牛島和彦
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牛島 和彦(うしじま かずひこ、1961年4月13日 - )とは、ドカベン香川の相方だった男。
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[編集] 人物
不良生産工場、大阪体育大学浪商高等学校卒。
浪商では恐い目つきとリーゼントを武器に甲子園出場を果たしたスゴイ人。 今でこそインテリヤクザっぽいが、中日入団当初はそれこそヤクザの下っ端ぽい顔と髪型だった。
打たれて不機嫌な星野(仙一)相手にも物怖じせず教えを乞う姿勢など、文字通りその道を極めんとする禁則事項ですである。
[編集] プロ入り後
中日入団時は、当時まだ現役であった後の御大星野仙一から舎弟としておおいにかわいがられる。しかし、星野が現役引退後、監督として中日に戻ってきたとき、これからは星野組の若頭として力を発揮しようとした矢先に、落合博満の身代わりとして親会社がお菓子の球団に差し出された。この星野の仕打ちに、東京へ向かう新幹線の中で大号泣した、と言われている。
[編集] 評論家時代
ヤクザなので当然愛国者であり、反米主義である。何度依頼されても決してメジャーリーグ視察や取材などを行わなかったことで知られている。
[編集] 組長監督時代
信念の人である。一度決めた役割分担をコロコロ変えることは組長としての威厳を損なうとして、ほぼ固定したメンツによる抗争を好んだ。後継者と見込んだ石井啄朗に守備現場での全権を委譲したため、石井は牛島監督時代には公式戦を1イニングも休んでいない。また仁侠の人であり、ワンポイントリリーフなどという人間使い捨ての姑息な手段は徹底的に避けていた。様式化された戦術を好む傾向も顕著に見られた。「琢朗も種も金城も佐伯も多村も、1人抜かして村田も。よく打ってくれている。」と選手が活躍した日にはプレーを称賛することも忘れなかった。
2005年9月3日、古木克明が試合前にウインナーを食べている牛島監督に近づき食べてしまう事件が発生した。古木は片平保彦コーチと間違えてしまったと必死に言い訳をしていたものの古木がそれ以来スタメンで活躍といったことは聞かれなくなってしまった、
横浜から長崎へ、または仙台から札幌へ、といった普通なら飛行機で移動する距離であっても、チームと別行動をしてまで鉄道移動をする、という鉄道教信者でもある。
[編集] 伝説
中日ドラゴンズ組に入組してまもなく、当時投手コーチだった故稲尾和久組長が、 「相手の打者を2ストライクまで追い込んだ。 さて、何を投げる?」と投手陣に聞き、大半の投手が「決め球」と答えたが、 牛島組長(当時はまだ下っ端で便所掃除が主な仕事)は「それまでに投げた球種によって投げる球は違う」と答えた。 稲尾氏は「現役時代の俺の考え方と一緒だ」と感動し、その後内々に牛島が極禁則事項ですの道を極める手助けをしたという。 稲尾さん、心からご冥福をお祈りいたします。
[編集] 関連項目
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