真田信繁
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
真田幸村(さなだゆきむら、本名:ユックムル・スワヌダ (Yukmlu=Swannda) ) は戦国時代〜江戸時代初期に活躍したサムライ、SM縛り師、AV男優、ハードゲイ、俳優、歌手、アイドルである。本名は真田信繁。幸村と言う芸名は父真田昌幸と愛用していた妖刀村正から一文字ずつとられたものである。なお人生で最も活躍し、死去した年齢は48、49歳だが本人は17歳教に入信しているため永遠の17歳であり、戦国無双や戦国BASARAでは永遠に今が旬の青年として描かれている。現実の幸村は、温厚なただのオッサン風であったと伝わる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生誕 幼少時代
武田家臣、真田昌幸の次男として誕生。幼少時代は雛見沢ですごした。
[編集] 慶次に助けられる
瀕死のフリをして逃げようとした時に「もう信長にはついてけねえや」と信長に不満を抱いた前田慶次に助けられ、生き延びることを決意する。しかし慶次に「信長食い止めなきゃ逃げられねえ」と言われしぶしぶ信長の本陣に突撃、信長を見事撤退させた。
[編集] 景勝の衆道奴隷の青年時代(前期)
しかし主家武田家の滅亡と言う不幸に見舞われその後は織田家の傘下に加わるも、本能寺のHENで今度は織田家が崩壊する。真田一家は、織田家が取り残した信玄の遺産を奪おうとする徳川家康VS北条蛆虫の激闘の中、北条、徳川と従属先をコロコロ変える。遂に徳川、北条が和解、真田一家の縄張りを勝手に処分しようとしたため、昌幸は徳川、北条に対抗すべく後背に位置する越後の上杉景勝に臣従、人質として幸村は景勝の元に送られる。景勝は幸村をいたく気に入り近習させた上で、信玄の娘でもある愛妻・菊姫と共に、越後伝来の車懸かりなどや甲斐伝来の啄木鳥プレイなどの華麗な衆道プレイと兵法などで幸村を夜な夜な攻め立てに攻め立てて調教しまくったことにより幸村は車懸かりを始めとする衆道プレイや兵法を習得した。
[編集] 女に突撃しまくりの青年時代(後期)
上杉家が豊臣家に臣従すると、真田一家は豊臣大名に取り立てられ、幸村は秀吉の元に送られる。幸いにも秀吉は衆道の性癖がなかったため、幸村のケツの操は護られた。この頃大谷吉継の娘、豊臣秀次の幼い娘を室に迎え、他にも侍女や家臣の娘、さらに豊臣家の女中に次々手を出す。こうしてAV男優への道を歩き出す。
[編集] 九度山プレイの壮年時代
関ヶ原で西軍に組し、昌幸家は取り潰し、九度山に追放処分を下される。暇つぶしにSMに興じ、遂にSM緊縛用強化紐「真田紐」を考案、家臣や妻子、村娘を責め立てて日々をすごした。そのうち昌幸が死去。ショックでヒッキーになるが、思い立ってにょっと姿を現しイケメン衆道歌手ユニット真田十勇士を結成。腐女子、ホモに大好評を得る。
[編集] 大坂の陣
徳川幕府は豊臣家を責め滅ぼす為軍を大坂に差し向ける。幸村は豊臣家の入城依頼を受け、棒兄弟達のために九度山を発ち、なにわの地に向かう。 大坂の陣では戦場ライブをしながら因縁の敵徳川家康をコテンパンに叩きのめしたが首は仕留め損ね最後は豊臣家に殉死した。しかし遺体が発見されなかった事から生存説もささやかれた。
[編集] 伝説
ウォヤカタサムァ!!!
- 幼いころから武田家臣として信玄の事を「お館様」と呼ぶ発声練習をさせられていたが信州訛り(一説によるとオンドゥル訛)の酷かった少年幸村はウォヤカタサムァとしか言えなかった。が、信玄にはかえって熱血漢でいいね昌幸君の次男はと誉められた。
- 「お館様」が口癖なので自分を無視されたと思った武田勝頼に嫌われ、勝頼は幸村の忠告を聞かなかった。それが元で勝頼は死亡。見事に武田の名誉・実権を我が物にした。

