藤原時平
藤原 時平(ふじわら の ときひら、871年 - 909年)とは、平安時代の公家。弟藤原忠平のネガキャンのせいで悪党扱いされてしまった悲劇の人。
概要[編集]
学問の神様こと菅原道真の政敵で、彼を政争で蹴落として大宰府へ追放したことで知られる。そのため学問の敵として大学教授や学生から嫌われており、受験の満願成就の為、時平の墓に受験生達が石を投げつけて合格を祈願する行為が常態化している。
生涯[編集]
藤原基経の長男。弟に忠平がいる。源能有、菅原道真と共に三人で宇多天皇の治世を支えた。道真とはあんま仲が良くなかったのだが、名前通り能力があって有能である源能有が二人を仲裁していたのでなんとかうまく宇多政権は運営できていた。しかし、能有が死ぬと、関係に破綻が生じる。
また道真以上に時平のことを煙たく思っていた人間がいた。それは宇多天皇である。宇多天皇はやがて醍醐天皇に譲位して上皇となるが、その後時平を追い落とすためにあの手この手を使って策謀を仕掛ける。その際鉄砲玉として使ったのが道真である。対立はエスカレートし、キレた時平は道真を大宰府へ追放する。本来なら宇多上皇が全ての戦犯なのだが、流石の藤原氏も皇族には手が出せなかった。道真は絶望し間もなく死んだ。
道真を追放した時平は政権を掌握するが、909年38歳で没した。若すぎるが、政治家は激務が多い上に、当時は医療もへったくれもないので若死には全然不思議ではなかった。
ところが……
死後[編集]
死後、時平は大悪党扱いされた。何故か。
時平の後政権を掌握したのは弟の藤原忠平である。時平にも息子達がいたが自分の一族で政治を掌握したい忠平は時平の息子達を閑職へ追いやった。
だけならいいのだが、これでは兄貴への反逆、忘恩になってしまう。そこで忠平は考えた。時平を悪党扱いしてしまえと。
またこの時期、天災や飢餓が連続して起こった。人々は忠平のまつりごとが不甲斐ないから天罰が当たったなどと中傷した。困った忠平は妙案を考えた。
それは、「時平が道真を策略で追い落とした事に対する天罰として飢餓や疫病が起こったのであり、俺に責任はない」と弁明することであった。
早速忠平は流言飛語を拡散させた。それに協力した人がいた。宇多上皇である。宇多上皇はまだ生きており、時平のことを未だに嫌っていた。既に死んだ相手なのだが、楽に極楽に逝かせるなど許せん、地獄の責苦を味わわせ、末代まで名誉を穢してやりたいという憎悪を抱いていた。
時平の名誉を潰したいと言う目的で、忠平と宇多上皇の利害が一致した。二人は手を組んで流言飛語を拡散させた。その際、時平が追い落とした菅原道真を英雄扱いして礼賛した。勿論道真への敬意や贖罪などは(特に忠平には)全然ない[1]。彼らは、時平を貶めるための口実・道具として道真を利用したのである。
かくして、忠平と宇多上皇は、道真の怨念が時平のせいで成仏できずに雷神となってこの世を荒らしているというファンタジーを作り上げた。そのファンタジーに、後世の人間は皆引っかかった。後世の人々は、道真に対してかわいそうな人と憐憫を抱いて同情し、学問の神様と崇拝し、逆に時平を悪党、下衆として糾弾した。
やがて忠平も宇多上皇も死んだが、あの世で二人は後世における時平への中傷を見て快哉を叫んだ。
計画通り、と
- ^ ただし、忠平の妻・源順子の母親が道真の姉妹もしくは娘とする説もあり、それが事実であれば道真に代わって「ざまぁ」をする動機が一応あった、ということになる。