満足だっただろうが、報われない最後であった。軍師の山本勘助もこの戦で散華したと言われているが、実際にはこれより前に、屋根の上で寒いギャグを言って大笑いしているところを、足を踏み外して転落死している。甲陽軍艦の作者が、この死に様ではあまりにみっともないので、立派に戦死したことにしといてやろうと、善意の捏造をしてやり、勘助は川中島まで立派に死んだということになっている。
突然の方針転換[編集]
川中島で何度も戦う内に、信玄と謙信は仲良くなってしまい、同盟を結んでしまった。しかし、同盟を締結したことで、越後侵略ができなくなり、港を手に入れて北上するという元の計画が頓挫してしまう。港を手に入れる方法を模索した信玄は、かねてより同盟を結んでいた今川との同盟を破り、駿河へ侵攻する方針を立てた。盟友今川義元は1560年に織田信長の奇襲によって横死しており、息子の代になってまで情誼を尊重する必要は無いよねというのが、同盟破棄の口実であった。
息子を幽閉する[編集]
当然のことながら、家中から反撥が起こる。中でも激しく反撥したのが、同盟の一環として今川義元の娘を娶っていた嫡男武田義信で、対立が嵩じてついには義信がクーデターを計画する段階にまで達し、信玄は義信を幽閉、義信の傅役だった重臣飯富虎昌が責任を取り切腹して果てた…というのが通説だが、実際には義信は謀叛など計画していなかったし、今川との同盟破棄も「仕方ないね」程度にしか思っていなかった。しかし信玄は、義信は反撥して謀叛を起こすに違いない、かつて自分も親父の信虎を追放したから、自分もまた息子に追放されるかもしれないという強迫観念にとりつかれており、義信を幽閉してしまった。また信玄が本当に始末したかったのは重臣ゆえに発言力が大きかった飯富の方で、義信はその巻き添えを食らって幽閉されたに過ぎないという見解もある。
幽閉された義信は絶食し、数年後に栄養失調で死亡した。次男竜宝は盲目ゆえに僧籍に入っており、三男は夭折していたため、順当に四男であった勝頼が家督を継承することになった。勝頼と言えば、信玄が滅ぼした諏訪頼重の娘に産ませた子である。その為武田家中には、勝頼を諏訪の子として忌み嫌う風潮があった。おかげで勝頼は家督を継いだあとそういった獅子身中の虫達の相手に苦労するわけだが、信玄はそんなことは全く気にしていなかった。
駿河を併呑する[編集]
今川との同盟を破棄した信玄は、徳川家康、織田信長と結託して今川の領土である駿河、遠江、三河を山分けした。信玄は駿河と遠江の一部を手にいて、ねんがんの港を入手した。
なお、謙信との同盟の一環として、越後から塩が輸送されるようになったため、駿河に攻め込む必要はなかったんじゃないかという説もある。
上洛[編集]
海を手に入れ、当面の目標を果たした信玄は、いよいよ天下統一に向け雄飛しようとしたのだが、あまりにも歳を取りすぎていた。既に40代後半、中世の人間の平均寿命が迫っていた。しかし信玄は「長生きすること亀の如く、わしは80までは平気で生きられる」などと根拠の無い自信を抱いており、上洛を敢行した。そして徳川家康を三方ヶ原の戦いでフルボッコにしたまではよかったが、そこで馬力を使いすぎてしまい力尽きた。さらに、後で、逆襲されてしまった。 死の間際、自分の死を三年は隠せと遺言を遺した話はあまりにも有名だが、既に信玄が病床にあってあとは死を待つばかりであるという話は既に近隣諸国に流布されていた。
晩年、信玄はこれからの合戦は鉄砲が要となるだろうと予期し、大量の鉄砲を購入して配備させていた。信玄の死から二年後、まだ信玄が死んだことは察知されていないとお目出度い勘違いをした後継者勝頼は、信玄と顔が似ていた叔父の武田信廉に信玄の格好をさせ、長篠で織田信長、徳川家康相手に突撃を敢行し、惨敗した。この時信長の鉄砲隊が猛威を奮ったとよく言われているが、鉄砲隊の多さでは実は武田の方が多かった。しかし、武田は鉄砲の保有数こそ多かったが、技術が洗練されておらず、鉄砲を上手く使えずに織田の軍勢に蹂躙されてしまったのである。
政策[編集]
信玄は共産主義を標榜したことで知られている。1547年に発令された甲州法度は、家臣から領民に至るまで共産主義を遵守することを義務付けた内容の分国法として知られている。共産主義を遵守しない輩は、容赦無く粛清した。例えば、「飛び加藤」の異名を持つ忍者の加藤段蔵は、アンチ共産主義活動を信濃で展開したため、信玄の刺客に粛清された。飯富虎昌切腹と義信の幽閉も、実はこの二人が資本主義に傾倒していたことが原因ではないかと言われている。
信玄は共産主義者であったためブルジョアジーが嫌いで、金持ちの医者を一切招聘せず、その為に胃癌が検知できずに悪化して死亡したという。小和田哲男や柴辻俊六は、もし医者を招聘していれば、65くらいまでは最低でも生きられたんじゃないのと指摘している。
城を資本主義の象徴として忌避し、天守閣があるような荘厳な造りの城を一切作らなかった。これは信玄の質実剛健を旨とする信条の反映であるなどと美化されているが、実際には城を築城するだけの資金と技術がなかっただけではないかと指摘されている。
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信玄と謙信の愛のメール (の、一部)[編集]
- (信玄)今日さ、また家臣に怒られちゃった(/_;)二人の間を引き裂くことなんて出来るわけないじゃない♪ところでさ、明日また会わない?場所はいつもの川中島で、今度は1万人兵を連れてくるね!
- (謙信)メールするの遅れてごめんね_(._.)_今日も会議で遅くなっちゃった。明日出発したら越山するのに時間がかかるから明後日にしてくれる?
- (信玄)いいよ♪こっちも合わせるから。
その後謎の男に寝取られ、「うわーん!変なのに謙信取られちゃった〜!!」と1日中嘆いていたという話は有名。
関連項目[編集]
- 武田氏
- 武田騎馬軍団
- 武田二十四将
- ヴァンフォーレ甲府:武田軍の末裔を自称するプロサッカーチーム
- 敵に塩を送る
- 孫子:彼に風林火山の極意を叩き込んだ恩師である
- 今川義元:武田信玄の盟友
- 1558年ワールドカップ日本代表
外部リンク[編集]
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