雄略天皇
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は日本の古墳時代の天皇。日本最古の女相撲を開いた。国風諡号は大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけるのすめらみこと)。稲荷山古墳から出土した鉄剣に記された獲加多支鹵大王、および『宋書』倭王武もこの御方。允恭天皇の第五皇子。
既に大勢力となっていった大和王権の武力と宋からの先進文明の輸入をもって天皇独裁政治を確立した。しかし徹底的な性悪説論者でもあり、異母兄・安康天皇の死後は即位した後も有力な皇位継承権保持者を次々と抹殺し、厳罰化を推進して恐怖政治を行った。雄略天皇の皇統は清寧天皇で断絶してしまったが、これは三輪山の神の祟りだろうと言われる。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 母からの虐待
大泊瀬皇子の母は皇后・忍坂大中姫ではなく、弟姫であった。允恭天皇ははじめ、衣通郎女の光り輝き衣服を通して外に現れるまでの妙艶さに惹かれ召したいと思った。しかし衣通郎女は交接を望まないといって允恭天皇の求婚をこばみ、その代わりに容姿端麗、純真貞潔な妹の弟姫を紹介した。弟姫も姉譲りの美貌を備えていたが、皇后の嫉妬もあって允恭天皇はすぐに夜離れしてしまった。
弟姫は允恭天皇の子である大泊瀬皇子を妊娠したが、允恭天皇はそれを知った後も足を運ばず、出産の時になって初めておいでになった。しかし皇后はそれを聞いて恨み、産屋に火を付けて弟姫を焼き殺そうとした。允恭天皇はたじろいで皇后を止めたが、その後、弟姫のもとへ天皇が行くことは一度もなかった。弟姫は孤独と絶望から精神を病み幼い大泊瀬皇子を虐待した[1]。
[編集] 安康天皇代
大泊瀬皇子は粗暴な性格で皇子女からも避けられていたが、なぜか穴穂皇子とは馬が合った。允恭天皇が崩御したとき皇太子は木梨軽皇子であったが、木梨軽皇子は同母妹・軽大娘皇女と男女の仲にあるという醜聞を流され、大泊瀬皇子の率いる軍によって殺されてしまった。こうして即位した穴穂皇子こそ安康天皇である。
安康天皇即位後のある朝、大泊瀬皇子は反正天皇の皇女たちを召そうとしたが、皇女たちは大泊瀬皇子の乱暴な心をそしってこばんだ。すると大泊瀬皇子はその夕方に皇女たちを皆殺しにしてしまった。人々は「大泊瀬皇子は怖い方だ。機嫌が悪いと朝はよくしていただいても夕方には殺されてしまう。大泊瀬皇子の仰せごとを承ることはできない」といって恐れたという。
その話を聞いた安康天皇は、大泊瀬皇子のために大草香皇子の妹・機梭皇女を娶りたいといった。しかし、大草香皇子もまた大泊瀬皇子を「大泊瀬皇子の乱暴な心はとても同族とは思えない。一体、どうして私の妹を差し出すことができましょうか。手前はこの頃重い病にかかりましてもう後先長きありませんが、私の目の白い内は許しません」といってなじった。それを聞いた安康天皇は皇軍を動かして大草香皇子を殺し、機梭皇女を大泊瀬皇子に賜った。
[編集] 雄略天皇の即位
安康天皇は木梨軽皇子の子・眉輪王によって刺し殺されてしまった。大泊瀬皇子はその話を聞くと何かが壊れたように笑い出したという。その後すぐに大泊瀬皇子は八釣白彦皇子、坂合黒彦皇子、眉輪王、御馬皇子を次々と抹殺した。また、市辺押磐皇子が安康天皇と親しくつきあっていたことから、友を奪ったという理由でそれを殺してしまった。
[編集] 童女君
天皇が采女・童女君と一夜を共にしたことから、童女君は春日大娘皇女を孕んだ。しかし天皇は、一晩の関係で子供が生むとは異常として、皇女の足が立つようになっても父子関係を認めなかった。そこで物部目大連は一晩に何度呼ばれたのかと聞いた。天皇は七回召したと答えた。大連が孕みやすい人は手と手を触れただけでも妊娠すると聞きますというと、天皇はようやく認めた。巷の人々は「目と目が合うだけで妊娠させられる淫乱な天皇」となじった。
[編集] 三輪山討伐
天皇の代、三輪山はまだ大和王権に帰順していなかった。そこで天皇は三輪山を討伐しようと企てた。斎宮・栲機皇女は祟りが出ると言っていさめたが、栲機皇女に廬城武連武彦との密通があるとまたしても醜聞が流れ、身の潔白を訴えた栲機皇女は神鏡を持って自殺してしまう。
皇軍は討伐作戦を開始し、三輪山は紅葉の季節でもないにも関わらず赤く染まったという。天皇は三輪山に仕える巫女を陵辱しつくして臣下に分け与えた。齢八十を超える老女までをも犯し、若い内に交わってしまえばよかったという歌を残している。三輪山の神はその身を示現して雄略天皇に抵抗したが、大和王権はとうとう三輪山を傘下におさめた。
[編集] 朝鮮への侵攻
宋より使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍というやたら長ったらしい役職をもらった天皇は、それをバックに朝鮮半島への侵攻をはじめた。これに驚いた百済の蓋鹵王は臨月に至った妻を連れて日本へ仕えることを伝えにやってきた。このとき生まれた嶋王が後の武寧王となる。
天皇は百済を従えて高麗へと侵攻した。高麗は新羅へ応援を頼み計略をもって侵攻を防ごうとしたが、皇軍はそれを見破った。皇軍はまるで鶏を刈るかのように殺戮、略奪、陵辱の限りを尽くした。
[編集] 吉備一族の処刑
天皇の圧政化に置かれた吉備下道臣前津屋は、小さい鶏を天皇、大きい鶏を自分に見立てて闘鶏を行うことによってうっぷんをはらしていた。吉備弓削部虚空はそれを天皇に密告した。すると天皇は物部の軍団を使い、前津屋の一族のみならず虚空の一族をも、あわせて800人を処刑した。
[編集] 采女相撲の計
名工匠・猪名部真根は石を台にして木を削っても決して刃を潰すことがなかった。天皇はそれを怪しみ誤って石に当てることはないのかと聞くと真根は決してないと答えた。そこで天皇は采女を集め、ふんどし一枚にして真根の前で相撲をさせた。真根は思わず気を取られ、自らの足に斧を打ちつけて死んでしまった。
[編集] 注釈
[編集] 関連項目
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