神武天皇
畏クモ天皇陛下ハ御自ラ全臣民ノ爲ニ
本項ノ全内容ヲ天覽遊ハサレタリ |
本項ノ全文章及全内容ハ完全ニ正シキ事實トシテ大本營ニ依リ認可セラレタリ
全臣民ノ爲ニ畏クモ現人神タル天皇陛下ハ御自ラ本項ニ御目ヲ通サレ給ヘリ 此ノ項目ノ内容ヲ疑フハ現人神タル天皇陛下ヲ疑フト同義ニシテ 誤リタル思想ヲ持ツトセラルヽ場合ハ政治犯思想犯トシテ内亂罪ノ對象トス |
俺が初代天皇に?マジかよ、参ったな・・・
神武天皇(じんむてんのう、紀元前711年~紀元前585年)は、日本の初代天皇であり、大日本帝国の前身となる日本の建国者である。神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコのみこと)とも言う。
誤解されやすいが、明仁は紛れもなく神武天皇の71世の末裔であり、これを否定することはできない。 この厳然たる事実が気に食わず、易姓革命思想を持ち込むのは大日本帝国より禁止されている。
先祖[編集]
神武天皇は天照大神の末裔であり、現在の天皇家の先祖は神話に連なる神聖な王朝である。過去にも、神話の登場人物の末裔を名乗る王朝は欧州や亜州にも存在したが、現在では日本の天皇家のみである。
神話の終わりは、常に人の世の始まりである。これは特筆すべきことであり、天皇制廃止論を唱える人間はこの重大性を何も自覚していないことになる。
東征[編集]
日向国(現宮崎県)に住んでいたが、その後、大和国(現奈良県)に政権を開くため、兄(神武天皇は意外や意外、末子である)や子と相談し、東征するが、大和に入ると現地の土豪によるとんでもない抵抗に遭う。そんなことだから、兄の五瀬命が重傷になってしまうのだ。
ところが、ここで神武天皇は奇策を思いつく。
日の神(=天照大神)の子孫でありながら、東に向かって、つまり日の方向に向かって戦うのはおかしい。だから、東に迂回して、日を背にして戦えばよいという発想である。
ならば長崎にでも王朝を作ればよいのだが、当時は大和が大都市なので仕方ない。
進路を南にとるが、五瀬命がとうとう力尽きてしまう。
その後、船で航行中に暴風雨に遭遇して、残る二人の兄の犠牲で何とかしのぐ。そして、大和に向かうのだが、未だに険しい道のりが続く。熊野国(現三重県南部)、即ち熊が出る野を経るのだが、神武天皇が住んでいた日向は熊襲の地であるから、熊野ごときにへこたれない。三本足の烏にも助けられ、終に大和で抵抗していた宿敵・長髄彦に決戦を挑む。
そして、裏切りにも助けられ、兄を失いながらも宿敵・長髄彦を斬り殺した神武天皇は、大和国を支配圏に収め、畝傍山の東南に宮殿を造った。これが大和朝廷の始まりである。又、南に広がる山々を、熊野に対して吉野(吉き野、の意)と名づけた。
種族[編集]
神武天皇はワニの胎から生まれた。すなわち熊の胎から生まれた檀君、亀の胎から生まれた朱蒙、馬の胎から生まれた赫居世、狼と鹿の異種交配によって生まれたバタチカンなどと同じ獣人族に属する。
原始時代、モンゴル高原や朝鮮半島は獣人族によって統治されていたが、そこから渡来して日本列島を支配したのが神武天皇である。
よって、桓武天皇も武寧王も万里の長城の外側に居住していた獣人族の末裔であり、明仁の「私自身としては韓国にゆかりを感じています」という談話は、「ふるさとが懐かしいですね」という意味である。
その後[編集]
その後、神武天皇は76年間という昭和天皇よりも長きにわたり日本に君臨、127年(1説に137年)の生涯を閉じ、子の綏靖天皇につながり、日本武尊につながり、そして悠仁にも続くのである。
関連項目[編集]
| 先代 - |
天皇 神武天皇 |
次代 綏靖天皇 |
